【1/25】役なし親父/たぬき・傘・バス停

お題:『たぬき』、『傘』、『バス停』

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 ざあざあ降りの雨が全身を撃ち抜いてくる。蜂の巣となった身体からは、どんどんと熱が漏れ出てるのを感じていた。寒さで手先が震え、歯が鳴り始め、脳が悲鳴を上げてるのが聞こえてくる。

 少しでも誤魔化すために、俺は走った。肺からは、ハッハッと間隔が短い息が漏れ、脇腹を劈く痛みに我慢してまでして、自分を追い込む。そうすると、寒さも、嫌なことも全部、忘れられた気がする。

 だけど、こんな荒治療をずっと続けられる訳もなくて、やがて俺は道路のど真ん中でしゃがみ込んだ。酸欠で頭がぐるぐるして、気を抜くとすぐにでも嘔吐えずきそうになる。荒い息で呼吸を整えた。視界は膝で塞ぎ、感覚も寒さで麻痺している中では、一層、聴覚が鋭くなる。車も人通りもないせいで、雨がアスファルトを撃つ音がいやに響いた。似ても似つかないはずなのに、さっき聞いた嫌な騒音と重なって、俺は耳を塞いだ。

「おい、坊主」

 誰かの声が聞こえた気がした。

「んなところでしゃがんでねぇで、お前さんもこっち来いよ」

 気のせい、ではなかった。森をバックに、古びすぎてもはや貫禄さえ感じるバス停のベンチに、中年のおじさんが座っていた。貧相な格好をしており、なんだか不潔さを感じるその姿は、テレビで見たホームレスみたいだった。白髪混じりの茶髪はしっとりと濡れており、おじさんもこんな日に傘を忘れて外に出た馬鹿者なんだろう。

 冷えきった身体はとうに限界を迎えており、わざわざ雨に晒される趣味もないので、屋根のあるバス停のベンチに座った。空白の多い時刻表が視界に入る。きっとここの数字たちも、この大雨では役割を果たせない。

「それで坊主。あんだけ走ってどこ向かってたんだ? バスは来ねぇと思うぞ?」

 隣のおじさんは図々しく話しかけてくる。その無神経さが癪に障り、俺はぶっきらぼうに「別に」と一言返し、突っぱねた。そこで会話は終了。おじさんも俺が話をするつもりがないと理解したのか、黙って暗い雨雲を眺めていた。そこから落ちてくる無数の雫。それに濡れることはなくても、煩わしいこの音は消しようがなかった。

「なあ、ちょっとした賭けをしないか」

 前言撤回。おじさんは何もわかっていなかった。くだらない提案、気の抜けた声。どうしようもなく腹が立って、おじさんの方を睨むと、

 諭吉が三枚、そこにはあった。

「勝負は三回。お前さんが一回勝つ度、これを一枚やろう」

「なに、言って……」

「お前さんの方は、なにか賭けるものはあるか?」

 あるわけない。こちとらまだ中学生、万単位の大金なんて持ち運ぶわけがない。それに、傘すら持たずに家を飛び出した俺が、財布だけは持ってる、なんてこともあり得なかった。

 それでも無意識にポッケを探っていた。コツンと、指に硬い感触があたった。それを取り出すと、三枚の硬貨があった。百円玉二枚に、五円玉一枚。諭吉三人衆を前にしては、桜と稲穂なんてあまりに雑魚すぎる。文字通り桁違いの差がある。

「おっ。あるじゃん、あるじゃん。じゃ、やろうぜ。一回戦は五円。二、三回戦は百円で手を打ってやろう」

「は?」

 それでもおじさんは気にせず、勝負を始めようとした。

「待て、待てよ」

「ん? 何か問題あるか?」

「問題、というか。アンタはそれでいいのかよ」

 おじさんは疑問符をひとつ浮かべ、それからようやく納得がいったように頷いた。

「ああ、掛け金のことか。モーマンタイ。おじさん、勝てる勝負にしか出ない主義なので」

 そこでようやくおじさんの意図に気づく。勝負の内容をおじさん有利のものにして、俺から端金を巻き上げるつもりだろう。そして多分、本当の目的は暇つぶし。だって二百五円じゃ、雀の涙にもならないし。

