第3話 頭飾りのゆくえ

「ただいま戻りました、姉さん」


 宿舎の共同部屋のドアを開ける。共同部屋といっても、孤児保護施設『福音ふくいんかご』第二宿舎の一角にある余り部屋で、ここに住んでいるのはジョジュエとその姉であるクレセトの二人だけだった。二人が数年前に入居した際はほこりとガラクタまみれだったこの部屋も、今では数々の日用品と幾ばくかの思い出に囲まれている。


「おかえりー、ジョシュ!」


 玄関と居間をへだてる仕切り布の向こう側から、帰宅を迎える声とドタドタと賑やかな足音が聞こえてくる。


「んぐ」


 風がジョジュエのほほを撫で、その視界を唐突とうとつに塞ぐ。急に吹き抜けた突風に子供の小さな心臓は跳ね上がった。その理由は急に目の前が真っ暗になったことの驚きからではなく、頭部を包み込む柔らかくて優しい温もりと花の香のような温かくて甘い匂いが鼻腔びこうをくすぐってきたからだった。


「ど、こ、ほっつき歩いてたんだよー、私のことを家にほっといてさー!」


 ジョジュエに飛びついてきた突風の正体は彼の姉であるクレセトだった。満面の笑みを湛えた姉は、弟を抱きしめた姿勢のまま左右に身体を揺らす。まるで太陽のような元気と明るさにあてられジョジュエの体温はだんだんと上がっていっていた。


「私に何も言わず出かけちゃってさー、こそこそ何してたの、ん? お姉ちゃん怒らないから話してみてよ」


 天真爛漫てんしんらんまんに振る舞うクレセトだが、思いのほか思慮深い。こそこそと弟が何かを画策していることを姉はしっかりと察していた。


「姉さん、には、関係、ないです、から」


 ぐらぐらと、ジョジュエは心身ともに揺さぶられながら出かけていた理由をどうごまかそうか思考を巡らせようとする。しかしクレセトの前ではなかなか冷静になることができないかった。最近は特にその傾向が強まっていることを、齢十を迎えようとしているその子供は自覚していた。自分が幼さを欠いていくにつれ、物心がついてから今まで抱えてきた純粋無垢じゆんすいむくであったはずの愛情が、よこしまで劣ったものに変化してしまっているような気分にさいなまれている。


「関係ないこたないでしょー、私はジョシュのお姉ちゃんなんだよ」


 木管楽器を吹いたような滑らかな声がジョジュエの耳を響かせる。その音色は大切な弟への想いによって、最も心地よい音階に調律されていた。


「いいかげん離してください姉さんっ」


「むー」


 つれないなー、とクレセトは拗ねて見せる。


「じゃあどこに行っていたのかお姉ちゃんが当てて見せようかなー」


 クレセトはジョジュエを抱きしめた姿勢のまま上半身を右に傾かせた。


「第一宿舎に行ってたのかなー」


 クレセトはジョジュエを抱きしめた姿勢のまま上半身を左に傾かせた。


「……ちがいます」


「じゃあ、おじさんに稽古けいこつけてもらいに行ってたのかな」


「……それも、違います」


「えーじゃーなによー」


 そんな姉を振りほどきたくて、ジョジュエは自分を抱きしめる姉の身体を押しのけた。


「姉さん、あんまり子ども扱いしないでください」


「……」


 抗議こうぎの意は伝わったのだろうか。温もりと息苦しさは急激に遠のいていきまぶたに光が差し込んだ。嗅覚に甘い余韻よいんを感じながら、ジョジュエは瞼を開ける。目の前には直立から膝を折った姿勢で弟と視線をそろえる姉の姿があった。


「ごめんね、お姉ちゃんちょっとしつこかったね」


 弟から突き放された姉は天真爛漫さをぬぐい取り、優しく落ち着いた声で呼びかけた。


「でもねジョシュ、何も言わずにどこか行っちゃうから心配したんだよ?」


「……」


「隠したり誤魔化したりは、お姉ちゃんやだよ?」


 心配するクレセトの視線に射抜かれてジョジュエの心は締め付けられるようだった。


 これはサプライズのための隠し事であり、決して悪事を働いたことをごまかしているわけではない。そう心中で自分に言い訳してみても苦しいものがある。


「……姉さん、これを」


 気まずさに耐えかねたジョジュエは、自分の肩にかかったポーチを開け中の物を取り出した。これをクレセトに見せるのはもう少し後の予定だったが、それまでこの空気を堪えるのは無理だと思った。


「それはなあに?」


「姉さん、もう少しかがんでください」


「?……うん」


 クレセトは膝をついた姿勢から腰を下げて前のめりになる。ジョジュエの目前には左回りつむじがあった。その中心からきめ細やかな薄灰色うすはいいろの髪がクレセトの首の角度に沿ってせせらぎが坂を下っていくかのようにさらさらと流れている。


