第9話 堀と瞳
表門とは反対側にある、自分の額ほどのぼろぼろの裏戸を開け、頭をぶつけながらも家の中に入る
後続を振り返ると、ハルさんが鴨居に足を引っ掛けて、前にいた牡丹に頭をぶつけていた
「わー!ごめんね牡丹ちゃん!怪我してない?痛いところない?」
「大丈夫...です」
慌てて怪我の心配をするハルさんに、少し緊張しつつも牡丹が返事をして、俺の後ろに着いてくる
(牡丹は人見知りが激しいのに、案外すぐに打ち解けるもんだな...)
牡丹は昔から人見知りが激しい
もう16年もここに住んでいるのに、町の人達と会話がままならないことがあるほどに
(ハルさんと波長が合うのかな)
歩きながらもう一度後ろを向いて牡丹を見ると、少し垂れた黒い目を細くして、安心したように小さく笑っていた
大事な妹に、どれだけ寂しい思いをさせていたのかと、心の中で自分を殴っていると、ハルさんが塀をペチペチ叩きながら質問を投げる
「クロ、随分この家は塀が大きくてしっかりしてるんだね」
「山には妖が居るので、石置の家はみんなこんなものですよ」
後ろで牡丹もうんうんと首を縦に振る
山の妖の話は、俺が生まれるずっと前から石置の土地に伝わっていて、町の人は誰も山に入ろうとしない
石置の人々にとって、妖は神よりも身近な異形の隣人と言っても過言では無い
そう説明する俺の言葉に、ハルさんはふぅん...と薄く返事をし、塀から手を離してにこりと笑いかけてきた
石守の家は、表門に対してコの字に母屋があり、表門の反対側に裏戸がある
裏戸から入り、塀を右手に伝って歩く
そして敷地内左端にあるのが、石守の部屋でもある小さな離れである
離れと言ってはいるが、母屋と廊下で繋がっているわけでもなく物置と言った方が適切な建物だ
「ハルさん、足元に気をつけて」
離れの入り口は、母屋に背を向けるように扉が塀を向いているため、いつもぬかるんでいる
牡丹は慣れたもので、するすると中に入っていくが、ハルさんは少し足を取られつつ扉に手をかける
「何にもないところですけど」
「大丈夫だよ~」
扉を開けている俺に、ありがとうとふにゃふにゃ笑いながら、ハルさんは足の土を落とす
ハルさんのような美人には、全く似合わない8畳ほどの小さな部屋に何を言うでもなく、スタスタと歩いて囲炉裏の用意をする牡丹と会話をしに、横へと歩いていった
2人が中で話している声を聞きながら、表の水がめから水を汲もうと柄杓を掴む
ふと水の中を覗くと、甕に映る自分の暗い顔がこちらを見つめ、問いかけてくる
...ハルさんは、本当に信じてもいい人なのか
まだ出会って2日も経っていないあの不思議な仙人に、助けを乞うてもいいのだろうか
(正直にいって、まだ分からない)
俺の心は、ハルさんの包む優しさにたった2日で甘えきっている
ハルさんは優しい人だ、それも底抜けに
俺は今、そんな優しい人の良心を利用しようとしているとも言える
だが、あの人に救いを求めなければ、誰に救いを求められる?
町の人間もお役人様も助けを求められる相手じゃない
確かにこの問題の解決は、神様でもないとできないかもしれない
(でもあの人なら、きっと)
もう一度甕の中の自分を見ると、勝ち誇ったようにニヤリと笑っているように見えて、思わず柄杓で水面を割った
何があっても、守らなくてはならないものはある
中に戻ると、のんびりと火を見るハルさんの膝の上で、牡丹がスヤスヤと眠ってしまっていた
「ハルさん!すみません、すぐに布団を引きます」
「いや良いんだ、なぜだか分からないけれど、こうしていると昔を思い出すような気がする」
ハルさんは眉を寄せ、牡丹の少しごわついた髪をやさしく手櫛でとかす
その顔は思い出を振り返るというよりも、思い出を思い出しているようだった
「弟さんとも、こんな風にしていたんですか」
「うーん、弟...?そんな気もする...ような?」
ハルさんは長く兄弟喧嘩をしていると思っていたが、もう弟との思い出も思い出せないほどに長く喧嘩をしていたのだろうか
ハルさんはまた深く眉を寄せ、ボーッとした様子で様子で自分の長い髪を弱く掴み、ぼそぼそと溢す
「なんだか、大切なことを忘れている気がするんだ」
「大切なこと?」
「そう..海の中に自分を無くしているような、そんな気分」
ハルさんはよくわかんないや、と呟いて髪の毛を掴んでいた手の力を、ゆるゆると抜いていく
ゆっくりと手を動かしながら、またいつものヘラヘラした笑みに顔を戻し、牡丹を起こさないように小さくこちらを見てくる
俺を貫く瞳に、思わず心臓が跳ねる
「クロ、それよりも黒いモヤの発生した場所はどこ?聞かせてよ」
俺の後ろめたさなど知らないハルさんは、興味津々に目を輝かせてモヤについて聞いてくる
「良いんですか?」
思わず腰が引ける俺を咎めるように、ハルさんはむっと眉間に皺を寄せながら、叱るように返してくる
「当たり前じゃないか!この私に任せられないと言うのかい?」
指を指し、俺の方へと向かってくるハルさんと対照的に、俺の腰は引けていく
「いえ、その...」
「なぁに?」
いつものような柔らかい発音では無く、少し低く固い声を出すハルさん
その瞳はじっと俺の目を見つめてきて、逸させない無言の圧が俺の体を押しつける
しばらく無言の争いが続き、先に折れたのは俺だった
「この話はきっと、貴方へのお邪魔になります」
後ろめたさでつい目を逸らして、カラカラに乾いた喉から言葉を絞り出す
少し間を開けて、そっと自分の両頬に、ハルさんの傷の無い滑らかな手を添わされる
その手はゆっくりと逸された自分の顔を、咎めるように正面を向かせ、俺の視界にハルさんの微笑みを入れさせる
視界に入ったハルさんの微笑みは聖母のようで、いつものヘラヘラした微笑みとは一線を画した、覚悟を持った美しさを持っていた
ゆっくりとハルさんが口を開く
「クロ」
少し目を細め、幼子に言い聞かせるように優しく、ゆっくりと言葉を俺の体に染み渡らせる
「私は、君の願いを聞きたい」
その言葉は、いつか聞いた神話の神を思わせた
春そよぐ戦 ににまる @maruiyo
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