第6話 龍の国①
龍の国、ベリエル。その名の通り、この国にはかつて龍がいたという伝説がある。何千年も昔、北は、水と氷の世界に住み、冷徹で見るものを闇に引き込む黒龍。西は、獰猛で気高い、黄金に輝く体を持つ金龍。東は翼を失い、空を忘れた木と岩の木龍。南は、赤く燃える大地に住まう炎龍。そして、その中央には四龍の加護を受ける伝説の楽園があった。人はそれをルークルの郷と呼んだ。
「へぇー」
目を輝かせる小さな子供達に混じって聞こえる生返事。その声の主はこの紙芝居を見るには少々年齢が行き過ぎているようにも思えた。
さて、話はここから数千年後。つまり、今から数えてざっと300年前の事だ。度重なる戦争と隣国の経済的圧力による飢餓。政治は力を失い、まさにこの国は滅ぼうとしようとしていた。そんな時代に立ち上がったのが小国の王子、ルルベル。彼はこの危機的状況を打破すべく、かつて人間とは住む世界を分けた龍に助けを求めることにした。
『もう、龍の力を借りるしかない…!絶対にこの手で龍を掌握してみせよう!』
「そんなバカな〜。あはははは」
…一応言っておこう。ここは笑うところではない。
彼は藁にもすがる思いだった。居るはずのない龍を探しに行くなんて正気の沙汰ではない。周りの者は皆、彼を笑った。それでも彼は龍探しを諦めなかった。広大な森を抜け、氷の大地をさまよい、火の山を越え、洞窟を抜けた先で、彼はついに龍と出会った。
『よく来たな、人間よ』
龍たちはルルベルを快く迎え、沢山の食べ物と踊りでもてなした。人間の姿に化けた龍はとても美しく、ルルベルはある一人の龍の娘と恋に落ちてしまった。
「わぁー!素敵!」
頬を赤らめてはしゃぐ女の子。少し膨れる少年。
「そんなことしてないで、はよう龍連れて国帰れや」
馬鹿にしたように突っ込む少し大きなお友達。
話を続けよう。
ルルベルは龍と契約を交わし、自分の血を龍に捧げ、その代わりに龍は不思議な力で彼の国を立て直した。龍の妻を連れ、国に戻ったルルベルは、沢山のモノと食べ物で溢れかえる故郷の街の姿を見て、たいそう驚いたそうだ。その後、彼はこの国の英雄として祀られ、王となり、この国に新しい名前をつけた。それが—
「「リー・ルルゥ・ベリエル!!!」」
子供達の声が揃う。高くて楽しそうな声だ。
「そう、よく出来ました」
「龍だって、カッケー!」
「おれもルルベルになる!」
「ばっかねー、あんたはルルベルにはなれないよ!私がなるの!」
紙芝居を見終えた子供達は皆口々に感想を言い合い、じゃれ合っている。ただ一人を除いて。
(あの子、旅の子かしら…。私とそう変わらない年頃よね…。見たところ、東国風の装いだけど)
汚れたマントを羽織り、その下に見える見慣れぬ服。丈夫そうなブーツ。長旅を続けてきた事が容易に伺えた。
「…何?」
しゃがみながら自分の膝で頬杖をついて物思いに更けていた少年は、ふと視線に気がついたのか、少女を見た。生意気そうな目。顔立ちも、どこかこの国の者たちとは違っていた。
「い、いえっ…!」
驚き戸惑った若い少女は慌てて紙芝居の道具を片付け始めた。小さな子供達は相変わらず楽しそうにはしゃいでいる。
「ねぇ、お姉さん」
「は、はい?」
先ほどの少年が話しかけてきた。手を止めて振り返ると少年はほぼ少女と同じ目線にいた。
「さっきのお話っておとぎ話?それとも史実?」
「は?」
「ねぇ、どうなの?この国に伝わる昔話?本物?偽物?」
(こ、この子…正気かしら…?)
真顔で聞いてくる少年は黒い宝石のよう瞳をしていた。
「え、えーっと、この国の建国神話を子供用に分かりやすくしたものなので、おとぎ話と言えばおとぎ話ですね…」
「え、本当の話じゃないの?」
その時、ガクッと脚立が倒れそうになって、少女は慌てて紙芝居道具を支える。その彼女の足元で、まだ小さく幼い子供達が悲しそうな目でこちらを見上げていた。
(しまった…!)
「え、えっとねー!昔話なの!あるかもしれないしないかもしれないねー!みたいな。けどあったらいいねー!」
「龍はいないのー?」
今度は悲しそうではないがなんだか怒った顔だ。少女の眉間がピクリと動いた。
「さ、さぁ?私も会ったことないから…」
「ええー、サラちゃんないの?」
「えー、なんだぁ…会いたかったな、龍」
子供達の顔が落ち込めば落ち込むほど、サラの顔には力がこもり、より明るい作り笑顔へとなっていく。
「だから、もし皆んなが会えたら、龍がどんなだったか教えて欲しいなぁ〜、ははは」
そんなサラの咄嗟の提案に子供達は一瞬でパッと目を輝かせた。
「うん!分かった!見つけたら1番にサラちゃんに報告する!」
「うん!私も!」
「おれが一番だかんね!」
「やだよ!僕が一番!」
「早く探しに行こうぜ!」
落ち込んだり喜んだり怒ったり忙しい奴らである。でも、そんな姿を見てサラはやっと自然に笑うことができた。
「いると良いですね」
「え?」
まだ声変わりをしていない少年の土色の瞳が細まった。
「龍」
「ぁ…」
その時だった。
「タスクー!!」
「あ、呼ばれてる」
通りの曲がり角に、こちらに向かって手を振る人物がいた。彼もまた黒いマントとフードをかぶり大荷物を背負っている。少年の連れのようだ。
「もう行かなきゃ!じゃね!」
「あっ…」
話しかける暇もなく少年は勢いよく走り去る。サラがなんとなくその背を見つめていると、連れのところへ向かう途中で少年はくるりと振り返った。
「あ!見つけたら私もお伝えしますね〜!」
「え……」
手を振るその姿はなんともあどけない。可笑しくてサラもくすくすと笑いながら手を振り返した。
「なーに?あいつ」
「…ふふ」
「サラちゃん?」
「…さぁね。私もよく分からないわ。」
*
「なんの話しをしてたんだ?」
タスクが隣に来るなり彼はそう聞いた。
「紙芝居やってたんで見てきました。内容は子供向けのベリエル建国神話です」
「へぇ。面白かったか?」
対して興味もないのにそう聞くのがタスクの旅のお供、兼、自称用心棒のルカだ。今日あった出来事をいちいち子供に聞いてくる親のようにこちらを見つめて来る。
タスクはそんな彼を内心めんどくさがりながらも一応答えてやった。
「んー、割とどこにでもあるというか、キノル・コルヤと同じ類の話でしたね。この国、竜の伝説があるらしいですよ」
「そりゃ、そうだろうな。竜の国なんだから」
さも当然と相槌を打つルカ。
(…聞いといてつまんない返し)
タスクはベーっと舌を出して自分より頭2つ分高い背中を睨みつけるが、ルカはそんなタスクに気がつく様子も見せずスタスタと先を急いでいる。ここ、ベリエルに着いてから、どこかルカの様子がいつもと違うような気がする。少し緊張感があるような、硬い表情。何か思いつめているのだろうか。
タスクは首を傾げ、また駆け足で彼の隣へと並んだ。
「…あの、どこ行くんですか?」
「ああ、宿が取れたから向かってるんだよ。町を散策するにも荷物は少ない方がいいだろう?」
「ああ、そうですね。ありがとうございます」
「今回はおれの用事でこの街に寄ったからな。タスクは好き勝手してくれてて構わない」
「……」
はて、どういう風の吹きまわしであろうか。
妙に優しい、というか、気がきくルカに、タスクはまたまた首を傾げた。「好き勝手してくれ」と言われても、基本的にタスクはいつも好き勝手にしているのだが。まあ、時たまルカに止められる、というか邪魔される事があるわけだが、態々言う事なのだろうか?
「…んー?」
タスクは眉を吊り上げた。心なしか、ルカの後ろ姿からは、いつになく『やる気』の様なものが満ち溢れている気がした。
「…ひょっとして、本業の方のお仕事ですか?」
「…まぁ、そんな所だ」
タスクの質問にルカはただ前を向いたまま答えた。
「情報を売りさばいてるんでしたっけ?ルカさんって世界中に顧客が居るんですか?」
「教えない」
「…ふーん」
何はともあれ、暫くこの街で個人行動ができる。ルカの監視無しで。
(…なるほど、思ったより色々できそう。ふふ)
さて、何をしようか。宿に篭って薬の調合か。はたまた山に登って散策か。この辺りはどういう植生なんだろうか。土や草の匂いを想像しただけで、頬が緩んでしまう。…が、そこまで考えて、タスクはふと、我に返った。
(…いやいや、まてまて。なんでこいつから許しを得たみたいになってるんだ。そもそも私の旅だし…。こいつは私の旅に勝手について来てるだけなんだから。私が好き勝手していいのは当然だし。何喜んでるんだ、私)
ルカとは知り合って3ヶ月程だ。彼との出会いは東の大陸の小さな島国、ヤークだった。タスクにとっては久し振りに寄った思い出の国だったのに、トラブル続きで碌な事の無かった。彼とは、もう二度と会うことも無いだろうと思っていたのに、何故かその後再会し、何故か旅に着いて行きたいと要求され、何故か、『用心棒とその主人』という関係でこうして今、一緒にここにいる。
(…何故だ)
それはもちろん、タスクが同行を渋々許したからであるが、最近の彼はまるで用心棒というよりは、
お母さん
のように、
「タスク、起きろ。汽車が出る」
口うるさく、
「タスク、洗濯するが、洗いものあるか?」
「自分でやります」
何かと世話を焼き、
「タスク、野菜も食べろ。デカくならないぞ?」
やっぱり口うるさく、
「タスク、手合わせいいか?」
…これはお母さんじゃ無いけどいい練習相手にはなる。
(こいつは一体私の何なんだろう…?)
ふと頭に浮かんだその疑問は、答えを見つけることが出来ずにぐるぐると渦を巻いている。
(用心棒、旅仲間、お母さん、お兄ちゃん、お父さん、弟、執事、ペット…)
「ん?どうした?」
ルカはタスクの足音が止まったことに気づき、振り返った。少しの青を含んだ灰色の瞳がこちらを見つめる。
「っ!!なっ…何でもない!!……です」
そう言って、顔を伏せる様にしてルカの横を足早に駆け抜けるタスク。ルカはその時、タスクの頬がほんのり赤くなっている事に気がついた。
「…なんだ、あいつ?」
風邪でも引いたのかと思ったが、あれだけ走れればきっと元気だろう。だが、宿の場所も分からないのにルカの先を行くのは如何なものか。案の定、通りの角で「どっちですかー!」と叫ぶ羽目になっている。ルカはため息をついて右を指してやった。
「少し行った先の緑の外装の宿だ。すぐ分かると思うぞ」
声を張って呼びかけるとタスクはこちらを向いて縦に大きく頷き、駆け足で街角へと消えて行った。妙に先を急ぐタスクをルカはやっぱり不思議に思ったが、なんだかその掴み所のないところがタスクらしく思えてきて、可笑しかった。ルカは背負っていた荷物をしっかりと持ち直し、先ほどよりも、少し早めの足取りでタスクの後を追った。
「ごめんください」
ドアベルがカランカランと寂しく響き渡る。高くはない宿の入り口は少し殺風景ではあるが、よく手入れがされていて清潔感があった。感じの良さそうな亭主が先ほど居たはずの受付には今は少女が立って居る。
「あ、お客さん…」
店番が初めてなのだろうか、金髪の少女の手は震えていた。こちらを少し緊張した眼差しで見ていたので、ルカは出来るだけ丁寧に優しく尋ねた。
「えっと、この宿の子でいいのかな?さっき2人で取ったルカって者なんだけど、連れが先に来てるはずなんだ。部屋に案内してもらえるかい?」
「あの…今は—」
その時、奥の部屋から男の怒号が聞こえてきた。
「このクソガキ!!あんまり舐めてっとぶっ殺すぞ!」
「ひっ!」
少女が小さく震える。あたりを見てもやっぱり亭主が見当たらず、少女は不安げな様子で奥の間を見つめていた。
なるほど、こういう訳か。と、ルカは背負っていた荷物をゆっくりとその場に降ろした。
「これ、見ててくれ。ちょっと様子を見てくるよ。こっち来ちゃダメだからな?」
三つ編みの少女は唾を飲み込むと、力強く頷いた。ルカは笑顔で「心配するな」と囁き、吹き抜けになっている奥の部屋へと足を運ぶ。
「舐めてるのはあなた方の方じゃないですか。ここは禁煙なんだから、それはルール違反ですよね?」
そう吐き捨てていた声の主はやっぱりタクスだった。自分よりも数倍大きいいかつい男に向かって悪びれた様子もなく、ただ淡々と自分の主張を述べている。その横には先程店先に居たはずの亭主が場を収めようとオロオロしていた。
「あ、あの、お客様、そこまでしていただかなくても…」
「ほら、亭主がそう言ってんだから良いんだよ。俺は特別だ」
偉そうなガタイの良い男はまたタバコをふかした。濃い煙がタスクの顔を包み込む。タスクの瞳は先程よりも暗く染まっていた。
(ありゃ、相当切れてるな)
そう思ったルカはすぐさま止めに入ろうとしたのだが、タスクの怒りの矛先は、次の瞬間、何故か亭主の方に向いていた。
「ちょっとオーナーさん!!」
「へ?」
張り詰めた空気。
腰の低い亭主は頭が真っ白だ。それもそうだ。先程まで自分が守ろうとしてくれていた人間に、そんな厳しい眼差しで睨まれる理由なんてこれっぽっちも思いつかない。
「ねえ!!」
「は、はいっ!!」
「ここが禁煙ってのはあなたが定めたルールですよね!?」
先ほどまで真っ直ぐな目をしていた少年が今は凶悪犯罪者のようだ。その視線で人をも殺しそうである。
「は、はい」
震えた声で亭主が返事をした。その瞳は完全に怯えきっている。
「ならそのルール。なんで例外が認められてるんですか?」
「えっと…そのリンドール様は特別なお客様ですので…」
「はぁ?特別!?ふざけないでください!こんな有害なもん撒き散らされて何を呑気な!!」
タスクは亭主に向かって怒鳴り散らした。その姿は、さながら、おとなしい大型犬に向かってきゃんきゃん吠える子犬のようである。その子犬の言葉に、隣の男の目元が微かにピクリと反応を示す。いよいよ我慢の限界か。それを察してか、否か、子犬は更に吠え続けた。
「吸いたきゃ自分の部屋で吸えばいいじゃないですか!!ここには子供だっているんです!あんたがここで煙撒き散らすせいで、周りにいる私らまで、吸いたくもないのに煙吸わされてるんです!分かったら、さっさとこの口に咥えてるもん吐き出して下さい!!」
「っ…。ふんっ」
男は一瞬、タスクの言い分に眉を顰めたが、直ぐにバカにしたように鼻で笑ってきた。その拍子に白い煙が忌々しい口からこぼれだす。
「それならお望み通り吐き出してやるよ」
そう言って彼は口に咥えていたまだ赤く光るタバコを摘むと、タスクの顔面めがけて勢いのままそれを押し付けようとしてきた。
それとほぼ同時に、タスクの拳が彼のみぞおちを捉える。が、次の瞬間には、その拳は忌々しいデカ男に届く寸前で何かに止められ、タスクに向かっていたはずの男の拳は何故か頭上の方へと軌道が逸れていた。
「双方とも、止めろ」
タスクの手首は大きく骨ばった手に強く握られていた。少し視線を上げれば、男の顎に銃を突き付けるルカの姿があった。
「って…ルカさん」
タスクはボソリと呟いた。
どうやら、ルカは喧嘩を止めるためにわざわざ間に入ってきたらしい。先程の「自由にして良い」というセリフは何だったのだろうか。早速、彼のお節介が始まったみたいだ。
「なんだお前」
銃を突きつけられ、顎を引くことが出来きない男。その声には少し焦りがあった。
「このガキの用心棒だ。悪いがもうこの辺で収めてくれないか?」
ルカはこんな状況なのに、得意の親切そうな笑顔で丁寧にそうお願いした。それが男の燗に触ったのだろう。男は余計に激昂した。
「ふざけるな。元はと言えばそのガキが突っかかって来たんだ。こっちは迷惑してるんだ。きっちり落とし前はつけてもらう!っう!」
男が動こうとした瞬間、カチャリと銃の金具の音がなった。銃口が無精髭の生えた彼の顎に食い込むほど、強く当てられている。流石に、男もそれ以上身動きは取れなかった。
「面倒ごとはごめんなんだ。あんたもそうだろう?」
するとルカは銃口を顎から首、そして、ゆっくり男の胸の位置まで滑らせた。そのルカの銃を見て、男の瞳は微かに揺らいだ。
「……ちっ。覚えてろよ」
男が静かに呟く。すると、ルカは爽やかに笑い、銃口を彼の体から離した。男は踵を返し、黙って奥の通路へと歩いて行く。
「良いのですか?」
後を追うように、黒いスーツの男たちが駆け足で続く。そのうちの一人が、そう呼びかけると、男は舌打ちをした。
「仕方がない。目立つ行動は出来るだけ避けねばな」
男は小さく呟く。そして、男とその手下たちは、通路の角を曲がり、タスクたちからは完全に見えなくなった。
「…あっさりしたもんだ」
ルカが呟くと、亭主の緊張の糸が解けたのか長いため息が聞こえてきた。その額には微かに脂汗が滲んでいる。
「あ、あああ、あの、ありがとうございました…。それで、その、お怪我はありませんか?」
亭主としては、礼より寧ろ文句を言いたいだろう所だろうが、その物腰の低さからは、物事を荒立てたくない平和主義者でいたいという思いが、ひしひしと伝わってくる。なんだかルカは申し訳ない気持ちになった。
「はい…平気です。タスク、お前は?」
「ご覧の通り、全くの無傷ですよ」
そう笑顔で応えるタスクだったが、どこか不自然だった。殴る相手は居なくなったのに右手の拳に力が篭っている。
「…なんだ、その右手。痛むのか?」
先ほどの鉄拳を止めるために強く握りしめてしまったのだろうかと、ルカは心配してタスクの腕をとった。
「あ、いや…これは…」
気まずそうにするタスク。こう言う時は何か隠している時だ。相変わらず、タスクは拳を固く結んだまま。ルカは問い詰めるようにしてタスクの黒い瞳を見つめた。
「なんだ?…開いてみろ?」
「へ?」
「開け、ほら」
ルカはタスクのその拳を軽く揺さぶった。するとタスクは少し困った顔をして、渋々、そっと手を開いた。
「…なんだ、タバコ?なんでこんなもの…」
それは、先程、男がタスクに向かって押し付けようとしていた吸いかけのタバコだった。恐らく、ルカが男の腕をいなした時に、その手から溢れ落ちたのだろうが、拾うタイミングなんて無かったはず。…まさか、あの一瞬で掴み取ったのだろうか。
(…一体、何のために?)
