奈落の天

鱗青

IN THE HIS NEW GLORY

 この世界を喩えるなら、色の洪水だ。

 ありとあらゆる色彩シェイプ、変幻自在の陰影トーンが重なり、ぐちゃぐちゃに絡まり合った世界だ。

 僕がそう説明しても大体のひとは狐につままれたような声色になる。「ああそう、ふーん?」「そうなんだ、すごいね」…この程度の感想だ。

 違うのはあのひとだけ。僕が尊敬し、愛している父さんの次に…ううん、同じくらい大切に想う、あのひと。

 ブヒブー様シニョール・ブヒブーだけだった。

 

 じくじくとしつこい雷鳴混じりの雨の中、ハナズオウの爽やかに甘い香りが鼻先をふと通りすぎた。

 僕は傘を持つ手を少し上げて、街の風を傘の下に招びこむ。うん、間違いない。父さんいうところの「恥知らずの軽薄なピンク」の花をつける木が、長い冬の終わりにようやく目覚め出したのだ。

 僕はふくふく丸いほっぺに満面の笑み。片手に抱いたパンの紙袋をたくし上げて家路を急ぐ。

 アパルトマンの玄関にはすでに父さんが出迎えていた。開口一声、

「もう真っ暗なんだぞ!お前一人で散歩するなんて危ないじゃないか、サライ」

 キツめの言葉だけれど、降ってきたのはゲンコツではなくて、優しい大きな掌だった。男手ひとつ、朝も夜も佐官と大工仕事を掛け持ちして僕を私立のマッサージ専門学校shiatsu collegeに通わせてくれた父さん、ピエトロの傷だらけの手。

「最近、ここいらも治安悪いっていうもんね。今朝の夜明け前にも宝石店が強盗に遭ったんでしょ」

「…知ってるならなんで」

 僕は紙袋をお父さんの方へ差し出す。

「午後最後のお客様が早めに終わったからね、東区で最近話題になってるパン屋に行ってきたの。パリ風の菓子パンがとっても美味しいんだって、シニョールのお墨付きだよ」

 父さんが分厚い唇をへの字に曲げた。分かる。

「ブヒブーか」

「ちょっと、父さん!あのひとはいまウチで一番のお得意様で気前の良い紳士じゃないの。そういう言葉遣いはいけないんじゃなかったっけ?」

「───そう教えたのは、俺だが」

「そう。他人ひと様には親切に、丁寧に、正直に。美しい心は美しい言動から作られる…とかも、そうだよね?忘れてないからね僕」

「こんなに馬鹿正直になるくらいなら、少しは悪い道に染まってしまってもよかったな」

 ちっ、と舌を鳴らしている父さん。僕は吹き出してしまう。

「ほら、中に入ろ。せっかくの焼きたてが冷えちゃうじゃな…」

 まだ開けていないドアの向こうから、厚みのある匂い。僕の背筋が伸びる。紙袋の中でパンが音を立てた。

「もう分かったか…フー」

 ため息をつく父さん。呆れているんだ。

「そうだ、あのひとだ。ついさっき来て、二階で待ってい…」

「これお願い、父さん!」

 袋と傘を押しつけて、僕は螺旋らせん階段を駆け上がる。一歩近くなるほどに強くなっていく匂い。

 二階の奥、アパルトマンの一室を改造した施術室に飛び込んだ僕を、鷹揚おうような笑い声が出迎えた。

「ブッヒッヒッヒ!そんなに焦ると転ぶぞサライ君」

「───…シニョール・ブヒブー!」

 僕はコートを振って水滴を落とし、ポールハンガーに引っ掛けた。素早く部屋の電灯をつけてエアコンを入れる。しかしボタンを押しても反応がない。また故障か、これだからメイド・イン・チャイナは!

「予約を入れずに申し訳ない。時間もこんな遅くなってしまった」

「そんなの気にしないでくださいよ。シニョールのためなら真夜中だって開けますから」

 パテーションの陰に用意してある白衣に素早く着替える。室内にはシニョールの他に三人ほど気配があったが誰も無言。これはいつものこと。いちいち丁寧に挨拶あいさつしていたらむしろ彼らの仕事の邪魔になるだろう。

「護衛の方たちも、よろしければ空いているベッドに腰掛けちゃってください。もう今日は誰も来ないので」 

「気づかいいたみいるが、らは俺様の道具と同じ。立ちんぼで構わんのだ。ついでに言うと、どこかの送電線に落雷したらしいぞ。絶賛停電中だ」

うわあマンマミーア!それじゃあ寒かったでしょう」

「何ほどのこともないさ。俺様の面の皮、もとい全身の皮は鋼鉄製だ」

「あれ、もしかして明かりがついてないんじゃ…」

「別に不便でもない。服を脱いでこのパンツに着替えて待っていただけだからな」

 そばに寄った僕の手を導いて、シニョールが腰を触らせる。使い捨ての紙の下着の感触と、それをとおして伝わる熱いくらいの体温ぬくもり

「それに俺様にとっての暗闇も、君にとっては“色彩シェイプの洪水”なんだろう?」

 僕はシニョールに向かって微笑んだ。

 正確には「僕がシニョールがそこに居ると確信している方向と角度」に向かって微笑んだ。

 僕のめしいた瞳の色はヘイゼル・ブラウン。この瞳の色と金に近い栗色の巻き毛、顔立ちは母さんにそっくりなのだと父さんは教えてくれた。

 けれど───

 僕は毎朝顔を洗う。けれども、きっと生涯、鏡を見て母さんをしのぶことはないだろう。

 

 マッサージテーブルにうつぶせになり、頭側の凹みにスッポリと顔をめたシニョールにそれでは始めますとことわりをいれる。

 僕はどちらかというと指圧と按摩を中心に教わってきたので、まず温めたボディタオルを投網とあみのように空中で広げながらシニョールの身体に乗せる。

 それからざっくりと軽擦けいさつ。掌を使って腰臀部から項部、それから左右の肩峰けんぽうへ。抜けるように、だが確かな密着を与える。

「ここのところ二日とあけずにいらしてくだすって本当にありがとうございます。それだけでなく色んなことを教えて頂いて…今日は午後時間があったんで例のパン屋さんに足を延ばしてきたんですよ」

「おお。どうだった?ヘーゼルナッツのクロワッサン、絶品だろう」

「買ってきたばかりなんです。後でじっくり父さんと味わうことにします」

「そうか。それは重畳Sono content

 続いて左項から乳様突起へ向かう指圧。いつものように強さを確認。「うん。問題ない」との答え。

「しかし──どうも君の父君は、俺様のことが気に食わないようだが」

「ああもう、父さんまた何か失礼な応対をしたんですね?」

 シニョールの言葉に僕は酸っぱい気分になる。

 足を前後に開いて立ち、シニョールの項をす右手の母指の腹に向けて腰を前後させる。性急にならず、まだるっこしくならないように。腰を使うことで一定のリズムを作るのに慣れたのは、まだ最近のことだ。

