でもそれは、ネズミじゃなくてクマなんだけどな。

夏八木アオ

でもそれは、ネズミじゃなくてクマなんだけどな。

リース伯爵家の長女、ソニア・リースは婚約者であるレナード・フィッツブルグに手紙を書いていた。内容は、"他に好きな人ができたので婚約破棄をしたい"というシンプルなものだ。父親から正式な婚約破棄を告げる手紙を出してもらうが、それとは別にソニアは個人でもペンを走らせていた。


リース家は伯爵家の中でも尊い血筋であり、子爵であるフィッツブルグ家よりも格が高い。それゆえ一方的な婚約破棄は家の評判を下げるが大きな問題とはならない。


なぜ二人が婚約することになったのかと言えば、それは1年ほど前レナードから一方的な申し込みがあったからだ。年頃であるソニアは自分のような血が少し尊いだけで差し出せるもののない女で良ければ、受け入れてくれる人なら誰でも、という気持ちで了承した。

今のソニアは社交界に出られる状態ではなく、これ以外に出会いも見込めない。相手の年齢も顔も性格も何も確認せずに結ばれた縁であった。


リース家は、血筋は尊いが財政状況が厳しい。数年前に領地に魔獣が異常発生した際、主要な産業であったワイン製造用の葡萄畑が被害を受け、土地が汚染されたまま長期にわたって影響が出ている。魔法で浄化してやっと回復が見込めそうな状態になってきた。

その上、未だに魔獣が出没するため、そちらに資源や人を割かねばならず、なかなか状況が改善しない。


ソニアがレナードから結婚を申し込まれても1年も嫁入りできていないのは、ひとえにリース家が貧乏で持参金を用意できないからだ。

そしてソニアが今回婚約破棄をしようと思ったのもそれが理由だった。もう少しで貯まりそうだった持参金を、妹の持参金として使いたい。


理由も分からず結婚を申し込まれたソニアと違い、妹のアニーは恋愛結婚だ。ソニアは姉として彼女の幸せを願っている。

家の財政状況を理由に書いてしまうと家の評判にも妹の評判にも響くため、ソニアは自分自身の心変わりを理由として一方的な婚約破棄を告げようとしていた。


(貴方は何も悪くないのだけど、ごめんなさい)


ソニアは心の中で届かない謝罪を口にした。顔も何も知らないが、不定期に手紙でやりとりしていた中でのレナードは優しい人だった。


季節の変わり目にはソニアの体調を気遣ってくれた。ソニアが曖昧にしか覚えていなかった思い出の物語について書けば、次の時には絵本を探し出して送ってくれた。共通の話題もないので二人の手紙は短いが、いつも丁寧に綴られているレナードの文字からは誠実な人柄が伝わってきて、レナードの手紙は刺激の少ない生活を送るソニアにとってひとつの楽しみだった。


だがそれだけだ。ソニアはレナードに特別な感情を抱いているわけではない。なぜ結婚を申し込まれたのか結局分からないままで聞こうともしなかったし、一年待たせた上で一方的な婚約破棄を告げることに罪悪感は抱いているが、それよりも妹を優先したいと思う程度の関係だった。


手紙を書き終えると、彼女は亜麻色の柔らかい髪を耳にかけた。封を閉じたところで、扉をノックする音が聞こえる。


「はい、どうぞ」

「失礼いたします。ソニア様」

「レオン」


返事をして扉を開けたのは、半年ほど前に父の元に来てくれた騎士のレオンだ。

魔獣の出没に対応しきれなくなった父が援助を申請して、答えてくれたのがレオンの父という話だった。


レオンは一人でも腕が立つ上、人を指揮するのにも優れていた。レオンが来てから月の死者数がこれまでの一割以下になり、今やこの地になくてはならない存在だ。

最近ようやく状況が落ち着いて、手が空くとソニアの仕事も手伝おうとしてくれる。休んで欲しいと伝えたけれど、忙しくしているのが好きで暇だと身体が痒くなってしまうと言われた。