相変わらず謎な行動が多いタスクに呆れるルカ。視線の先のそのタバコは、勢いよく掴まれたせいか、原型を留めておらず、タスクの小さな掌はクズだらけ。亭主はそれを見るなり、「大変だ!」と言って慌ててどこかへ行ってまい、待合室にはルカとタスク、2人だけになった。
「…普段ならタバコくらい気にしないだろ、お前」
亭主の背中をなんとなく目で追って、ルカはそう切り出した。するとタスクはヘラっと力の抜けた笑顔を見せた。
「なんか、よくない煙だったんで…つい。まぁ、良いじゃないですか。助けて頂いてありがとうございました。用心棒さん」
やけに素直に礼をいうタスク。だが、この狡賢い子猿が本心でそんな事を言うわけがない。彼もようやく、タスクがどういう人間か分かり始めていた。
「…思ってないだろ?寧ろ自分でどうにかできたとか思ってたからあんなに突っかかってたんだろう?」
「アハっ♡」
とぼけたように笑うタスクにルカは舌打ちをした。が、それ以上責め立てることはしなかった。だって、この子猿、叱りつけたところで、ルカの言う事をまともに聞こうとしないのだ。言うだけ無駄である。ルカはため息をついた。
「はぁ…で、それ。良くないって?何が良くないんだよ?」
そう尋ねながら、ルカは複数あるズボンのポケットに手を突っ込む。何かを探しているみたいだ。
「さぁ…なんか妙な匂いだったんですよね…。毒の匂いに似てたような…」
タスクは手の汚れを見つめると、匂いを嗅いで首を傾げた。
「おい、毒かも知れないのに大丈夫か?そんなことして」
先程毒じゃないかと言っていた本人とは思えない行動に、ルカの手は止まる。ところが、タスクはそんな心配つゆ知らず、手の中のゴミに夢中になっていた。
「さぁ…なんですかね、これ。とにかく調べてみないことには分かりませんね」
呆れたものである。飛んだ大物だ。
「お前…そんな曖昧な感じで貴族に喧嘩売ったのか?」
「貴族…?え、あれ、貴族なんですか?えー…?」
タスクは男の格好を思い出した。ピシッとした白いシャツにベストまで着込でいて、それから自らの腕に引っ掛けていたあの布はジャケットだろう。言われてみれば確かに上品だ。しかし、そのどれもは使用感が目立っていて、貴族の煌びやかなイメージとは少々違う気もする。
「…なんか、私の知ってる貴族とは違うようなぁ…。確かにあのベストはいい生地でしたけど」
本気で考え込むタスクを見てルカは大きなため息を吐いた。
「…お前」
頷くタスク。まるで何も分かってないらしい。流石にルカも苛立ち始めた。
「…あいつのボタンに龍の紋章があった。龍の紋は形は違えど、この国の王族と貴族のみに使用を許されてる。階級は分からんが、間違いなくあれは貴族だ。もう少し気を付けろ」
「…あれ、タダのデザインじゃないんですか?龍の紋章なんて他の国でもありきたりで、別に珍しくもないですけど」
「馬鹿にしてんのか?」
「あ、いいえ」
「…そうか」
ルカを怒らせてしまったかとタスクは少しだけ体を強張らせたが、その返事は予想に反して、さっぱりとしたものだった。お陰で拍子抜けだ。今日のこの人は一体何なのだろう。やっぱり、少し変だ。
「…あの」
「なんだ?」
「離してくれませんかね?」
「まぁ、待て。…あ、あった、あった。ほら」
そう言ってルカがポケットから取り出したのは一枚の油紙だった。
「調べるんだろ?」
その紙の上にタスクの掌のカスを落としていく。途中からルカが両手で紙を支え、タスクが左手で払うように細かい分まで落としていった。
ちょうどそこにバタバタと急いだ足音が戻ってきた。
「あの、お客様、火傷はされてませんか?」
その手には氷の入ったコップと、布。息を切らした亭主を見て2人は笑った。
*
次の日、ルカは仕事があるからと朝早くに一人で出かけていった。昨晩も彼の仕事についてちらっとまた話を聞こうとしたが、やはり、教えてはもらえず。
まあ、何にせよ、この街に特に用のないタスクは、部屋にこもって薬を作ることにした。
慣れた手つきで、風邪薬、解熱剤、下痢止め、解毒剤各種、それらを調合する。それから最近凝っている髪染め剤やあの例の媚薬の改良開発も。そんな感じでタスクは日々研究と失敗を重ね、いつの間にかそれが趣味になっていた。
「…ふぅ」
が、そんな薬づくりも、ゴリゴリ擦ったり、炙ったり、乾燥させたり、煮込んだりしているうちにだんだんと飽きてきてしまい、結局「せっかく来た町なのだから」と、観光がてら散歩でもすることにした。
宿から出ると、まるで「いってらっしゃい」と声をかける様に扉の鐘が優しく鳴る。タスクは早速、この街一番の大通りへと向かうことにした。迷路のように入り組んだ石畳みの道を抜けて行き、右だ左だと角を次々曲がって行くと、突然ひらけた場所にでた。そこは城下町というだけあり、道行く人や乗り物で溢れかえっていて目眩がするほど明るかった。
「…本当にここだけ黒い」
足元に目を向ければ、これまでの灰色の石畳から一転。地面が自分の顔を映し出している。まるで、鏡や綺麗な池を覗き込んだような、そんな感覚だった。この黒く艶のある石で整備された大通りは、これまでタクスが旅した国の中でも特に美しく、近代的に思えた。
「わあ…」
ここは、銀や様々の鉱石の名産地でも知られる"ベリエルらしさ"を感じる光景の一つであり、世界的にでも有名な観光名所であるらしい。なんでも、その名も「龍の道」というのだとか。この道を北に進めば城にたどり着くようになっている。南に進めば、「龍の墓」と呼ばれる広場があって週末は市が開かれ人が賑わうみたいだ。また、その広場は石畳が少し特殊に組み込まれていて、モザイク調に円に組まれたデザインが美しいということでも有名らしい。どちらの名所もこの真っ黒な一本道で繋がっているせいで、祭りや舞踏会の日になると馬車や車で渋滞して困るのだと、昨日、宿の亭主は言っていた。
「みろ、ルーラの205式だ!」
「ほんとだ!かっけー!」
子供が興奮気味にそう叫んでいたので、ふと目線を流してみれば、通りの先に最新型の車が停車していた。なんでも燃料を使わないとかで、最近巷で流行っているらしい。黒い車体と美しい貴族文化を忘れない装飾に凝ったフォルムは、さながら、少し見慣れぬ馬なしの高級馬車と言ったところだろうか。西の国の産物らしいがタスクも実際見るのは初めてだった。
(…少しだけ魔術の匂いがある)
その車体を横切る時にふと香った匂いにタスクは鼻をひくつかせた。
「…燃料がいらないって、飛んだ大ボラ—!?」
タスクは素早く振り返った。だが、そこにいたのは先程から楽しそうに叫んでいるの子供たちだけだった。
(…おっかしいなぁ。ルカさんの気配がしたんだけど…気のせいか?)
タスクはその場を後にした。
ちょうどその頃、その最新型の車が停まっていた建物、つまり、この街一番と謳われている高級ホテルのロビーの一角で、その男は友人の到着を待ちわびていた。
「……」
ロビーの中央には大きな時計のオブジェが立っていて男はそれを見るなり、一つ大きなため息を吐いた。
座り心地のいいソファーに浅く腰をかけ、俯いていると、ふと、視線の先に自分の正面で立ち止まる足が目に入った。幾度の困難に晒されたのだろう。物が良いはずの皮の靴も、汚れや傷でボロボロだ。特に足先なんて酷い。要人の前に立つには相応しくない靴であろう。
「靴でも磨いてるのでもと思ったけど、違ったみたいだね」
「…遅くなりました。エドワード様」
男は顔を上げた。古き友との久しぶりの再会に自然と笑みがこぼれる。
「…久しぶりだね。ルカ。ちょっとやつれたかい?」
「まぁ、そうですね」
遠慮がちに答える友人に、ビン底メガネをかけた青年は立ち上がり、彼の肩を掴んだ。
「なんだよ、水臭い。ここは城じゃないんだ。昔みたいな口調で話せよ」
ビン底メガネを通して男のグリーンの瞳がちらりと覗く。随分会ってなかったせいか妙に緊張していたルカだったが、彼の言葉にほっと胸をなでおろした。
「…そうだな。元気だったか?」
「まぁねー…君が思ったよりもお金使ってて僕のお財布どうにかなっちゃうってこと以外は元気かなー?」
「…意地悪ですね」
「…くくく、冗談だって!兎に角、敬語は無しだ。だけど、時間はあまりない。あそこでコーヒーでも飲みながら報告を聞こう」
「ああ」
*
街の薬屋を物色し、店を出た時だった。
「ほら、出せよ」
路地裏から聞こえてきたのは乱暴な男の声だった。タスクは気になって声のした方へと足を進めると、3人の汚い格好をした男が1人の女性を取り囲んでいた。
「良いよなぁ…お前も俺たちと同じだったはずなのに1人だけいい思いして」
「あの成金旦那のうちは快適かよ?なぁ!」
男の拳が女性の顔の横に突き立てられた。短い悲鳴が上がったが、女性は恐怖のあまりそこから動く事ができない様子だ。
「お優しい旦那様に拾われていいなぁ。お前は。なぁ、その幸せ俺たちにも分けてくれよ。なあ、いいだろ?同じ場所で育ったよしみでさぁ」
男の手は女性が大事そうに抱えている荷物へと伸びていく。女性はとっさに自分の身で荷物を隠すように抵抗すると、男は怒りを露わにして拳を振り上げたのだ。
「カツアゲ?」
その時、男は動きを止めた。誰とも知れない冷たい声。振り返ると、小さなガキが生意気な目つきでこちらを見ていた。
「うっせーよ。ガキは帰んな。殺されてぇのか?」
取り巻きの男が睨みを利かせて怒鳴るが、その少年は眉ひとつ動かさず、こちらに近づいてくる。
「怒った猫みたい」
「あ?」
威嚇をした瞬間、少年は突然体勢を変え突進してきた。「なんだ?やる気か!?」という言葉とほぼ同時に1人が地面に突っ伏し、次の瞬間には、女性の前にいた男の顔が思いっきり殴られ、逃げようとした男は足も動かぬうちに、鳩尾に衝撃が走りそのまま意識を手放した。
少年は自分にもたれかかってきた男を地面に投げ落とすと、鞘に収まったままの刀を一度振り、いつもの腰の位置へ差し込んだ。
「さてと…」
先ほど買った薬草が買い物袋から溢れて地面に転がっている。入れ直そうとしゃがみこむが、よく見たら袋自体に穴が空いているではないか。
「あー、やっちゃったよ…。めんどくさいなぁ…」
「あの…」
今しがた助けた女性に声をかけられて、少年は振り返った。そして気付いたのだ。
「あ…えっと…昨日の?」
「そうです。孤児院の前で紙芝居をしていた…サラと言います」
「…タスクです」
あ、どうも、と取り敢えず頭を下げてみる。
「あの、強いんですね。本当に助かりました。大事な旦那様からのお遣いだったんです。盗られなくて、良かった」
サラは心底安心したようで、抱えていた荷物を大事そうにぎゅっと握りしめた。
「あの…良かったらうちへ来ませんか?助けて頂いたお礼にお茶でも…」
「いえ…そんな、お構い—…」
タスクは断ろうとしたのだが、ふと、帰っても薬を作ることぐらいしかやることが無いことを思い出した。このまま帰って、その後ルカと過ごすのもなんだか退屈であるし、この街にさして興味がある訳ではなかった。そうなると彼女の提案に乗るのも悪くはないだろう。
「じゃあ、一杯だけ」
*
ルカとその旧友であるエドワードはホテルの中のカフェの一番奥まった小さな席に腰をかけた。注文したコーヒーが2つ、テーブルに届くと、早速ルカたちはお互いの近況を話し合った。
「で、報告は読んだが…イツキとツバサは亡くなっていると」
「ああ。ただ、気になることがあって今はまだ様子見だ」
「お前が付いてるあの子か。イツキの弟子…タスクと言ったか?」
「そうだ。だが、弟子と言っても魔法を使える訳ではないらしい。元々同じルークルの出らしくて、イツキとは奴らが使う妙な術の師弟関係なんだそうだ」
「報告書にあった”唄’のか。確か、ヨビコ、だったな」
エドワードの質問にルカは頷く。
「この2ヶ月で術を使う所を見たのは4、5回だ。動物と意志を解する他、植物を成長させたり…信じ難いだろうが、あいつが特別な唄を歌うとそういう事が起きるらしい」
最後は自信なさげにそう言った。だが、エドワードは決して馬鹿にすることなく真剣な表情でルカの話しを聞いていた。
「……動物と意志を解する、ねぇ。具体的にはどんな動物だったんだ?」
「はじめに見たのは鳥と会話しているところだ。あとは…そう言えば、森の小動物と話したけど…その後、ネメラの山中に花が急に咲き出してな」
「花?…植物を成長させるってそう言うことか?」
「ああ。あいつが歌い出したら、足元に花がブワーッと咲いて…。それから光る虫みたいなのがアイツの周りに無数に集まっていたな。歌が終わると消えたけど」
「……」
出来るだけあった事、見た事をそのまま伝えると、暫しの沈黙が流れた。エドワードは何を考えているのだろうか。報告に対して何か思うところがあるのかも知れない。いや、あるのだろう。そうなればルカは次の質問に備えなければならない。自然と身体に力が籠った。
「…飲め」
ところが、エドワードの口から出たのはそんな短い言葉だった。今までルカの話を眉ひとつ動かさずに黙って聞いていたのに、それが突然、脈絡の無い事を言い出すものだから、流石のルカからも間の抜けた声が漏れる。
「へ?」
「良いから。せっかくお前のために頼んだコーヒーだ。飲め」
「なんだよ、急に」
戸惑うルカにエドワードは至極真面目な顔で言った。
「これは命令だ。そのコーヒーを飲め。一口でいい」
「…わ、分かった」
そこまで言うのであれば飲まねばなるまい。ルカはゆっくりカップを持ち上げ啜るように、一口、コーヒーを飲んだ。
再びカップをソーサーの上に戻すと、エドワードは椅子にもたれかかって、頭を抱えていた。
「…なんだ、そのふざけた報告は。お伽話じゃ無いんだぞ」
「…全部本当のことだ。この目で見た」
こういう反応は想定済みだった。ルカだって自分でも少し馬鹿げているなと思うのだが、見てしまったのだから仕方がない。困惑しながらも変わらず真面目な口調で応えると、エドワードはじっと睨んできた。緑色の瞳からくる重圧感。彼が何を思っているのか、それに対し、どう答えるのが正解なのか分からず、ルカは眉をひそめる。すると、エドワードは呆れたように重いため息を吐いた。
「…なるほど。報告書を読んでついに気が狂ったのではないかと心配したんだが…正気だったか」
「…当たり前だ」
エドワードの発言に少しムッとしたルカだったが、多少なりとも納得していた。きっとルカがエドワードの立場だったら同じ事を思ったに違いない。とはいえ、やっぱり友に信じてもらえないのは少し寂しい。ルカは複雑な気持ちだった。
「…それ」
ルカが悶々としていると徐にエドワードが呟く。緑の瞳が、ルカの前にあるコーヒーを映していた。
「…"妖精くだし"って薬が入ってるんだ」
「…っ!」
ルカの持っていたカップがカチャリと音を立てた。聞き覚えのある名前。妖精くだしと言えば確か、タスクが持っていた薬の名前。さらに薬師リドリーの話では精神安定剤の一種とか、なんとか。
「元は悪魔に取り憑かれた奴が飲む曰く付きの薬らしいんだが、実際にはイかれた奴を正気に戻す精神安定剤みたいなものだ」
それみろ、やっぱり。
「おまっ!なんてもの飲ませる…んだ…って…」
ルカはおもむろに顎に手を当てる。それを見たエドワードはふんと得意げに鼻で笑った。
「頭が冴えてきただろう?そういう効果もあるんだよ、その薬」
「…どこで手に入れたんだよ」
エドワードのいう通りだった。気持ちが落ち着き、濃い霧が晴れて行くように、頭の中が冴えてくる。とてもさっぱりした気分になったが、一方で次々に思い浮かぶ可能性が頭の中を駆け巡った。これはひょっとしたらだが、この推測が正しければ、エドワードはどんでもないことをしている事になる。ルカはエドワードのことを悪事を働いた子供を尋問するような目で見た。
「…やまびこの亭主から」
そのエドワードの答えにルカはやっぱり腹が立った。
「お前…仕事ほっぽって俺の跡を付けてたな!?」
テーブルに拳をついて小さく怒鳴るルカ。エドワードはそれを「まぁまぁ」と適当に遇らった。
「だってお前ばっかりずるいだろう?俺だって旅したかったんだよ!」
実にバカバカしい理由である。エドワードは昔からこういうお茶目な所があったが、まさか、あんな離れた東の島国まで追ってくる程の馬鹿野郎だとはルカは夢にも思っていなかった。
「自分の立場分かってるのか…!」
「うん、だから、こんな感じで喋ってくれて僕は嬉しいよ?アハ♡」
「…タスクの真似するなっ!!…はっ!」
その時舞い降りたのはタスクと初めて会った時の記憶であった。この瓶底眼鏡に感じていた既視感。確かあの時、あそこには今し方目の前にいる男と同じこのメガネを掛けた青年がいたはずだ。
「お前…俺たちのことつけてたな!?」
「ピンポーン!せいか〜い!」
「ちっ!つくづく意地の悪い…。これを飲ませたってことは、さては信じてないな?」
「いや、そんな事はない。今確信に変わった」
「…は?」
即答も即答。エドワードはキッパリと言い放った。
「おや、意外か?」
「……だったら、まどろこっしい小芝居うつなよ。はぁ…たく」
この男は人を振り回して一体何がしたいのか。得意げに笑う顔が憎たらしく思えてくる。恨めしくエドワードを睨んだルカだったが、何故かエドワードは少し嬉しそうにみえた。
「お前は感が良いくせに、あちら側から目を背けてる節があったからな。やっと向き合う決心がついてきたって事かな」
「…どういう意味だ?あちら側って?」
「お前が旅で見てきたものだよ。まだ、ほんの少しにしか過ぎないだろうけれど。見えないものには見えない世界だ。それに気が付けたってことは、とっても幸運なことなんだぞ。きっとあのタスクって子供と行動を共にしてたから才能が開花したんだろうな。よかったな」
まるで全て分かっていたかのようなエドワードの口ぶり。知らないのはルカだけだったと言うことか。
「…なんだか納得いかないって顔してるな。まぁ、こういうのは、まともな奴から見たら病気だから、仕方ないが」
そう言ってエドワードは優雅にコーヒーを飲む。
「なんだそれ、嫌味か?…お前は俺が病気だって言いたいのか?だから薬を飲ませたのか?」
「そうじゃない。いいか?これは、叔父上の受け売りだが…『あちら側』ってのは、常にそこにはあるが、一部の限られた人間、たとえば才能ある魔術師や魔法使い、それとタスクみたいな奴らだけが見ることができる世界なんだ。ただ、なんでもない奴らが急にそれらが見えるようになった場合、あちら側の連中に憑かれている可能性もあるから、お前のことが心配だったんだよ」
(タスク達だけが見ている世界…?)