「…父さんは多分、意固地になってるんだと思います。シニョールがあまりに良い人だから」

「ほう?」

「お父さん、去年親友だったひとからだまされてものすごい借金を負っちゃったんです。元からローン組んで出したこの店まで借金のカタにされそうになって、果てはマフィアじみた輩にまで追い回されるようになって…シニョールが資金援助してくれたのと、部下の人達が守ってくれたからなんとか僕達無事に済みましたけども…それがなかったら、僕なんか今頃首都ローマで男娼とかやらされてたのかな…なんて。シニョールには本当にいくら感謝してもしきれませんよ。僕にとっては頼りになるもう一人の父親みたいなものです」

 言っていて手先が熱くなるのを感じた。気付かれてないと思うけれど、意識して呼吸をととのえる。

「ふむ。それでなぜ俺様が目の敵にされるのかな?」

「それなんですけど…どうも父さんは、シニョールのが怖いみたいなんです。ほら、一度大事な友達に裏切られてますから、良い人であればあるほど逆に信用できない、っていいますか…」

 シニョールが鼻を鳴らす。

「“蜂の巣の怖さを知って、蜜のかめを遠ざける”ということだな」

「そんなことわざ、聞いたことないです!うわぁ、本当にシニョールは物知りでいらっしゃるんですねえ」

 シニョールの頭側に移動して、側頚部から肩上のラインに入る。カウント、1、2、3、4、5。2番目と3番目に硬結コリの手応え。そこを連続して押し崩していく。

 シニョールが唸る。低い知的な響きだ。専門学校の講師は晴眼者めあきの同級生には「施術を受けている人間の表情を常に観察しろ」と口酸っぱく指導したが、僕に対しては何も言わなかった。

 バカにするな。僕ら視覚障害者だっているものはちゃんとあるんだ。

 シニョールの場合、硬結にヒットすると声が漏れる。次にそこがベストであれば、僅かに体表にしびれたような感触が走る。

 僕はそれをる。て、施術に応用する。 

 2番目に確かにそれがあった。僕は確信を持ってそこを突き崩すと、肩甲骨周辺の流れを押すためにまたシニョールの左側に戻る。

 今度は僕の正面に垂らした左腕と横たえられた上半身がある。まず肩甲骨外縁を押す。みっしりと肉がついてはいるものの、ここは骨がほぼ体表近くに浮いているのでポイントを捉えやすい。

 それから、腕。上腕二頭筋も三頭筋もハムのように太くて固い。

 …シニョールの指が、僕が前腕の筋群へ圧を加えるたび、僕の太ももにピクピクと当たる。無意識の、単純な筋反射だ。

 だけども僕には少し刺激が強い。他の患者さんなら何も思わず何も感じないのに、シニョールの指だとくすぐったくて、でももっと触れられたくなる───

 いけない、集中!

「結構手を使われてますよね。それに目も。考えごとも多いでしょう?」

「うん、当たっているな。そんなことも分かるのか?」

「さっき風池ふうちのあたりにも疲労がありましたから。使いすぎで緊張しているというより、エネルギーが足りなくなってる感じです。お仕事に熱心なのは良いことですけど、お体も大事になさってくださらなきゃ。休養も大事です」

「君とのこの時間が、それなのだが?」

「ぼ、僕は嬉しいです、けど、精神的なものだけじゃなくてきちんと睡眠とかとると良いって、ことです。温泉も効果ありますよ」」

 飛び上がる僕の気持ち。同時に声まで裏返ってしまった。

 肘の重要けつ曲池きょくち肘窩横紋ちゅうかおうもん外側がいそく、上腕骨外側上顆がいそくじょうかにあるツボを押す。

「ん…ん。じんわりと、左手首にまで温かさが伝わってくるぞ…」

「強さはどうですか?」

「うん、大丈夫だ。…ああ、そこそこ。なんでコっているところがわかるのだ?」

「企業秘密です。というのは冗談で、そうですねえ、なんというか…僕の場合、触るとピリッとくるところがあるんですよ。大体そこをほぐすとみなさん楽になります」

「なんともたのもしい。流石はプロだな」

「そうおっしゃって頂くと嬉しいです。でもこれから一生修行みたいなものですよ」

 前腕から手首を越えて、掌へ。分厚くて、ややガサついているけれどそれが触っていて気持ち良い。いかにも仕事のできるおとこの鍛えられた手、だ…

 シニョールの唸り声がまた響く。僕は、このもっちりした手で誰か素敵な女性の腰を抱いたり、この太い指で肌に触れるのかな…などと考えてしまう。

「サライ君は、女の子と付き合ったりしているのかい?」

「へあっ⁉︎」

 唐突な質問に、ついシニョールの手を取り落としそうになる。

「いや、な。サライ君ぐらいの美少年ともなれば引く手あまたなのだろう?休日ぐらい羽を伸ばしてデートなぞして楽しむのが普通だろうと思ってね」

「え、あ、そういう意味ですか…あはは、僕には今は仕事が恋人みたいなものですよ」

 そして外見を褒められても僕の心には響かない。それを確認するすべがないのだから。

 街では知らない女性から声をかけられる。たまに男からも。けど、「キミ、可愛いね♡」と言われて気分が舞い上がるどころか気持ちが悪くて怖くなる。本音を言うのを避け、笑ってその場を離れることくらいしかできないけれど。

 …シニョールから言われるのは、ちょっとだけくすぐったいけど。

 いや。うん、嬉しいんだ、僕は。内心喜びでいっぱいだ。

「そいつはいかん。若いうちは遊び、楽しみ、笑って過ごすことも大事なのだぞ。人生の苦渋はいずれ放っておいてもやってくるが、サライ君の青春はまさに今ではないか」

「──お気遣い感謝します。でも、今はまだそんな気にはなれないんです。それに父さんがいるし…」

「父君は、君のそういったことにまで口出ししてくるのかい?」

 僕はシニョールの左手の名残を惜しみつつ、今度はベッドに片膝をついて脊椎に沿ったラインの押圧に入る。

「心配性、っていうものなんですかね。僕が音楽鑑賞とか接触可能美術品の鑑賞とかの地域サークルに入るのも反対されてます。…今のところは、って、言ってますけど、ねっ」

 肩甲骨内縁角ないえんかくと脊柱の間、それと第十一胸椎T11の横ぐらいに頑固な硬結を発見。連続母指圧で打ち崩していく。

 シニョールの背中はやや丸い。腹部の肉のせいでうつぶせになるとそうなるのだ。皮膚も厚くて硬い。脊柱直側の筋肉は後頭部から骨盤まで届く長い筋群だが、これがまた普通よりもかなり発達している。

 母指を使っても皮膚の下の硬結にギリギリ届くかどうかの深さだ。僕は腰を浮かせ、ほぼ全身の重みを集中し、シニョールの背部にひそんだコリを狙う。

 僕の施術がこのあたりに来ると、決まってシニョールの身体に変化が起こる。それは───匂いの増加。

 僕の指圧によって血行がスムーズなった効果なのだろう、控えめに汗ばみしっとりとなったシニョールの皮膚から独特の体臭が一気に、せきを切ったように発散されてくるのだ。

 鼻腔びくうになだれ込むシニョールの肌の匂いで僕はクラクラしてしまう。胸がむせかえるような、それでいていつまでも嗅いでいたくなるような不思議な匂い…これは…父さんの安タバコと汗とも違う…どんな表現が合うだろう……

 …野生的?