「何かやることはありませんか?」

「ふふ、また暇になっちゃったの?そしたらこの手紙をお父様に届けてくれるかしら。お父様の手紙と一緒にレナード様に渡して欲しいの」

「フィッツブルグ卿に?先日も手紙を出したばかりでは?」

「うん。でも婚約者なのよ。何度出してもいいでしょう?」


レオンにはまだ婚約破棄の件は伝えていない。彼は無関係なので事後報告もするかしないか、という程度の情報の重要度だ。誤魔化すために冗談ぽく告げると、レオンは片目しか見えない黄金の瞳を丸く見開いて、さっと目を逸らした。


「どうしたの?」

「いいえ。お渡しして参ります」

「お願いね」


ソニアはレオンの顔を半分しか見たことがない。片側は魔物に焼かれた火傷でひどい状態と聞いている。人に見せるにはあまりにおぞましいため、仮面で隠しているそうだ。


無事な方もあまり大きく表情を変えると片側の皮が引き攣って痛いらしく、レオンはあまり笑わない。笑う時は口角を少しだけ上げる。それでもソニアは、黄金の瞳が柔らかくなるのを知っていて、それを見ると嬉しくなった。


レナードに告げた"他に好きな人ができた"というのはあながち嘘でもなくて、ソニアはレオンにほのかな恋心を抱いている。

恋心と呼んでいいのか分からないくらいに淡い気持ちで、ただレオンの姿を見かけると嬉しく、つい駆け寄って声をかけたくなる。ソニアが話しかけるとレオンはしっかり目を合わせて話を聞いてくれて、優しく相槌を打ってくれることに安心する。

厳しい状況に置かれた伯爵家の長女として気を張っていることが多いソニアにとって、外から来た物静かなレオンの隣はそうしなくて良い貴重な居場所だった。


だからと言って、ソニアは自分とレオンがどうにかなることを望んでいる訳ではない。レオンは手助けのためにこのリース伯爵家に臨時で滞在しているだけで、彼にはいつか帰る場所がある。そこで、持参金が用意できなくて結婚を待たせるような女ではなく、ふさわしい人を妻に迎えるはずだ。



夜中、ソニアは人の気配で目を覚ました。静かな夜だ。

月明かりが部屋に注ぐばかりで暗く、ほとんど何も見えない。物音もない。


ただなんとなく、何かの気配があると感じて、耳を澄ませているとわずかな衣ずれの音と、カツン、と靴が床で鳴るような音がした。


ぼんやりした頭のまま首を少しだけ動かすと、寝ている自分のすぐ横に、だれかが立っていることに気付いた。暗闇で何も分からない。シルエットからそれが男であろうと推測した。


「っひ!」


声にならない悲鳴がソニアの喉をヒュッと喉を鳴らした。


「……っ誰か、んぐっ!」


叫び声を上げようとして手で口を塞がれた。恐怖で目に涙が滲む。手をバタバタと動かして、触れた魔石ランプをその人影の頭方向に向かって投げた。ぶつかる前に防がれてしまったが、口を塞いでいた手が離れたところで上半身を起こして助けを求めた。


