文樹

舞寺文樹

文樹

 詩人のじいちゃんは言った。

「俺は曾孫に会いたい」と。

 中学生の僕は言う。

「僕じゃだめか」と。

 するとまたじいちゃんは言った。

「お前はもうでかくなり過ぎた」と。

 だから僕はこう返した。「あと六年でじいちゃんと酒飲めるもんな」するとじいちゃんは笑いながら「六年ってまだまだだな、頑張って生きんといかんな」と言った。

 

 しかし、じいちゃんは呆気なく死んだ。その二年後に認知症と、なんだかよく分からない難しい名前の病気で死んだ。晩年にはじいちゃんの大好きなお酒も、ラーメンも、タバコも控えるように言われていた。終いには大好きな囲碁を打つ気力もなくなり、家族の顔も忘れて周りに自分の娘たちがいるのに孤独で死んだ。

 

 じいちゃんは焼酎のお湯割とインスタントの醤油ラーメンを食べながら僕に言った。

「お前の子供の名前は俺が決めていいか?」

「名前によるかな」

僕もじいちゃんから半分もらった醤油ラーメンをお椀に移して啜る。

 じいちゃんはかなり大雑把な性格なので、水の分量を測らない。だからスープがとても濃い日もあれば薄い日もある。今日は奇跡的に丁度よかった。

「ところで、どんな名前考えてるの?」

じいちゃんは少し伸びた柔らかい麺をよく噛んでから飲み込んだ。そしてすぐに話し始めた。

「『モンジュ』ってのどーだ?」

「え?」

「だから、『モンジュ』だ」

僕の考える名前というのは「ハルト」とか、「リョウタ」とか、一昔前でも「キヨシ」とか、「タロウ」とかだ。

 僕は「モンジュ」という言葉が、人を対象とした固有名詞だとは思えなかった。

「えー、『モンジュ』はちょっと嫌かも」

じいちゃんは少し間を置いて、焼酎のお湯割りを一口飲んだ。 

 

 それから程なくしてじいちゃんは僕のことを忘れた。じいちゃんの家に遊びに行っても、どちら様ですか?と聞かれるようになった。

 しかし、僕の母さんのことはまだ覚えていた。つまり、じいちゃんの娘だ。母さんと一緒に会いに行くと、じいちゃんは母さんに、「孫の顔が早く見たいなあ」と言った。

 孫の隣で孫に会いたいと言う。なんとも屈辱的で、寂しくて、胸の奥の方がズタズタになった。一緒にSLを乗りに行ってくれたじいちゃんはどこに行ってしまったのだろうか。僕の大好物のチャーハンを得意な顔して作ってくれたじいちゃんはどこに行ってしまったのだろうか。孫の僕を美しい詩にしてくれたじいちゃんはどこに行ってしまったのだろうか。目の前にいるのに、なんだかとても遠くに行ってしまったみたいだ。

 その日もじいちゃんは焼酎のお湯割を胃に流し込んでいた。いつも通りのじいちゃんはもう僕のじいちゃんではないのだろうか。

 

 僕は大好きなじいちゃんに会うのがつらくなった。僕のことをよそ者として扱うじいちゃんは、じいちゃんなのにじいちゃんじゃない。だからすごく奇妙で、不気味で。だからもう会いたくなかった。

 

 しばらくしてじいちゃんの家は空き家になった。じいちゃんは介護施設に入居した。じいちゃんの家の前の柿の木に柿の実がたくさんなっている。

 じいちゃんは柿の実が綺麗なオレンジになるとすぐに収穫して、酒のつまみにして食べた。だから、こんなにたくさん柿の実がなっているのが不自然だった。

「これ、じいちゃんのところに持って行こうか」

「えー、今から?」

「うん、すぐそこなんだし、少し寄って行こう。あと、必要な書類も提出しなきゃいけないし」

 僕は半ば強制的に、母さんに連れられて介護施設に行った。

 

 施設の中にはあまたの老人でごった返していた。将棋を指したり、編み物をしたり、お茶を飲みながらきんつばを食べたり。

「なんか、思ってたのと違うね」

「そうでしょ、みんな楽しくやってるのよ」

「ふーん、僕はみんなあの人みたいな感じだと思ってた」

「どの人?」と母さんが言うので、「あのモアイみたいにずっと外見てる人」と答えると、母さんは思わず吹き出して、「あれ、じいちゃんだから」と言った。

 

