宵の前の妻問い Ⅳ
挨拶の抱擁なら平気だと言うのに、とりわけリュディガーからの抱擁は、不愉快ではないし、寧ろ嬉しいことだ。でもどうしてか、何度も抱きしめられても、やはり慣れなくて強張ってしまう。
リュディガーの吐息が項にかかったかと思えば、太い腕が腰をさらに引き寄せ、より密着する。間違いなく、彼には自分の拍動が早く強くなっているのを聞かれているはず。何故なら、リュディガーの力強い拍動も聞こえるからだ。
__あれ……?
いつもなら、大抵このぐらいの抱擁の後、口づけを求められるのだが、彼はしっかりと抱擁したきり動かない。違うと言えば、抱き込んで項近くに顔を埋めたまま、深く呼吸している点も。
「さっき、仮眠をとったといっていたが……これが一番癒えるな……」
「……え?」
抱擁に対する困惑ではなく、リュディガーの不可解な点に困惑し始めて、いよいよ声を掛けようかと思ったとき、彼が発した言葉はさらに困惑させた。
「疲れが癒えていくのがわかる」
「気の所為でしょう……?」
「いや、君の香りや、温もりが……心地いいんだ……」
「は、はぁ……」
返す言葉が見いだせない。
困らすつもりで言ってるわけでもないだろうし、心の底からそう思っている彼の言葉を無碍にするのも忍びない。
__まぁ……わからなくも、ない……?
自分も、彼に抱擁されると安心するのは違いないし、言われて思い起こしたからか、彼が抱きしめてくれた後は、気力に溢れている気が__しなくもない。
「__そうはいっても、いい加減、そろそろ行くか」
名残惜しいが、と抱擁を緩めた彼が見せた顔は、苦笑していた。
先に立ち上がってリュディガーが手を差し伸べるので、キルシェは彼の切り替えの速さに内心苦笑をしながらも、その手を取って立ち上がった。
そしてこのまま手を引かれて移動するのだろうと思ったのだが、彼はそのまま動かない。
キルシェは、怪訝にリュディガーを見た。
「__もうひとつ、忘れていたことがあった」
「何……?」
キルシェの前で、彼は手を取ったまま片膝をつくので、キルシェははっ、とさせられる。
それは、これまでに二度も見た光景だったからだ。
大人しくなりかけていた心臓が、いくらか早くなって、彼のことから目が離せなくなった。
穏やかに笑ったリュディガーは、一度目を伏せて深呼吸をしてから、再びしっかりとした眼光でキルシェを見上げた。
「キルシェ。私と結婚してほしい」
「__っ」
その一瞬で、一気に体中の血が熱くなったのがわかった。寒気のように一瞬で駆け抜ける、熱。
「な、なぜ……いまさら……また……」
強張る口で問えば、ふっ、と小さく彼は笑った。
「卒業したら、改めて__そう言っていただろう?」
「ぁ……」
確かに、そんな話があった。
身の振り方に悩んでいて、まさかされると思ってもいなかった二度目の求婚をされて__たしか、その時に。
「婚約者を同伴するものだろう、と言われるまで忘れていた。言い訳じみているが、思った以上に色々なんだかんだあって……」
「……私も、忘れてました」
__そうなるものだと思っていたから……。
別段、改めてしてもらうことなどない、と思っていた。だが__。
「__改めてされると、やはり嬉しいですね……もう三度目なのに……」
「これが、最後だ」
__最後……。
内心で反芻すると、視界が潤んで目元を拭うキルシェ。
走馬灯のように、いろいろな出来事が、感情が蘇っては去っていく。
「__で、最後にしたいのだが……君の返答を」
走り抜けた熱のあと、胸の奥底から春めいた温かいものが溢れてくる。久しぶりの心地に、キルシェは自然と顔がほころんだ。
「__はい」
思った以上に震えた声で答えると、伸び上がるようにして目の前にリュディガーが立ち上がって、またもう一度彼の腕の中に閉じ込められた。
今度はキルシェも抱きしめ返す。彼は肉厚の体だから、背中に回した手と手が重なることはないから、しがみつくような形であるが。
「そう答えてくれるだろうとは思ってはいたんだが……緊張した……」
自嘲じみた声に、キルシェは顔を上げるために、広い背中に回していた手を外して、自身の胸元に引き寄せる。
すると、穏やかな笑みのリュディガーの目とかち合って、そのまま顔が近づいてきたかと思えば、口付けられた。
口付けは軽く直ぐに離れたが、直後に再び口付けられ、背中に回された逞しい腕が、一層強く引き寄せてくるので、逃れることができなくなった。
口付けは深まっていく。背中に回された手が体の輪郭をなぞり、とりわけ腰や脇腹は這うような撫で方で、固く抱きしめられたまま体がくねってしまう。鼻についた様な声まで漏れて、さらに気恥ずかしい。
口付けや手__全身から彼の熱や思いの丈が感じられた。
それに当てられた心地に、キルシェは思わず胸元にあった手で彼の服に縋るように握る。じりじり、と下腹部が疼くことを、こんなに至近距離に居ては彼に勘づかれやしないか、と気が気ではない。
だが、もっとこのまま__というのも本音。
やがて唇が解放された頃には、惜しいという想いが芽生えていた。
とにかく今は、彼がどうしようもなく愛しい。
蒼の中に紫が覗く、深い色の双眸。その落ち着いた印象の強い眼差しの中に、烈しいものが見える。
しかし、ふっ、と彼が笑った途端、影を潜めた。
「行こう」
「はい」
逞しい腕が緩み、彼が体をずらす様に並び立つと、流れる様な動作でキルシェの手をとって、自身の腕に絡めるよう掴ませた。
そうして、空いているもう一方の手が扉へと促す様に示し、キルシェ頷くと彼が踏みだした。
「求婚というものを、3回もするとは思わなかったな」
「私も、3回もされるとは思いませんでした」
お互い潜めて笑いあう。
つい半年ぐらい前までは、嫁げと言われた先へ嫁ぐだけ__そういうものだと思っていた。
求婚なんて無縁、好き合うのなんて事ありえない、と。
彼の腕にキルシェは身を寄せる。
扉へ手をかけるリュディガーに、キルシュは小さくこぼす。
「もう絶対、離れたくありません」
ノブに手をかけたまま動きますを止めたリュディガー。
「私も手放すつもりはない」
はっきりと言い放った彼を降り仰げば、彼は人の悪い笑みを浮かべている。
「__3回も求婚するぐらい、執念深いんだ。そのあたり、後で後悔されても遅いから、諦めてくれ」
冗談めかした言い方に、キルシュはくすり、と笑う。
リュディガーが開ける扉を潜る。
人気の少ない邸宅に響く、2人の衣擦れの男と足音。
一歩一歩と薄暗い中進む。確かに感じられるのは、直ぐそばの彼の香りと温かさ。
寄り添い、並び立ち__そうやって歩んで行くのだろう、とキルシェはひとり思うのだった。
【完結】出戻り令嬢の三度目の求婚 丸山 あい @nono-mori
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