第四章 6

 二週間の滞在期間のうちに、それぞれが必要だと考えた資料を集め、まとめて、いざ出港の時が来た。

 結局、アンドレーアが俺たちに同行したいという希望が通ったのは前日の夜だった。神官長は俺が思っていたよりも慎重だったらしい。たしかに、万が一にもアンドレーアに何かあれば、後継者に困ることになるはずだ。二週間邸宅に滞在して、何人かの使用人と顔見知りにはなったが、アンドレーアの身内は父親だけのようだった。母親らしき人物とも会うことはなかった。

 神官長は港まで見送りについてきた。アンドレーアがいるから当然だろうが、どうも俺の方も気にしているふうだった。何か言いたげな雰囲気でいるくせに、声を掛けてはこない。俺があまり話し掛けられる隙を作ってやらなかったのもあるだろうが、どうしても言いたいことがあるなら言ってくるだろう。別に無理して話し掛けてもらわなくたって良いし、俺から言うこともない。なんなら、俺の方から『あんたは他人だ』って突っぱねちまったわけだし、二週間のうちに会話もしなかったし、そもそも顔も殆ど合わせちゃいねえんだから、今更だ。

 俺たちの船は、隊員二十余りを乗せて余裕がある程度の大きさだ。フォルマやファーリーンでは帆船やガレーが主流だが、アウリーでは魔道動力を用いる。大抵の場合、一応帆は付いているが、基本的には動力が動かなくなったときくらいしか出番はない。

 アンドレーアを加えた俺たちは、ウェリア島に向けてジュールの港を出た。遠ざかる生まれ故郷。その実感などはまるでないが、なぜか、俺はその白い街並みが大気の奥にかすれて消えてしまうまで、目が離せなかった。


 ジュールを発って四日。日も暮れたので錨を下ろし、夕飯も食い終わって、酒好きの酔っぱらい連中が船室で騒いでいるのを聞きながら、俺は星を見ていた。ジュール産の白葡萄酒は、香草の香りが強く、やや辛い。なんだか薬みたいだ。俺はウェリア産の甘くて渋い赤葡萄酒の方が好みだなと、一杯だけ飲んで思った。

 見張りは交代制だが、どうも気が緩む。天候も良いし、風も弱い。相方なんてすっかり寝こけている。食後のほろ酔い具合で、凪の海にゆるく揺られているとどうしたって眠くなる。隣でいびきをかいてるやつがいると尚さら。どうせ何も起こりゃしないと端から思ってるもんだから、俺の意志も長持ちしなかった。

 だが、ふと目が覚めた。妙な焦燥感があった。隣を見れば、相方はやはり寝てる。そいつを放って、俺は嫌な感じの正体を探ろうとした。風は相変わらず弱いし、波は穏やかだ。動力を切った船は振動もしていないし、船室で騒いでいた連中も寝たらしい。静かだ。だってのに、なんでこんなに気持ちが悪いんだ。波が切られる音が微かに聞こえた気がした。高所に上がって周囲を見回してみるが、何もない。そう思ったが、もう一周念入りに確認した。遠くに黒い影が見えた。岩礁か? いや、あんなところにはなかったはずだ。

 新月の夜は星がよく見えるが、星明りは遠いから殆ど役には立たない。だが、闇を塗りつぶす影が、次第に大きくなっている気がした。俺は台を下りて、床で腹を掻いている相方を叩き起こした。

「おい、何かこっちに来る。船だと思うか?」

「ああ……? どれだって?」

 俺は影を指差した。さっきよりもまたデカくなっている。

「船……、だろうな。明かりも点けずに、どうしたんだか。遭難でもしたか。セルジオを呼んでくるから見張ってろ」

「分かった」

 遭難? 動力が壊れたのか。だが、帆があるなら近場の島にいくらでも着けられるだろう。夜が明けたら風を頼りに移動すればいい。そもそも、動力なしにこんなに早々とこちらに接近できるものなのか? 風は横からだし、それもかなり弱い。