エドワードは至極真剣で、とても嘘をついているようでは無かった。
見えない世界。ほんと、タスクと一緒に行動するようになってから頭が痛くなるようなことばっかりだ。
「はぁ…その、見えてない世界ってのは、お前は見えるのか?」
「いいや、見えないよ。でも、それ用の魔術があれば見える場合もある、らしい。私は試した事はないが」
「魔術…か」
ルカは少し俯き気味に呟いた。頰が引き攣るのを感じる。するとエドワードは笑った。
「まあまあ、そう神経質になるなよ」
「……ああ」
「そうだな」
ルカはなんとなく笑ってみた。すると、エドワードもまた、安心したような笑顔になる。
と思ったら、突然、指を突き立ておどけたように宣言した。
「そんな訳でルカ。君には更に新しい任務を与えまーす」
「…今度はなんだ」
エドワードとは対照的にテンションの低いルカ。もうメンタルはズタボロだ。
「イツキの弟子、タスクの正体を暴け」
「それは今やってる事だ」
正直、辞めたい。とは言えなかった。
「正式に、って事さ。報酬は弾むぞ」
挑戦的な笑顔のエドワード。ルカはこの睨めっこに敵う気がしなかった。
「…貯金以外使い道がないから固定給だけでいい」
「おや?いいのか?」
「その代わり、騎士団の宿舎を改築してくれ。それだけの報酬は出るだろう?」
ルカが試すように笑うと、エドワードは呆れて溜息をついた。
「…っはぁー、これだから仲間思いの隊長さんは。言うことが違うねぇ。分かった。検討しよう」
エドワードは笑ってコーヒーを飲み干した。
「新しい事が分かったら随時、報告を送ってくれ」
「了解だ」
「じゃあ」
エドワードが立ち上がると、いつのまにか彼の傍に、茶色の小さな帽子をかぶったスレンダーな女性立っていた。彼女が帽子を取れば、鮮やかなブロンドの髪と晴れた青空のような瞳がルカの目に飛び込んできた。久しぶりの再会に、ルカも少し驚いた。まさかここで会えるとは思っていなかったのだ。
「お久しぶりです。セルヴァール様。お元気そうで何よりです。」
「ああ、久しぶり、マリア。メイド服姿じゃない君は何だか新鮮だな。」
彼女はエドワードの専属のメイドで、こうしてエドワードが外出する場合は付き人としても仕事をこなす優秀な女性だ。しかし、いつも纏めていた綺麗な金髪が今日は降ろされていて、どこかのお嬢様のようだと思ったが、そういえば彼女は貴族の出だったと言う事をルカは思い出した。にしても、エドワードの付き人としては些か、可愛らしすぎる格好ではないだろうか。
「あ、そうそう。今日、城で隣国の貴族や上流階級を集めた懇親会をやるんだ。お前も来る?」
「は?」
思い出したようにエドワードが聞いてきた。ルカは彼の意図が全く読み込めなくて少し混乱している。なんで突然そんな話を振るのだろう。
「なんだそれは。懇親会って…」
「魔術と科学についての有意義な話し合いさ。食事と踊りを交えてのね」
*
ベリエル城はこの地域でも最も歴史ある城と言われ、なんでも龍の時代からそれは存在し、一度も修復を行なったことが無いという。特別な石で作られたこの城はその鉄壁の頑丈さゆえ、最強の要塞とも呼び声が高い。城を形成している石材もそうだが、ベリエル産の鉱物や鉄も質が高く、古来から高値で取引されていた。だが、ここ2、300年でその産出も減り、長らく低迷を続けてきた。近年では寂しい印象を持っていた国であったが、どうやら最近は違うらしい。
「随分と賑わっているな」
懇親会には沢山の人が招待されていて、会場も熱がこもっていた。
「エネルギー事業が今真っ盛りだからね。こういう美味しい話がある所には貴族や実業家が集まってくるのさ」
ただの舞踏会であれば貴族以外が城に上がるなど許されない事だが、エドワードの言う通り、今回は訳が違うらしい。最近石炭で儲けているという噂の実業家たちも、ワイン片手に輪になって食事や会話を楽しんでいる。その傍らには、見合いも兼ねているのか、どこかの名家に嫁がせようと妙に着飾った女性や、数人の付き人の姿も見える。
「なるほど。で、魔術とかなんとか言ってたが、どういう事だ?お前、またそんな怪しげなこと裏でやってたのか?」
会場が賑わいを見せる中、二人は横に並んで後ろで手を組んだまま待機の姿勢だ。
「何を言っている。魔力を多く含むベリエル鉱石は今や次世代の燃料だし、お前は嫌いかも知れないが、それを利用する魔導技術は今、物凄く熱いんだぞ?宙船が一般運用されて以来、世界中に広がり、小型の運搬用の乗り物の開発も進んでいる。それに伴う武器開発もだ。我が国も遅れを取るわけにはいかない」
エドワードはただ正面を見て答えた。ルカもまた同じように正面を見ていた。
「…随分と物騒な話だな。仕方がない、と言いたいところだが、でも、どういう風の吹き回しだよ。お前だって、昔はそんなに魔術が好きじゃなかったろう?」
ルカからしてみれば、エドワードがこういう事業に首を突っ込んでいる事が意外だった。それに、故郷の城にある魔術研究の党はいつも薄気味悪くて、子供の頃からルカはそこが苦手だった。だが、エドワードはキョトンとしている。
「そうだったか?…ああ、子供の頃の魔術師長が薄気味悪くて嫌いだったが…だが僕は昔から探し物とか、商売をするのに呪いとか魔術を結構使ってたぞ。成功した試しは無いがな」
「…あれ、そうだったか?」
怪訝な表情を浮かべるルカに対して、エドワードは陽気に応える。自分が魔術が嫌いだから、勝手にエドワードも好きではないのだと思い込んでいただけだったらしい。自業自得というか、ただの勘違いなのだが、ルカはその事に少し寂しさを覚えたのだった。
「…まぁ、良いが…ところで、なんでお前は俺と同じ格好をしているんだ?」
「え?」
ルカは自分の左隣にいる人物に視線を向けた。相変わらずの瓶底眼鏡はさておき、黒のシンプルかつ高級感のあるデザインの服ではあるが、あくまでこれは執事がする格好だ。本来のエドワードであればするべき姿では無い。なのに、エドワードはこの状況を楽しんでいるようだ。それも、ものすごく。
「何言ってるの?だって今回僕は脇役だもの」
「…お前が招待されたんじゃ無いのか?」
「これは魔術と科学研究のちーさなコミュニティのかなり専門的な懇親会だぞ?国を挙げてこの僕を呼ぶと思う?」
「じゃあ、なんだって…」
その時、ルカたちの背後にハイヒールの音がコツコツと響いてこちらへやってきた。紺色のシンプルなデザインのドレスを纏った女性が、ルカとエドワードの前で小さく一礼する。
「呼ばれたのは私でございます」
「え…?」
「正確にはラインネル家の魔術師である父と兄にお声が掛かったのですが、あいにく、2人とも魔術機器の開発に忙しく…というか社交性が乏しいので私が遣わされたという訳でございます」
マリアの言葉にはどこか棘あった。確かにそうなるのもわかる。商売の話をするのに、そこの1番の責任者ではなくて、その娘が遣わされるなんて、はっきり言って主催側に対して失礼であるし、マリアからしたとんでもないとばっちりだろう。
「そ。彼女、一応魔術研究の勉強もしてたからね。話はできるのさ」
得意げに付け加えるエドワード。
「流石だな…」
「お褒めに預かり、光栄でございます」
小さくマリアがルカに頭を下げると、横から再びエドワードがしゃしゃり出てきた。
「あーダメダメ、今日は僕たちは君の付き人としているんだから、そういう態度取っちゃダメだよ、マリア」
「あら、そうでございました。私としたことがうっかり」
飛んだ茶番だが、この場合、エドワードもそんな言葉でマリアに話しかけてはダメなのではないだろうか。ルカはそう思ったが、あえて突っ込むことはしなかった。
「で…お前は面白そうだから付いてきたってわけか」
「さっすが、よく分かってるじゃないか。ついでに国の動きも見ておきたくてね。それに鉱石と一緒に何か良くないものも取引されてるようだし…ね?」
エドワードは顔は笑ってはいたが、その目には何か獲物を狙う様な鋭さがあった。つくづく敵には回したくない相手だと、ルカは深くため息をつく。
「はぁ、一体どんなものなんだ」
「麻薬に武器。うちに流れて来てるのだけでも、相当な数だ。見た目も多種多様。おそらく魔術が絡んでる。気を付けろよ」
「っ…」
瓶底眼鏡の下の緑が、かつてこれ以上恐ろしく見えた日があっただろうか。唇は弧を描き一見微笑んでいるエドワードだが、彼は静かに怒っていた。
「…諸々了解した。で、俺はマリア嬢とお前の身を守ればいいって訳だな」
「そ、あとご自慢の耳で、情報収集もね。宜しく」
むしろそちらがメインだろう。と、敢えて笑顔を見せるエドワードに突っ込むことはしなかった。
「宜しくお願い致します。」
「ああ、こちらこそ」
ルカはマリアだけを見てそう答えた。
その時、早速2人の男がマリアに声をかけてきた。
「はじめまして、お綺麗なお嬢さん。私、マルニエ・ホリンズと言います。ベリエルのホリンズ社って聞いた事ないですか?」
40代ぐらいだろうか。かなり潤っているようで、彼が身につけているのはどれも高級品ばかりだ。だが、何故であろうか。何処と無くその振る舞いと立ち姿で、彼が貴族ではないということは透けるように分かる。
「存じております。主に金属の加工を行なっている…」
マリアはそう言いかけて、まだ名乗っていない方の痩せた男の方へ目を向けた。綺麗な服を着ているのに、どこか野暮ったくて、くたびれた印象のあるその青年は、はっきり言ってこの場から浮いていた。唯一褒める点があるとすれば「その瓶底眼鏡とっても似合っていますよ」ということぐらいだろうか。
「…ああ、僕はホリンズさんの所で働かせてもらってる技術者のミハエル・ワイズメルです。説明要因で呼ばれたのですが、こういうところは実のところ苦手なんですよ、アハハハ…」
尻すぼみに笑う姿がなんとも頼りない。
どこかで聞いたような話だと、マリアたち3人は思った。
「はじめまして。私はマリア・ラインネルと申します」
「ラインネル…え、もしかして、あの宙船の!これは失礼しました。てことは、ハルバン・ラインネル氏もいらっしゃっているのでしょうか?」
どうやらホリンズの方もラインネルの名を知っていたようだ。それもそのはず、彼女の父、ハルバン・ラインネルは魔法技術業界ではそこそこ有名な人物なのだ。今では主要都市には欠かせない空の移動を可能にした今世紀最大の発明、『宙船』。彼はその開発に関わった人物の1人なのだ。
「いいえ、父は技術開発にむ…忙しく、僭越ながら私が父の代わりにこちらへ参った所存です」
マリアは少し緊張していたようだが、失礼のない態度でホリンズに一礼した。身分的には彼女の方が上なのだが、これも城に仕える侍女としての彼女の性分なのだろう。だが、貴族では無いホリンズは彼女の洗礼された態度に少々困った様子だ。
「お嬢様、お堅いですよ。もう少し、肩の力を落としても大丈夫ですから。ほら、ホリンズ様も困ってらっしゃる」
エドワードが戯けたようにそう言うと、ホリンズも笑って答えた。
「いえいえ、貴族のお嬢様とは知らず、しかも、あの権威あるハルバン・ラインネル殿のご息女とは…気軽にお声を掛けてしまい恐れ多い限りです。ですが、宜しければ、少し技術開発についてのお話をしませんか?貴方のお父上の技術には我々も興味があります。良ければお聞かせ願いたい」
「ええ、もちろん。その為に私はここにいるのですから」
マリアの笑顔は鉄板だ。普段メイドとして働いている分、その笑顔の心地よさと言ったらないだろう。一度その笑みを向けられれば嫌な気分になる者なんている訳がない。悪い気を起こす者はいるかも知れないが、その時はルカの出番だ。案の定、マリアを前にホリンズ社の2人はふにゃりと力の抜けた笑顔でベラベラと仕事について話し始めた。
「な、彼女、結構やるだろう?」
会話が盛り上がるマリア達をよそに、隣にいたエドワードがルカに耳打ちをしてきた。
「確かに。専門的な話題まで…なんでお前のメイドなんかやってるんだ?」
冗談のつもりでそう言ったが、彼女がエドワードには勿体ないくらい優秀なのは確かである。それは立ち振る舞いや話の内容からも十分なくらい伝わってきた。
すると、隣のエドワードは眉間に深い谷を作った。
「…お前が帰ってこないからだろう」
「それは元はと言えばお前の命令があるから。というか、俺がいないせいとかおかしいだろ。意味がわからない」
「…はん!見ての通り、マリアはお前よりはるかに優秀だからな。たまに仕事の相談に乗ってもらってるんだ!」
「…」
精一杯の憎たらしさのこもった嫌味なのに、怒っているように聞こえないのは何故だろう。ルカは反論する気にもならなかった。
マリア達の会話に聞き耳を立てている一方でルカは周りの様子を観察しはじめた。
踊っている者、楽しく食事をしている者、会話をしている者、側から見ればただの舞踏会のようにも見えるが、男同士で会話をしている姿が良く見られる。
「取引か?」
握手をして互いに喜ばしい笑い声を上げている2人の男たちを見てルカは言った。彼らの手には書類らしきものが握られている。
「ああ。ここでの金の受け渡しは一切禁止されてるんだ。もし気に入った商品や会社があれば正式な商談は後日に、ってのがこの会のルールらしい。ここで出来るのはあくまで売り込みと情報交換だけだ。あの紙は…商品か何かの資料だろうな」
エドワードが横から小声で説明してくれた。
「面倒なルールだ」
溜息をつくようにルカが呟く。
話題の二人組は片手にワインを取り合って祝杯を挙げた。
「王のお膝元で金のやり取りするなんて、監視されてるみたいだし、何だか卑しいだろ。国事ならまだしも、民間企業なら尚更だ。あくまで意見交換の場である。…というのが表向きの理由さ」
「なるほどな。でも、城でって…。態々民間人招いてまで政府で主催する意図は何だよ。そこまでするなら、取引も自由にさせれば良いのに。非効率だ」
「そうでもないさ。一度家に帰って考える時間が出来るのは売り手にとっても買い手にとっても有益な事さ」
「…そんなもんかね」
きっと開催者はそんな心配り考えてないとルカは思ったが、エドワードの意見は確かに一理ある。そういう意味でも、このルールは役に立つことがあるのだろう。
すると、色々考えているルカの横でエドワードは急にニヒルな笑みを浮かべてきた。
「…なんだ、どうしたんだよ」
「…ふふ、実はさ、興味深い事に、主催はベリエル政府じゃなくて、ここの第三王子なんだ。つまり、この懇親会は物凄く私的なものなのさ」
「…はあ?」
「これは噂だけど、王子のお嫁さん探しの為に開かれてるんじゃないかって…ほら、彼、今のところ縁談全て断ってるらしいし」
「…それは流石に、冗談だろう」
一気に話が胡散臭くなってきた。エドワードは随分楽しそうに語っていた。
「いやいや、ほら、見てよ。懇親会のはずなのに、普通の舞踏会と同じくらい女の子がいるって変だと思わないかい?」
「…確かに」
「あくまで噂だけどね。まぁ、みんな資産狙いの結婚相手探しだろうけど」
年の熟した者たちが話し合う一方で、若い年代の者たちは交流を広めようと活発に会場内を動き回っている。着飾った女性たちは男性とダンスを踊ったり談笑したりしている。ルカが、その様子を確かめるように見ていると、妙な事に幾人の誰かと視線が時折通いあった。
「…あれ、もしかして目立ってるか?」
「まぁ、こんな瓶底眼鏡が2人も並んでいたら目立つかもね。あとは僕の隠しきれない気高きオーラが—」
エドワードの言葉に一瞬納得しそうになったが、どうやらそうじゃないらしい。目立っていたのはマリア嬢だったようだ。
すると、スーツでピシッと決めた男性が一人、マリアに声を掛けてきた。
「失礼。先ほど噂を耳にしたのですが、貴方様はラインネル氏のご令嬢でいらっしゃるとか…」
「貴族だ」
エドワードがルカに耳打ちをする。ルカも頷いた。
「いかにも。私、ハルバン・ラインネルの娘、マリアと申します」
どうやらラインネルの名はルカの知らない所で相当轟いているらしい。マリアは他国の貴族にも怖気付く事なく挨拶を交わした。
「良ければ、一曲、如何ですか?」
さっきまでホリンズ社の2人と楽しく会話をしていたはずなのに、当の2人はというと作り笑いを浮かべて黙っている。流石のマリアも判断に困ったようでエドワードに目配せをすると、エドワードは「踊って来い」と手で促した。
「では…」
とマリアが貴族の男に差し出された手を取るとあれよあれよという間にフロアへ連れて行かれしまった。
「いいのかよ」
「これも仕事さ」
マリアは美しく踊っていた。なんだか、ルカたちまで取り残された気分だ。虚しい。マリアが笑顔で踊る姿を見てホリンズは深いため息をついた。
「やっぱり貴族には敵わないなぁ」
同じ場にいるとは言え、身分の差はそう覆せるものでは無い。対等で張り合うにはまだ早いという事なのだろう。ホリンズの苦労が伺えた。
「そう気を落とさず。貴方は庶民の星ではありませんか。貴族に負けない技術と財力を一から築き上げてきた。そうで無ければこの会には招待されません。貴方がここに居るというだけで、十分賞賛に値すると私は思います。…ってただの執事が出すぎたことを言いましたね。申し訳ございません」
そう言ったのはエドワードだった。彼自身、言ってから自覚したのか、確かにただの執事が言う言葉にしては、やや上からな物言いだったが、どうやらホリンズの心には響いたようだ。ホリンズは目に力を込めて、泣きそうになるのを必死で我慢していた。
「うう…そう言ってもらえて、本当に嬉しい。ありがとうございます」
ホリンズはエドワードの手を取って感謝の気持ちを伝えた。エドワードもその姿に心打たれたようで、その手に力が籠る。
「良ければ、私に君たちの技術の話を聞かせてくれませんか?私もマリアお嬢様程ではありませんが、魔術を少しばかりかじっておりまして。先ほどの話はとても興味深いものでした」
ホリンズとワイズメルは驚いた顔を見せ、それから飛びっきりの笑顔になった。
「はい!喜んで!」
こう言うのがエドワードの凄いところだ。才能あるものを認め、それを受け入れる心がある。ルカは誇らしい気持ちでその友人の傍に立っていた。マリアは問題なく踊っている。こちらの会話も弾んでいる。近くの会話に耳をすませてみるが、これと言って妙な話題はないようだ。緊張も少し解けてきて、なんとなく目を泳がせてみた。
「か、勘弁してください。私、踊れませんって」
何処からともなく聴こえてきたそのセリフは、何故か聞き覚えのある声だった。不思議に思ってフロアを挟んだ反対側にその声の主を探す。
集中して目を凝らしていると、複数のカップルが踊る中、その隙間からチラリとその声の主の姿が見えた。
「…えー、無理ですよ」
それは高価な服を纏った少年だった。髪をかきあげて、大人と同じような格好はしているが、まだあどけなさが残り、可愛らしいという印象を与える。何故か、その少年にルカには既視感があった。
「ん?」
その既視感の正体がなんなのか、必至で理由を探そうと少年を見続けた。踊っているカップルが邪魔で時折見えなくなるが、どうやら、彼は誰かと楽しくはない会話をしているようだった。
ルカの険しい表情に気が付いたのかホリンズ社の2人とエドワードの会話が止まった。
「ん?どうした?」
「あれ」
ある一点を見つめて微動打にしないルカ。視線の先にある少年をみてエドワードは首を傾げた。
「あの子がどうかしたか?」
そう聞いた瞬間、やっとルカと少年の視線が重なった。少年の方は心底驚いた顔をしてた。
「あ、こっち見た」
「なんか、妙に見たことある…」
すると少年は慌ててその場から逃げ出した。空かさずルカも少年の後を追うようにしてその場から走り出す。
「あ、おい!!」
エドワードの呼び止める声も虚しく、ルカの姿は人ごみの中に消えていった。
*
少年の後を追うルカ。黒く太い柱が並ぶ広い廊下を全速力で駆け抜けた。元々身長差がある2人だ。いくら走ったところで長身のルカに敵うはずがない。小さな少年はあっという間に彼に捕まってしまった。ルカは逃れようと暴れる少年の両腕を掴んだが、少年は体を捻って足技を決めてきたので、咄嗟に体勢を変え、少年を地面に押さえつけた。
「痛い!!離して!!」
「何故逃げる!!」
「だってびっくりするじゃないですか!!」
「ビックリしたのはこっちだ!なんでお前がここに居るんだ!?」
「それはこっちのセリフです!!てか、まさか舞踏会に出るためにこの国に寄ったとは思いませんでしたよ!!」
「それはっ…成り行きだ」
押さえつけていた腕を離し、ルカはタスクの上から退いた。その時、赤く腫れたタスクの手首が目に入った。咄嗟のことだったので加減をし損ねたのだ。少しやりすぎたと後悔をした束の間、地面から這い上がるようにして、タスクがルカを睨みつける。
「成り行きー?そんな執事みたいな格好して?」
どうやら怪我のことはどうでも良いらしい。タスクは微塵も痛がる様子を見せず、それどころか悪態を付いてきた。
「意味がわかりません!」
「…そういうお前だって執事みたいな格好してるじゃないか!?いつものヤークの民族衣装はどうしたんだよ!?」
「着替えされられたんですよ」
「誰に?」
「……」
タスクは黙って視線を流す。ルカも、それにつられるようにしてその視線を追うと、遠くから足音が聞こえて来た。どうやら、こちらに近づいているようだ。
「ちょっと〜、タスクぅうー!?どこ行っちゃったのよぉ〜」
タイミングよくそんな声が廊下に響き渡った。今しがた走ってきた道を、派手なドレスを着た女性がこちらに向かって、必死に走ってきている。茶色の髪をクルクルと巻いてピンク色の派手な髪飾りを付けていて、それらがキラキラと光っている。派手だ。とても派手だ。その女性の後を追うようにして、もう1人の女性も走って来ていたのだが、派手すぎるあまり、ルカはもう1人の彼女に気づく事が出来なかった。
「あー、いたー!タスクぅー!いきなり居なくなるなんて反則よ!?」
全体的にピンク色の令嬢は床にお尻をついているタスクの前まで来るなり、小さな子供を叱りつけるようにそう言った。
「ほら、地面に直接座ったら折角のお衣装が台無しよ?立って!」
「あ、はぁ」
女性に手を取られて、しぶしぶ立ち上がろうとするタスク。側から見たら情けない姿でもあるが、当の本人は情けなさを感じるというより、心底迷惑がっている顔をしていた。
「君か、うちのタスクをここに連れてきたのは?」
「はぁ?…って…」
ルカがピンクの女性に尋ねると、彼女はルカを見上げるなり、ほっぺまでピンク色に染めて、ルカに釘付けだ。そして、舞い上がったあまり、持っていたタスクの手を放してしまった。
「いでっ!?」
その結果、タスクは再び尻餅をつく羽目になったのだが、彼女の注意は完全にルカへと向いている。
「まぁ、あなたがタスクの旅のお供のルカさん?男前でいらっしゃる…うふ」
ルカに向けらる熱い視線。すると、ルカは何を思ったのか、急に跪き、彼女の手を取った。その光景は、まるで舞台のワンシーンの様だった。
「おや、天使が舞い降りたのかと思いましたよ。貴方のような可愛らしい方を私は今まで一度も見たことがありません。良ければ貴女のお名前を教えていただけませんか?」
こんな歯が浮くようなセリフを吐くルカを、タスクは今まで一度も見たことがなかった。ただ呆然として彼らを横から眺めることしか出来ない。ルカはどう言うつもりなのか。執事の真似事にしてはそれは余りにも度が過ぎている。これじゃまるでどこかの貴族のプロポーズではないか。
「リディアナ・パールと申します」
もちろん、リディアナの目はハート一色だ。そんなリディアナにルカは吐き気がするほどの爽やかな微笑みを見せた。
「…おえっ」
おっと、本当にタスクに吐き気が来てしまった。だが、そのおかげであの甘ったるい空気は一掃されたようだ。ルカとリディアナがタスクを睨んでいる。ああ、安心。よかったよかった。
「ちょっと、タスク、良い雰囲気ぶち壊さないでよ!あんたは今、私の護衛兼執事なんだから空気になってて!」
「護衛?執事?」
跪いていたルカが立ち上がった。リディアナがちょっとだけ残念そうな顔を見せたが、ルカは嘘みたいに何事も無かったかのような真面目な表情。というか、少し怒っているのだろうか。そこにいるのは、タスクの知っている、いつものルカだった。
「ちょっと、色々ありましてね」
タスクは説明がめんどくさくてルカから視線を逸らした。ルカが責めるような目でタスクを強く睨み付けてくるが、話すつもりなんてこれっぽっちも無かった。だって色々ややこしいのだ。
(…なんだってこんな所でルカさんと会わなきゃいけないのよ)
少々気まずい雰囲気の中、そっぽを向いて、だんまりを決め込むタスク。すると、傍から取り入るように、別の少女の声が聴こえて来た。
「あ、あの、私が街でタスクさんに助けて頂いて、それで成り行きといいますか…」
今まで無の存在だった彼女は、どうやら先程からずっとそこに居たらしい。そういえばリディアナを追って来ていた女性がいたことを一同すっかり忘れていた。というか、完全に視界の外であった。
「本来はお礼に紅茶をご馳走するだけの予定だったんですが、タスクさんの強さを見込んで、今日の懇親会に護衛として付いてていただくことになったんです」
(また、余計な事に首突っ込んでるな!!)
少女からの話を聞いて、ルカは再びタスクを睨みつけた。しかし、当の本人は相変わらずの態度だ。これでは話にならない。
「それで…貴女は?」
ルカが尋ねると控えめそうなその女性は顔を真っ赤にして頭を下げた。
「も、申し遅れました。私、こちらのリディアナお嬢様の所でお世話になっております、サラと申します。ルカ様の事はタスク様から伺ってます。以後お見知り置き下さいませ」
「ルカ様、この者のことはお気になさらず。私の出来の悪い妹ですので」
そう言うリディアナだが、丁寧で畏まった挨拶であった。リディアナとはえらい違いである。それに、妹という割に似ていない。
「ああ、宜しく。うちのバカが世話になってるみたいで…」
「馬鹿とはなんですか!?雇われてるだけですよーだ!」
「そもそも何でこいつを?成り行きで護衛を頼むなんて無用心じゃありませんか?」
ルカは頬を膨らませるタスクを無視してリディアナに話しかけた。すぐ隣でタスクが喚いているが構うものか。すると、リディアナは再び目をハートにしてベラベラと説明を始めた。
「うちの執事兼護衛が怪我をしてしまって、代わりの者を探してたんですのよ。そしたらタイミング良くこの子が現れたってわけ。チンピラ3人を一瞬で倒しちゃうなんて聞いたらほっとくわけにもいかないでしょう?おまけにこんなに可愛い顔してるし。そばに置いておくにはもってこいだと思ったの。お父様には反対されたけど、いいのよ。どうせ何にも起こりゃしないのですから。ね?」
「うわっ、ちょ!」
リディアナは上機嫌になって、タスクの肩をつかみ身体をすり寄せた。
(なんでこの人こんなにスキンシップ多いんだ…?)