 まあ、付き合ってやるか。ないだろうけど、諭吉が貰えるのかもしれないし、なによりおじさんと喋ってると、雨の音が気にならなくなる。

「勝負の内容は?」

「それは──不幸自慢バトルだ」

「不幸自慢?」

「ああ、今までの自分の人生であった不幸のことを話して、その不幸度合いでバトルするのさ。ジャッジはいないから、勝負は俺たち自身で決める。あっ、もちろん作り話はなしな。絶対に、ぜーったいに嘘だけは言うな」

「なにその、誰も幸せになれない勝負」

「別にいいだろ、どうせ暇つぶしなんだし」

 今まで自分の人生であった、不幸。確かにこれはおじさん有利かもしれない。なんて言ったって、人生経験の差がありすぎる。

 でも、だけど、これならワンチャンあるかもしれない。能力的に不可能って訳でもないし、審判はいない。明らかな不幸度合いの差がなければ、粘れば……いける、かも。

「わかった。やる」

「おーけー。じゃあ、じゃんけんしようぜ。負けた方が一回目の先攻。回ごとに交換といこうか」

 じゃんけんの結果、俺がチョキでおじさんがグー。

「坊主、お先にどうぞ?」

 後出しできる後攻が圧倒的有利だからか、おじさんは勝ちを確信したようにニヤニヤしていた。腹が立つが、実際そうなのだから仕方ない。俺も半分諦めながら、自分の不幸について語り始めた。

「去年、飼ってた犬のソラが亡くなったこと、かな」

 不幸というには、ありきたりすぎる話かもしれない。だけど、大好きだったソラがいなくなったのは、相当、こたえた。犬嫌いな兄貴は、たかがペットと言ったけれど、俺にとっては間違いなく家族だったのだ。

「初っ端から飛ばしてくんじゃねぇか……じゃ、まあ負けじとこっちも語りますか」

 若干センチメンタルな声で、おじさんは続ける。

「奥さんが、死んだんだ」

「えっ」

「ひと月前くらいに、事故でな」

 嘘だ、なんてとても言えなかった。おじさんの顔を見れば、嘘はないことはひと目でわかったから。ソラでも、あんな胸が引き裂けそうな気持ちになったんだ。なら、それが生涯の伴侶だったら、どれほどの。