 何が面白い。あんな姿のじいちゃんはもう見たくない。それなのに母さんは、笑顔で僕に柿を持っていけと促す。僕は拒みたい気持ちをグッと堪えて、タッパーに入ったじいちゃんの家の庭の柿を知らないお爺さんのところに持って行った。

「久しぶり、これ庭で採れた柿だよ」

「おおー田中さん。あんたの庭にも柿の木あるのか」

 ほら見ろ、僕のことなんか微塵も覚えていない。この人は見知らぬお爺さんなんだ。この人はもう僕のじいちゃんじゃないんだ。

 

 施設の本物の田中さんがきて、お爺さんに「お孫さんお見えになったんですね。個室でゆっくりしましょうか」と言って、知らないお爺さんと田中さんと田中さんで個室に向かった。母さんは事務室に書類を提出しに行っているらしい。

 お爺さんからしたら、科学的にとんでもないことが起きているに違いないが、特に田中さんが二人いることを気にもせずに個室までたどり着いた。

「それじゃあ、私はこれで失礼します。面会時間は十六時半までなので、よろしくお願いします」

 本物の田中さんが個室からいなくなった。偽物の田中さんと見知らぬお爺さんだけの空間は、とても不気味で、ガラガラの電車の車内で隣に人が座ってきたような感覚だ。

 

 しばし沈黙が流れる。がその雰囲気を断ち切ったのはお爺さんだった。

「小林さん、さっきの柿もらえるか」

こ、こ、小林……。新しいキャラクターが登場してしまった。僕は田中さんから小林さんに変身した。

「はい、これ。じいちゃんが収穫しないから、いっぱい木になってたよ」

 僕を思い出してくれと、わずかな期待を込めて「じいちゃん」という文句を入れてみた。しかし、効果なし。「そうかー、俺も若かった頃は梯子かけて庭の柿をとったもんだ」とだけお爺さんは言った。

 爪楊枝で柿をガリガリと食べる。お爺さんは幸せそうな顔をしてる。他人からもらった柿を食べて、なんとも満足そうだ。

「お茶が飲みたい。そこのやつ、沸かしてくれないか」

お爺さんがそう言うので、お湯を沸かして急須に茶っ葉を入れた。

「お茶飲むようになったんだ」

「前は酒だ。柿と熱燗が合うんだよ。でもここじゃ飲めないからな、お茶で我慢だな」

 急須に入れたお茶を飲むなんて、じいちゃんも変わってしまったなと思った。いや、本当にじいちゃんでは無くなってしまったんだなと思った。

 

 ポットの頭から湯気が噴き出るのをお爺さんはじっと見ている。

「俺なあ、列車乗るのが好きだった。実家が北海道なんだけどな、飛行機じゃなくて寝台列車で行ったわい」

「そうなんだ。日本海号だっけ」

「それは大阪発だな、東京から行く時は北斗星号だな」

 それを覚えていてなぜ僕を覚えていない。少しイラッとしながら、急須にポットのお湯を注ぐ。湯気がこの個室に充満する。

「おー、湯気だ。まるでSLだな。何年か前にな、孫と乗ったんだよ、秩父のパレオエクスプレスってのをな」

「そうなんだ、僕も乗ったよじいちゃんと」

「そうかいそうかい、田中さんの爺さんはきっと俺にそっくりなんでしょうね。日本酒なんか飲みながら、一度話がしたい」

「多分気が合うよ、だってじいちゃんだもん」

 

 僕はもうたまらなくなって、トイレに行くと言って個室を出た。お爺さんを部屋に一人にするのはまずいと思ったが、それ以上に自分の精神状態がまずいと思った。

 僕は僕だ。田中さんでも小林さんでもない。そしてあのベットに腰掛けて柿を食うお爺さんは、僕のじいちゃんだ。DNA鑑定すればわかる。それは揺るぎない事実なんだ。

 それでも僕は受け入れられなかった。お爺さんの世界観で進んでいくこの複雑な状況に僕は適応することができなかった。

 トイレの水がセンサーに反応して勝手に流れた、どんどん水が吸い込まれていく。じいちゃんの記憶もこの水みたいに勝手に吸い込まれていってしまったのだろうか。

 