「助けて!レオンっ!」


部屋にシンと沈黙が落ちる。

ジジ、と音がしてランプが点き、人影が橙色に照らされて顔が浮かび上がった。

そこにいたのは今ソニアが助けを求めた人物だった。


「レ、レオン……?」

「はい」


ソニアは安堵で腰が抜けてベッドに倒れ込みそうになった。


「びっくりしたぁ……もう、紛らわしいことしないで。暴漢かと思ったわよ。どうしたの?何かあった?」


ソニアは、はぁ、と息を吐くと、ベッドから足を外側に落として座った。


「お話を聞くわ。はぁ、まだドキドキしてる」

「暴漢に間違いはないかと」

「へ?」


気付いたら、ソニアは起き上がったばかりの身体をベッドに押し付けられていた。目の前には橙色のほのかな灯りで照らされた、苦しげな表情のレオンの顔があった。


「レ、レオン?」


尋常ではない態度に、ソニアの心には不安よりも心配が湧く。この頼りになる騎士は感情が分かりやすい方ではなく、一度大怪我を負っていたのを隠していたことがある。


「どうしたの。何か辛いことでもあった?私でよければ聞くわ」

「この状況で?自分がどんな目に合うか分かっていないのですか」

「驚いているけれど、貴方は理由もなく人を傷つけたりしないと思うの。教えて」


ソニアが尋ねると、レオンは片側だけ見えている金の瞳を見開いた。


「誰ですか?」

「え?」

「貴女の好きな人というのは誰?」

「す、好きな人?そんな人いないわ」


ほんのり惹かれている相手といえば目の前にいるレオンだが、ソニアはそれを伝えるつもりはない。


「手紙に書いていたでしょう。他に好きな人ができたから婚約破棄をするのだと書いた。この相手は誰ですか。教えてください。殺します」


突然の物騒な言葉にソニアはぎょっとして目を見開いた。色々と聞き捨てならないことがあった。


「ええっ?!な、何言ってるの。というか、勝手に人の手紙を読んだの?それはだめよ。ちゃんと出してくれたの?」

「自分宛の手紙を読んで何が悪い。早く名前を教えてください」

「自分、宛?」


ソニアは状況がわからず、目を白黒させていた。比較的物静かで感情が分かりづらかったレオンは怖い顔をしてソニアを押し倒して、殺すためにソニアの好きな人の名前を教えろと凄んでくるし、勝手にレナード宛の手紙を読んでいる。そしてその手紙は自分宛だと主張している。


「レナード、様は……実在しない人物なの?」


ソニアの頭に浮かんだのはそんな疑問だった。手紙でしか存在していないレナードは、ソニアにとってどこか現実味のない存在だ。


「は?」


今度はレオンが呆気に取られる番だった。レオンは訝しげにソニアの顔を見ている。


「なぜそういう発想になるんだ。逆だ。私がレナード・フィッツブルグで、レオンという愛称でここに滞在していた」


レオンは急に口調を変えてきた。ソニアは狐につままれたような気分でレオンを見つめていた。


「どういうこと?」


レオンは飲み込みの悪いソニアに苛立つように眉を顰めた。


「……だから、私が一年前に貴女に婚約を申し込んだレナードで、半年前からレオンとして貴女のそばにいたんだ。こっちはなくていいと言っている持参金がないなんて理由で一年も待たされた上、やっと持参金が溜まりそうだと聞いていたのに急に好きな人が出来たから婚約破棄をするなどと言われて受け入れられる訳ないだろ。相手が誰か言ってくれ。私が見ている限り、貴女の周りに年頃の男なんかいないはずだ。この半年は特に遠ざけてきた。相手はいったい誰なんだ」


レオンの言葉はソニアの耳を左から右にすっと通り過ぎていった。後から意味を理解しはじめたが、それでもまだソニアは混乱していた。


「……レオン」

「なんですか」


本名を名乗ったのにレオンの名前で呼ばれた男は、不服そうに丁寧な言葉で答えた。


「私があの時思い浮かべたのは貴方のことよ。でもそれも、好きというか、ほんの少し惹かれているというだけで……本当は婚約破棄が私個人に由来した理由になればなんでもよかったの。家の名誉が傷付いて、アニーに迷惑がかかるのが一番嫌だった」

