大輔の場合 4
幸い雄大のケガは大したことはなく入院も不要で、その日の内に自宅に帰った。
後日中井コーチが背広姿で自宅に菓子折りを持ってきた。
大輔にはむず痒くなるような、他人行儀な堅苦しい謝罪を述べた後、洋子に「この後少し大輔とお話させていただいてもよろしいでしょうか。」と尋ねた。
洋子が部屋を出たあと中井コーチが口を開く。
「あのときは偉そうなこと言って悪かった。」
「あのときって?」
「ほら、救急車を呼んだ時。奥さんに任せっぱなしにしないで手伝えーって。」
「あぁ。まぁでも、お前の言う通りだよ。」
「いやあれさ、俺もお前と同じだったんだよ。」
中井コーチはふと視線を下にずらした。
「息子が一歳くらいのときかな。嫁が友達と映画行くってんで、二人で留守番してたんだよ。そしたら腹が減ったからさ、カップ麺でも食おうと思ってお湯沸かしたわけ。ちょうどつかまり立ちとかする時期だろ?テレビ見てたらいつの間にか近寄っててさ、ケトルに手伸ばして頭からお湯被っちゃったんだよ。」
「えっ、それって、相当ひどい火傷だったんじゃ…。」
「あいや、水入れてすぐだったからさ、びっくりして泣いただけで幸い火傷はしなかったんだけど。」
「よかった…。」
「んでまぁびしょびしょになったから着替えさせようとしたんだけど、服がどこにあるのか分かんないんだよ。家中の押し入れひっくり返してやっとそれっぽいの見つけてさ、なんとか着せたのよ。なんか着せ方が違ってたらしいんだけど、とりあえずそれは片付いた。今度は床を拭こうと思ったら雑巾がどこか分かんないわけ。これはもうぜんっぜん見つかんなくて、結局キッチンペーパー大量に使って拭いたんだよ。」
話を聞きながら大輔も確かに自分も雑巾の場所など把握していないことに気付いた。
「で嫁が帰ってきたからさ、あったことを話したのよ。いかに俺が苦労して息子の世話をしたのかって。そしたらもう嫁カンカンよ。ふざけんな!ってブチギレて、家追い出された。」
「えぇ!?そこまで!?」
「あぁ、俺も最初はそう思ったよ。なんとか後始末までしたってのに、なんで俺が追い出されなきゃなんねぇんだ?って。でも嫁は聞く耳持たずでな、仕方ないから一旦実家に帰ったんだ。」
中井コーチの実家は、大輔も学生時代に何回か遊びに行ったことがある。
「急に家を追い出されたからしばらく置いてくれーなんて言ったから、最初は両親も嫁に憤慨してたんだけどさ、ことの経緯を話したら血相変えて俺に説教しはじめたんだ。」
うん、中井コーチの父親は厳しそうな人だった。
母親は恰幅のいい元気な母ちゃんという風で、これまた怒ると怖そうだ。
「お前は大事な孫を殺す気か!ってね。俺はさ、後始末をしたことでミスは帳消しになってるっていうか、むしろプラスになってるくらいのつもりでいた。でもそんなの関係ないんだよ。重要なのは、俺の不注意で息子がケトルの水を頭からかぶったこと。お袋なんてさ、そんなことも分からない息子に育つなんて…とか言いながら泣きだすし。それでやっとことの重大さに気付いた。もしあれが沸かしたばかりの熱湯だったら…もう二度と、息子に会えなくなってたかもしれないんだよな。とにかく、まずは息子と嫁に謝りたいと思って。でもきっと家に行っても入れてもらえないのは目に見えてる。だから両親にもついてきてもらって、家に戻った。嫁は流石に親父たちも来たとなると無視は出来なかったみたいで顔を出してくれた。ただ、話は後日嫁の両親も交えてしたいと。その話し合いで、俺ら三人はひたすら平謝り、向こうは両親含め怒髪天だったな。そこで離婚届にサインさせられた。」
「えっ!」
大輔は思わず中井コーチの左手の薬指に視線を向ける。
そこでは結婚指輪がにぶい光を放っていた。
「いや、実際離婚はしてないよ。ただ誓約書?というか、次はないぞってことだな。嫁はマジですぐにでも離婚してやるってつもりだったみたいだけど。俺も嫁が本気だって分かったから、なんとかひと月猶予をもらった。そこからはもう必死よ。」
「何したんだ?」
「家にいる間はとにかく息子の世話をした。でももちろんいきなりできたわけじゃない。まずな、息子が何を使うのか、それがどこにあるのか全く知らないんだよ。」
大輔は心の中であ、と呟いた。
心臓を針でつつかれたような心地がした。
「嫁に聞いたらそりゃもうたくさんあってとても覚えきれない。でも覚えなきゃいけない。引き出しに中身を書いたシールを貼ったり、ルーティンを書いたノートも作った。やったつもりでも何かしら抜けてることがあるから、毎日チェック表に記入した。俺はそんなにしなきゃできないのに、嫁は流れ作業みたいに当たり前にこなしてくんだよ。ものをしまう場所もやり方も嫁が決めたから当たり前だって思うかもしれないけど、違うんだ。俺が探し物をしてるとき嫁に聞くと、必ず場所を言い当てるんだ。俺が自分でしまったものでも、嫁は把握してるんだよ。まいったよ。俺も全部覚えなきゃって焦ってたけど、嫁に言われた。全部が全部完璧に覚えろとは言わない、でも最低限これの場所だけは絶対に忘れるなって。それが母子手帳とお薬手帳と保険証だったんだよ。急病になったとき必要になるからって。なんかあったときは最低限これを持って病院行くなり救急車呼ぶなりしろって。」
ははぁ、ここでこの間の話につながってくるわけか。
「でも保険証ってそんなに重要か?とりあえず払っておけば後から返してもらえるだろ?」
「いや、むしろ大事なのは他2つだよ。保険証のがおまけ。予防接種とか、今まで処方された薬とか医者が確認するんだよ。アレルギーとかあったら困るだろ?使ったことある薬なら大丈夫だって医者も分かる。」
「はー、そうなのか。それにしても家でも事務仕事みたいなことして、大変なんだな。」
ふっ、と中井コーチは哀れみとも嘲りともとれる息を漏らした。
「お前、本当に雄大の世話したことないんだな。」
大輔はむっとして言い返す。
「ないことはないだろう。毎週練習に付き合ってるんだから。」
「付き合ってる?送り迎えして、見学してるだけなのに?」
「それで十分だろう。他の父親だってそうじゃないか。」
「そりゃ外から見える部分だけだろ。家ではどう関わってる?」
家での関わりと言われて、大輔は雄大が怪我をする少し前に交わしたやりとりを思い出した。
野球からの卒業 浅見あざみ @Hunnybee3
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