錆びた月

夕季 夕

錆びた月

 人生で初めて人の前髪を切った。

 薄暗い洗面所で、お互いに正座して向き合っている姿は、側から見たらなんらかの儀式に見えるだろう。錆びたはさみを小さく動かすたびに、彼の髪が私の膝に落ちた。


「なんで、私がキミの髪を切らなきゃならないの」

「こういう作業、得意でしょ」

「得意なわけないでしょ、美容師さんじゃないんだから」


 前髪無くなっても知らないよ、と言いながらはさみを動かす私に、それは困る、と彼は返した。けれども、その言葉にはなんの感情もなくて、根拠もないのに私を信用しているようだった。

 この人は今、私のことを信用しているんだ。そう考えると、変な気分だった。


「結構切ったよ」


 ちょっと鏡で確認して、と私が促すと、彼は立ち上がってまじまじと洗面台の鏡を見つめた。それから、一頻り確認すると、また姿勢を正して座り「もう少し」と言って目を瞑った。


「まだ切るの」

「眉毛の下くらいまで」

「ちゃんとお金を払って切ってもらいなよ」

「いや」


 この方がいい、と言う彼はきっと酔っ払っている。そして、私も酔っている。今日は久しぶりにお酒を飲んだ。

 今日はいい夜だ、と彼は言った。


「よかったね」


 そう言いながら、彼の要望に応えるべく、私はまたはさみを動かした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

錆びた月 夕季 夕 @yuuki_yuu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