 そう、野生的だ。それが一番しっくりくる。扁桃体へんとうたいに絡みついて離れない、けれどその締め付けが心地よい。そんな気分にさせてくれる。

 シニョールの施術に入って初めの頃は衝撃を受けた。けれど今となっては、僕はこれを嗅ぎたくて、シニョールの来訪を心待ちにしている。

 そんなことを伝えては、さしものシニョールも気持ち悪がるかな…

「残念なことだ。…もし私が温泉に行くのに君を誘ったら、やはり反対されるのだろうか?」

「どうでしょう…えっ?すみません、なんですって?」

 いけない!シニョールの体臭に夢中で、つい生返事なまへんじを!

 シニョールの頭が動く。僕を見上げているらしい。

「実はいま、父君にも加わってもらっている大きな仕事があるのだ。それがひと段落ついたら、サライ君をへ連れ出してみたくてね。日頃からの恩返しも兼ねてさ」

「外ってどこの…」

「とこでもいいぞ。そうだ、君の望むところに招待しよう!温泉でも海でも、───もっと遠くになっても…」

 僕の胸が熱くなる。頬に血が昇ってくる。

「…君を連れて行きたいな。外の世界の雄大さを、じかに教えてあげたいものだ…」

 外へ───この街を出るのは僕の夢だ。

 物心着く頃に視力をなくし、同時に母さんも亡くした僕。そんな僕を不憫に思い、大事に大切に育ててくれた父さん。境遇は不幸どころか多分に恵まれていると思う。

 けれども、僕の中で日々刻々肥大化していく希望のぞみがあるのもまた事実。

「…遠くへ……行く…………」 

 でも、それは…

「……………………ありがとうございますシニョール…でも…そうですね、それこそ父さんが反対するかな。お気持ちだけでも嬉しいです!」

 無理やり明るく返した。

 考えてはいけない。そう、それは想像してもいけないことだ。だって、僕が父さんぬきに外の世界へ自由に飛び出すのは───それもシニョールと一緒になんて───チラとでも思い描けば甘い期待に浸ってしまい、どうしようもなくなってしまうだろうから。

「あ、この近所のカフェとかどうですか?それなら父さんも許してくれるでしょう」

「カフェ?ああ、二、三軒先の小さい店か…あんなところでいいのか」

「充分ですよ。僕にとっては」

 指圧の母指が、ひときわ重厚な臀部ゾーンに入る。そういえば、もシニョールの肉体からだの特徴的な部分があるんだよね。

「…何を笑う?」

「え?あ、はい、思い出し笑いです」

 股関節の外側、人間の体の中で体表から触れることのできる骨部位のひとつ、大転子だいてんしから骨盤の要である仙骨端に向けての筋群をほぐしていく。シニョールは尻の丸みを作る筋肉群が本当にたっぷり付いていて、押し甲斐がある。

 この辺でもう一度力加減を尋ねる。シニョールはいいぞ、という。───物足りないのではないかと僕は内心いつも申し訳なくなる。それほどにこの辺の筋肉(一般的には尻たぶとか呼ばれるだろう)は固く、硬結の位置も深い。僕のまだ駆け出しの未熟な指では弱すぎて、満足に押し切れていない感がある。

 肘を使えば届くかも。でもそれは患者様に対して不敬にすぎるからと、僕が教わった専門学校では禁止されていた。

「白状するとだな、一番最初にここへ来た時、君に拒絶されるのではないかと思っていたのだ」

「え⁉︎一体なぜ⁉︎」

「ブハハハハッ!そう驚くことはないだろう。そうなっても当然だというだけだよ」

 気持ちの良い大笑いでシニョールの臀部まで揺れる。

「この、のことですか?」

、でいいさ。普通の人間はイヤがるだろう、こういうの」

「うーん、そうですねえ。迷信深いひととか地方のお年寄りなんかは未だにそうかもしれませんけど」

 僕も可笑しくなって、話題のその部分に掌をあてた。

 シニョールの臀部には突起がある。少し長さのあるそれは、確かに尻尾と呼んでも差し支えない形をしている。───というか。

「まだ僕が晴眼者めあきだった頃、牧場で飼われている動物に触らせてもらったんですよ。その記憶が、こうブワーッ…と湧いてきて。懐かしかったです」

 掌で包み込むように握ってしまえるシニョールの突起。途中くるんと一巻きしていて、ほどよい弾力と血液の温かさと拍動が感じられる。もし僕の目に光があれば、子豚さんのような尻尾が確認できるのかな。

「可愛いですよ。とっても」

 ムゥ、と唸り声が聞こえた。照れているのかな。

 あまりいじくると失礼かもしれないので、続けて仙骨周りのほぐしに移る。

「そんな風に言ってもらえると、俺様も複雑だ」

「え?いいじゃないですか、とてもキュートで、愛らしくて…シニョールみたいにしっかりした大人の男の人だと、ギャップ萌え?とか言われるんじゃないですか?」

「それは褒めすぎだろう」

 また笑う。朗らかに。

 臀部の大丘を下ったところ、大腿の付け根に入る。うん、この辺はやっぱり相当使い込んである。スポーツジムなのか仕事なのか分からないけど、走ったりしゃがんだり、あるいは登攀とうはんするような動作が多い証拠だ。