 トイレから戻ると母さんがいた。

「ちょっと、じいちゃん一人にするってどーゆこと」

「ごめん、トイレ行きたくて」

 母さんは見知らぬお爺さんのために怒っている。

「トイレ行くなら田中さん呼んでから行きなさい」

「おいおい、田中さんならそこに立っとるぞ。あまりむきにならんでいい」

「じいちゃん、あれ、田中さんじゃないよ文太だよ。じいちゃんの孫」

「文太?知らんなあ、わしの孫は翔太じゃろ」

「翔太は甥っ子でしょ、しかも『文太』ってじいちゃんが命名したんだからね」

 僕はもうその場にいるのがつらすぎて「ごめん、母さん。偏頭痛かも。先に車帰って薬飲んでる」と嘘をついて、施設を後にした。

 

 僕の名前は文太という。「モンタ」と言う響きがどこか「マンタ」みたいで、あまり好きじゃない。

 詩人のじいちゃんは、太くて壮大な文才を持った子に育って欲しいと願って命名したらしいが、別に物書きになろうなんて微塵も思ったことはない。たしかに読書が好きなのは、遺伝的に受け継がれているものなのだろうが。

 

 母さんがこちらに向かって歩いてくるのを確認して、僕は目を瞑った。母さんが車のドアを開けて、「調子どお?」と僕に問う。「まあまあ、薬飲んだから良くなると思う」と返した。

「じいちゃん、やっぱり文太のこと覚えてないみたいね」

「まあ、仕方ないよ。そーゆー病気なんだから」

「まあ、そうね。でももう少し優しくしてあげなさいね。部屋に一人にしちゃだめよ」

「うん、ごめん」

 

 それから僕は母さんにじいちゃんのところに行こうと誘われるたびに、何か適当な理由をつけて断り続けた。車で片道一時間もかけて見知らぬお爺さんに会いに行くなんて時間の無駄でしかない。受験生だった僕は、それよりももっと有意義な時間の使い方があると思ってしまった。

 だから僕は頑なにじいちゃんと会うのを拒んだ。いや、見知らぬお爺さんと会うのを拒んだ。

 

 それから四ヶ月ほどが経った。僕は見事に志望校に合格して、新しい高校の制服を身にまとっていた。母さんに合格の報告をしに行こうと何度もしつこく言われたが、その度に断ってきた。何度も何度も断るうちに、母さんはとうとう呆れたのか、もう何も僕に告げず一人でお爺さんに会いに行くようになった。

 

 ある日の晩、父さんが大量の中華料理をテイクアウトしてきた。何のお祝い事だと胸を躍らせる僕とは対照的に母さんの目は死んでいた。

「どーしたの、これ」

「母さんが晩飯作る気力が湧かないって言うからテイクアウトしてきたんだよ」

「具合でも悪いのかな」

「いや、じいちゃんにとうとう忘れられたらしい」

「ああ、なるほど」

 母さんは黙ったまま、エビチリを一口食べてそこからピクリとも動かなくなった。まるで〆られたエビみたいに。しかし、僕はそんな母さんを見て、同情の念も、憐憫の念も湧かなかった。むしろ、僕の気持ちをやっと理解してくれるという、歓喜の念が一番勝っていた。

 母さんは夜ご飯をほぼ食べなかったので、大量に、中華料理が残った。おそらく明日の朝ごはんは麻婆豆腐だ。気を引き締めなければ朝から気持ち悪くなってしまう。僕は早く寝ることにした。

 しかし、なんとも目が冴えて眠れない。枕をひっくり返したり、トイレに行ったり色々試みるも効果はなく、いつまでも月光によって映し出される、窓際のサボテンの陰を眺めていた。

 目を瞑ってみてもだめだ。目を瞑ると、あの目の死んだ母さんと、見知らぬお爺さんと、僕のじいちゃんが交互に瞼の内側に浮かぶ。じいちゃんは笑顔だ。

 僕は気づいた。明日の麻婆豆腐のために早く寝ようとしたわけではないということを。この複雑な現実から逃げたいがために、死んだ目をした母さんを見て憐憫の念を抱かないおかしな自分に目を瞑るために、早く寝ようと布団に入ったのだ。

 

 それからも母さんは、見知らぬお爺さんに何度も何度も会いに行った。夜ご飯のレパートリーは、中華料理に限らず、ピザやハンバーガー、そばの出前など豊富になっていった。

 しかし、見知らぬお爺さんは死んだ。そして、死んだ瞬間に、見知らぬお爺さんから僕のじいちゃんに変身した。じいちゃんの家のお布団に白装束を着て寝る老人は紛れもなく僕のじいちゃんだった。