 ……いや、おかしい。

「おい! 錨上げて動力入れろ! 不審船接近!」

 親父の指示を待たずに、俺は下のやつらに叫んだ。飛び起きたディランが船倉に向かって、間もなく動力音が船を鳴らした。

「救難信号を示せ」

 親父が拡声器で呼び掛けるが、無反応。かと思いきや、急に明かりが灯った。黒い影でしかなかった船が、爛々とその全体像を示して、もはや忍ぶ必要もないとばかりに低い動力起動音を鳴らし、速度を上げて来る。

「チクショウ! 賊じゃねえか!」

 親父の悪態が拡声器を割らんばかりに響いた。

 ようやく錨が上がって動けるようになる頃には、賊の船は接舷していた。板が渡されて、荒くれ者共が乗り込んでくる。船倉から武器になりそうなものを持って上がってきた連中との殴り合いが始まるが、俺の手には何もない。何かないかと目をあちこち向けていたら、背後から羽交い締めにされた。ぶん殴って逃げようと思ったが、腕が動かせない。なら脚だと思ったが、今踏ん張らねえと抱え上げられちまうと咄嗟に判断した。だが間違いだった。蹴り上げとけば良かった。

 相手は俺よりずっとでかい男で、力があって、俺が踏ん張ってみたところでまるで無意味だった。足のつかない状態で、首に回った腕に呼吸も遮られて、あれよあれよと運ばれる。俺を呼ぶ声が遠ざかる。喉を絞めてくる汗臭え腕に爪を立てながら、俺は意識を飛ばした。


 そう長く気をやっていたわけではないようだが、気づいたら俺の体は縄で巻かれて転がされていた。見上げれば知った船の舷側。あれが見えるってことは、つまり俺は賊の船に連れてこられちまったようだ。向こうではまだガチャガチャやりあってる。連中は概ね学者の集まりだが、学者なりの戦いの術――魔道を扱う腕――を持ってるんで心配はしちゃいねえ。だが、悪いことに俺が人質になっちまった。

 なんだってこう、俺は攫われちまうんだか。十年前も確か……、そうだ。こんな感じの、薄汚い船の甲板に、縛られて転がされてたんだ。いつ怪我をしたんだったか。攫われるときだったか。それともいざ攫われて、暴れてうるさいからってんで切られたんだったか。

 同じような状況になっても思い出せない。ガキだったし、よほど怖かったんだろうな。俺は今でも忘れたままでいたいようだ。

 ……そうだよ。……忘れているんだよな?

 不意に頭の中を過ぎったのは、至極可笑しな疑問だった。返答は、なぜか俺の思考よりも早かった。

 ――ああ、『正しい記憶』を忘れたんだ。

 ……正しい記憶? おい、違う記憶があるってのか?

 俺の意思から離れたところで、俺の頭の中でなにかが会話する。

 ……馬鹿言うな。前にもこんなことが……

「……あったか……? こんなこと――」

 視界に灰色の砂塵が舞った。脳が痙攣する。ざらつく視界の中、一瞬捉えたのは大きな人影。幻覚? 違う。いや、そうだ。焼き付いちまったんだ。掴まえられた腕が折れそうだ。違う。これは幻覚なんだ。俺の視界を覆う男の影。耳奥に響いて頭を殴りつけるのは、子供が泣き叫ぶ声。誰の声だ? なんて馬鹿かよ。知ってるくせに。

「あ……、ああ……。やめろ……」

 子供の声と、俺の口から出る声が、言葉が重なる。

「やめろ、違う! 嘘だ! こんなの違う、やめてくれ!」

 ――兄貴。

 そうだ。俺は『あのとき』も叫んで、懇願したんだ。こんなふうに。






 私は今こそ、あなた方を隔てる荒れた泥濘ぬかるみに横たわり、この身を以て橋となろう。

 願わくば、新たな橋があなた方の血で染まることがなきよう。

 私は狭間に生まれし者。

 故に、あなた方の手をとり導こう。

 どうか、私を愛してくれるのならば、同じように互いを愛してはくれまいか。

 そうして、私を平和の礎としてくれるのならば、神より賜いしこの命、あなた方へ歓び捧げる。


   『アルビオンの書』‐後世記‐ メリウス王の章 より

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