「ぐぁぁぁ、効くなぁ〜…」

 シニョールの声をながら、筋肉に沿って押していく。坐骨神経に関わる経穴を忘れずに刺激。

 かなり時間をかけて膝裏に到達し、ふくらはぎはさらに時間を割いた。パンパンなのだ。硬結を砕き、疲労物質を動脈の流れに溶かしていくように繊細に、丹念に揉んでは押す。

 足底。シニョールはどうやら最近大酒を食らったらしい。肝臓と腎臓の反応点がガチガチだ。

 他と違いここは思い切り力任せに押せるので、僕はシニョールを悶絶させながら足裏をいじめてあげた。

「ぐわぃぎゃっ。っ、づぉぉぉ〜っ⁉︎」

「すみません、ここだけは痛いのを勘弁してください♬呼吸だけは止めないで、はいヒッヒッフー!」

「ぐっ、ぶべっ、ブッフッフ〜…」

「はいヒッヒッフー!」

「サライ君楽しんでないか」

「楽しんでますよ?僕、性格悪いですから♬」

「…俺様にこんなことができるのは地上広しといえど君だけだぞ、サライ君…ぐっひひひひっ」

 痛すぎて変な笑いまで漏らすシニョールである。

 こんな調子で反対側もおさめ、規定の時間はあっという間に過ぎていった。

 施術が終わり、マッサージ台に起き上がったシニョールは丸太のような両腕をぶんぶん回す。

「うん。すっかりコリがとれた。相変わらずすごいな君は」

「それなら良かったです。あ、足元に靴を揃えましたから。いま服を持ってきま───」

 振り返るとそこに護衛がいた。まるで靴を履いていないように静かな移動。気配で察するのがもう少し遅かったら、鼻先から相手の胸へ激突していたところだ。

「言い忘れていたが、灯りはもう点いているぞ」

 とシニョール。

「あ、そ、そうでしたか。すみません、何しろ見えないもので…」

 空気の流れと音から僕は差し出されたシニョールの洋服を受け取って礼を言い、台に並べる。

「礼など言うに及ばんぞ。しつこいようだがこいつらは俺様の下僕。道具以下の存在だからな」

 ゆったり落ち着いた動作で衣服を身につけていくシニョール。僕はその邪魔をしないよう、下着やシャツ、それからズボン…と手渡していく。

「さて。今宵も悦楽と治療の二重奏ドゥーオで楽しませて貰った。幾らになるかな?」

「そうですね、今回はオイルを使っていませんので、規定の時間料金です」

「そうか。ではこれを」

 僕の右手に載せられたのは、通常料金のおよそ倍ほどの札の重み。

ありがとうございますgrazie di cuore。それでは…」

 僕はそこから札を数えて抜き、残りをシニョールに向かい最大級の笑みを添えて捧げた。

「なんのつもりだ?」

「ご気分を害さないでください、どうか」

「しかしだな、サライ君。こんな夜中に施術を頼んだうえにチップを加えずにいては俺様の面目が立たんぞ」

 僕は空間をやや探り、シニョールの大きな手をつかまえる。そこにそっと札を載せ、包み込む。

「非礼ではなく、僕の感謝を。そう───こうしませんか?お返しすることがつまり僕から貴方へのなのだと」

 片眉を上げているらしいシニョール。

「ありがたく頂くのは気持ちだけで結構です。チップをたくさん貰うよりも、シニョールがウチに通って来てくださる方が僕には喜ばしいんですから」

 そう。この言葉には偽りなど一片もない。

 僕はシニョールを尊敬しているし、感謝もしている。それだけじゃ足りない、言葉にできない好意を抱いている。施術を重ねるごとにそれが膨らんで、抑えきれないところまできてしまっている。

幸福しあわせなんですよ。シニョール・ブヒブー、貴方がここに来て僕のマッサージを受けてくださる。それだけでもう胸がいっぱいなんです。だから、たとえ宝くじくらいのチップを積まれるよりも、ずっと…通ってきてほしいんです」

 いつまでも───それが存在しないことは、僕こそ痛いほど知っている。幸せは偶然の産物。いっときだけ花をつける気まぐれな植物のようなものだと。

 だって母さんは、今ここにいないのだもの。

 プヒョ〜…長い長いため息がシニョールの鼻から漏れた。愛嬌のある音。

「まったく君の高潔ピュアな魂は、純度の高い黄金のようなものだな。父君が掌中の珠としてつねにそばに置いておきたい気分が分かるよ」

「それこそ褒めすぎですよ?僕、もう大人で通用する年齢なんです。そういつまでも子供扱いされるのは、ちょっと…」

「なら大人扱いしたほうがいいかな?」

「シニョールに認められるようがんばります!」

「ふむ。まずは酒だな。それにタバコ。あとは…」

 不意に強く引き寄せられた。戸惑うひまもなく白衣の裾から手を差し込まれる。先ほどとはあべこべに、僕の臍まわりの素肌をシニョールの掌が滑って…

 はぅ、と声を出してしまった。膝の力が抜けて床に着きそうになるのをシニョールは優しく抱き留めてくれる。

「大丈夫かな、サライ」

「は、はい、全く大丈夫です…」

 違う。ほんとうは、大丈夫の反対だ。

「その様子だと君はまだ他人の肌を知らないな。誰か好いた者と肌を合わせたら、自分は大人だと豪語できるだろう…ま、ごく一般論だがね」

 この声。シニョールの、けして甘くはないむしろ塩辛声が、僕の腰の奥まで響いてくる。見えない悪戯な指先で、恥骨の結合までほどかれしまいそうなほど心地よい。

 とろとろ蕩けていきそうな意識を支えるのに苦労しながら、なんとかシニョールを玄関まで送り出す。

 それから僕は、最後の護衛のひともいなくなったアパルトマンのドアの前にへたり込む。

 ダメだ。このことだけは、この優しい紳士に知られてはいけない。

 僕が男の人を───シニョール・ブヒブーを好きになってしまっただなんて。

 遠くから父さんの呼び声。ハッと我にかえる。つとめて快活に返事をし、戸締りをして階上へ引き返すときも、心の中では次のシニョールの来訪の際はオイルで下肢中心の施術でもいいな、と思っていた。

 

 翌日は快晴だった。週末にかけて変わりやすくなる天気とラジオが言っていたけれど、夜のうちに冷えた手足を温めてくれる朝陽はシャワーのように爽快だ。

 白杖をついてなくとも、この辺であれば自由に歩ける。僕はほぼ日課にしているウォーキングのいつものコースを歩き出す。

 僕の場合、弱視の人のようにぼんやりと物の形が分かるとか明るさが判別できるわけではないので散歩は夜でも構わないのだけれど、

「キチンと日に一度は太陽に当たれ!骨が丈夫になるし夜間の散歩より防犯上いい!」

 という父さんの勧めに素直に従っている。中学校を卒業してからずっとなので、街角ですれ違う犬の散歩をしているおばさんも、広場の噴水前で集団で舞い踊る法輪功のグループの人達とも、もうすっかり顔馴染みだ。

おはよう!Buon giornoサライ。いい天気ね」

「よう少年、また腰痛に効くツボ教えてくれよな」

 そんな挨拶に笑顔を返して、十㎞ほどの周回コースの折り返し地点のスーパーに差し掛かった。まだ店は開いてないけど、商品の荷下ろし作業で活気のある物音が聞こえてくる。少し立ち止まって、持ってきたペットボトルで給水タイム。

 僕が生まれ育った街。小さな箱庭。物心ついてから消火栓もポストもゴミ箱も、街の小さなカフェもそこに屯しているおじさんたちも、それを叱るおばさんたちも、何一つ変わらない。

 小さな世界。───僕の、世界。

 “君を連れて行きたいな。外の世界の雄大さを、じかに教えてあげたいものだ”