 母さんは泣いている。親戚の人たちも泣いている。しかし僕は泣けなかった。いくらじいちゃんが僕のことを知らなくても、あの人は僕のじいちゃんなんだ。もっとちゃんと会っておけばよかった。まさかあの柿を食べた日が最後になるなんて想像もしてなかった。

 そろそろ死んでしまうかもしれないと思いながらも、他の人として扱われるのがとてもつらくて、会うことができなかった。正直、後悔しかない。もっともっとじいちゃんのそばにいたかった。

 

 納棺のとき、母さんはじいちゃんの手帳を納めようとした。詩がたくさん書き溜められている手帳。僕はそれを読むのが大好きだった。

「ちょっと待って!その手帳。もらっちゃだめかな」

「何言ってるの、それがないとじいちゃん天国で書けないのよ」

「やだ、それ欲しい。ほら、これ、これにも書けるよ。これで良いよね」

僕はそう言って、ページが余ってる学校で使ってる数学のノートを納棺した。

「そんな仏様に罰当たりなことできないわ」

「違う、仏様なんかじゃない。僕のじいちゃんだ」

そう言うと母さんは黙ってしまった。

 結局、じいちゃんの手帳も僕の数学のノートも納棺されることはなく、じいちゃんのメガネと筆とそれから長い間連れ添ってきた猫の写真を納棺した。

 霊柩車がじいちゃんを迎えに来た。クラクションが鳴って、じいちゃんは家と別れを告げた。一年ぶりの帰宅では、ただ寝てるだけ。酒も飲めず、囲碁も打つことすらできなかった。

 

 じいちゃんのことが落ち着いてから僕は布団の中でじいちゃんの手帳を読んだ。どれもこれも懐かしい。小さい頃は全く意味なんかわからなかったけど、今になるとその意味がなんとなくわかる。じいちゃんがじいちゃんの感性を僕と共有している気がして、嬉しかった。

 どんどんページを進めていくと、半紙が二枚挟まっている。丁寧に四つ折りにしてある。広げてみると、筆で勇ましくなにか書いてある。

 

 川のほとりのよもぎの葉がさんざめく

 桜の花びら舞う美しき日に

 我が孫よ、誕生す

 清く逞しく勇ましい

 文才にも秀でることを願って

 ここに「文太」と命名す

 

 やはり文太というのはじいちゃんが命名してくれたんだと、改めて実感した。

 ではこのもう一枚はなんだろうか、おそらく母さんの命名に関することだろうと、四つ折りを広げた。

 

 何年後かにまみゆる我が曾孫よ

 我が死んでも良いように

 ここにこれを残しつる

 

 大樹のごとく言葉を繋ぎ

 芝蘭玉樹かのごとく

 美しき花を咲かせ

 人々を幸せにすることを願って

 ここに「文樹」と命名す

 

 ふと二年前の会話を思い出す。僕の子供の名前のお話。僕は冷たくじいちゃんをあしらってしまったあのお話。

 初めて「モンジュ」の漢字が「文樹」であることを知った。

 木は最初は花を咲かせることはできない。けれどだんだん大きく育って花を咲かせる。そうすれば「綺麗だ」と人々は幸せになる。文字も同じだ。最初はただの音だ「あ」なら「a」だ。けれどそこに「い」の一文字がつくだけで「愛」になる。それを紡いでいくと。「愛してる」になる。大樹になればなるほどたくさんの花を咲かせるし、文字が多くなればなるほど沢山の気持ちを伝えられる。そうすればもっとたくさんの人を幸せにできるんだ。

 じいちゃんは酒を飲んで酔っ払うといつもこの話をした。いつも僕たちは、また始まったと左耳から右耳に快速列車だったが、改めてよく考えると、じいちゃんも上手いこと考えるなと思う。そしてそのじいちゃんの思いがこの「文樹」という二文字に集約されているのに気がつくのはそう難しいことではなかった。

 

 それから一年後。僕はペンネームを「文樹」として、初めて小説を世の中に公開した。文字を紡ぐことの難しさを実感したのと同時に、じいちゃんの文才に感銘を受けた。

 誰からも僕の作品は読まれることはない。もちろんまだ誰も幸せにはできていない。なぜならまだ子葉だから。新芽としてこの大地にひょっこり頭を覗かせただけ。もちろん花なんて咲かないし、雑草と間違われて、引っこ抜かれてしまうかもしれない。

 けれど僕は諦めない、じいちゃんの思いを引き継いで、「文樹」としてみんなを幸せにするんだ。

 

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文樹 舞寺文樹 @maidera

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