夜が来る

香久山 ゆみ

夜が来る

 雨の日の風景は灰色で、足元ばかり見て歩く。ふと目が奪われたのは、そのせいだ。

 足元に広がる青空。思わず顔を上げるも、相変わらず降り続く空は灰色だ。ならば、この水たまりに映る青空は何?

 考えるより先に体が動いていた。踏み出したスニーカーはすでに靴下まで雨が染み込みぐちゅぐちゅだ。躊躇しなかったのは、多分そのせい。

 水たまりを踏んだ右足は、アスファルトに着地することなく沈んだ。バランスを崩した私はそのまま倒れるように水たまりに飛び込んだ。

 瞬間、身を固く閉じたものの、取巻く違和感にそっと目を開く。水の中に落ちたはずなのに、息ができる、風を切る、浮遊感?

 う、わ、わ! 自然落下している。青空を、ぐんぐん落ちていく。握りしめていたビニール傘の空気抵抗で辛うじて落下スピードを抑えている。コンビニで少々値が張り舌打ちしたが、大きく丈夫な傘を選んでよかった。

 徐々に地上が見えてくる。ちょうど高台の拓けた場所に着地できそうだ。人がいる。作業着の男がこっちだと手を振っている。ふと昔観た映画を思い出し、天から舞い降りた神とか天使だとか崇められたらどうしようかと思ったが、着陸を誘導した男は(汚れた作業着に髭もじゃサングラスでまるでモグラみたいだ)、「まあた落ちてきたのか。今年はもう三人目だ!」と大袈裟に溜息を吐いた。振り返って見上げたが、高い空のどこにも穴は見つけられなかった。

 街へ案内するという男のあとをついて行く。岩を削って造られた要塞の街は、一歩その内に入ると美しい建物が並び、近代的な都市であることが察せられる。

「もとの場所に戻る手段がないのなら、私もここで働いた方がいいでしょうか」

 商店や会社などは少ないような気がする。きょろきょろ見回しながら訊ねると、男は呆れたように笑った。日々に疲れたなんて言いながら、あんたらはすぐ労働しようとする! 

「あんまり動き回ると早く老けちまうぜ」

 特殊相対性理論に反するような発言。ここでのエネルギー源は石炭なので、住民の大半は炭鉱で働いているという。

「娯楽は?」

 眠ればいいのさ、と男は笑った。

「かつては酒や遊技場なんかもあったらしいけど、諍いの元になるってんで今は禁止されてる」

 生活を維持するため最低限働いて、食べて、排泄して、(子を生して、)あとはただ眠る。

「昼は数時間しかなくて、あとはずっと日の射さない夜さ。長夜にいい夢が見られるよう、寝静まった街には花の香が漂う」

 ここは地下深い場所だから、地上から洩れ込んだ太陽光を増幅しているが、それも南中前後の三、四時間だという。雨は降らない。年中晴れだが、星は見えない。(だからアシモフの短編のようにここには天文学が存在しないのかもしれないが、あえて訊ねない。)

「図書館なんかはないの? 本は?」

「ないさ。なにせ光のある時間が短いからな。教育に関する以外、物語なんかは口承だよ」

 ここにあるのは至ってシンプルな生活。夜に香る花には誘眠効果や夢を見せる幻覚作用があるのだろう。数時間生き、あとは皆で眠る。ここでは争いの起きようもないと、男は笑った。

「ほかの、上から来た人達はどうしているの?」

「吟遊詩人よろしく地上の物語を聞かそうとするも、星の数の物語を語り終える間もなく皆眠っちまうよ。はは。だから、ここの連中と同じ生活をして、眠って眠って、じきに馴染んじまうさ」

「……帰りたくないのかな」

 居場所がないから足元ばかり見て落っこちてきたんじゃねえのか、ここでは居場所もなにも考える暇もない。あるのは夢幻の自由だけさ。かかか、と男は笑った。

 ここの人達は概ね三百年程生きるらしい。なるほど一般相対性理論の重いものほど時間はゆっくり流れるということか。とすれば、ここはどれだけ地下深い場所なのだろう。もう地上には帰れないかもしれない。心が軽くなったせいか、不思議と重力の影響をあまり感じることなく過ごしている。ここの人達は並べて背が低い。私も少し縮んだかもしれない。それから、とても円らな小さい目をしている。争いのないこの場所においてもなお他人との差異を隠そうとするのは、地上で身につけたかなしい性質といえようか。けれど、そんなことももうどうでもいい。私は誂えたばかりのサングラスを指で押し上げる。

 唯一の心配事といえば、そんなにたくさん眠れるだろうかということ。けれど、そんなことも何もかも全部、眠って忘れてしまおう。また、甘い夜が来る。

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