タスクは内心嫌がりつつも、相手はお嬢様だし、臨時執事という手前、彼女の手を振り払う事も出来ず、されるがままの状態だ。
普段、冷静沈着かつ自由奔放に振る舞うタスクを見てきたルカからすれば、それは中々面白い光景であった。これは見ものだ。思わず吹き出しそうになるのを堪えると、タスクが睨んでくるのが分かった。が、ルカは素知らぬふり。せいぜい、この状況を楽しむがいい、と心の中で笑ったのだった。
そうこうしていると、突然、今まで鳴り響いていた音楽が止まり、廊下を反響してくる人々のざわめきも聴こえなくなった。
「大変!王子の挨拶よ!戻らなきゃ!!」
「あ、お嬢様!!」
素早く踵を返し、全速力でホールへ走っていくリディアナ。その後を追うように、サラが走り出し、少し遅れてタスク、ルカも続いた。
「皆の者、よく来てくれた。まずは、私から礼を述べよう。有難う」
彼らがホールに戻ると、そう声を響かせる壇上の人物が真っ先に目に入った。長く綺麗な赤い髪を持った気品ある青年が立っていた。
「あれが王子?」
タスクが独り言のように尋ねる。
「そうだ。ベリエルの第三王子、フラマ殿下だ」
「へぇ…。なるほど」
タスクは何やら意味ありげにフラマ王子をじっと見つめてそう呟いた。
整った顔立ちに、豪華絢爛な装い、いかにも王子らしい彼に、見たところ特に不審な点はない。しかし、そんな彼をタスクは暗い瞳で真剣に見つめている。
『お前は昔、そういう存在を物凄く否定していたけれど』
エドワードの言葉がルカの頭をよぎる。タスクのこの様子。もしや王子に何かあるのでは無いかと、ルカは一瞬そんな不安を感じた。
そして、すぐに、王子の挨拶が始まった。
「この会は私たっての希望で開かれたものだ。既にご存知の通り、此処に招かれたのは、我が国ないし隣国でも名だたる技術者や資産家達だ。皆には是非、この場を持って有意義な意見交換をしてもらいたい。もしかしたら、今日来てくれた者たちの中には、この懇親会の開催を望んでいない者も多くいるかも知れない。事実、私が招待した者たちの中には断りを入れてきた者もいた。苦悩と苦労の結晶である技術や発明を、そう簡単には明かせないと」
しんと、静まり返るホール。皆、王子の話に聞き入っていた。
「だが、それも承知で改めて言おう。是非ともその技術や発明を皆の為、自分たちの生活の為、共有し合い、そしてその未来の為に生かしてもらいたい。もちろん、そう言うからにはこの私がベリエルを代表して、君たちをサポートする。また、多大なる成果を挙げたものにはそれだけの報酬をも与えよう。
いつか、企業間で切磋琢磨し協力しあって、進化したその技術が、国民や社会の生活に役立つことを期待している。皆でより良い世を作っていこう。
それでは、ベリエルと、魔術と科学の発展を祈って。乾杯」
王子がグラスを持った腕を高く挙げた。招待客たちはそれに応え、グラスを交わし合う。ホール中に乾杯という言葉とグラスが当たる音が響きあった。
「なんだか良く出来た王子様ですね。ちょっと夢みがちな思考なのが玉に瑕ですが」
「ほんとな…」
ルカの口からしみじみとした声が漏れた。
すると、再び音楽が流れ出し、踊り出す者、酒を酌み交わす者、皆それぞれに動き始め、ホールは賑わいを取り戻した。主催者である王子も壇上を降り、貴族や技術者たちと挨拶を交わし始めた。
そうなると黙っていないのがリディアナ達、お嬢様たちだ。
「玉の輿狙って頑張るわよ!タスク、私、行ってくるわ!」
「え、ちょ、お嬢様、今行くと失礼なのでは?」
「馬鹿ね。それくらい私にだってわかるわよ。近くでタイミングを伺ってダンスに誘ってもらうのよ!あんたはそこで見てなさい!!着いてこないでね!!」
「え、でも、それでは護衛の意味が…」
「いいのよ!このフロアから出なけりゃ心配ないでしょ!?あんたが目を離さなければいいだけの話だし!とにかくそこで待ってて!!」
「…あー、はい。わかりましたぁ」
鼻から熱のこもった息を噴射させるリディアナ。タスクは、もうどうでもなれと、やる気のない声で、彼女を送り出してやったのだった。これでは護衛の意味がないのだがもう良いだろう。元々彼女は護衛をそれほど必要としていなかったし、寧ろ殿方と関係を持つのに邪魔だと考えているようだった。今日たまたまタスクを雇ったのも、髪につけてるアクセサリーと同じ感覚なのだ。護衛や執事がいない令嬢は馬鹿にされるとでも思っているのだろう。いわゆる成金に出来る、ただの貴族の真似事だ。
「…お前、なんで護衛なんか引き受けたんだ?」
と、ルカが聞いてくる。
「…ちょっとお小遣いが欲しくてですね」
「なるほどな」
金の事に関してはもう、ルカは何も言わない事にした。
「…あれ、サラさんはいいの?」
タスクがふと気づくと、サラはリディアナを追わず、その後ろ姿を自分達と一緒になって見送っていた。
「ああ、私は、良いんです。王子様や貴族なんて私にはとても。元々こんな所にはいてはいけない筈の身分ですし」
彼女のその控えめな態度は、きっとその自信の無さから来ているのだ。自分を卑下して俯く姿はとても苦しく見えた。
「それはリディアナ嬢も同じでしょう?」
そう言った瞬間、タスクの脇腹に鈍い痛みが走った。ルカが肘で間髪を入れてしたのだ。失礼だ、と言いたいのだろう。だが、タスクが謝る前に、彼女は首を横に振った。
「いいえ。リディアナ様は貴族ではありませんが、国でも名のある実業家のお嬢様でございます。私なんかとは比べ物にならないくらいちゃんとした教育を受けてらして、いずれは女主人としてパール家をお継ぎになられるのです」
「へぇ…」
サラは淡々とそう説明してくれたが、女主人があのわがままお転婆娘に務まるのか甚だ疑問である。そんな時、1人の男がサラを呼んだ。
「サラ」
「だ、旦那様」
旦那様と呼ばれたその男は上物のスーツに身を包み、こちらを見下したような目で睨みつけていた。その瞬間、サラは体が強張り、男から目を離せなくなった。
「リディアナは?そこの臨時の執事はちゃんと仕事をしてるのかね?」
急くように問いただすこの男は、資産家でリディアナの父でもあるパール氏だ。そして今はタスクの雇い主でもある。サラが応えられずオロオロとしていると、その鋭く威圧感のある視線が今度はタスクに向けられた。
あら、怖い顔。だが、タスクにとってはそんなの屁でもない。
「リディアナ嬢にはここで待つように言われました。ご心配なさらず。彼女からは目を離しませんので。今もほら、あちらで貴族の方々とお話をされてますよ」
嘘みたいな爽やかな笑顔でタスクにそう言われ、リディアナの父はより不快な気分になったようだ。目の下の筋肉がわずかに痙攣している。
「ふん。半端な仕事をすれば報酬はその分だけ減るからな」
タスクの眉が僅かに動いたが、パールはそれに気づくことなく、再び視線をサラへと戻した。
「お前も早く人脈を増やせ。暇そうなやつに話しかけるんだ。呉々も失礼のないようにな。それから、貴族へ挨拶が大方終わったらリディアナと共に私のところへ来い。良いな」
「…はい」
パールはそう言い残し、新しいグラスを持って急くように何処かへ行ってしまった。きっとまた仕事の話でもしに行ったのだ。熱心なものである。
「で、では、私も。タスクさんはお嬢様のこと、お願い致します。私はお暇な方にご挨拶に行って参りますので…」
サラは得意の作り笑いを浮かべてその場を逃げるように去って行った。ルカとタスクは、リディアナの時と同じように、その後ろ姿を並んで見送ったのだった。
「かわいそうになぁ」
と、ルカが呟く。
「何が?」
「あーやって、少しでも良い嫁ぎ先をみつけて、事業を拡大する金を手に入れるんだろう?まぁ、メインはあのピンクのお嬢さんなんだろうが」
「…そうですね。健気なものですよ。それにあのサラって子、元孤児なんですって 」
タスクはため息をついた。するとルカは鼻で冷たく笑った。
「ふん。あの主人、良くやるもんだ」
「いけ好かないですよね。あんな可愛い子を孤児院から連れ出して、養子にしてウシシシって…もう考えただけでゾッとしますよ」
「まぁ、でも、確かに。目立たないけど、綺麗だし、たとえ元孤児でも貴族に見初められるって可能性は十分あるかもな」
「………ルカさんは、ああいう子が好きなんですか?」
「…なんだよ、急に」
流し目で見上げてくるタスクは妙に威圧感があった。ルカよりも小さいはずなのに人の視線を釘付けにするだけの圧がある。
「別に。女の子の好みの話、したことないなって。こんなに、よりどりみどりな所に来ること無いじゃないですか。好みのタイプの子でもいるのかなーと思いまして」
「そうだな…、まぁ、サラは確かに綺麗だと思うが、好みの女性のタイプでいうと…そうだな。俺はもう少し元気で心根が優しい可愛らしい子いいな。あ、ほら、あんな感じ」
ルカの指差した方角をみると、黄緑色のドレスを着た小柄な女性がどこかの男と踊っていた。なるほど、タレ目でふにゃりとした笑顔、薄い髪の色、小型犬のような可愛らしさがある彼女だ。つい守ってあげたくなるような、そんな感じの普通の女性だった。
「あー、かわいいかわいい。ありゃ、女から見ても可愛いって言われると思いますよ。そして、可愛過ぎてムカつくって言われるタイプの女ですね」
「…お前ひねくれてるよな」
「そりゃどーも……っ!」
適当な返事をしてすぐ、タスクの視線が固まった。何か変なものでも見たのだろうか。瞳孔が開いていくのが分かる。
「…なんだ?へっ!?」
ルカが不思議に思ってふり向こうとした瞬間、タスクが咄嗟にルカの両肩を鷲掴みにし、それを阻止した。そして、身体を小さく屈める。まるで何かから隠れるように。
「しっ!!いる。まだ振り返っちゃダメです」
ルカは言われた通り、動きを止めた。タスクはルカの背後の何かをジッと睨みつけていた。
「昨日の…あいつです。タバコの」
「…来てたか」
それを聞いてルカは驚かなかった。あんななりをしていても一応貴族だ。この会に呼ばれている可能性は大いにあると思っていたのだ。
「はい。…金目当てですかね?やな感じ」
「今どうしてる。」
「貴族と話してます。挨拶待ち…みたいですね」
ふと、エドワードの言葉がルカの頭を過ぎった。
『麻薬に武器。うちに流れて来てるのだけでも、相当な数だ。見た目も多種多様』
「…そういえばお前。あのタバコの成分調べたか?」
「調べて見たんですけど、私には分かりませんでした。ちゃんとした薬師の所に持っていかないと—」
「それって、とにかく普通のタバコじゃないって認識であってるか?」
食い気味に聞いてくるルカ。タスクは少しだけ戸惑った。彼は何かを確信しているような目をしていた。
「え…ええ、はい。そうですね」
「あいつだ」
「え?」
タスクの腕を振り払い、歩き出すルカ。人混みに紛れて、早足で歩を進める。
「ちょ、どこいくんですか?」
「お前は来なくていい。俺の仕事だ」
「仕事って?」
「俺の雇い主だよ。前に話しただろ」
柱の影に隠れて話す二人。昨日の男はもう、すぐ近くにいる。
「あ!ここに来たのってそれが目的だったんですね。なるほど…」
「そうだ。だから、邪魔するな」
「私も手伝います」
「はあ?正気か?」
「あなたの雇い主が何をしようとしてるのか興味があります」
「ダメだ」
「お願いです」
タスクがルカの腕をとった。黒い瞳がまっすぐ見つめてくる。
「…」
これは何を言っても効かないのだろう。というか、適当にあしらって後で勝手に動かれるのが一番面倒だ。そう思ったルカはタスクの腕を払い、一つため息をついた。
「この会の裏で取引されてるものを調べるのが目的だが…」
「あのタバコですね。分かりました。それで取引現場を押さえれば良いんですか?」
「いや、待て、早まるな。あのタバコが麻薬だと決まったわけじゃない」
「…なーんだ。麻薬調べてたのか」
「…」
しまった。墓穴を掘ってしまった。しかし、まぁ、別にここまで喋ったらもう何でもない気もするが、ルカとしてはタスクにまんまと全部言わされた気分で、なんだか面白くない。
「…とにかく、あれが最近巷で流行ってる麻薬の正体なのかハッキリするまで下手に動くな。あくまで調査の範囲で留めろ。怪しいやつを捕まえたり、目立つ行動はくれぐれもするな」
気を取り直して、ルカが再び柱から顔を覗かせると、誰かと話すあの男の姿が見えた。その奥には王子がいる。そして、今、この国の王子と話しているのはマリアであった。しかもその背後には彼女に仕えるようにして、エドワードが立っているではないか。
(げ。色々めんどくさいなぁ)
たが、一番面倒なのはルカのすぐ側にいるこの好奇心旺盛な少年なのだ。すると、その彼から変な声が漏れる。
「げ、リディアナ嬢と喋ってる」
その言葉に、まさかと思ってルカももう一度目を凝らした。
すると、ちょうど、あの男から目線を下げた所にあのピンク色が見えた。どうやら今まで人影で見えず気付けなかったらしい。
「あれ、大丈夫なのか?護衛は…」
彼女の護衛はそう、ルカの背後で青くなってるタスクだ。
「いや、まぁ、仕方ない。流石に奴もあんな小娘に乱暴したり変な取引持ち込んだりしませんよ。あははは」
タスクは、早口にそんなことを言い、笑って気を紛らわそうとしている。普段は、人を小馬鹿にしている態度が目立つのだが、こんなに焦っているのも中々珍しい。だが、これはルカにとってはある意味好都合だった。今こそ、この厄介な金魚の糞を引き剥がす絶好の機会だと!
「笑ってる場合か?パール家ってかなりの実業家なんだろ。あの娘が狙われない保証はないぞ。相手は没落貴族なんだ。喉から手が出るほど金が欲しいはずだ」
正論でじわじわ責め立てるルカ。金が欲しい貴族。そして、パール家が欲しいのは更に確立した地位。この場合、パール家があの男を選ぶ可能性は低いだろうが、リディアナは「貴族の殿方♡」としか考えて無さそうだし、もし彼女がダメでもパールにはサラという養女もいる。だとしたら、ここでリディアナ、もといパール家と彼が繋がりを持つ事は互いにとって損ではない。
「もももも、もし、あの男が麻薬取引の犯人だったとして、そしたら、リディアナに囮になってもらいましょう!あの男が麻薬に関係がなければ万々歳じゃないですか!男は金が欲しい、女は地位が欲しい。利害一致の万々歳ですよ!」
「何が万々歳だ!最低だぞ、お前!あっ!」
「あっ!!!」
リディアナが連れられていく。ご丁寧なことにあの男が腰に手を添えて彼女を誘導しているのだ。これはまずい。そう思った束の間、彼女たちの前に見覚えのある太った男が立ち塞がった。
「あれ親父さんじゃないか?」
「…」
ここに来て、リディアナの父登場。あまり嬉しそうな顔をしていないが、そういえば元々ああいう顔なのだった。とは言え、リディアナの相手に多少、不満があるのだろうか。笑顔一つを見せないまま、彼らの会話は始まった。そして、キョロキョロと周りを見渡している。何かを探すような素ぶりだ。
「おい、あれ、お前を探してるんじゃないか?」
「…ですよね」
「ですよね、じゃない。行ってこい」
「えー、昨日あんな事があったのに?それに私がリディアナの執事だってバレたらあの2人の関係は絶対崩れますって。囮作戦だって—」
「馬鹿な事言ってないで早く行け。お前、あの子の護衛も兼ねてるんだろうが。あの親父さん、間違いなく怒らせると面倒なタイプだぞ。自分の仕事はきっちりやれ」
半ば呆れて説教を垂れるルカ。その本気の顔を見てタスクも観念したようだ。
「…ちぇ。はいはい、行きますよー、だ」
タスクは渋々、ルカに押される形で柱の陰から飛び出して行った。
*
「遠い地からよくぞ参られた。マリア嬢」
ベリエルの第三王子フラマは遠方から来た貴族の令嬢に挨拶をした。
「この度はこのような素敵な会にお招き頂き光栄でございます。フラマ殿下」
「もうこちらの技術者たちとはお話されましたか?」
「ええ、とても有意義な時間を持つ事ができました。私たちもまだまだ学ぶことが沢山ありそうです。ただ、父と兄を連れてこれなかったのが本当に残念です。ここの方々とお話しすればきっともっといい研究ができるでしょうに」
マリアが残念そうにそういうと、フラマは肩を揺らした。
「ははは、ラインネル殿の事だ。きっとのっぴきならない事情がおありなのだろう。なんせ、宮仕えの技術者でありますからね。父君のような技術者をもつ、貴方の国は幸せだ」
王子の持つ赤茶色の瞳が細まる。マリアは少しだけ胸が締め付けられた気がした。
「いえ、そんな、買い被りすぎでございます。でも、父がその言葉を聞いたらきっと心から喜ぶと思いますわ。お褒めの言葉、ありがとうございます」
「いや、決して買い被りなどではないと、私は自負しているぞ。父君は立派な方だ。そもそも、この会は貴方の父君の言葉からヒントを得て開いたものだからな。礼を言うのは私の方だ」
「まぁ。この上ないお言葉。有難うございます。父に変わって感謝申し上げます」
マリアは腰を少しかがめて一礼をした。
「ふふ。宮付きでなければラインネルの家ごと私の国で雇ってるところだ」
「は?」
と、聴こえたのは空耳だろうか。苛立ちのこもった声。王子が視線を左側に動かすと、笑顔のマリアが素早く移動して立ちはだかった。その背後には彼女の執事が立っていたのだが、分厚いメガネのせいで彼の表情がうまく読み取れない。
「ええ、と、大変嬉しいお言葉なのですが、私たちは故郷を愛しておりますので…。でも、技術革新のお話でしたら大歓迎です。いつか、私の故郷とベリエルが協力して人々の為になる事が出来ればと願っております」
「うむ。尽力しよう」
「ありがとうございます。それでは、後の方もいらっしゃいますので、これにて失礼させて頂きます」
マリアは深く一礼して、笑顔を絶やさず、そそくさとその場を後にした。
*
そして、食事の長テーブルが置かれてる側まで来るとマリアは勢いよく振り返った。
「ちょっと、エドワード様!気をつけて下さい!貴方様は今、私の執事である事を忘れてはなりませんよ!」
小声で噛み付くように言う姿はさすが専属メイドである。エドワードに説教できる部下なんて、ルカと彼女ぐらいだろう。
「仕方ないだろう。あいつ、ラインネルを雇うってふざけた事を—」
エドワードは目線を逸らして呟くように不満を言う。この青年は昔からこう言うところがあるのだ。頭もいいし、商売の才能もあるのに、ちょっとやな事があると、こうやって不貞腐れた子供のような顔をする。マリアには見慣れた光景だった。
「冗談で仰られたのですよ。それぐらい分かってますよね?そう言うところ、本当にお子様なんですから」
マリアはため息をついて、それからすぐ後悔した。エドワードの両目が真っ直ぐこちらを向いていたからだ。それは彼が機嫌が悪い時に見せる表情だった。いくら気の知れた仲で慣れてるとは言え、エドワードにこう言う目で見られると流石のマリアも冷や汗がでる。少し、言い過ぎただろうか。そして、彼の口が開かれた。
「……冗談でも、嫌なものは嫌だ。ラインネルは我が国の宝であり誇りだ。この国には渡せない」
ところが、彼から出てきたのは、怒りの言葉でも、マリアやベリエルを罵るような言葉ではなかった。マリアの不安をよそに、彼は大真面目にそんな事を言ったのだ。
「っ…」
(本当にこの方は…!!)
この間抜けな瓶底眼鏡の奥にある緑の瞳が一層綺麗に見えた瞬間だった。
マリアは言葉に詰まり、少しだけ頬を赤く染めた。全くずるい男である。よくもまあ、そんな事を恥ずかしげもなく、真剣に言えるものだ。いくらお子様主人でも、こんな風に言われたら故郷から離れたくても離れられないでは無いではないか。深いため息が漏れると同時に緊張していたマリアの背筋も一気に解けて力が抜けた。
「…大丈夫ですよ。私も、父も、ラインネル家の皆、国のことも、もちろん貴方様のことも大好きですから。それは絶対あり得ません」
マリアは笑って、それからエドワードにシャンパンを差し出した。彼は渡された泡の弾けるそれをじっと見つめながら受け取る。
「…いいのか?僕は今、執事なんだぞ?」
「いいんですよ。私は今、貴方の主人なんですから」
エドワードは笑った。彼女には敵わないなと思いながら、シャンパンを口にしたのだった。
視界が金色に染まる。
いい酒だ。色も美しいし、なんといってもこの泡がたまらない。その美しい酒を味わいながら、その色を確かめるように、エドワードはじっとそのグラスを見つめた。
「ん?」
「どうされました?」
グラスの中のシャンパンを凝視するエドワード。次の瞬間、彼はグラスをテーブルの上に置いた。しかし視線は変わらず、先ほどまでグラス越しに見ていた場所に固定されている。
「…あいつなんであんなところに」
エドワードの視線の先にはルカがいた。柱の奥で何やら妙な事をしている。そして、ルカと一緒に誰かもう一人いるようだ。時折、誰とも分からぬ腕が柱から動いて出てくるのが見えるが、喧嘩、というか揉めているように見える。随分と動きが乱暴だ。そうして見ていると、あっと思って、そこから飛び出してきたのはルカ、ではなく、先刻見た、謎の執事の少年。良く良く見つめれば、それは、ルカが今、一緒に旅をしているあのタスクという少年だった。
(何でいるんだ!?)