「おい坊主、お前がそんな顔するなよ。悪かったって」

「俺の負──」

「引き分けだな」

 うんうんと頷きながら、おじさんはそうジャッジした。

「なんで、」

「お前にとってのソラは、家族だったんだろ? そしておじさんにとっての奥さんも、家族だった。だから、ほら。引き分けだ」

 博愛主義者だとしても考えられないほどのガバガバ審判だ。だけど、

「うん、引き分けだ」

 否定できなかった。おじさんが肯定してくれたのに、わざわざ否定するなんて、俺にはできるわけがなかった。

「じゃあ次はおじさんから。そうだなぁ、何について話そうかなぁ。最近ゲテモノしか食ってない話する?」

「はい?」

「カエルにヘビに、そこら辺の森にある果物とか。あと虫……」

「いやいや、待って待って。え? なんで?」

「なんでって……人間様が食うようなご馳走はおじさん買えないから、自給自足してんだ」

「それは、生活が苦しいって……こと?」

 おじさんはうんともすんとも言わない。これは多分、沈黙のイエスだ。

「じゃあ、この三万は……」

「おじさんのなけなしのお金。全財産」

「アンタなんてものを賭けてんだ!!」

「そう褒めんなよ」

「ベタなボケはいらんわっ!」

 待て待て。事情が変わった。多分これも嘘じゃない。諭吉は欲しかったけど、それがおじさんの生命線だと思うと俺には重すぎる。

「二回目は俺の負けでいいよ。さすがに全財産三万のおじさんの不幸に勝てる経験、俺にはない」

「あん? 降りるってか? つまんねーの」

 おじさんを思っての申し出なのに、それを汲まないことに若干の苛立ちを覚えた。だがまあ、いい。次は俺が先攻。しょうもない不幸でも言って、おじさんに勝ってもらって……

「次俺が勝ったら、お前さんの所持金は五円だな」

 そりゃあ、そうだ。何を当たり前なことを、

「なあ、そんな金でどこ行くつもりだ?」

 いつでも飄々としていた目が、真剣なものとなって俺を見つめて来た。

「どこって、」

「逃げてきたんだろ? この雨の中、あんなに全力で走って」

 なんで、

「一万あったらどこまで行けるかなぁ? 行くだけなら、結構遠くまで行けんじゃねぇの」

 どうして、

「あっ、それとも。『おじさんのため』とかいうだっせぇ免罪符掲げて、みっともなく帰るのか?」

 そんなことを言うんだ。

「それは嫌だろ? だから、吐けよ。吐いて楽になっちまえよ。これは不幸だ。堂々と自分の不幸を嘆いていい、またとない機会だぞ?」

 そうやって、唆すんだ。

「さあ、坊主────」

 おじさんの顔がよく見えなかった。

「三回戦を始めよう」

 ぐにゃりと輪郭が歪んで、

「おれ、帰りたくない」

 気づけば本音を漏らしていた。

「おっ、おれ、二歳上の兄貴がいて、そいつがすっげぇ出来がいいんだ。というか、父さんも母さんもあたまいいから、それは当然なことで、でも、俺はとうぜんじゃなくて、」

「そうか」

「が、がんばっても、頑張っても兄貴のようにはできなくて、もう精一杯、がんばってるのに、ガンバレって、何度も、なんども、言われて、」

「ああ」

「じゅけんが近いのに、ぜんぜん、全然成績上がんなくて、今日、とうさんから、能なしって言われて」

 なんだこれ、恥ずい。おじさんに勝ってもらうとか言っときながら、泣きながら本音を零している。

「おじさん、は?」

 気を逸らすためにおじさんにターンを回す。おじさんは俺から視線を雨雲に移して、

「今日ここで、お前さんと話せたことだ」

 そんなことを呟いた。

 雨宿りしてる中、中学生男子に泣かれながら愚痴られる。確かに、不幸かもしれない。

「めんどくさくてすみませんね」

「そう不貞腐れんな。良かった、ってことだよ」

「よかった?」

「そう、良かった。だから、三回戦はお前さんの勝ちだ。おめでとう」

 そう言って俺に一枚の紙切れが贈呈される。意図せず貰ったそれは、湿気きってて、あまりに、惨めだった。

 おじさんが立ち上がる。同時に、窓を開けた瞬間みたいに、くぐもっていた雨が、再び轟音となって俺を襲った。

 逃げなければ。そんな思考が過ぎる。遠くに、とは言わないけれど、せめて、この声が聞こえないところまで。せっかく、手元に大金があるんだから。

「おじさん、ありがとう」

 バス停からどこかに向かい始めたおじさんの背中に、礼を言う。おじさんは歩みを止めた。そして、クククッ、って、失笑した。

「ありがとう、だと? 坊主、何か勘違いしてないか?」

 轟音が一瞬止む。聴覚のすべてが、おじさんの言葉を拾おうと集中する。

「配られたカードがどんな役でも、勝負ゲームに降りさえしなけりゃ、いくらでもやりようはあるんだよ。不幸自慢バトルで幸せを語るような役なしブタだって、タヌキぐらいにはなれるんだぜ?」

 おじさんがこちらを振り向く。楽しそうに笑いながら。

「んで、タヌキは何にでもなれるんだ。そして上手くいったら、こうやって嘲笑わらってやればいい」

 とびっきりの悪人顔の横で、俺から巻き上げた一枚の桜が宙を舞い、

You fell for it!化かされたな!

 膝に重みを感じた。下を向くと、さっきまで置いてあったはずの諭吉は跡形もなく消え去り、代わりに薄汚い折りたたみ傘があった。

「おじさん、」

 次に前を向いた時、おじさんもそこにはいなかった。代わりにいたのは、茶色の毛をした一匹の狸。それは銀に光る何かを咥えながら、森へと帰っていく。

 ポッケを探ると、コツンと、指に硬い感触があたった。それを取り出すと、二枚の硬貨があった。百円玉一枚に、五円玉一枚。

「なんだよ、これ」

 声が震えてしまうのは、仕方ないことだと思う。俺は顔を拭って、膝に置かれていた傘を広げる。

「なんだよ、この傘」

 シャフトは曲がっていて、三分の二くらいしか開かない。傘地もところどころ穴が空いていて、これじゃ傘の役割も果たせない。森かどっかで捨てられてたのを拾ってきたのか、と思ってしまうほどの能なしだ。贈り物としてはセンスが無さすぎる。

 でも、それがまた役なしたぬき親父っぽくて、俺はひとつ笑ってから、立ち上がった。車通りも、人通りもない。だけど狸が出ると噂のバス停には、心地よい音が響いていた。

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加峰椿の三題噺まとめ 加峰椿 @K0kutyu

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