 シニョールの言葉が胸の中に浮かんでくる。それは静かな波のように僕の全身のすみずみまで広がっていく…

「ちょいとそこのかわい子ちゃん!俺とお食事でもしませんか〜?」

 ニラとタマネギたっぷりの口臭とともに叩く軽口。僕はその方向に体を向けた。

「アントーニオ?どうしたのこんな朝早くから」

 近づいてきた気配。僕より少し大きい背丈の、そしてずっと逞しい専門学校の同輩、アントーニオが手を振っている。

「お前の勘の良さは年々増してるなあ。こちとら呑み明かして頭が痛えんだ」

「また女の子?それとも仕事仲間?」

「両方」

 わはは、と笑うアントーニオとハイタッチ。バイタリティ溢れる彼は一回り歳上で、他の様々な職種を経験してからマッサージこの道に流れ着いた変わり者だ。

「ん?また腕時計変えた?」

「分かるか?」

「音が前会った時と違うもの。儲けてますねぇ若旦那♬」

「それほどでも───あるさ。もう年収ならそのへんの公務員の三倍はあるぜ」

 アントーニオが僕の肩を抱いて電柱に寄りかかる。お酒とタバコの匂いをプンプンさせて。それだけじゃないな…これは、女の人のファンデーションの香りかな?

「サライよ、お前の方はどうなんだ?オヤジさんに出資してもらった治療院だけでやってけてるのか?」

「トントンかなあ。まだローンが残ってるけど、父さんも元気だし僕もこの通りだし。それに最近、すごく良いお客さんもついて。なんとかやってるよ」

 そっか、とマッチを擦る音。やや遅れて紫煙の熱が伝わってくる。

「なぁ、もうそろそろ俺んところと合弁にする踏ん切りついたかよ?」

 僕の肩に力が入る。

「いやさ、お前が一人でやりたいって気持ちは分かる。一国一城のあるじ、っつーか?男ならそうあるべきだっつーのも理解できんだよ。けどよ、やっぱりお前は一人で切り盛りすべきじゃねえと思うんだ」

「…僕ってそんなに頼りない?」

「だってお前、放っとけないんだよなあ。素直だし、純粋だし。あと致命的に無防備じゃんか」

 屈託のない笑い。

 それは的を射ている。僕なりに客観的に見て自分は普通より単純な性格だと思う。少なくとも自分の年不相応な幼稚さは弁えているつもりだ。

「…申し出はありがたいよ。だけど…僕だって前よりはしっかりしてるんだ」

「だけどまだガッツリ親父さんの庇護に縛られてるじゃん」

「そんなこと、ない」

 言葉尻が小さくなっていく。自信満々なアントーニオが羨ましい。彼のように精悍で、太い精神を持っていれば。たとえ晴眼者でなくても親許を出て自分の腕だけで挑戦できていただろう。

「いっそ俺がにしてやろうか?経験すればお前も変われるぞ。そら」

 急に顎を掴まれた。唇に生温かいキス。僕は反射的に相手を突き飛ばした。

「何するの!なんのつもり⁉︎」

「いやだって、お前、だろう?専門学校のクラスの女子とも遊ばないし、話すのは男ばっかりだし」

「何早とちりしてんのさ!…女の子との交際はまだ早いって…父さんが言うから…」

「いやいやいやいやいや、いやいやいやいやいやいやいやいや、お前何歳だよサライ?小学生じゃないんだぞ?や、今どき小学生だって相手を妊娠させたりすんのに。まさかいまだに童貞ってわけじゃ…」

 全身の血液が爆発した。

「うるさいっ!」

 僕は駆け出した。そしてすぐに躓いて盛大に転ぶ。慌てて助け起こしたアントーニオから逃れようともがくと、相手は非礼を謝りながらすぐ手を放した。

「俺が悪かった。そんな気にしてるとは思わなかったんだ。つまらねえことしたぜ…その…本当に済まん。許してくれ。この通りだ」

 盲いた目で睨む僕に、深々と頭を下げるアントーニオ。

 しばらくそうして、僕はため息をつく。

「───誘ってくれたのはありがとうね。嬉しかったよ」

 アントーニオに怒るのは半分、指摘されたことが正しいからだ。自分の情けなさが腹立たしいからだ…

「でも…まだ僕は今のままで頑張ってみるよ。きっと、そうしないと僕は何も掴めないから」

「サライ───」

「心配してくれたんだよね、それは嬉しいよ。どうしても困ったら頼らせてもらうからさ。ね、今はそれでいいでしょ?」

 アントーニオが肩をすくめるのを察してから僕は背を向けた。

 去っていく僕の背後でアントーニオが呟くが、それは僕には届かない。

「…マジしょうもねえな。そんな寂しそうな笑顔で捨て台詞されたら、余計に放っとけないだろうが、サライよぉ…」

 帰宅して、仕事に行く父さんの朝食の支度をしてすぐに僕は

「食欲がちょっとふるわないんだ。ごめん」

 と言い訳をして自室に引き返し、そのままベッドに突っ伏した。

 頭の中は整理しきれていない感情と、アントーニオとのやりとり、それからシニョール・ブヒブーの静かで思いやりのある提案との嵐。

「───父さんがいなければ僕だって…」

 ふっと口をついて出たセンテンス。僕はがばと身を起こす。ベッドの頭側には壁掛けの鏡がある。きっとそこに映る僕は、己れの罪深さと罰当たりな言い様に対する羞恥でいっぱいの顔をしているのだろう。

「父さんが…いなかったら…?どうするんだよ?」

 自問自答。

 これは初めて口に出した仮定法。

 けれど、間違いなく僕の願望───

 僕は慌ててベッドから降り、床の上に跪いた。

「天にまします父よ、聖なる母よ、どうか僕の罪をお認めください。そしてそのぶんだけ、父さんを幸福にしてあげてください」

 そうだ。僕は幸せなんだ。

 そうだよ、何不自由ない暮らしをして、ただ一人の肉親である父さんは健康で、しかも僕を愛してくれている。男親なのに、母さんの分まで心配して目をかけてくれている。自分の仕事もあるのに、僕は今じゃそこそこお客さんのついているマッサージ師なのに、それでもなにくれとなく世話を焼いてくれて───

 “君の望むところに招待しよう”

 シニョールの声が胸の中に優しくこだまする。

 “温泉でも海でも、───もっと遠くになっても…”

 ダメ。やめて。

 僕の心よ、欲望の半身よ、悪徳の左天使よ。甘い希望で誘惑しないで。

 これ以上の幸せってないよ。父さんこそ世界中で一番優しい父親だよ。

 それなのに、裏切るような願いを口にするだなんて。許せないよ。そうだろう、サライ……

 窓の外から差し込む光がジリジリと僕のうなじをこうとしている。道路から子供達がサッカーしている声や気の抜けたクラクションが聞こえてくる。

 自分が、嫌いになってしまいそうだった。

 