開いた口が塞がらないとはこの事だ。そして、執事の格好をしたタスクはある人物の元へと歩いていく。どうやら、この国の実業家と何か問題を抱えているようだ。
「…行きますか?」
エドワードの脇に立ち同じ光景を見ていたマリアは、彼にそう尋ねた。
「そうしよう」
「はい」
*
「タスク、お前、一体どこほっつき歩ってたんだ!」
タスクを見つけて早々、パール氏は決まりの悪そうな顔をするタスクを怒鳴りつけた。
「す、すみません。お嬢様が私がお側にいると殿方が寄ってこないから邪魔だと—」
「ちょっと、私、そんなこと言ってないわ!!」
勢いよく頭を下げるタスクにリディアナ嬢は食い気味に否定する。すると、タスクは下げていた頭を持ち上げて、首を傾げた。
「あれー?そうでしたっけー?」
そんなふざけた会話を繰り広げる彼ら。「あいつ、とことん執事向いてないな」とルカは柱の裏で、その光景を呆れ顔で見ていた。
すると、あの男が動きを見せる。
「…お前」
おっと。案の定、奴はタスクの正体に気がついたようだ。
「…へへ、気づきました?」
振り返って、はい!どうだ!やっぱりだ!あの男だ!最悪だ。思った通り、ものすっごい笑顔でタスクを睨みつけている。
…ん?笑顔?
「お前、この令嬢の執事だったのか」
「これはこれは、昨日ぶりですね。僭越ながら臨時の雇われ執事をさせてもらってます」
お堅い笑顔に精一杯の笑顔で返すタスク。力が入り過ぎて頬の筋肉がつりそうだ。
「…リンドール様は我が使用人とお知り合いでいらっしゃるのですか?」
二人の会話を聞いて不思議に思ったのか、パールが尋ねる。だが、タスクは応えなかった。それが良くなかったのだろう。男の顔から笑顔が消え、やっぱりあの時と同じ怖い顔になった。
「ふん、今日は兄貴分はいないのか?」
「い、いや〜、ええーっと、どこかな〜な〜んて」
キョロキョロとおどけた顔で周りを探すふりをしながら、視界の端に捉えたルカは全力で首を横に降っていた。
「それはそうと、昨日の無粋な真似、謝ってもらおうか?」
「っ…!」
本題が来てしまった。パール氏の前で流石にこれはマズイ。パール氏は関係ないけど、タスクは今、パール氏の執事で、執事の失態はお家が…なんて事になったら大変である。それだけは絶対に避けなければならない。ならば、やる事はただ一つ。
タスクは全力で頭を下げた。
「すみませんでしたー!!昨日のご無礼は謝りますので、お許しください!でもパール氏は関係ないんです!私は今日雇われただけの身ですのでー!!どうか、パール家だけはお許しください!訴えるならどうぞ、この私だけを!!どうか!!どうか!!」
それはそれは、とても大きな声で、音楽やダンスや会話が、そんな色んなものが中断されてしまう程の大声でした。
「あんの、馬鹿野郎!」
一気に注目を集める彼ら。
流石にもうあの馬鹿だけに任せておけないと、ルカが飛び出そうとした時だった。
「どうされましたか?」
(はぁ!?)
紺色のシンプルなドレスが似合う女性が現れた。マリアだ。その背後にはエドワードが控えめに立っている。そう、控えめなはずなのに、瓶底眼鏡のせいで存在感だけは抜群であるという、妙な感じだ。
「い、いえ。大したことではないんです」
慌ててパール氏がマリアに弁明するが、すでに彼らは注目の的だ。周りではパールの噂をする声や、あの男、リンドールについて話す声が自然と飛び交う。ルカはその声に耳を傾けた。
「大したことないだと!?実業家風情が生意気な!貴族を何だと思ってる!?お前の陳腐な事業など今日にでも終わらせてやる!」
パールの何気ない言葉に腹を立てたリンドールは怒号を挙げた。怒りの矛先はいよいよパール氏本人へと向けられてしまう。
その声に驚いたマリアが慌てて再び止めに入った。
「お、落ち着きなさって。ここは王の御前なのですよ。込み入った話は別室で如何ですか?」
マリアが宥めるように諭すと、リンドールはひとまず言葉を飲み込んだが、表情は険しいままだ。一方、パール氏は相変わらずの怖い顔。…いや、もっと怖い顔になって、リンドールを睨んでいた。
「…陳腐、ですと…!?実業家風情…?あまり舐めないで頂きたい!!」
強く握るその拳は小さく震えている。どうやら、リンドールはパール氏の逆鱗に触れたらしい。
「私たちには爵位なんて大層なものはないが誇りはあるんだ。汗水垂らして、考えて、考え抜いて生み出してきた、ものづくりの誇りが!!それを、あんたに、馬鹿にされる筋合いはない!!」
「だ、旦那様…っ!?」
圧巻。それは魂のこもった叫びだった。
そこにいた実業家、誰もが共感してしまうほど、強い叫びだった。
しんと静まりかえるホール。すると、ある一人の技術者が同意の声を挙げた。
「そうだ!俺たちにだって誇りはある!」
そう叫び、パールへ向けて拍手を送る男が一人。すると、それを皮切りに、少しずつ、パール氏への同意の声が増えていく。もちろん、その中にはホリンズ社の二人の姿もあった。
「なんだこれ…」
何が起こったのか分からず、騒ぎの中心で混乱するタスクは成すすべもなく、周りをキョロキョロと見渡すばかり。その場にいた貴族たちも同様に、戸惑いを隠せずにいた。その時だった。会場に重く若々しい声が響き渡った。
「静粛に。ここは魔術と科学の交流の場所。喧嘩はおやめなさい」
その声に騒ぎ立てていた人々は皆一斉に静まり返った。人混みの中を掻き分けるように、かつかつと靴の音が反響する。その音がハッキリと聴こえてくるにつれて、小さな話し声も収まって行く。人々が自然と避けて、人垣ができ、道が広がっていく。その先には、あの鮮やかな赤い髪を持つ尊き人物が立っていた。
「これは、フラマ殿下…!」
その尊き人物が視界に入るなり、跪くパール氏。それに続けて、リディアナ、タスクも慌てて跪き、こうべを垂れた。もちろん、リンドールも。
「ここは争いをする場ではない。あまり騒ぐようだと帰ってもらうことになるが、構わないか?」
王子の言葉に城の衛兵が動きを見せたが、王子は咄嗟に彼らに止める様に手をあげる。
流石に、タスクやリンドールの額にも汗が流れた。
「も、申し訳ございません。この者の執事が私に無礼を働いた者ですから」
「リンドールか。して、そちら者は?」
王子の目線はパール氏へと移った。それを感じ取ったパール氏は跪いたまま、質問に答えた。
「はっ!シャバーヌ・パールと申します。会を乱してしまい大変申し訳ございません。直ぐに退散させて頂きますので、ど、どうか、お許しください」
あのパールの声が震えている。一体どんな応えが返ってくるのか。リディアナも父の様子に不安を積のらせていた。
「よい。先程のそなたの発言は私の耳にも届いていた。最もな事だと私は思う。ただ、リンドールの言う、礼儀礼節を弁えるのも確かに重要なことだ。して、その問題の執事というのはお主か?」
(ギクッ)
発せられた王子の声は思ったよりも優しいものだったが、今度は、王子の目がタスクに向く。
だが、タスクは跪いた状態から、顔を上げる事が出来なかった。
強い威圧感。声を掛けられた瞬間に体が固まる。タスクだけではなく、それを見ていたエドワードにも緊張が走った。
「お主かと聞いているんだ」
王子の声が鋭く、凄みのあるはっきりしたものに変わっていく。
「マリア」
「分かっています」
野次馬に混ざり側で一部始終を傍観する二人。エドワードはマリアに耳打ちをした。いざとなればマリアが王子をなだめるしかない。
そして、やっとタスクは返事をした。
「は…はい」
「…名は?」
タスクに詰め寄る王子。タスクは頭の上に王子の大きな気配を感じていた。
「…タ……タスクと申します」
絞り出すように声を出す。緊張で息が詰まりそうだ。
「家名は?」
「…え…あ、ありません」
「えっ…!」
誰かの驚いた声。途端に、場の空気が一変する。
「ちょっと…!」
「やだわ、卑しい下賤の者だったなんて!なんておぞましい!」
会場にどよめきが走った。一体何のことだか分からない。タスクはこの事態を飲み込めず、跪いたまま、ひたすら大理石の床と顔を合わせるばかり。
(しくじったーーーー!!!)
後悔先に立たず。どうやら、この国では家名を持たない者は平民以下、という扱いらしい。
(もっとこの国について調べとくんだった…もう!!適当に答えりゃよかった…)
だがもう遅すぎた。
「どこから拾ってきたのやら」
「家名を持たないなんて何て汚らわしい」
蔑む言葉がタスクにぶつけられ、城の衛兵たちがタスクを取り囲み、刃をその身に向けた。
(しまったな…)
こうして囲まれてしまった今、下手に動けば命を取られかねない。おまけにパール氏の面目は丸つぶれだ。事態は最悪である。
「卑しい奴隷を城にあげるなど…なんたる無礼!」
「所詮は下賤の者だな」
「穢らわしい!これだから成り上がりは!」
そんな言葉がパールにまでも向けられた。しかし、彼は咄嗟に立ちあがり慌てて弁明をした。
「お待ち下さい。確かに、彼は家名はないが奴隷ではない!その印は彼には見られなかった!!彼は遠く離れた異国の者なのだ!家名が無くとも不思議ではありません!!」
「ふん、今更、何を言っておるのやら。得体の知れない輩を連れこむような真似をするからこうなるのよ」
「お言葉ですが!!」
パールのその声はより一層強く響いた。
「彼は娘の恩人なのです。多少の言動に問題はあれど、今はうちの執事です。決して、そのように蔑まれるべきものではありません。」
(だ、旦那様…実はいい人…!!)
先程まで、タスクに対して怒っていたはずなのパール氏の言動とは思えない。タスクは跪いたまま感激していた。
「それでも得体の知れない者であることには変わりない!」
「そうだそうだ!」
「所詮は一般市民。貴族の真似事などするからこうなるのだ」
「リンドール様がまだ膝をついているというのに、先に立ち上がって、これだから平民は!」
「ほーんと、礼儀もなんにもしらないのだから。学のない人はこれだからね」
しかし、貴族からの嘲笑う声は止まらない。おかげで、タスクは余計に居た堪れない気持ちになったのだ。
こんな事態になってしまっているのも、全てタスクが招いた事。おまけに、いけ好かないと思っていたパールの旦那に貸しを作ってしまった上、奇しくも彼の好感度が上がってしまったのだ。
(…ちくしょう)
本当は、このまま、綺麗な大理石を眺めるだけで、この場をやり過ごすつもりだった。でも、こんないい人をほっておくなんて、後味悪すぎだ。
「…1つ!!私からも言わせて下さい!!」
タスクは意を決して、腹のそこから大声を出した。誹謗中傷がやみ、一気い注目が集まる。刃を向けられながらも、タスクは膝まづいたまま、続けた。
「…パール様はどこの誰とも知らぬ私を雇って下さった、とても御心の広い方です。私の主人を馬鹿にするような発言は例え貴族の方であっても許しません」
そうして、タスクは自分たちの右側に立っているある夫人を睨みつけた。タスクを奴隷と言い、パールを罵ったのは正にその彼女だった。
「まぁ!本当に野蛮。見て、あの目!まるで獣のようだわ。恐ろしい」
タスクに睨まれた夫人は、態とらしく周りの貴族へ助けを求めるように、すり寄った。持っていた扇子で顔を半分だけ隠し、変わらず、こちらに恨めしく蔑んだ視線を送り続けている姿は、なんと醜いことか。顔を見たら余計に腹が立ってきた。だからだろう。気付いたら思った事をそのまま叫んでいた。
「少なくとも貴女なんかより、パール氏の方が頭が良いですし、人の為になる発明や事業をしてると思いますが!!それに比べてあんたはどうなのさ!その服…やけに古いデザインだし、どうせ金目的の結婚相手探しで来たんでしょ!!」
「なっ、なんですってええええええ!!!」
顔を真っ赤にして怒る夫人。それに同調してタスクに罵声を浴びせる者もいたが、その周りでは少しばかり小さな笑い声も聞こえていた。してやったり。タスクは大声で笑ってやりたい気分だった。
「そなた」
綺麗な声だった。その一言でその場は再び静まり返る。王子に叱るように呼びかけられ、タスクは慌てて視線を再び足元に戻した。
すこしやり過ぎたかも知れない。そんな後悔、先に立たず、それから王子は跪くタスクにさらに詰め寄った。
「頭を上げろ」
「…」
タスクのこめかみに汗が滲む。
「顔を見せろと言っているのだ」
頭上から声が降ってくる。王子は跪くタスクを上から見下ろしているのだが、どういうわけか、先程よりもずっと重い気配がそこにはあった。それは、まるで、巨大な大蛇に睨まれているような、あるいは、大狼に今まさに食われようとしているのような、とにかく、抗えない強大な何かがそこにある感覚だ。これが、野生の弱き小動物の気持ちだろうか。それでも恐怖に負けそうになる心と戦いながら、タスクは恐る恐る顔を上げると、途端にその気配が消え、そこにいたのが人間だと知った。
「っ…」
なんと端正な顔立ち。近くで見れば見るほど、その赤い髪の美しさに目が当てられそうになる。タスクは言葉を失っていて、王子の手が伸びてきている事にまで、頭が回らなかった。
「…どことなく東の地の気配を感じる」
そして、その手はタスクの顎に優しく添えられた。
「へ?」
柔らかな手袋の感触に驚いて、タスクは思わず後ずさった。慌てたせいで、バランスを崩して尻餅をつく。ふと王子は屈めていた腰を再びまっすぐ伸ばし、おどおどとするタスクをただ見下ろした。
(瞳まで…赤、、火の色だ…!!)
そこには蔑む感情も、怒りの感情も感じられなかった。
「奴隷ではない。…薬?なるほど、旅をしているのだな?」
「え…いま、何て—っ」
何を言い出したのかと思えば、王子は爽やかな笑顔みせ、そして、その場の全員に聞こえるように声を張り上げた。
「そういう事だ。皆のもの、そう卑下する者でもあるまい。先ほどの発言も、リンドールに対する無礼も、この者にとっては執事としての仕事を全うしただけの事なのであろう」
「っ…」
予想外の光景に人々は再び言葉を失った。よそ者を王子が擁護した事実に皆驚きを隠せないでいたのだ。それはタスクも同じだったのだが、今この状況で彼の行動は有難いもの以外の何物でもなかった。
実を言うとリンドールの件は違いうのだが、余計なことは言わぬが吉であろう。せっかくのこの国の王子の好意であるし、あのリンドールも王子の気迫に気圧されている。恐らくだが、奴はきっと後ろめたい事があるから、これ以上、事を荒だてたくない筈だ。
となれば、あとは王子に任せよう。
(王子、ありがたやー!!)
「でもさっきどこの誰とも知れないって自分で…」
事態は収束したように思われた。しかし、そんな中、納得いっていないのだろうか、誰かがそんなことを言った。すると、王子は再びタスクを見た。彼はもう全て分かっているような、そんな笑みを浮かべていた。
「言葉の綾だろう。自分の身の上を述べるには便利な言葉だからな」
「…っ」
はい、とは言えなかった。タスクは呆気にとられていた。真実を見透かしている綺麗な赤い瞳が少しだけ恐ろしかった。
「その服、似合ってないぞ」
そう言って悪戯っぽく笑う王子。
「…へ?」
「そうかしら?可愛いと思ったのだけど」とボソリと言うリディアナ。聞こえてるのはタスクだけだ。先程まで震えていた割には根性のある娘である。タスクは一瞬だが、気が抜けそうになった。
「言動も全て執事としてはお粗末なものだな。山では学ばぬ勉強が必要だ」
「ぅ…」
ダメだ。やはり全部見透かされているらしい。この王子、やはり只者ではない。何者だろうか。「流石、王子」としか言いようがない。
「だが、せっかく来たのだから食事と会話を楽しんでいくといい。ははは」
王子は着ていたマントを大きく広げると、爽やかに笑って去っていった。
「…何あれ」
コツコツと王子の靴の音が鳴り響く。場は台風が去った後のように静まり返っていた。…一件落着、したのだろうか。まわりにいた衛兵達は納得いかない顔をしながら、刃を収め、誰かが声をかけて人々も散っていく。再び会場の音楽が鳴り始めると、何事も無かったかのようにそれまでの活気が戻ってきた。タスクは安全を確認すると、パールとリディアナに手を差し伸べた。彼らはその手を取ったが、当然、タスクはその後、物凄く二人に怒られた。
「…一件落着…でしょうか?」
マリアが首をかしげる。
「さぁ、どうだろうね」
エドワードはおもむろに、その場から外れるように歩き出す。マリアはその後を追った。彼が向かったそこは、先ほど、ルカが身を隠していた柱だ。
そして、エドワードは柱の前に立って、ため息を吐いた。
「どうされました?」
マリアが控えめに尋ねた。すると、エドワードは頭を掻いた。
「…いない」
*
街中にしては、綺麗な星空だなと思った。
「はぁ…」
タスクは城の庭のベンチに座っていた。王子からは出て行けと言われなかったものの、あの一件があってはどうも気まづく、「先に帰っていろ」とパールの主人に厄介払いされていた。とはいえ、荷物はパール家に預けてあるわけで、一人で屋敷に向かったところで中に入れないのは分かっている。結局、会場の外で待つしかないタスクは庭を暫く散策し、自然の中でぼんやりと気を休めていた。それにしても、さすが城の庭。広いし、綺麗だし、いい匂いだし、兎に角、最高だ。
「んー、精霊も喜んでるじゃないですか〜。ここの庭師はいい仕事をしますね」
「それはどうも」
突然の誰とも知れない返答に、ベンチに寝そべっていたタスクは勢いよく起き上がった。そこにはこの国の騎士が一人。そういえば、さっきの一件で王子の背後に立っていた人物もこんな顔をしていた気がした。
「フラマ殿下がお呼びです。一緒に来てくださいますか?」
体格のいい彼はどう見ても、それなりに位の高い騎士である事は分かった。あんな事があった後に、王子個人に招かねるとはどう言う了見なのか。なんだか嫌な予感しかしなかったが、断るわけにもいかない。あんな騒ぎを起こしてしまった手前もあるが、気になることもあった。
「……分かりました」
そうして、ぶっきらぼうな硬い表情を浮かべる騎士に案内され、たどり着いたのは、城の中の広くはない一室だ。壁にはたくさんの本と、部屋の中央にはテーブル。向かい合うようにしてソファが置かれている。その奥にはこの部屋の主が使っているであろう大きな机。その後ろの壁にはまた一つ、扉があった。どれも装飾は凝っていて豪華絢爛な雰囲気を醸し出している。なんだが居心地が悪かった。
(息がしづらい…一体何なんだろう)
その時、部屋の奥にある扉が開いた。そこから、先程の様子とは打って変わって、柔らかな笑顔の王子が現れた。
「やあ。来てくれたんだね。嬉しい。」
心なしか、口調も穏やかだ。いわゆるオフモードなのだろう。タスクは内心「お前が呼んだんだろ」と思いつつ、やっぱり断っても問題なかったのかと、少しばかり後悔した。とはいえ、来てしまったものは仕方ない。タスクがここに呼ばれた理由は何なのか。この状況は良いのか悪いのか。色んな不安が渦巻き、混乱しそうになる頭で考えを巡らせていると、王子はまた笑った。
「ぷっ!なんだい、その顔。まぁ、座りたまえよ。少し君と話がしたかったんだ」
「あ、ああ、はい」
タスクはぎこちない様子で、恐る恐る、王子に向かい合うソファの端っこに、縮こまるようにして腰を浅くかけた。
そんな遠慮がちなタスクを、王子はキョトンとした顔で一部始終を見守ると、また笑い飛ばしてきた。
「…ははは、君、面白いね。そんな端っこじゃなくて、私の前に座ってくれよ。旅人に身分は関係ないだろう?」
タスクは目を丸くした。
「…不思議なことを言いますね。というか…バレてるんですね」
「まあね。君の手をみたら分かったよ。…ああ、お茶は私が入れよう。もう下がってくれ」
(手ェ〜?…やばいな、この王子)
王子はメイドを下がらせ、扉が閉まるのを確認すると、席を立ち、カップを二つ用意した。それから慣れた手つきでお茶の準備をし始めた。カップに注がれた紅色の茶は白い湯気を登らせる。
部屋には王子とタスクの二人だけだった。
「さぁ、どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
暖かく、ほっとする香りのする紅茶だった。毒は入っていないみたいだ。
「…頂きます」
「…で、その格好、自分的にはどうなの?」
紅茶を飲むタスクを見守るようにして、王子は尋ねてきた。まさか、わざわざ呼びだして、服装の話をされるなんてタスクは思ってもいなかったので、タスクも肩の力が抜ける。そして、飲みかけのカップをテーブルの上に置いた。
「…窮屈で慣れません。殿下の言う通り、執事は向いていないと思います」
「はは、そうだね。その通りだと思うよ。どうする?着替える?動きやすいほうがいいかな?」
「いえ、そこまでして頂かなくても結構です」