「は?」


レオンは唖然とした顔でソニアを見つめていた。


「どういうことですか?説明して」

「えっと、貴方もうちが貧乏なのは知っているでしょう」

「ええ。主要産業が打撃を受けたのだから仕方ない」

「そうね。誰かが悪い訳じゃないけど、それで、うちでは持参金を二人分用意するなんて無理なの。だからアニーを優先させようと……」

「なぜそうなるんだ。私は一年も待ったんだ。アニー達はもう一年はかからないだろうから待たせておけばいい」

「でも彼女達は恋愛結婚だし」

「私たちも恋愛結婚だよ!いや、私からの一方通行な恋愛感情ではあるが……というか、持参金はいらないと何度言ったら伯爵は受け入れるんだ?親子揃って金が用意できないのが申し訳ないとか迷惑だなどと思うなら私を待たせることにも心を痛めて欲しい。そんなもの良いから早く嫁に来てくれ」


ソニアはまた目を白黒させてレオンを見ていた。そうまでして熱烈に望まれるような理由が全く分からない。

ソニアの外見は美しい方だが、絶世の美女というわけではない。柔らかい亜麻色の髪はゆるいウェーブを描いて腰のあたりまで伸びていて、ソニアの自慢ではある。だが手入れ不足でここ数年で艶を失っていた。若葉のような明るいグリーンの瞳も母親譲りで気に入っているが、どこにでもいるあり触れた色だ。


肌や唇や爪も、魔獣が出る前ならいざ知らず、今や乾いて令嬢とは思えない状態である。レオンには半年間、身なりも清潔感を保つだけで着飾ったところも見せられずにいた。レナードとは顔を合わせた覚えがない。それでどうして一方通行な恋愛感情を向けられるのだろうかと不思議でならなかった。


「あの、レオン」

「何?」


レオンは不機嫌だった。この半年、レオンは表情が豊かでなくても落ち着いているだけで、無表情とか不機嫌という印象ではなかったので、ここまで露骨に不機嫌であることは少し面白く感じてしまう。その上、その理由がソニアが早く嫁に来ないからというくすぐったい理由なのだ。


「貴方は私のことが好きなの?」


なんと尋ねるべきなのか分からず、ストレートな聞き方になってしまった。質問を口にしてからさっと顔に熱が集まった。心臓がドキドキと高鳴る。アニーと義理の弟になる男性の馴れ初めを聞いて、恋の話題を微笑ましく、少し羨ましいと感じていた。自分には無縁の話だと思っていた。


「ええ」


好き、という単語が帰ってこなかったことには少しだけがっかりしたが、ソニアは自分も家族以外の誰かに特別に愛される存在であるという事実に照れと喜びを感じた。その上相手がかすかに想いを寄せていたレオンであると知って、じわじわと湧いていた喜びが驚きを越えて顔に出た。頬がふにゃん、と緩みそうになるのを我慢して、口を一文字に引く。

手で隠そうにも、レオンに両手を押さえつけられているのでできないのだ。


「その顔は?」

「え?」

「複雑そうな顔をしている。婚約者が私のような顔の半分ただれた男だと知ってがっかりしたか?」

「いいえ、まさか!むしろ嬉し……貴方が火傷したことが嬉しいという意味じゃなくて、その、私、貴方に憧れていたから、驚いているけど嬉しいわ」


レオンは目を見開いた。今はソニアを押し倒しているため、いつも仮面を覆っている黒髪のせいで見えないもう片方の瞳も見えている。金色の目にうっすら白いモヤがかかったような色だ。


レオンは顔半分を覆っている仮面を取り外した。皮膚の下の火傷は皮膚が引き攣っていて、所々赤黒い。


ソニアは初めて見たレオンの顔にじっと魅入っていた。半分しか見えなくても、キリッとした男前だと思っていた。想像していたよりももっと素敵な人だという印象を抱いた。


「怖くはないか?」

「ええ、大丈夫。魔物に焼かれたと聞いているけれど、どんな相手だったの?すごく手強かった?お顔が焼けたのは痛そうだけど、今レオンが生きているってことは倒したんでしょう。すごいわ」