 自分の姉の一連の仕草に感情を少しばかり揺さぶられながら、右手に持った頭飾りをその左耳辺りに近づけていく。きめ細かな薄灰色の髪を軽く手で梳き耳の後ろにくぐらせると、そのうちの幾千本かをすくい上げ頭飾りの留め具と手に取った髪束を丁寧に交差させていった。


「ジョシュ、くすぐったいよ」


「あ、ごめんなさい……」


「怒ってないってばー」


 文字だけでは抗議の意を示しているようだが、先ほどの雰囲気とは打って変わって言葉を乗せる声の音は期待感をはらんだ嬉しそうな声だった。クレセトは自身の左耳に触れるくすぐったいような感覚で自分が何をされているのか、そして愛しい弟が何を隠したがっているのかを理解したからだ。


「ジョシュってお姉ちゃんの髪の毛触るの好きだよね」


「それはっ……」


 頭飾りを髪に結い付けるジョジュエの手がぴたりと止まる。


「いつも姉さんがだらしないから、僕が髪をかしてるってだけじゃないですか」


「へへ、だってジョシュがやってくれた方が早いし綺麗になるもんね」


 くすくすとクレセトは笑う。弟に髪を触られるのがこんなに嬉しいものかとジョジュエは思った。


(僕が髪を触るのが好きなんじゃなくて、姉さんが髪を触られるのが好きなんでしょう)


 ジョジュエはそんな言葉を声には出さず、口の中で転がした。自分がクレセトの髪を触るのが好きだというのは事実なのだから。この姉はとんだ弟たらしような気がしてならない。


「——終わりました、姉さん」


 ジョジュエは頭飾りを結いつけ終わると、名残惜しそうにクレセトの髪からゆっくりと手を離した。それを合図にクレセトが顔を上げる。


「ジョシュはお姉ちゃんに何をしたのかなー」


 姿勢は前のめりのまま、クレセトは再びジョジュエと視線を合わせた。先程よりも二人の間の距離は狭く、互いの虹彩こうさいの形まで捉えることが出来た。クレセトの瞳はあわい緑色をしている。庭先に咲いたアネモネも色づく前はこのような色をしていただろうかとジョジュエは思い出す。


「贈り物です。来月から神学校に行く姉さんへのお祝いにと思いまして……」


「ふぅん」


 ジョジュエは保護施設の保母や別部屋に暮らす友人から助言を貰い、クレセトにサプライズを仕掛けるという計画を立てていた。そんな少年の企ても、持ち前の不器用さと被仕掛け人の察しの良さが悪いように噛み合う結果になってしまったが、その結果はこの姉弟しまいにとって悪いものではなかった。


「住む場所も別々になってしまうから、日頃の感謝を形にしたくて……」


「ふぅん」


 話せば話すほどクレセトの顔はほころんでいく。その顔をジョジュエは照れくささを覚えながらも、にへらとだらしないその表情から目が離せない。


「どう、似合ってるかな?」


「はい、似合ってます」


「ほんとにー?」


 クレセトは首を右下に傾け、ジョジュエに左耳の辺りを見せるような姿勢をとっている。つややかなな睫毛まつげの隙間から若葉色の瞳がジョジュエを射止めていた。


「……気になるなら姿見でも確認してみてください」


「はーい」


 クレセトは腰の近くまで伸びた髪を揺らしながら、姿見に反射した自分の頭をまじまじと眺める。色とりどりの硝子細工がらすざいくに青や黄色の羽を差した綺麗きれいな頭飾りが髪に結わえ付けられているのを色々な角度で眺めていた。


 その姿を眺めるジョジュエは姿見の端に写るほおけた顔を少年と目が合ってしまう。はっと顔をらすが、自分が今どのような顔で、どのような表情で、どのような顔色をしてしまっているのかを、身体から湧き出る妙な暑苦しさで分かってしまう。


「ありがとうね、ジョシュ」


 ジョジュエは自分の頭に何かが乗っかったような感覚を覚えた。そのまま髪の流れに沿って前後になぞられていく。数瞬して、クレセトが頭を撫でているのだと気づいた。


「ありがとう」


「……どういたしまして」


 小恥ずかしいような嬉しいような気分でジョジュエは姉の感謝を受け入れる。一月ひとつきも経てば、姉弟がお互いのために一緒に時間を過ごすことができる機会も減ってしまうだろう。八年もの間共に時間を過ごしてきた二人だが、だからこそ環境が変化してしまうことが恐ろしい。


 ジョジュエは二人の絆が解けてしまうことがないように、そして今よりも堅いものになるようにと神々と姉に贈った頭飾りに願いを込めたのだった。

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キャスラエルと星が残した私達 鴻鵠のしな @raicyu808080

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