まさか本当に冗談を言うために呼び寄せたのだろうか。半ば呆れながら断るも、王子はまた一つ提案をしてきた。
「ドレスとかもあるけど」
「…え?」
聞き間違いかと思ったのだ。
「君には赤が似合うと思うんだけどな」
「なっ!?」
「嫌かい?」
笑う王子。タスクは口がうまく回らなくて言葉に詰まった。
「…冗談はよして下さい」
「そうか、残念だなぁ」
本当に冗談なら良いのだが、その真意は結局分からずじまいだ。なにせ、この王子、表情からはうまく感情が読み取れないのだ。こうして優しそうに笑ってはいるが、絶対なにか裏がある筈。でなければ異国の旅人と分かっていながらタスクを呼び出すなんて事、するわけない。少なくとも、タスクはそう思っていた。
「あのぉ…何かお話があって呼んだのでは?」
「んー、」
すると、王子はカップをソーサに置き、おもむろに胸ポケットを探り始めた。そしてでて来たのは紺色の布に包まれた何か。
「?」
広げていくと、王子の手には見覚えのあるタバコが握られていた。
「それ」
昨日、よく似たものをリンドールが吸っていた。
「おや、見たことがあるみたいだね」
だから何が言いたいのか。王子はタスクに微笑む。何か変だった。あの時、城の広間で感じた威圧感。体が動かなくなる感覚だ。ふと、王子の目が黄金色に染まっている事に気がついた。
「最近巷で流行ってるんだ。吸えば強い幻覚を見せる。人を鬱状態から救い、一時的な快楽を与える。依存性も高く、効果が切れると禁断症状がでる。常用して使えば廃人として生きることになる」
王子は立ち上がった。そして、タスクの背後へとゆっくり移動する。タスクは逃げようと咄嗟に立ち上がろうとした。
「っ!?」
だが、体は何かに縛られているように、ピクリとも動かない。王子の手がタスクの肩に触れ、もう片方の手で、タバコを見せつけるように、タスクの顔の前に差し出した。
「一見、よくある麻薬なんだけどね。他とは違う特別な効果があるんだよ。吸えば“あちら側”の世界に行く事が出来るらしい」
「あ、あちら側?」
「君なら分かるだろう。ここと重なるもう一つの世界。人ならざる者たちの世だ」
王子の手にあったタバコが突然、炎を上げて燃え散った。わずかに残った燃えかすが、王子の手からこぼれ落ちる。
「…あなた!魔法使い!?」
「違う。あんなのと一緒にしないでくれ。失礼だぞ」
「失礼って……なら、妖精?それとも悪魔?…何でもいいけど、そう言う類のものならその体から早く出て行って!…っ!?」
咄嗟に立ち上がろうとして気がついた。体が全く動かない。金縛りにあった時のような息苦しさを覚える。
「その言い草だと…君は退魔師の仕事でもしてるのか?ふむ…まぁ、何でもいいさ。タバコの出所さえ分かればいいんだ。知ってる事、全部教えてくれ」
王子は手の上の灰を払いのけながら言った。
「残念ですが何も知りません。あのリンドールって貴族が吸ってるのを見たぐらいです」
「奴が絡んでるのは知ってる。奴は今の仲介役だ。奴の前はまた別の貴族や資産家が絡んでいた。あいつは今泳がせてるんだよ。恐らくこの件には魔術師が絡んでる。こんな妙なもの作れるのは、連中ぐらいだからな」
「なら、私は違います。私は魔術なんて使いませんし、犯人でもありません!!」
苦しい体で声を絞り出す様に答えたら、次の瞬間体に衝撃が走った。
「では何故、精霊を寄せ付けない薬を飲んでいる!?魔術の痕跡を消す為だろう!!違うのか!?」
耳元で刺さる怒号。揺さぶられる肩。タスクは恐怖と驚きで頭が真っ白になった。タスクしか知らないであろう事実をこの王子は知っている。言葉が詰まった。
「それはっ…!」
その時、部屋の扉が勢いよく開いた。
「殿下!取引の現場で不審な人物を捉えました!」
「連れてこい!」
「はっ!」
廊下の奥から鎧の擦れる音が聞こえる。捕まったという不審な人物はよほど抵抗しているみたいだ。時折、「早く歩け」と兵士の声が威圧的に響いた。そして、遂にその人物は姿を現した。
「…ルカさん!?」
*
「…なるほど、この男も気配が薄い。君達グルだな」
「なんだ?気配が薄いって?存在感ないって意味か?」
「そんな、ルカさんが存在感ないとか…どの口が言ってるんですか」
両手両脚を縛られて王子の前に座らされる二人。ルカが捕まったせいで、タスクまでついでに縛られる羽目になったのだ。なんだか、随分と豪華な尋問を受けている気分だが、油断はできない。どうして、こんな時に限って、ルカまで捕まってしまうのか。全く何がどうしてそうなったのかタスクにはさっぱりだ。
「……もしてかしてですけど、ルカさん、私の薬飲みました?」
まさかとは思うが、人のものを勝手に飲むような奴ではない筈。それに以前も、彼はタスクの薬のせいで、こっぴどい目にあってるのだ。これで飲んでたとしたら、呆れるほかない。
「…いや」
少し考えてから首を振るルカ。しかし何か怪しい。タスクの持っていた薬で、精霊避けになるようなものは、やまびこの亭主にもらったあのひと瓶だけだ。とすれば、どこか違うところで何か飲んだか。タスクが睨むと、ルカは気まずそうに教えてくれた。どうやら心当たりはあったらしい。
「あー…なんていうか、頭がスッキリするような薬、みたいなのは飲んだというか、飲まされたというか…」
「はあ?なんで、こんな時に…」
一体どこでどうやってそんな物手に入れたんだか。しかも、少なくとも魔法が掛かってる薬だ。ただの薬屋で手に入れた訳じゃ無い事は確かだろう。ともあれ、色々聞きたい事はあるが、今はこの状況だ。隣のルカは役立たず。それどころか彼のせいで悪い状況に拍車がかかった。全く、ルカに対して恨めしい思いが一層募ったが、こうなったら自分でこの状況を打破せねばならない。
「兎に角、私たちは犯人じゃありません!と言うか貴方みたいな得体の知れない人に疑われる筋合いありません!!」
王子に向かって怒鳴り散らすと、後ろの衛兵がタスクに刃を向けた。すると、王子は眉一つ動かさず、片手で辞めろと合図を送る。そして、衛兵の刃が収められると、彼は真剣な面持ちで話を進める。
「では聞くが、仮に、君達があの麻薬の製造に関わっていないとして、何故、精霊を寄せ付けない薬を飲む必要がある?」
「精霊を寄せ付けない薬…?なんだそれ?」
「…」
ぽきっと折れる話の腰。王子とタスクは同時にルカに視線を向ける。彼はキョトンと目を丸くしていた。
「惚けたって無駄だぞ」
「いえ、殿下。彼は本当に知らないと思います」
「…なんだよ、タスクまで」
睨むと王子に、呆れるタスク。流石のルカも何か気まずさを察したのか、様子を伺うようにして取り繕うように説明をしはじめた。
「…なんだかよく分からんが、俺は不可抗力で飲まされたんですよ。よくない者に取り憑かれて頭おかしくなってるかもしれないから飲めって」
「なにそれ…」
まさかそんな事だとは思わなかったと、隣のタスクの顔から力が抜ける。正面からは王子がさらに尋ねる。
「誰に?」
「知らない奴らですよ。顔は見ませんでした」
「嘘だな」
食い気味に王子が言った。流石にその王子の傲慢な態度にはタスクは腹を立て、ムッとした。しかし、王子は更に確信に迫ろうとする。
「私の前で嘘を付くのは無駄だぞ。正直に言え。誰に飲まされた?」
「だから、知りませんって」
「…往生際が悪いな」
「…知らないものは知らない。それだけですよ」
ルカはそれから口を噤んだ。彼はこうして黙っているが、タスクには心当たりがあった。考えられるとしたら、薬を飲ませたのはルカの言っていた雇い主だろう。彼はきっとその雇い主を守ろうとしているのだ。だが、この状況では彼に出来ることも、自分に出来ることも何も思い浮かばない。
「ルカさん…」
「…」
声をかけても反応がない。ルカはただ難しい顔をしていた。
すると、それに痺れを切らしたのか、王子が片手をあげ合図を送ると、後ろにいた衛兵がルカの上着を襟元から思いっきり引っ張った。
「な、何をするっ!!」
「紋章があります」
咄嗟のことだったのでルカは抵抗する間も無かった。おまけに複数の衛兵に刃を向けられていて、完全に身動きが取れなくなった。
「どこの家のものだ?」
「これは…分かりません。我が国のものではない、と思います」
実に主人に忠実そうな衛兵だ。王子はその返答を聞いてすぐ立ち上がり、ルカの背後へと回った。
そして、ルカの襟元を確認するなり、驚いた顔を見せた。
「…ラインネルの者か?」
「これは盗んだんだ。俺はただの旅人だ」
「…旅人ね」
なんだか王子が自分にも、そう言っているような気がして、タスクは居心地が悪かった。怖くて振り返ることが出来なかったが、目の端で王子の様子を伺うと、王子はすこし考えているようだった。それから、隣にいた衛兵に声をかけた。
「マリア嬢を呼んで、確認してもらおう」
「は!今すぐ!」
衛兵が廊下を駆けて行く音がこだまする。王子はそれを確認すると、ルカと再び向き直った。
「何故捕まった時にすぐ言わない?」
「…俺は招かれざる客なのに、いちいち自分からなんでも喋ると思います?」
ルカの反抗的な言葉に、衛兵が彼を縛る縄を強く引っ張った。きつく鈍い痛みがルカを苦しめる。痛みをこらえるルカに、王子は冷ややかな目線を浴びせた。
「…つまり、君が取引の現場にいたと言うことは、ラインネル殿もこの件に一枚噛んでいる事になるが、その見解で間違いないか?」
どうやら彼はルカの言い分なんて聞く気がないらしい。強引に話を進めようとしている王子に、ルカは必至に反論した。
「…だから、ラインネルなんて知らない。この服はこの城に忍び込むために手に入れたんだ」
「…ラインネル殿は宮仕えだったな。もしや、彼女の国の政府も絡んでるのかい?」
「…俺が知るわけないじゃないですか」
王子は頬杖をついてルカを真っ直ぐと見つめる。この状況はルカにとって苦しいものだった。
「嘘は良くないぞ」
その言葉とともに、ルカは王子から目が離せなくなってしまった。気がつけば体を全く動かせ無くなっていた。
「なっ…くっ…!!」
おまけに呼吸まで苦しくなる。吸えないし、吐くこともできない。突然周りの空気が薄くなったかのような、そんな息苦しさの中、彼の赤茶色の目に吸い込まれる感覚に陥った。
「うう…っいき…が…!!」
そんな呻き声が、ルカの背後でも聞こえた。その時だった。
「やめて下さい」
凛と響くタスクの声。途端にルカを縛っていた謎の体の硬直が溶け、ルカは途切れた息を一気に吐き出した。その背後では兵士が一人倒れて、荒い呼吸を繰り返していた。どうやら、彼もまた、先程までルカと同じような状況にあったみたいだ。
何が起きたのかは分からない。でも誰のせいか分かっていた。ルカは怒りから王子を睨みつけたが、彼の視界には、ルカなど微塵も入っていないようだった。
「…なるほど、薬の効果が切れ始めたな。君の姿がよく見える」
その言葉はタスクに向けられたものだった。王子は澄ました顔でそう言う。
タスクは黙って王子を睨み返していた。今すぐにでも、端正なその顔を殴りたい衝動に駆られたが、両手両足は縛られているし、立ち上がろうにも妙な力が働いて、すぐに座らされてしまう。成すすべが無い。
その時、扉をノックする音がした。
「お連れしました」
「入れ」
開けられた扉の前に居たのはタスクも見覚えがある人物だ。先ほどのリンドールとの口論の際、止めに入ってくれた上品な女性だった。
「あ、さっきの…」
「…ああ」
来てしまった。ルカはそう思ったが、一番に目に入ったのはマリアの後ろのエドワードだ。すごい形相だ。ルカは血の気が引くのを全身で感じた。
「…これは」
「やぁ、マリア嬢。先ほど、良からぬ取引をした現場を押さえてね。捕まえた人物が、君の執事の服を着ているのだけど…間違いないかい?」
王子の言葉を聞いて、マリアはこちらを見た。その顔はとても青ざめている。
「っ…」
凍りつくような沈黙。ルカの額から汗が流れた。
(マリア。頼むから…違うと言え)
そんなルカの願いも虚しく、マリアは何も言わず、ただ困惑した表情を見せた。これでは肯定しているも同然だ。すると、急にマリアの背後にいたもう一人の執事が部屋の中にズタズタと入り込んで来た。衛兵が止めるのを無視し、彼はルカの前に立ちはだかった。その彼はルカと同じ執事用の服を身に纏っていた。
(うわ、すっごい瓶底眼鏡。ん?…なんか、どっかで見たような)
タスクがそんな事を思った次の瞬間。その彼は、ルカの胸ぐらを掴み、無抵抗の彼を問答無用で投げ飛ばした。
「ええ…!」
隣にいたはずのルカが突然消え、タスクは身震いした。ルカが吹っ飛んだ先には本棚があり、大量の本が雨の如く彼の上に降り注ぐ。あれは痛いと誰もが思い、マリアは思わず目を背けた。
「この大バカもの!!マリアに恥をかかせるなど!貴様はクビだ!!」
今度はルカに殴りかかろうとするもう一人の執事。流石に衛兵が割って止めに入ったのだが、抑えられながらも彼は凶暴な犬のように唸り声をあげてルカを睨みつけている。あんな瓶底眼鏡がまさかこんな大胆な行動に出るとは、その場の誰もが想像していなかった。すると、マリアがやっと口を開いた。
「あ、あの!!どうか、彼をお許しください。彼は犯人ではありません」
王子に必死に訴えるマリア。そんなマリアを王子は冷たく見下ろした。
「何故そう言えるのです?あなたの執事だから?」
「いえ、それもありますが、彼は単に私の命令で調査をしていただけです。それに、彼が実際に麻薬を取引をしているところを見たのですか?」
「…何故"良からぬ取引"が麻薬だと分かったのです?私はそんな事一言も言ってませんが」
「っ…!」
マリアはまた言葉を失った。
「ちっ」
この男は何が何でもマリアたちを犯人に仕立て上げたいらしい。そう思うと、なんとも言えない怒りが込み上げてきて、タスクの体に力が入る。ひと暴れしてやりたがったが、やっぱり縄は解けなかった。
「…よせ。マリア嬢は犯人じゃない。そして俺も」
その時、呻くような声が会話に割って入ってきた。両腕を縛られながらも、本の山から這い出ようとするルカ。その姿はとても痛々しいものだった。
「容疑者の発言など信用できませんが。すぐバレるのにつまらない嘘までついて、一体何がしたかったのですか?マリア嬢との関係も隠そうとしたのは、後ろ暗い理由があるからではないのですか?」
ルカは痛みに耐えるようにしてなんとか起き上がり、本棚にもたれかかった。すると、彼の周りにに散乱していた本の山がまた少し崩れる。
「…っ…その件については謝ります。申し訳ない事をした。出来れば、マリア嬢をややこしい事に巻き込みたく無かった」
「戯言を抜かすな」
王子はルカを冷たくあしらった。なのにルカは、笑顔を見せたのだ。そんな状況じゃないだろうに、彼はどこか安堵しているようにも見えた。
「で…もう済んだか?エド?」
無理に笑おうとするその顔には、痣ができていた。その痛々しい顔を見て、エドと呼ばれた猛犬は唸るのをやめ、その問いかけに静かに頷いた。
そして、彼は衛兵の腕を振り払うと、凛とした姿勢で、フラマ王子に向き合った。
「フラマ王子。まずは非礼をお詫びします。申し訳有りません。そして、どうか主人に代わり弁明させて頂きたい。私はラインネルの正式な執事、エドワードと申します。それで、そこのバカは日雇いの臨時です」
「ほう?随分と下手な執事を雇ったものですね」
王子の嫌味に執事、エドワードは「ああ、本当に」とあっさりと躱し、続けた。
「それで、ここに我々がきた目的ですが…これでございます」
エドワードがポケットから出したそれは、親指ほどの小瓶だった。中には、粉クズのような物が入っている。タスクは首を傾げたが、フラマ王子は何か気がついたみたいだ。
「ここ1、2年、私たちの国でも妙な麻薬が流行りだしましてね。それで、調査を進めるうちに、その一部はこの国から流れて来ているらしい事が分かりました。それで、ラインネル様がこの会合にご招待に預かったこの機に乗じて、こうして少しばかり様子を伺っていたと言うわけでございます」
「…」
王子は黙って彼の説明を聞いていた。それから、エドワードは冷たい視線を本の山に紛れる彼に送った。
「そこの阿呆は、先ほども申し上げた通り、ラインネルに正式に使えるものではありません。全くあれ程、お嬢様に迷惑をかけるなと申したはずなのに、このザマ。お恥ずかしい限りです。大方、怪しい奴を追ううちに、その現場を見つけたは良いものの、勘違いで捕まってしまったのでしょう。で、ルカ、お前、そいつらの姿は見たのか?」
「…ん、ああ、あの場にいたのは全員5人だ。貴族らしい奴に、あと女も混じっていた。でも、顔は見てない。あんたらが来たせいで、全員に逃げちまったしな」
衛兵に精一杯の嫌味を込めてルカが笑いかけると、彼らは苦い顔をした。空かさず王子が答えた。
「それは今追わせてる」
「そうですか。なら彼の言っていることが本当だと分かるでしょう。真犯人を捕まえる事が出来ればですが」
一国の王子を前にして、堂々と語るエドワードの姿は、もうただの執事と言うにはあまりにも堂々とし過ぎていた。どう見ても彼からはそれ以上の気品や強さが溢れ出している。タスクは一体この人物は何者なのだろうと、不思議に思わずにはいられなかった。そう思ったのはタスクだけではなく、周りの衛兵たちも彼の言動に圧倒されていた。
だが、フラマ王子も負けていない。流石、王子の品格とでも言うのだろうか。彼は一切動じることなく、静かな声でエドワードに質問を続けた。
「それはそれとして、調査をしたければ正式な手続きを踏むのが筋であろう。何故そうしなかった?コソコソと嗅ぎ回る様な真似をして失礼極まりない。君たちこそ、麻薬取引の犯人ではないのか?」
王子の主張は最もだ。下手な返しをすればタダでは済まない。緊張でマリアの乾いた喉がなる。
だが、エドワードは変わらず毅然とした同じ態度で続けた。
「大変失礼である事は重々承知しておりますが、元より我々はこの事態を取り締まる為にきたのです。先ほども申し上げましたが、残念ながら、麻薬の出所は一つではありません。その可能性の一つとして、我々はこの国へ参上したのです。しかし、公的な手続きを踏んだ上での『麻薬調査の為の入国』となりますと、その要求そのものが、そもそも不躾であり、実際これまでも何度も断られています。そちらでも調査をされているようですが、その結果については音沙汰なし。現状を伝えられないまま、調査中の一点張り」
「当たり前だ。そう簡単に国の情報は教えられない」
「おっしゃる通り。しかし、このままでは、我が国の廃人が増える一方である上に、この問題が悪化すれば貴国との交友関係にも傷を付けかねません。それはお互いにとってもあまり良い事だとは思えませんが、如何ですか?」
その問いかけにフラマ殿下は応えなかったが、顔を歪ませた。
「…」
「だから、今回はこうして、マリアお嬢様を利用して、忍び込むような方法を取ったのです。お気を悪くさせてしまい、大変申し訳ございません」
「…」
(…なんか、マジっぽいけど…逆にそこまで喋っちゃって大丈夫なのかな…?いや、でも別の目的を隠す言い訳のようにも聞こえなくもない…)
心配するタスクの目の前で、エドワードは王子に向かって浅く頭を下げる。言葉で謝罪は述べたものの、挨拶程度のつもりなのだろうか。それとも、他国の王子に服従する気は無いという意思表示なのだろうか。とにかく、ラインネルの執事のその態度はこの国の衛兵には極めて不評だったようだ。その中の何人かは眉を潜めて、彼を睨みつけていた。
「なるほど。理由は分からなくもないし、私が君達の立場なら同じ事をしたかも知れない。…が、話にならないな。君達が麻薬の取引をしていない証拠としては些か不十分であるし、何より、そこの男には疑いがかけられている。どちらにせよ、君達がここいる理由に問題があるのだから、然るべき罰を与えなければならん。タダで返すわけにも行くまい…。もちろんそこの小さい旅人もだ」
「っ!」
王子の言葉にタスクは目をかっぴらいた。黙って話を聞いてれば、ルカの問題にタスクまで巻き込まれてるではないか。いや、首を突っ込もうとしたのはタスクだけども。話がどんどん面倒な方向へと進んでいる。
(あーあ、何やってんだろ…うげぇ)
刃をタスクたちに向ける衛兵隊。顎に手を当て考える王子。部屋の明かりを反射する鋭い刃を見て、本格的マズイのではないだろうかとタスクは焦り始めた。
牢屋に入れられ、終いには処刑されるなんて事にならない保証がない。もしくは、捕まった時点で犯人に仕立て上げられ、王権争いの業績を上げるために使われたり、ルカ達の国に賠償金求めたり、国挙げての裁判になったり…どちらにせよ最悪の場合は死刑。なんて考えていたら切りがなかった。
(ヤバイ…打つ手がない。どうしよう!)