レオンはまた目を丸くした。


「ご、ごめんなさい。思い出したくない話だったかしら」

「いや、そんなことはない。巨大な炎竜だったんだ。ずっと火山の奥にいて出てこなかったのに、火山熱を魔法エネルギーに変換しようって動きで国王が開発を始めたせいで街に降りてきた。臆病な性格で逃げてきたんだ。かわいそうだが討伐するしかなかった。百メートル離れていても皮膚が焼けそうなほど熱かった」

「そんなに熱いの?どうやって倒したの?」

「魔法で援護してもらって、炎に耐性のある装備で臨んだ。魔法だけだと火力がなくて倒せないから、最後は切るしかないんだが、近付くのが一番難題だ。3人がかりで防御してもらっても全身大火傷した。治らなかった顔半分は、切った時暴れた尻尾で叩かれて鱗が直接触れたんだ。直後は打身で腫れるし皮膚はぐちゃぐちゃだし食事もできなくて大変だった」


ソニアは壮絶な話に絶句した。


「レオンは強いって聞いてたけど、本当に強いのね。近付くだけで捨て身になるような相手なのに、すごい勇気だわ。その火傷は本当に名誉の負傷ね。そんな騎士様をこんなところに半年もとどめてよかったのかしら」


レオンは、金色の瞳を優しく緩めていた。そこには喜びが宿っているように見える。


「慰労の意味で滞在させてもらってたんだ。文句を言われる筋合いはない」

「慰労?こんなに働いているのに?」

「王都で殿下についていた時と比較すると全く激務じゃない。むしろ暇すぎる」

「価値観がおかしいわ」


レオンはソニアの言葉に笑って、彼女の髪を撫でた。


「3年ほど前に王都で小さな薄汚れたぬいぐるみを拾ったことを覚えているか?首が破れてワタが出てた。貴方が拾って直し、グリーンのリボンをつけて手紙付きで落ちた場所に戻してくれた」


ソニアは3年も前のことは基本的に覚えていないが、その話であれば最後に王都を訪問した時のことなので覚えていた。

魔獣の異常発生前だったから、ただ楽しむだけの訪問だった。あの頃はまだ不定期に王都を訪問する余裕があった。


「噴水のところの?」


レオンはまた嬉しそうに目を細めた。

ぬいぐるみは手のひらサイズで、明らかに子どもの手作りだった。拙い作りでも丁寧に愛を込めて作られているのが分かり、胴体にイニシャルの刺繍が入っていたから贈り物ではないかと思って、贈り主と贈られた人、二人のことを想像しながら拾って直した。

ソニアは普段はそんなことをしない。あの日は時間があったし、ネズミのぬいぐるみは珍しいからなんとなく目についた。


「ああ」

「私がぬいぐるみを拾って直す心優しい令嬢だと思って好きになってくれたの?」

「いや、それだけじゃ感謝はしても好きにならなかった」

「じゃあなぜ?」

「貴女が怪我をしたメル……あのぬいぐるみだ。メルに『次はどんな冒険をするの?』と聞いたから。あの時私は火傷が落ち着いてやっと外に出られる状態になったが全身メルと同じくらいひどい状態だった。色んな人間に憐れまれたり、逆に英雄として祀り上げられたりしたけれど……私は自分の状況を悲惨だとも持て囃されるようなものでもないと思っていて、実は個人的には楽しかった。周りの人間は休めとしか言わないが、私にも大怪我しても『次は何する?』と気軽に聞いて欲しいと思ったよ」

「それだけで?」

「それだけだ。多分楽しそうな笑顔に一目惚れした」


ストレートな好意を示す言葉にソニアはどきっとした。


「メルは私の14歳下の妹が作ってくれたお守りなんだ。拾って縫い直してくれたことにも感謝してる」

「やっぱり贈り物だったのね。良かった」

「ああ。貴女は声をかける前に馬車に乗ってしまったし、手がかりは一瞬しか見てない笑顔に、リボンに刺繍されたイニシャル、それから手紙の筆跡だけだ。探すのにものすごく時間がかかった。王都に慣れている感じだったから、王都の近くから探し始めたのは完全に失敗したな」