 それからしばらくシニョールは来院しなかった。僕は落胆したものの、三分の一程度では安堵もしていた。

 父さんは父さんで朝は早くから夜は深夜にかかるまで仕事漬けで、僕は何度も自室で高鼾をかいている父さんの分の皿を前に一人で朝食を済ませて開院の準備をした。

 そんな日が続いて、もうそろそろシニョールが恋しくなってきたある晩のことだった。

 その日も父さんとは顔を合わせず一日が終わり、アパルトマンの入口に立てていた看板をしまおうとしていた僕の耳に、慌てふためく様子の数人分の足音が聞こえてきた。

「すまんサライくん、そのまま開けておいてくれ!」

「シニョール?お久しぶりですね。僕、もう来てくださらないのかと───」

 望外の来訪にたかぶる声を抑えながらドアを支える。シニョールと、三、四人のいつもの護衛の方と、それと一緒に───

 血の匂いがした。

 濃く、重い鉄のフレーバーが鼻の奥に充満する。切り傷程度でこうはならない。

 怪我人だ。一体誰が。

「………………」

「───お父さん⁉︎」

 呻きの中にあったのは、確かに父の声だった。情けないことに腰から下の力が抜け、僕はへたへたと玄関に両膝をついてしまう。

「父君と俺様は、とある事業で協力していたのだが、重大な反撃にあってしまってな。撃たれたのだよ、サライ君」

「そんな…」

「ついては、君に一つ問いたい」

 頭が痛い。割れるように、痛い。ドヤドヤと物音が地下室に入っていく。でも、何か考えることも判断もできる余裕もない。

 そんな僕を気遣って、シニョールはそばに跪いて優しく肩を抱いてくれた。

「私は君の父君を救える───生命いのちを繋ぐ手段を持っている。だがそれには君の同意と協力が不可欠だ」

 僕はぼんやりと、光をとらえられない瞳を見開いてシニョールに向けた。無意識に、まだ盲目ではなかった頃のように。

「サライ君。父君がどんな姿になっても、君は生きていて欲しいと願うかね」

 す。

 僕は頷く。

「もう一つ───それには君が、もう二度と父君と父子の名乗りをあげることもかなわなくなるが、それでも生かしたほうが良いと思うかね」

 す。

 僕は頷いた。

 時間が流れた。砂時計の砂粒が三個落ちるくらいだったような、三時間ぐらい経過したような。感覚が麻痺した余白ののちになって…

「分かった。君は上階うえの治療室に行って待つのだ」

 僕は三度みたび頷く。

 ゆっくり階段を上る。走馬灯のように父さんとの記憶が螺旋に回る手すりの上で踊る。音と振動、感触、嗅覚による幻惑が。

 晴眼者の保育園の友達を羨ましがっていたら、公園でシャボン玉を吹いて遊んでくれたこと(僕達の容姿の違いに誘拐を疑われたっけ)。

 急に降り出した雨の中、何度も仕事を切り上げて小学校まで迎えに来てくれたこと。

 自転車に乗ってみたいという僕の願いを叶えるため、体育館を借り切って練習させてくれたこと(公道で乗ることは一度もなかったけれど)。

 日本人の観光客の女の人達から「KAWAYII〜♬」と追いかけ回されたときに助け出してくれたこと。

 ダメだ。こんなんじゃ足りない。もっと、もっと、お父さんからもらったたくさんの愛情がある。そしてそれに僕は応えられていないじゃないか。

 僕はやっとに思い至る。これこそ僕が情けないエゴイストであるあかしだ。

 床に降り、靴を脱ぎ、靴下も取って裸足になる。

 両膝をついて、両手を組み合わせる。そしてこのアパルトマンの屋根のはるか上空、夜の天蓋の彼方におわす天なる主に向かい唱える。

「いと高きところにおわします主よ。貴方の忠実にして無垢なる下僕であるお父さんを、どうか救ってください。そのためなら僕は全身の血を抜かれてもかまいません。永久に闇の底に押し込められてもかまいません。どうか、どうか。主よ、お父さんの命を───…」