緊張が走る中、そして、ついに、王子の口が開かれた。
「ここはひとつ、協力してもらおう。っていうのはどうだい?」
「……え?」
「は?」
「なっ」
「…」
耳を疑った。驚きのあまり、固まる一同。戸惑いを隠せず、マリアは王子に尋ねた。
「今何と…」
「一体、どういう…」
つもりだ、とタスクが聞く前に彼はまた続けた。
「だから麻薬の売買の犯人探し、協力して捕まえないか、と言ったのだ」
先ほどまで、マリア達を犯人にしようとしていた人物の発言とは思えないほどの気まぐれっぷり。みな口をあんぐり。話について行けていなかった。
「もし、さっき君が言った事が全て事実なら、そちらの方が都合がいいだろう?」
王子はエドワードに向かってニヒルに笑う。
「…」
「これは君たちにとってもチャンスだと思うけどね」
「それはそうですが…」
一体どういう風の吹きまわしか。表向きには調査をさせてくれなかったのに、どういうことなのだろう。彼の真意が読めなくて渋っていると、王子は小首を傾げるように付け加えてきた。
「いいのかい?私たちから信用を得れば、今回の事は不問に留めてあげることも出来る。ご主人の事、大事なんだろう?」
「っ…」
固唾を飲んで見守るマリア。エドワードと王子、二人はずっとにらみ合っていた。
*
城での会合も終わり、今日来ていた参加者のほとんどが自身の帰路に着いた頃だった。
城の部屋ではいよいよ、作戦会議が始まろうとしていた。
「では、ラインネル殿はこちらへ」
「ええ、お二人とも、どうかお怪我をなさいませんよう」
衛兵に連れられていくマリア嬢。その顔は不安気な表情を浮かべていた。
「任せてください。お嬢様はゆっくりお休みになって頂いて大丈夫ですので」
ルカとエドワードは彼女にそんな言葉をかけて、彼女の後ろ姿を見送った。
あれから、なんとか冤罪をかけられるという最悪の事態は免れたのだが、どういうわけか、その代わりにフラマ王子と共に麻薬を取引している犯人を追う事になってしまった。
そういうわけで、女性であるマリア嬢だけは、疑いが晴れるまでは城の客室で休む事になったのだった。要は人質である。おまけに彼女はベリエル国外の貴族だ。王子も手厚く持て成すと言っていたし、酷い扱いは受けないだろうが、なんとしても疑いを晴らさないと、国家間の交友関係の問題にも関わってくる。
エドワードとルカ、彼らの目は真剣そのものであった。
「で、具体的に我々はどうしましょうか?麻薬を取引してる奴らの目星は付いているのでしょう?」
エドワードが王子に尋ねた。
「貴族の中に一人な。仲介役で、リンドールという男がいる」
聞き覚えのある名前。タスクとルカは互いに顔を見合わせた。
「もう奴には既に見張りをつけていて、宿も押さえてあるから、妙な動きがあればすぐに連絡が入る」
「なら、このバカが見た5人の方はどうです?」
さらっと悪口を混ぜるエドワードにルカはムッとしたが、エドワードはそれに目もくれない。
王子がある一人の騎士に目配せをすると、その騎士は首を横に振った。
「申し訳ございません。全員、見失ったようです」
エドワードは肩を落とした。
「…そうか。まぁ、仕方ない。ほかに怪しい奴はいないんですか?」
「怪しい奴なら街の中心街から外れた所に行けば大勢いるが、何分決定的な手かがりが少ないんだ。麻薬と関わりのありそうな奴をその中から地道に見つけ出す他無いだろうな」
「…」
なんだか不毛な話し合いだ。タスクは溜息をついた。こんな話し合いをした所で一体何になるのか。馬鹿馬鹿しくて聞いてられなかったが、目の前の王子は真剣そのもの。
(…真面目だな)
おそらく王子はただの人間ではない。しかし、こうしてエドワードやルカたちと話していると、彼ら以上に彼はまともに見えてくる。国の問題を解決しようと懸命に考える青年。いかにも出来た王子像である。
「…」
タスクは悩むのをやめた。今はこの事件に向き合うべきだ。それに、マリアにはタスク自身恩がある。それに、どうもこの麻薬の件に関しては魔術師が絡んでいるようだ。
(…タバコに魔術を組み込むなんて、一体どこのどいつなんだか)
どんな奴かどんな魔術か見極めなければならない。特に人に害をなしている魔術なら、尚更だ。
「あのぉ、そのタバコの中毒者の記録とかあります?」
「…ああ、一応あるが…」
妙に思われたのか、王子の眉が少し動く。当然だろう。タスクは控えめに理由を述べた。
「いや、私、薬学を勉強してる身でして、少しどんな成分が入ってるとか、症状に興味がありまして…」
「…確か資料は全部薬学室に戻したはずだな?」
王子が騎士に視線を流すと騎士は頷いた。
「ええ、またお持ちしますか?」
「ああ、頼む…あ、そうだ。もし薬学長がいたら、そいつも連れてきてくれ」
「承知しました。少々お待ち下さい」
指示をされてひとりの衛兵が部屋を出て行く。
そうして数分後、呼ばれてやってきた彼女は、少し燻んだ金髪をグルグル巻きに絡まらせた小汚い細身の薬師だった。
「ふへー、なんです?何ー?今良いところで…はっ!おうびさま!!」
ビックリしすぎて噛んでしまったらしい。なんと間抜けな。女性というよりは、まるで子供のような立ち姿。なんだか呆れたものだが、タスクは不思議と嫌いには慣れない、妙な親近感を感じていた。
(いかにも、薬師…っていうか、研究者って感じだなぁ…)
研究の途中だったのか定かではないが、彼女の白衣は汚れていて、おまけに何日徹夜したのかと思う程のクマが目の下に、くっきりと出来ていた。そして、彼女の後ろには大量の書類のタワーを慎重に運ぶ傭兵が不服そうな顔をして立っている。時折バランスを崩しそうになって、「おっとっと」と、声を漏らしていた。
「ラファ、疲れているところ悪いが、例のタバコについて分かっている事を教えてくれ」
王子が命令すると、薬師は緊張しているのか、ズレ落ちた眼鏡を慌てて掛け直した。
「ああ、ひゃい!えぇー、とっ…まずあのタバコにはごく一般的なタバコに使われる、、まぁ、タバコの葉ですね。それと別に、これが」
「…なんですか、これ。砂?」
彼女が持っていた透明の試験管には黒い砂が入っている。そして、もう片方の手には黒い塊。それはとても艶のある石だった。
「このベリエル鉱石を、こんな感じで細かくすり潰したものが極わずかですが入ってるみたいです。これそのものには毒性はありませんが、タバコと組み合わせると作用するようで、現時点で、分かっているのは、吸えば強い幻覚作用と快楽依存を引き起こす、という事です。幻覚作用が切れて暫くすると、禁断症状が現れます。強い倦怠感、論理的思考の欠落、強い渇望感から攻撃的になる者もいますね。最終的には廃人になる。という所ですね」
「ベリエル鉱石…へぇ…」
タスクは彼女の左手の鉱石をマジマジと見つめた。じっと見つめると、石の中にキラキラと小さな光の粒が輝いて見えた。
(…だから、毒に反応しなかったんだ)
「…おや、石が好きなんですか?」
夢中で真っ黒な石を観察していると、ラファがなんとも嬉しそうな笑顔で尋ねてきた。
「あ、いや…そういう訳じゃ無いんですけど」
「いやいや、君は良い目を持ってる。この石は一見ただの黒い石だけど別名『魔石』って呼ばれてて、魔術の材料になったりするものなんですよ」
「はぁ」
ラファは興奮しているのか、鼻息を荒くして語り始めた。しまった。変なスイッチを入れてしまったらしい。タスクはタジタジだ。
「この石に何かしら魅力を感じるという事は君はもしかしたら魔術師の素質があるのかも!どう?うちで一緒に研究しない?私は才能がないから魔術全然使えないんだけど、君なら出来るかもしれないよ!?」
「わわわ、良いです、結構です。私、魔術は苦手で」
「ラファ。その辺にしておきなさい」
ラファが身を乗り出してタスクに迫ると、王子の止めの声が入った。すると、ラファは慌てて、踏み出していた足を一歩戻し、タスクに謝ってきた。
「ご、ごめんなさいね。私、魔術研究も趣味で…まぁ、才能がないのは重々承知なんだけど。お陰で城の魔術師からは煙たがられてるし、仲間が欲しかったと言いますか…。その、すみません」
「はあ…」
なんともコメントがし辛い。ラファは肩を落とし、見るからに落ち込んでいる。
「私、本当は魔法使いや魔術師に憧れてたんです。でも、適性検査の時点で落ちちゃって…。で、代わりに受かった薬学の方に行ったら、今こんな感じに…うぅ」
彼女は情緒不安定なのか。さっきまであんなに元気だったのに、今はこんなに弱々しくぼやいている。見てるこっちが申し訳なくなる程に。
「…」
確かに、今の姿の彼女を見て、幸せそうに見えるかと言われたらちょっと微妙な所だ。ヨレヨレの白衣とボサボサの髪に、目の下のクマ。それに年は幾つだろう。そろそろ結婚を考える年も過ぎようとしてるのでは、とタスクが要らぬお節介を頭の中で考えてると、見兼ねた王子が彼女に助け舟を出してくれた。
「ラファ、君はそのままで良いんだよ。今の時点で十分優秀だからね。そんな君が魔術師になったらこの国の魔術師の仕事が無くなってしまうだろう?」
「ふ、フラマ殿下…!!」
王子の言葉に思わず顔をあげるラファ。だが、そう言う王子は冗談まじりに笑顔を見せてはいるが、目だけ笑っていなかった。早く本題に戻れという事なのだろう。感動的な言葉に目を潤ませたラファだったが、流石に自分の失態に気がついたらしい。慌てて、腕で目の涙を拭いて、キリッと真面目な顔になった。が、やっぱりメガネがズレてるせいで、どうも締まらない。
「で、そのタバコ、他とは決定的に違うところがあるだろ。それを説明してくれ」
少し暗く響く王子の声。ラファは苦笑いを浮かべながら、また眼鏡をかけ直した。
「あ、はい!…えっと、主な特徴はその夢や幻覚などの作用ですかね。勿論通常の薬物でもそういった作用はあるのですが…このタバコに関しては、皆さん共通して同じ内容のものを見てしまうんです」
「…同じ内容?」
タスクは首を傾げた。
「どういうことですか?薬によって出る幻覚作用が共通するのは別に珍しいことじゃないですよね。例えば、虫を見たり宙に浮いてる感覚を得たりっていうのは、普通の薬物でもよく聞きますけど…」
「いえ、そうでは無くてですね…話を聞く限り、記憶や知識とは関係無く、全く同じ夢や幻覚を同時に見てるのではないかと考えられます」
「同じ幻覚を同時に…」
「ええ。例えば、二人の服用者が同じタイミングでタバコを吸った場合、夢の中での時間を共有出来るみたいで…。これは面識がなく、離れた場所に居た相手だとしても、可能だそうです」
「…ほう」
そう漏らしたのはエドワードだ。たしかに興味深い話しだ。
「あとは、星、夜空、草原、夕日、これらが患者から共通してよくでる証言ですね。なんでも、望めば自由に自分の姿を変えられるとか。夢なので多くは睡眠時に出来ることらしいのですが、目が覚めてからも、視界の端々に幻覚としてその世界が見えるようです。彼らの間では、夢の世界は『あちら側』なんて呼ばれてるらしいですよ」
「…ニーラナに似てるな」
エドワードが呟いた。
「ニーラナ?あの童話の?」
ルカが眉を釣り上げてエドワードを見る。彼の言う「ニーラナ」とは『キノル・コルヤ』の主人公が旅をする世界の名前だった。どうしてそんな言葉がエドワードの口から出てきたのか。昼間の件と言い、エドワードはルカの知らないところで、妖精とか、魔法とか何か不思議でよく分からないものを調べているみたいだ。彼の瓶底眼鏡の向こう側は相変わら鋭い緑色が光っていた。
「よく知られてるあの童話は、元はここらの神話を噛み砕いたものなんだよ。ニーラナってのは、この世と重なった場所にある別世界の事だ」
「お!よくご存知ですね!!」
突然、彼の説明を聞いたラファが驚きながらも嬉しそうな歓喜の声をあげた。その目は眼鏡越しでもはっきりと分かるくらい、キラキラと輝いていて、随分と楽しそうだ。彼女は興奮気味に早口になって話し始めた。
「実はうちの魔術師達の中にも、『あちら側』を『キノル・コルヤ』のニーラナだという学者がいまして!それで—っ……」
そこまで喋って、突然、勢いをなくした用に固まるラファ。そして彼女に向けられる王子からの冷ややかな視線。やはり、王子の視線には何か人を凍らせる力があるらしい。気まずい雰囲気を感じ取ったラファは咳払いをして、誤魔化した。
「ゴホンッ。まぁ、それは、置いておいて…
簡単にまとめると、超依存性が高い、同床異夢ならぬ異床同夢薬ってことですね。そして、年齢の高い方がそれらの後遺症が重く出て、回復が遅い傾向にあります。体力差かも分かりませんけど、データが疎らなので、その辺りはまだ何とも」
「…なるほど。あの…それって、一人一人の患者の記録とかあります?」
大人、と聞いて妙に思ったタスク。顎に手を当てて、ラファに尋ねた。
「え?記録?ええっと、それなら、…ほら、この辺に—」
ラファは慌てて手に持っていた試験管と石を近くの傭兵に無理やり押し付け、それから後ろにいた傭兵が持っていた書類のタワーを漁り始めた。目星のものがなかなか出てこないのか、薬師は間の紙を引き抜いては、投げ、引き抜いては投げ、その度にグラグラ揺れるタワーに周りで、傭兵たちは神経を尖らせていた。
そうこうして、ある一枚の紙が彼女の目に留まった。寝不足で血走った目をギョロギロと動かす姿は見るものを圧倒する。どうやらそれが目的の紙だったみたいだ。ラファは「ここだ!」と一言、言い放つと、その紙が出てきたであろう場所から、前後10センチほど、書類タワーから一気に引っこ抜いた。
「うわぉ!」
そのせいで、少し高さを減らした書類のタワーは、より大きく右に左に、前に後ろに、グラグラと揺れた。バランスを保とうと前に動いたり後ろに退いたりする傭兵と、その周りを行ったり来たりする複数の傭兵に皆釘付けになった。
「っ…はぁ、危なかった」
その声とともに全員が安堵のため息をついた。なんとかタワーの崩壊は避けられたようだ。
だが、そんなことをよそに、身勝手薬師こと、ラファ様は引っこ抜いた書類の束を夢中になって読み漁っていた。そのスピードの速いこと。紙が流れるようにめくられていく。
「あー、これこれ。…あ、最近は若者の患者も増えてきてるんですよねぇ。まぁ、全体でみてもまだ1割にも満たないんですけどね」
ラファはそう言って紙の束をタスクに渡した。タスクはそれを受け取ると、一枚一枚丁寧にめくっていく。なるほど、確かに最近のものだと、主に十代の服用が目立つ。するとその両脇にエドワードとルカが寄ってきて、三人一緒に眺め始めた。
「あなたの国でもそうですか?」
資料に目を向けながら、エドワードに向けてタスクが尋ねた。
「いや、タバコが出回るのは主に大人の間だから、若者はそんなに多くない。増えていると言えばそうだが、それ程顕著じゃないな」
瓶底眼鏡の間から緑色が覗いた。タスクはまた資料をめくる。全体を通してみても、やはり年齢層は成人年齢以上に偏っていた。
「たしかに…」
「そうですね〜、タバコは結構な高値で取引されてるみたいなので子供は手を出しにくいとんだと思います。とは言え、このタバコの場合、子供の方が禁断症状がでにくいですから、服用してても分からないって事も。ひょっとしたら、これからもっと増えるかも…」
ラファが落ちかけた眼鏡を直しながら説明してくれた。
「…あの」
「ん、なんだい?」
「大人と子供、症状と回復期間にはどの程度差があるんですか?」
タスクは今度はラファに尋ねる。
「たとえば、1回服用して薬が切れた後、症状から完全に断ち切れるまで全体平均で大体3ヶ月くらいですね。個人差もありますけど、大人の方が回復に時間がかかるみたいです。子供だと平均1ヶ月、早い子だと3週間ぐらいの子もいたり。あ、でも、もちろん、服用回数が増えれば、回復も時間が掛かります。あ、ほら、多分それの下の方に記録が…これですね」
ラファが紙の束を指差していった。タスクは読んでいた資料の半分をごっそりとルカに手渡すと、自分の手元に残った分をじっくりと見た。症状は段階ごとに分けられ、事細かに数字に起こされている。その中には『幻覚作用の程度』という項目もあった。
「ここの、『幻覚作用の程度』ってどうやって測るんですか?」
「ああ、それはですね。患者一人一人に尋ねて、幻覚で見た風景の他に、感触や温度、匂い、音、五感でどの程度感じる事が出来たかどうか、それで判断してます」
「なるほど…。これは、子供の方が高いんですね」
随分と胡散臭い話だと思った。絶対にただの薬じゃこうはならない。
「子供は想像力豊かですから。好きな動物になって遊んだり、空を飛んだり、そういう事を考えるのは大人よりは得意なんでしょうねぇ。夢と現実の判断がつかなくなることは大人よりは多いかと」
「…ふーん」
見た目は普通のタバコだが、中には、魔力を含むベリエル鉱石が含まれているのだ。
「…ん?」
ふと、また書類に目を落とす。それは、ある青年の項目であった。年は19。幻覚作用が最大値とある。同じ年代頃の者たちが中程度なのが殆どなのに、妙だ。服用期間、回数は1日平均およそ5本、3ヶ月というのも、この中では多い方だ。しかし最も変なのは、禁断症状からの回復期間が、たったの5日とある。
(なんでこの人だけ…。あ)
書類の備考に、『父親が宮廷魔術師』とある。
(…間違いなさそう)
タスクは見本としてテーブルに置いてあった、まだ新品のタバコを一つ摘み上げた。
「あ、おい」
と、止めるルカも無視して、タスクは包紙を解き中身をソーサーの端にぶちまけた。
「あれ?なんでだ?」
「何やってるんだお前!?」
と、隣で怒鳴るルカ。だがタスクは広げた真っ白な包紙をじっと見る。
(なんで、何もないんだ。…うーん)
「…おい。タスク、その紙がどうかしたのか?」
すると、タスクは徐に顔をあげる。何か気づいたのか、今度は立ち上がり、テーブルランプの側まで駆け寄った。タスクの不審な動きに、周りの衛兵も、武器に手をかけ緊張感が高まる。
「おい、タスク!」
ランプの側でじっと動かないタスク。ルカが呼びかけると、ゆっくりとこちらを振り返った。何か確信に満ちた表情をしている。ルカは固唾を飲んだ。
「出てきました」
そう言ってタスクは包紙を見せてきた。薄茶色に染まった紙に、陣が焦げたように浮かび上がっている。紙はさっきまで真っ白だったはずなのに。
「もしかして…魔術式!?すごーい!!」
と興奮気味のラファ。
「焙ったら出てくる仕掛けかー!気づかなかった!」
「あの」
喜ぶラファと感心する王子やルカ達。彼らの視線が集まる中、タスクはこう切り出した。
「このタバコ、私に吸わせて下さい」
「なっ!」
飛び出す目。空いた口。面白いぐらいみんな同じ顔をしている。
「おまえ、馬鹿!!廃人になりたいのか!?」
そして、思った通り、ルカが真っ先に突っかかってくる。怒鳴られて耳がいたい。タスクは人差し指を自分の耳に突っ込んだ。この自称用心棒は人を心配するのもいい加減にして欲しい。
「廃人になりたいわけじゃ無いですよ。ただ、個人的にこの魔術を組んだ人に興味があります」
「はあ?」
「それなら一度、術中にハマってしまう方が手っ取り早いかな、と。それにもし、報告通り本当に共通した幻覚世界に行けるなら、そこでもっと有力な情報が集められるかも…?犯人の手掛かりもあるんじゃないですか?」
「…」
場が静まり返ったのは、タスクの言い分が少なからず理解できたからだ。皆がタスクを心配そうな目で見つめる。確かに、幻覚の世界の中なら、犯人やそれに繋がる人物を見つけられるかも知れない。だが、それには代償にするものが大きい。
例えタスクと同じ考えに至ったとしても、誰も実行しようとは思わないであろう。
「…確かに。簡単で効率的なやり方だ…」
沈黙を破ったのはエドワードだった。彼は納得したように頷いてはいたが、顎に手を当て、難しい顔をしている。
「おい、エドまで!正気か!?」
ルカは必死になって、彼の肩を掴んだ。
「お嬢様の命がかかってる。私たちとしても時間が惜しい所だ…」
「おい!」
「でも、やはり、リスクが大き過ぎるな。服用後の治療の面でも心配事が多いし、ダメだ」
エドワードはルカの手を自分の肩から払い退けながら、そうキッパリと言った。全く人が悪い。
「なんだ。だったら最初から反対しろよ…」
と、ルカはホッと胸を撫で下ろすと、今度は、まるで母が聞かん坊の子供にやるようにタスクを叱った。
「そうだぞ。ミイラ取りがミイラになったらどうするんだ!?」
「それなんですが、多分大丈夫ですよ。私の魔力量なら廃人になりませんから」
「は?魔力量?何言ってんだ?何を根拠に言ってるんだ?」
強がり、にしてはタスクの目が座りすぎている。どうやら本気で言っているようだが、どうも怪しい。ルカがタスクをジトーっと睨みつけると、タスクはルカの隣に戻り、「確かこの辺に…あ、あったあった。」と再び書類の山をあさって、ある1枚の紙を突き出した。
「これ」
「え?」
「…あと、これも」
そしてもう一枚。計二枚の書類を見比べる。若々しい青年と、中年男性のタバコ中毒患者の記録用紙。ルカはタスクからそれらを受け取り、みんなが見やすいようにテーブルの上に並べた。そして、その隣に、タスクは陣が浮き出た包紙も一緒に並べる。
「…これがなんだよ」
「よく見てください。同じ年代の人だと寝たきりか死んでる人の方が多いのに、この二人だけ変じゃ無いですか?」
タスクに言われ、彼らは一緒に資料に目を通した。確かに、彼ら二人の記録は妙だった。他に比べ極めて幻覚作用が強く、それに対して禁断症状が弱い、もしくはほぼ無い、とある。回復期間も服用回数の割に日数が少なくすんでいる。一体これはどういう事なのだろうか。
「これって…傾向と全然違うよな?」
「本当だ。なんで、こいつらだけ?」
エドワードとルカは同時にタスクを見上げる。
「ほら、その中年の人。職業見てくださいよ」
タスクは紙を指差す。
「魔術師?」
「そう。だから当然一般人よりは持ってる魔力が多いはずです。青年の方も、父親が魔術師。きっとこの子もその才能があるはず。推測ですが、タバコに含まれてる鉱石はあくまで触媒であり、また起爆剤のようなものに過ぎないんじゃないかと。だから幻覚の作用はほぼ服用者自身の魔力に依存してるのでは無いですかね…」