ソニアは苦笑いした。


「あの頃は時々遊びに行ってたから」

「また行けるようになる」


きっぱりと言い切る言葉に領地の状況が改善されることを約束されたような気持ちになり心強かった。


「どうして、レオンとしてここに来ることにしたの?最初からレナード様として顔を見せてくれたらよかったのに」

「それは……婚約者がこんな顔だと知って怖がられる可能性に気付いて、先に慣れてもらおうと思った」

「私は怖くないわ」

「そうだな。貴女は最初から怖がらなかったが」


レオンは過去を思い出すように目線を外した。


「貴女を探すまでに時間がかかったおかげで、婚約したいと手紙を出した頃には外見がある程度元に戻っていたんだ。ただ、その時は多忙で顔を合わせることができなくて、1年待つのは長いが二つ返事で了承されたことに安心して自分の仕事に集中してしまった。少し経った頃に伯爵領が本当に大変な状況だと知って、あと半年以上も待てないと思って、結婚を早めるのと援助を申し出に伯爵様を訪ねたんだが……」


レオンはそこで話すのを止めた。


「何かあったの?」

「アニーが私を見て気絶した」

「え?!ご、ごめんなさい」

「謝らなくていい。あの時はまだ包帯を巻いているだけで、今ほどちゃんと覆っていなかったし、アニーも領地の被害で憔悴していただろう。そこでやっと自分が女性に怖がられる外見になっていることに気付いて、急遽別人のふりをして顔に慣れさせる時間が欲しいと伯爵様に頼んだ」

「じゃあお父様は貴方がレナード様と知っているの?」

「ああ。じゃなきゃいくら騎士でも年頃の娘と私が二人きりになるのを許したりしないだろう」


レオンがソニアの手伝いを申し出る時、時々密室で二人きりになることがあったが、父がやけに寛容であることは気になっていた。それだけレオンを信頼している証だと思ってソニアの方もいちいち気にするのはやめたのだった。


「この半年で、一目惚れして執念深く探した自分に感謝したよ。色々あった問題を片付けて、ようやくあと少しで貴女を妻に迎えられると思っている時に、『他に好きな人ができた』なんて許されないのが分かったか?」


話が最初に戻ってきた。ソニアはレオンがどれだけ真っ直ぐソニアを思い続けてくれたかを知って、アニーのためとはいえ気軽に婚約破棄したいと文字で告げようとしたことを申し訳なく思った。


「ええ、ごめんなさい」

「……素直に謝られるとこれ以上は追及できないな。婚約破棄するのが惜しいと思わせられない私の人柄にも問題がある」

「そんなことないわ。レナード様は優しくて誠実な人だと思ってた」

「アニーの婚約が決まった瞬間に私とは婚約破棄すると決めたくせに」

「それは、その、ごめんなさい」


反論はできない。ソニアの決断は早かった。レオンがため息を吐いた。


「もっと早くに、メルの話をして素直に惚れていると書けばよかったかな。想いを告げるのは初夜に直接言おうと思っていた」

「……!」


”初夜”という単語にソニアの身体がびくりと反応した。手を押さえたままであるレオンにはそれが伝わったはずだ。


「よかった。暗がりに立ってるのに顔を見て安心されたから、男だと思われてないかと」

「そんな、ことは……」

「レオンとしての私にならほんの少しは惹かれていると言ってくれたな。1年待ったんだ。後戻りも逃げることもできなくしたい。今日をその日にしてもいいか?」


レオンの金色の瞳が熱を孕んで揺れた。

ソニアは気遣うようにゆっくり近付いてくる顔から目を逸らせずにいる。彼女が瞳を閉じないまま、唇が優しく重なった。

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