 祈ってどうにかなる保証はない。けれど、今の僕にはそれしかできない。ならば。

 ごっ。

 床に僕の額がぶつかる痛々しい響き。

 何度も。

 何度も。

 何度も。

 何度も。

 何度でも───

「やめないか!」

 脇の下からすくい上げられ、僕は立たされた。

「シニョール…」

「どうしたんだ、気でもちがったのか?こんなにおでこから血を流して…綺麗な顔が台無しじゃないか」

 そう言われて僕は額の真ん中あたりが熱を持っているのに気がつく。そのぬくみが、ぬるぬると鼻筋を流れて口元へ、そして顎から滴り落ちていることも。

「それより…父さんは…」

「サライ君…」

「シニョール、父さんは⁉︎助かったのですか⁉︎父さんは‼︎」

 シニョールが深いため息をつく。絶望感が冷たく喉を通り過ぎて、僕は昏倒しそうになった。

「…成功だ」

「え…」

「成功したよ、サライ君。君の父君の命は助かった。からくもね」

 シニョールが何を言っているのか理解するのに僕はありったけの時間を必要とした。

 それから───

「───ああ!」

 悲愴から歓喜へ。

 絶望から喜悦へ。

 めくるめく感情の反転。

「シニョール…シニョール!シニョール・ブヒブー‼︎」

 何回礼を言っても言い尽くせない。僕は相手が僕の血に塗れるのもかまわずキスの雨をその頬に浴びせた。

 そして、本当にこれは今更なのだけれど、気がついた…

「こんなに長く接していたのに、顔を触られるのは初めてだったか」

 ゆっくりとシニョールが僕を抱きしめる。

「───とうとう知られてしまったね」

 普段、マッサージの仕事をするときに触れるのは相手のうなじから下だ。額から顎にかけてをまさぐるなどやらない。…フェイシャルエステを目的としたマッサージを別にして。

「シニョール…貴方は───」

 丁度頬を手挟んでいた僕の指先。シニョールはそれを、自分の顔面へと導いた。

 僕が目開めあきでなくても、いや、めしいているからこそ如実に分かった。

 指先に探り当てたシニョールの鼻。

 それは人間の───人間のものではなかった。

 丁度、あの家畜、人類と最も深い関わりを持ってきた生き物とそっくり同じものだった。

 porco

「サライ君。…きみは恐れていないのだね」

 僕は笑った。不躾ぶしつけなくらい明るく。自分からこんな声が出るとは思わなかったくらい、朗らかに。

「恐れる?シニョールを?こんな───可愛らしい顔をしているのに?」

 シニョールがたじろぐのを感じる。

「そんな風に言われるとは…な。今までにそう言ってくれた人間はいなかったぞ。きみが初めてだよ、サライ君」

「それは光栄の極みです。───どうかサライと呼んでください」

 愛おしい。あの自信満々なシニョールが、まさかこんな顔をしていて、しかも、それを引け目にしていただなんて。

「シニョール・ブヒブー。貴方は父さんと、のみならず僕の命の恩人です。いわば天の御使みつかいです。恐れる?心外ですよ!」

 クスクスと笑いの尾を引く僕の言葉に、シニョールの気配も和らいだ。

「サライく───サライ。では…」

「はい。シニョール」

 僕はしっかりと頷いた。

「これより先、きみは父君と会うことはできない。それが一つ目の条件だ」

 それはとっくに了承している。父さんの命さえ助かってくれたのだ、この広い地球のどこかで息をしていてくれるだけでいい。

「そして君に協力してほしいのは───」

 とくん、とくん。

 自分の心臓の音が耳の中で大きくなっていく。

「───これより先、永久とわに私のものになってもらうことだ」

 世界の音が平らになった。

 地平線までずうっと、あらゆるものが動きをひそめたように。

 そして、僕は。

「───はい。謹んでお受けします」

 シニョールの鼻が鳴った。会心の音。

「では服を脱ぎたまえ」

 いつもとはあべこべの指示。

 僕は一枚一枚脱いでいく。

 白衣の上を、下を、そして下着を、最後には靴下───は、既に脱いでいたけれど。

 床の上に散らかしたそれを、シニョールの護衛の人たちが静かに集めて持ち去る気配。

 僕はひんやりした夜の空気に肩をすくめる。

 僕が肌を晒すと、今度はシニョールが衣服を取っていった。

 僕より頭二つ分ほど大きなシニョールの裸体。それを見たことはないけれど、肉厚な肩も、お腹も、たっぷり筋肉に覆われた逞しい腰や太腿までも僕には目に見えるように意識できる。

 シニョールの腕が僕を抱きしめた。まだぬるいくらいの体温。それから横抱きに抱えられ、ベッドに運ばれる。

 仰向けに寝かされた。少し膝を閉じてしまう。

 そんな僕の上からシニョールが覆い被さる。唇を合わせる。顎の力で口を開かせて、シニョールの舌が僕の口の中を侵す。

 こんなこと、初めてだ…そう、初めてのことだらけで、僕はついシニョールの舌を噛みそうになる。

 シニョールの股間の硬く、弾力のある太い棒。それが痛いくらい僕の臍の下に当たっている。シニョールの舌の滑らかさと甘さ。そして塩っぱさ。だんだん僕は声に出しはじめる。

 一旦キスをほどくと、僕とシニョールの口の間に唾液の橋がかかった。

「…サライ」

「…シニョール…」

 僕の髪を撫でる太い指。もう片方がするすると喉笛から鎖骨を撫ぜ、やがて胸へ下っていく。

「ぅひうっ⁉︎」

 心臓に近い方の乳首を吸われた。ピリッと電流がきたように体が震えた。

 舌。広く肉厚の、ねっとり湿り熱を持ったそれが、乳首から始まり一度も僕の皮膚から離れることなく全身をすみずみまで舐め尽くしていく。

 僕の肉が、溶ける。

 いや───脳が、溶けて崩れてしまいそう。

 僕の足首を掴み、両足を高々と掲げて臍の下の部分を舐められた。はじめての快感に最高潮の膨張に至り、僕は…シニョールの舌に包まれてエキスを放つ。

「本当に初めてだったのだな。味わいの芳醇さで分かる」 

 ボンヤリ脱力したまま、ブッフッフ、という低い笑いを聞いていた。

「もちろん射精で終わりではないぞ。盛り上がるのはこれからだ…」

 シニョールは僕の両膝を更に割って、腰の下に本来うつ伏せのポジションでの指圧に用いるクッションを差し入れる。

古来こらいヒトが悪魔へ契約ちぎりを交わす際は、アヌスに接吻キスを捧げるそうだが…」

 体の中心に一番近い僕の裂け目。

 そこにシニョールの熱い息吹を感じて僕は身じろぐ。

「…や、シニョール…ダ…ダメ…」

には逆にするのだよ」

 僕の体の一番内臓に近い場所。

 シニョールの舌が貫いた。

 頭が自然とのけぞる。声が、漏れる。シニョールが笑う。僕の腸の内側を、生温かなシニョールの感覚器がぬるぬるなぞる。

 不意にずぽっ、と舌を引き抜くと、シニョールの顔が僕の耳元へきた。

「良い声だ。高く、澄んでいる。本当に慣れていないんだな」

 僕は知る。乱れた声を出していたことを。

「シニョール…シニョールが初めてです…こんなことするの…」

 ブッ、ウッフッフ。全身の毛穴まで響く含み笑い。

「君のはまだこれからだろう?さあ───もっと、もっと声を出したまえ。もっと俺様に心と体を開くのだ」

「ひゃい…」

 はい、と言うつもりが、噛んでしまう。

 太ももの内側を力強いシニョールの掌が外側へ押し、僕はより広く開脚。そこへシニョールの胴体が放つ熱が、じりじりと近づく。

 アヌスに何か当たる。舌より太くて、舌より硬いものだ。

「深く息を吐きたまえ」

 僕は言われた通りにした。

「いくぞ」 

 ぐばっ!…と大股を開かれる。僕の恥骨のあたりがきゅうっとなって。

 僕の股の前に足を投げ出して座ったシニョールが、一気に腰を前に突き出した。

 僕の性器の下から、白熱した鉄棒のようなものが体内を侵した。

「ぅあ…あぁ───ッ‼︎」

 はしたない声を上げて僕は身をよじる。シニョールのが僕の中でまるで木の芽のように膨張し、僕の下腹部をいっぱいにしていくみたいだった。

「我慢しなくていい、存分に泣き喚け」

「ああ───あ───あ゛っ」

 シニョールの言葉は正しかった。

 僕は今まさに、誰よりも信頼して愛している人に犯されている。

 痛い。

 苦しい。

 重い。

 何かの懲罰のような状況。

 なのに───なんて───気持ちがいいんだろう!

 さらにシニョールは重力に従うように僕の上へ倒れかかってきてくれた。ぴったり隙間を埋めるシニョールと僕の胸と腹。それと…唇。

 僕はシニョールの洋梨型の腰に脚を巻きつけ、引き寄せた。そうせずにはいられなかった。もっと。もっと深く“一つ”になりたい。シニョールの全てを与えてほしい。代わりに…なるのかどうかはともかく、僕の全てを味わってほしい。

 ずりっ。

 ずりっ。ずりっ…

 シニョールが前後に動き出した。僕の膀胱の奥から巨大な快感が突き上げられる。逞しいペニスが僕の中を押し、引く。腸肉を食い破るほど強烈な存在感。

 部屋中に響き渡る叫びを聞いた。

 僕自身の、歓喜の声。

 シニョールのつるんとしたうなじを、豚そのものの耳を、鼻先を撫ぜる。走っているように高まっている呼吸のリズム。それが愛おしい。

 僕の体に覆い被さるふくよかな肉体。筋肉と脂肪の丸み。ゆっさゆっさと揺れて汗ばんでいく皮膚を、指先に味覚があるかのようになぞる僕。

「あぁ、うん、サライっ…締め付ける、な…」

 辛そうなシニョールの呟き。

 だけど僕は。

「だめ、です……もっと…もっと…そのままっ…」

 魂の慟哭を正直に吐露する。

 シニョールは僕を犯している。

 僕も、シニョールを食らっている。

 ずっと恋していた。憧れのシニョール。人外の、僕の、僕だけの…

 シニョールの尾骨の先の突起が、つまりが不意に震えてきた。

「うっ、サライっ、そんなにすると…もぅっ…」

「シニョールっ…」

 いけません。

 止めては、いけません。

 僕を連れて行ってくれるんでしょう?