「…ああ、そうか!それなら大人の方が回復に時間がかかるのにも説明がつきますね。一般的には、子供の方が魔力が多くて、年とともに減っていきますから。つまり、この二人は魔力が普通の人より多くあったから、健康体でいられた、というわけですね!」
ルカたちが難しい顔をしている一方で、ラファがキラキラと目を輝かせている。タスクは彼女の言葉に頷いた。流石魔術師に憧れていただけある。
「なるほどな。でも、お前は魔術師じゃないだろうが」
だが、やっぱりルカが水を差す。機嫌の悪そうな低い声。なんだかいつもと様子が違う気がした。
「…なんで怒ってるんですか?」
「心配なんだろうさ」
そう言ったのは、王子だった。ルカとタスクは同時に彼を見る。王子はこちらに向かって微笑んでいた。
「ルカ。そこまで心配する事ないさ。この子は精霊に愛されている」
「は?」
と、これにはタスクもびっくり。一体どう言う意味なのか。王子のその瞳にはしかめっ面のタスクが映ってはいたが、何故かただ写り込んでいるだけに過ぎないような気がした。
「要するに魔力量が桁違いって話だよ」
「…」
口をつぐむルカ。代わりにエドワードが疑うような目でタスクを見てくる。
「…このちんちくりんが?」
ちんちくりは余計である。
「ああ、間違いない。この子の考えが正しければ、恐らくあのタバコを吸ってもすぐ回復するだろうな。ひょっとしたら禁断症状なんか出ないかも知れない」
そう言ってこちらに微笑んでくる王子。その時にはもう、完全に妖精下しの効果が切れていた。本当にこの王子は侮れない。タスクの視界の端で、光り輝く小さなあいつらがクスリと笑った。
(…この王子、本当に何者なんだろう。魔法使いじゃないって言うし)
黙って王子を見つめるタスク。王子は相変わらず微えみを絶やさない。エドワードとその後ろの騎士は、「本当にこいつで大丈夫なのか」となんとも言えない視線をタスクに向けていた。
ただ、そんな中、ルカだけは一人俯いて、悶々と考え込んでいた。王子の言う事は、嘘なのか本当なのか、ルカには判断できる材料が全くない。
「…お前はそれで良いのかよ」
仕方なしに、ルカはタスクに尋ねる。正直、ルカには魔術とか魔力のことなんて分からない。「見えないものは信じない」と一言、言えれば良かったのに。タスクに会う前のルカだったら、きっとそう言っていただろうに。するとタスクは面倒くさそうにため息をついた。
「ルカさんは気にし過ぎですよ。でも、そうですね。あくまで、推測の範囲でしかないですし…。せめて、この魔術式がどんなもの分かれば良いんですが…」
「至急、魔術宮の者を呼ぼう。あちらにも調べてもらっているところだ」
王子がそう言ったが、ラファが何か気づいたのか、咄嗟に手をあげる。
「あ、でも、今日は満月ですから…」
「そうか。では、皆、出払っているかもな。…だが、一応宮を見てきてくれないか?一人くらいなら残っているやも。誰かいたら連れてきてくれ」
「はっ!」
王子の命令にひとりの兵士が返事をし、部屋を出て行った。
「…満月だとみんな出払ってるんですか?」
タスクが尋ねると、王子の後ろにいた騎士が答えてくれた。
「魔術師にとっては絶好の日らしいですよ。普段篭ってるくせに、この日ばかりは全員実験の為に外に出かけるんです」
「へぇ…」
タスクはそうぼんやりと返事をした。果たして誰かいるだろうか。期待と不安を胸に、兵士の帰りを待つ。間も無くして、二人分の足音とともに、現れたのは先ほどの兵士と一人の若い青年だった。
「…い、一体何でしょうか?」
怯えているのか。震えた声でそう尋ねる細身の青年は、身に纏う長いローブが重く見えるほど頼りない。おまけに長く落ちる前髪の所為でよく顔が見えなかった。
エドワード達は、彼をみた瞬間、なんでこいつだけ残っていたのか理由がわかる気がしたが、ラファだけは違った。
「あー!リー君!」
「うわっ、ラファ室長っ…」
怯える子鹿のような青年に目をキラキラさせて飛びつくラファ。しかし子鹿といえど、男子。それなりに身長はあるらしい。態度のせいかラファより小さく見えたが、その実、大きかった事に一同驚いたのは内緒である。
「彼はとーっても優秀なんですよ!史上最年少で魔術宮に入って。あれ、今は何の魔術やってるんだっけ?どこの研究室?」
「あ、生命関係を…。医療に役立てたら良いなって…」
「あーグレアの所か!すごいね!!」
「いえ…僕なんてまだまだで、いつも室長と先輩の邪魔ばかり…。実験の材料揃わなくて、僕だけ留守番で…」
だんだんと尻すぼみになる青年リー。立派な志を持っているのに、頼りない。こいつで大丈夫なのだろうか、とルカは思った。
「で、僕はなんで呼ばれたんでしょう、か…?」
低い腰。彼はラファの後ろに隠れるようにして、聞いてきた。すると、部屋の奥に座っていた王子が口を開いた。
「今巷で流行ってる麻薬、タバコの件について今話していた所なんだ。君にも協力してもらいたい。取り敢えず、入ってくれ」
「は、はい。すみません」
王子は青年魔術師に新しく用意させた椅子に座るようにそう促す。彼は椅子を持ってきてくれた兵士に何度も頭を下げて、やっと腰をおろした。
「リーと言ったな」
「え、はい」
「本題に入る前にこのタバコの件については知っているかい?」
王子は見本で手元に置いていたタバコを一本掴んで見せた。
「ああ、確かグレア室長が個人で担当してた案件ですよね。ニーラナに行けるかもって騒いでた…。一応報告書には目を通してますけど」
「そうか。じゃあ、今わかる事だけで良い。これが、タバコの包紙に書かれている陣なんだが、どんなものか分かるか?」
そう言って、王子は先ほど、タスクが陣を炙り出した紙をリーに差し出した。リーは両手でそれを受け取りまじまじと見つめる。
「…うーん。どうでしょう。かなり、古い型のように見えますが、こんなの見たことないし。かなり複雑ですね。…しかも、これって炙った跡?」
「ああ、今見つけたんだ。火に炙ったらこの陣が浮かび上がった」
「良く、お気づきになられましたね…」
リーは本当に驚いているようだった。
「さて…いろいろ聞きたいところだが、我々の間で少し話が進んでね。端的に言うと、実際に吸ってみよう、って事なんだが、どう思う?」
「へ?」
鉄の黒いカーテンのような髪で見えなくてもわかる。青年魔術師の目は点だ。間違いない。
「実際に吸うって…じ、自分に魔術をかけるって事、ですよね?それはぁ、ど、どうかなぁ…」
もじもじとして、ごにょごにょはっきりしないリー。が、質問するぐらいの勇気はあるらしい。
「い、一体どうしてそうしようと思ったんです?」
「『あちら側』に行くためさ。その例のタバコの服用者が意識の中でみな共通の場所に向かうことが出来るってなら、犯人の手がかりを見つける事が出来るんじゃないかって話になったんだ」
エドワードが端的に早口で説明すると、リーは体を傾けて小さくしながら答えた。
「む、無茶な事考えますねぇ…。多分出来なくないですけど…僕的にはあんまりオススメ出来ませんね」
「何故だ」
と、王子。タスクも前のめりになる。
「室長が調べてるのに僕が意見するのも烏滸がましいですけど、…この陣、正直僕は、ニーラナが見える術じゃなくて、魂を体から引き離す術なんじゃないかって思います」
「魂を体から…」
タスクは呟く。リーは俯いたまま説明を続けた。
「皆さん、幻覚作用の方に囚われがちですけど、実際にニーラナが見えているとすれば、少なからずそちらの世界に近い状態になる、と言うことです。所謂、仮死状態とか、幽体離脱に近いものだと思います。それに—」
そして、リーは持っていた包紙に再び視線を下げる。そうして炙り浮かび上がった陣を指でなぞった。
「見る限り、とても強力で複雑な陣です。象形印の他に異国の言葉のようなものまで含まれてる。こんなの見たことない。確か、ベリエル鉱石が含まれてましたよね?あのタバコ」
「うん。」
と、ラファが頷く。
「確かかなり少量だったと思うのですが、あれだけでは、とてもこの陣を発動できるとは思えません。それでももし、この陣が正しく発動しているなら、おそらく服用者の魔力を消費してるのかも。それ以外に魔力の出どころが無いですし…。魂と魔力には密接な関わりがありますから、魔力を使いすぎると人はっ—…」
そこまで話して、急に詰まるリー。流暢に話し始めたと思ったら、顔を上げてキョロキョロと周りを見る。どうしたのだろうか。
「す、すみません。たくさん喋りすぎちゃって…こんなつまんない話」
「は?」
急に我に返ったのか、しょぼくれるリー。だが、突然謝られても、タスク達は意味がわからない。特にラファにとっては実に興味深い話であったのに、急に辞めちゃうなんて勿体ない。そんな彼をめんどくさいな、と思ったのはタスクだけじゃなかった筈だ。じとっとした視線がリーに注がれていた。
「と、とと、とにかく、ちゃんと効果や副作用がわかってないのに使うなんてリスクが大きいですよ?ニーラナ見たさに吸うもんじゃない、と思います」
「…」
リー青年なりに、彼らを必死に止めたつもりであった。だが、王子たちは、そこまで聞ければ十分だった。彼らは確かめるように、互いに頷き合う。そんな彼らの反応をみて「あら?この人たち、人の話、聞いてない?」とキョトンとするリー。
「なら、十分な魔力の持ち主ならどうだ?」
王子の試すような口調。そして差し出される二枚の紙。リーは固唾を飲んでそれを受け取った。
「…これは、患者の。…元、魔術師?」
「あ、忘れてました。こっちは、年齢と症状、平均化してグラフに纏めたやつです」
「え」
ラファがもう一枚リーに手渡す。戸惑うリーを前に彼女はとても楽しそうにしていた。
頭のいい彼のことだ。直ぐに理解してくれるだろう。三枚の紙を順番に手早く目を通すリー。そして、止まる手。皆んな彼の言葉を待った。
「…まさか、、、僕にやれなんて言いませんよね?」
「…いや」
直ぐに王子の否定が入る。すかさず、リーは胸をほっと撫で下ろした。
「でも、それも名案だな」
「え”え”!?」
ここ一番の大きな声。さすがにみんなビックリだ。
「たまたまこの二人は禁断症状が弱かったから良かったですけど、一回の服用でどのくらいの魔力を消費するかも分かってないのに、そんな無謀なこと—」
急に言葉が詰まった。ふと、王子の後ろにいた騎士が険しい顔で、リーを見ているのが目に入ったからだ。そして、騎士は「こっちを見ろ」と視線を流す。はて、何があるのか?彼の視線の先をなぞると、やっとこさ、一番奥に座る生意気そうな顔をした子供と目があったのだった。
「…え、誰ですか?」
そう言って、タスクを見つめたまま固まるリー。もっとも前髪のせいでリーの顔の半分しか分からないから、本当に目が合っているのかは甚だ謎である。
「…タスクと言います」
「え?…人間?」
「…は?」
「す、すみません。幽霊か、その隣の方の守護神かなんかかと…は!!すみません!!」
慌てふためくリー。周りはドン引きである。一体彼にはタスクがどんな風に見えていたのか。気になるところではあったが、とても聞ける雰囲気ではなかった。タスクが物凄く機嫌の悪そうな顔をしていた。
「…すごい、魔力の量ですね」
リーはもじもじと小さな声で肩をすくめながらタスクにそう言った。
「そりゃ、どうも」
流石に幽霊に間違われたのは初めてで、どう反応していいか分からないタスクであったが、敢えて何でもないように返事をしたのだった。リーはゆっくりと王子に向き直った。
「確かに、この人なら問題ないかも知れないですね…」
疑いつつも圧倒されているリーの様子。その反応を見て、エドワードとルカも、もう一度目を凝らしてタスクを見てみたのだが、やっぱりスーツに着ぶくれたただの小さな子供にしか見えず。タスクの何が凄いのか、結局彼らには分からずじまいだった。
「何言ってるんだ。お前も一緒にやるんだ」
突っ込む鬼畜王子。彼は、思いつきの提案はどんどん採用する部下思いの精神を持っているらしい。流石王子である。
「え”!?」
「何、驚いている。お前が言ったんだろう」
いや、言ってはいない。が、そんなこと恐ろしくてとても言えたものではなかった。
「そ、そんな…」
「君も一魔術師ならニーラナに興味があってしかるべきだ。これは命令だ」
「うっ…はい」
「…」
半べそをかいて、明らかに嫌がってるリーを王子は一言で黙らせた。
かわいそうに、臆病なリー青年。どんまい。タスクは俯く隣の青年に哀れみの目を向けたのだが、果たして彼に伝わっていたのだろうか。多分伝わっていない。
「では、早速準備だ」
*
部屋の中心で立派な香炉を前に向き合って座る、タスクとリー。扉のそばで、ルカ達が心配そうに見守っている。複数いた兵士たちは元の配置に戻され、先ほどの部屋よりもひと回り小さい部屋の中には、今回の作戦の主役二人と、王子に一人の近衛騎士、ルカ、エドワード、ラファとその手伝いように残された兵士だけになった。
「おい。なんで、止めなかった。あいつがどうなっても良いのか」
ルカは瓶ぞこ眼鏡の同僚に耳打ちする。が、彼は眉ひとつ動かさず、部屋の中心だけを見つめる。
「タスクはあくまで、手がかりだ。無くせば惜しいが、マリアの方が大事だ。それぐらいお前も分かるだろう」
「っ」
エドワードの言葉が冷たく耳に刺さる。ルカは返す言葉が無く、思わず眉をしかめた。
「それに、リスクが少ないと判断したのはあいつ自身だ。一緒に行く魔術師も本気で嫌がっていないと言うことは、そう言うことなんだろう。おとなしく見守っていろ」
「…」
エドワードの言葉は理解できる。だがそれで良いのか。自分には何もできないのか。無力感に胸のあたりがざわつく。直ぐそこにいる中心の二人が妙に遠く感じた。
「では、タスクさん。両手を出して」
「はい」
タスクはリーに言われたとおり、両手を差し出すと、その両手のひらに彼は筆で何やら陣を書き始めた。
「…これは?」
「僕たちの魔力を共有するための魔術式です。すみません、僕の魔力量が頼りないばっかりに…。右が魔力を与える方、左が受け取る方です」
「へぇ。よく出来てますね…ちょっと臭いけど」
「仕方ないんです。魔術ってそう言うものですから」
じーーーーーーー。
それは、熱い熱い視線。熱すぎてタスクの手は本当に熱くなった。
…気がした。
「な、なんでしょう?ラファ室長」
流石に熱すぎる視線に耐えきれなかったか、リーが真横で陣に釘付けになっているラファに尋ねた。
「ねぇ、これって、医療用で使われる魔術式よね?」
目が、怖い。普段楽しそうなのに、目を血走らせて言う様はまさに妖怪の類とも見分けがつかない。あれ、人間んだよね?とリーは首を傾げたが、目の前の妖怪は良く見てもやっぱりラファであった。
「そ、そうです。良く、ご存知ですね…」
震えた声でリーが答える。するとヌッと彼女の顔が一層近づいてきた。
「魔力を共有って言ってたけど—」
掴まれる肩。食い込む指。
「ひっ」
「それって私にもその陣書いたら、できるの?」
「え?」
そんなこと?と、タスクが思った瞬間だった。ドアの側に立つルカの顔が何かに気が付いたように、ハッとしたのが見えたのだが、そんなこともからもラファのせいで直ぐに意識がそれてしまった。
「まあ、そう言う術ですから…できますけど—」
「王子!!私もこの任務に参加させて下さい!!」
リーが答えきる前に、ラファは天井に刺さる勢いで手を上げ、王子にそう叫んだ。目が点になる一同。王子も珍しく間の抜けた顔をしていた。
「何故だ」
「研究の一環です。この目でニーラナを見たいです!!」
勉強熱心、と言うには度を越していないだろうか。そんな彼女を見たリーは「僕より適任だなあ」とボソリと口にしたが、生憎それはタスクの耳にしか届いていない。彼は、とっても迷惑そうな顔をしていた。
「…」
さて、王子はどうするのだろう。沈黙とともに、みんなの視線が集まる。すると、彼は笑って言った。
「ダメだ。100%安全って保証は無いんだ。君が一緒に行ったら一体誰がその二人を治療するんだい?万が一の為に君には残っててもらわないと」
「ぅ…」
あえなく完敗して、肩を落とすラファ。それにしても凄い魔術に対する執念である。呆れて、みんな何も言えずに、優しく微笑むほかなかった。
「…なあ。」
ルカの声だった。何かと思って視線をあげれば、彼はタスクの隣に座り、徐に両手のひらをリーに差し出した。
「俺に書いてくれ。一緒に行く」
「え、ルカさん?」
「…なんだよ、その顔」
そう言って笑うルカ。自分がどんな顔をしているかはさて置き、タスクは本当にそれで良いのかと不安になった。だって彼の主人はマリアというあの女性のはず。独断で決めていいものなのか。案の定、扉の側に立つエドワードは少し怒っているようだった。
「おい、待て、ルカ。お前、もし症状が重く出たらどうするんだ。お前はそこの二人と違うんだぞ」
「心配するな。その時は治療に専念する」
「治療って…甘く見るな!そんなに簡単に治るなら、我々はここに来ていない!!」
怒鳴るエドワード。先ほどの猛犬の光景がタスクの脳裏を過ぎった。あまり、彼を怒らせない方がいいのでは無いか。不安でルカの方に手が伸びる。がそれが触れる前に、彼は言った。
「…だからこそだ。こいつと一緒に行ったっていいだろ?」
「…っ」
ルカは笑っていた。なんでこの状況でそんな風にできるのか、タスクには良くわからなかったが、エドワードを黙らせるぐらいの強力な効果があったらしい。なるほど、彼は笑顔に弱いのか。思わず感心してしまったのだが、タスクだって賛成した訳じゃ無い。
「あの…私もルカさんはやめといた方が良いんじゃ無いかと思うのですが」
すると苦い顔をしていたはずのエドワードは急に笑顔になった。結構わかりやすい人物である。
「ほら、そのちんちくりんもそう言っている!!やめておけ」
また、ちんちくりん!良い加減失礼だ!とタスクが怒る間も無く、エドワードが怒鳴る。
「だいたい、幻覚の中でそいつを守ったところで実体は無傷なんだぞ!?お前の出る幕じゃない!!これ以上失敗を重ねるな!!」
エドワードの必死さがちょっと面白くてタスクは吹き出しそうになった。しかし、急に斜め上から近づいてきたブルーグレーの瞳に気圧されて、笑いも息と一緒に引っ込んでしまった。近い。しかも、怒っている。今日はずっとだ。
「どうしてだ。俺はお前の用心棒だぞ」
「…だって全員で使ったら、魔力が…」
「あ、あの、それなんですが…」
と、急に話に入ってきたリー。おどおどとしながら、うつむいたり、こちらをちらちら見たり。なんなのだろうか。
「多分もう一人ぐらいいたら、良いと思います。タスクさんの魔力量は僕らの比じゃ無いですし、今回はタバコ一人分を香炉で燃やして3人で使うので、術にかかる時間がそれほど長く無いと思うんです。どうやら、効果の持続時間は魔力に比例しないみたいですし。人を探すなら、二人より、3人の方が…」
「…」
そこまで言って黙るリー。自信がないなら、そんなこと言わなきゃ良いのに。タスクはそんな目で、リーを恨めしく見ていたのだが、確かに彼の言うことももっともであったため、反論の言葉も浮かばなかった。
「だってさ。決まりだタスク」
どこか嬉しそうなルカ。そんなルカが恨めしいタスク。
「…怖くないんですか?」
「怖いもんか。それに、俺には優秀な薬師殿がいるからな」
「…」
何故こっちを見て言うのだ。結局他力本願じゃないか。くそ。
「ルカさんだけ病気になっても知りませんから」
タスクはそっぽを向く。なのに、ルカは笑う。全く不愉快だ。
「というわけだ。早く書いてくれ」
「ああ、はい」
リーに手を差し出すルカ。リーは慌てて返事をすると、ルカの両手に手早く陣を書き、そして、黒い石を一つずつ、ルカとタスクに渡した。
「ベリエル鉱石?」
「この陣の触媒です。尤もこの陣は2つ重なって初めて一つになるので、ただ持っただけでは発動しません。試しに、陣が重なるように両手のひらを合わせるように石を持ってみてください」
リーに言われた通り、ルカは手を合わせた。
その時だった。
「うわっ!」
タスクが驚いた声をあげた。同時に石が転がり落ちる。
「どうした?」
驚いた顔で転がった石を見るタスク。一瞬電気が走ったのかと思った。が、隣のルカは別に普通だ。両手を重ねたまま、こちらを心配そうに覗き込んできた。
「い、いや…ちょっとびっくりして…」
しかもリーまで、なんてことない顔をしている。
「陣は問題ないみたいですね。じゃあ、早速始めましょう」
「え?本当に?今の、なんなんですか?」
「魔力が流れたんですよ。ちゃんと目視で確認できたので問題ありません。では、早速始めましょう」
リーはそう言ってそそくさと、テーブルの上の香炉の蓋を開け、タバコの包みを剥がし、中身を流し入れ、そして最後には包みも一緒に香炉に落とし込んだ。そして、燃えやすく、煙を立ちやすくするためと称して、なにやら枯れ草のような物も一緒にぶち込む。
「それでは、今から火を入れます。煙が建ち始めたら、外の方は扉を閉めて」
リーの指示に扉の前でエドワード達が頷く。
「そして、僕たちは手を繋ぐ。宜しいですか?」
タスクとルカが頷く。それぞれが真剣な表情で頷くと、リーはマッチに火をつけて香炉の中に放り込んだ。すると、あなから、煙がゆるゆると線を描きながら、登り始めた。
「意識がなくなったら手も緩みます。座った状態で待ちましょう」
「1時間したら窓を開けて換気を始めます。…後で感想聞かせてくださいね」
ラファが名残惜しいそうな顔でそう言い残し、扉をゆっくりと閉める。バタンと音がすると、急に静かになった気がした。3人は手を繋いだまま、香炉を囲むように座り、時を待つ。
最初にウトウトし始めたのはタスクであった。
「…」
ルカの目の前で船をこぐタスク。完全に寝るまで1分とかからなかった。そして、間も無くして、リーがあくびをする。彼らが眠り、やっとルカの瞼も重くなった。
渡り鳥と歌の翼 おかもと瑛 @0kamotoEi
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