「二人で…イきましょうっ」

 まるで雷が落ちたように唐突だった。シニョールの背中がガクンと軋み、僕を潰すほどきつく抱きしめる。僕は僕で、シニョールの腰を挟んだ自分の脚に力を込めた。

 シニョールが恐ろしい低音で呻く。

 僕の顔も、押し寄せる快楽に歪む。

 それから僕達は同時に叫んだ。

 空気が震え、建物全体が身じろぎしたようだった。

 ───さらさら。

 ───さらさら。

 これもまた嵐のあとの静けさというのだろうか。僕とシニョールが二匹の獣のようなじょうわした後には夜の闇が沈殿し、外の葉擦はずれが爽やかな音を立てている。

 僕はぼんやりと目を開けていた。

 まだシニョールは僕の体の上にいて、顎を僕と肩に引っ掛けるようにした横顔を見せている。

 ……………

 ………………………え?

 窓は閉まっているものの、差し込んでくる月明かりがシニョールの横顔を闇の中に浮かべている。その陽気なピンク色に、肌から立ち昇る汗の湯気が靄のようにかかる。

 …………そんな。

 僕はシニョールの鼻先をツンとした。

「プガ」

 シニョールが目を瞑ったまま鼻を鳴らした。

 ……………………………そんな、バカな⁉︎

「気がついたか、サライ」

 動転している僕に顔を向けて、シニョールが笑っている。

 黄土色の白眼、チョコレートの瞳。

 鬣は明るい海老の殻の色。

 両耳にはタグのようなピアス。

 一瞬頭がクラリとし、僕はため息をついた。そんな僕の頭をシニョールは優しく抱き寄せる。

「色の洪水───と、前に言っていたな。てられたか?」

 まさしくそうだった。

 首を捻って頭の上の方を見る。木材の質感に、あれは白───と、薄い黄色?

 天井を見る。濃い茶色と白、格子模様───

 これは幻だろうか?幸福感のあまり、僕の目が僕自身を騙しているのだろうか?

「違うぞサライ。お前はもう既に俺様のエキスによって内側から変えられたのだ。視力しかり、外見しかり、な」

 寄り添っていた身を離し、シニョールがベッドから降りる。

「さあ立つがいいサライ、少し離れたそこの姿見で確かめてみろ。今なら自分自身の瞳に映る我と我が身が判るだろう」

 僕はベッドに手をつく。恐る恐る床に裸足を下ろす。おかしなもので、見えていなかったときより目に総てが映る今の方が世界が恐ろしい。

 両手で慎重に周りの物を探りながら、姿見の方へ。これなら目を閉じたほうが早く動けるな。そう思って可笑しくなる。

 ようよう鏡の前に立つ僕。余裕で追いついたシニョールが隣に並ぶ。

「どうだ?」

「───はい。とても…」

 シニョールはやはり、立派な体格の豚と人の融合した姿。

 そしてその横にいる僕は。

「…貴方に相応しいです。シニョール・ブヒブー」

 シニョールよりもなお淡い桜色の肌。

 折れ曲がりこめかみの上に垂れた三角耳。

 そして─────豚の鼻。

 瞳については、白眼がトパーズ色になっている他は変わらない。

 身長も前と同じだ。ただ、ぽちゃっとした水風船のような体型に進化している。

 そう、これは“進化”が一番的確な表現だ。だって───

「…まさか目が見えるなんて。見えるようになる、だ、なんて」

 言いながら涙が溢れてきた。

「サライ。お前は俺様の創り上げたオインカーズの中でもとびきりの美形だ。どういう形にへんずるかまでは、さしもの俺様にもコントロールはできんからな。これほど愛らしくなったのは後にも先にもお前だけだろう」

 その言葉が嬉しくて、また泣けてくる。

「ありがとうございます…ありがとうございますシニョール…。ついていきます、これから、一生…」

 感極まっている僕の肩を抱き、シニョールは指先でふっくり膨らんだ乳首を弄びはじめる。

「これでお前は身も心も俺様のもの。我が組織オインカーズの一員となったぞ」

「はい…これより先、シニョール・ブヒブーにこの身と魂を捧げ、尽くし、愛すると誓います」

「いいだろう。さあ、今度はその姿のまま抱かせろ」

 立ったままの僕の後ろからシニョールが抱きすくめ、首筋を舐める。再びの愛撫に僕は震えながら鼻を鳴らす…発情した雌豚そのままに。

 と、足元に何か甲高い哭き声がした。シニョール・ブヒブーと僕の足首がもつれ合うのを邪魔するように、四つ足の動物が一体まとわりついている。

「ブヒブー様、これは?」

「うん?ああ、それもオインカーズ───私の下僕しもべさ」

「そうなのですか?どうも…僕とは違うようですが」

 それは一頭の豚だった。少なくとも僕とは違う、本来の意味での

「これはオインカーズでも最低ランクに堕ちた者の末路といったところかな。俺様が命令すれば人型になることもできるが…まあ、言うなれば最下級戦闘員ボトムズさ」

 そうなんだ。ということは、彼(後ろ足の隙間から睾丸が見えたので間違いない)はシニョール・ブヒブーにとって役立たずということだ。

 僕の喉から、心の底を反映したあざけりの笑いがクスクスと湧き上がる。おおかた忠誠心の薄い出来損ないだ。この僕のように、シニョール・ブヒブーの寵愛を受けることができず、嫉妬しているのだろう。

「見せつけてあげましょうよ、シニョール・ブヒブー。この哀れな最下級戦闘員ボトムズに、貴方の尊い愛の営みを」

「いいだろう…」

 鏡の中のシニョールがと笑んで、片手で僕の胸を、もう片方の手で僕の股間をまさぐっていく。

 僕は足を開き、尻を後ろに突き出して屹立きつりつしているシニョール・ブヒブーの尊大な権威そのもののペニスを迎え入れた。

 ズブズブと進入はいってくる感覚。視覚とはまた違う内なる光が、僕の骨盤から胎内を照らしていく。

 やがて湿った音を立てながら、二つの体が一つとなって踊りはじめる。

 薄明るい月に照らされて、僕は───オインカーズ・サライは、淫らな欲望の音楽に溺れていく。

 足元ではいつまでも、一頭のボトムズが哀れな鳴き声をあげていた。

 

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奈落の天 鱗青 @ringsei

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