8

「ちょっと、待ってよ」

 怜が言った。

「いや」

 怜が言った。

「待つから」

 怜は怜の脚を見る。半ズボンから白い脚が覗く。走る度、脚の筋が浮き上がる。

「待ってよ」

 怜が呼びかける。怜が振り返る。

 怜は振り返った怜の脚を見る。

「なんでぼくの脚、そこにあるん?」

 きれいだったはずなのに。怜は思った。急に、吐き気がした。脚が、違った。

「ぼくの見たい脚と違う」

「飽きたやろ。他人の脚見んの」

 怜が言った。怜ではなかった。

「誰、おまえ、誰」

 怜は、怜ではないそれに向かって言った。

 怜ではないそれは、怜に背を向けて走り出した。

「きもい、きもい」

 怜ではないそれの脚は、怜のものだった。

「やめて、もうやめて、その脚、やめて。他の人の脚」

 怜は怜ではないそれを追いかける。

「あひひひひいい」

 怜ではないそれが笑い叫ぶ。

「待ってって。他の人の脚にしろ。お願いーいいい」

 怜は追いかける。足が縺れる。右足と左足が入れ替わっている。右と左が入れ替わっている。右足と左足はそのままで、右手と左手が入れ替わっている。膝が回る。怜は跳ねるように走る。

 怜ではないそれが、逃げていく。穴に潜っていく。

「うーううう。うーううう」

 穴は狭く、怜ではないそれの尻が穴から出ている。

「脚替えろ」

「うーううう。うーううう」

「あし、替えろ!」

「うーううう。うーうううう」

 怜は怜ではないそれの尻を蹴った。

「替えろ! 替えろ!」

「ひ、ひ、ひ、ひ、ひ、ひ、ひ」

「セックスするぞ。脚替えやんかったらお前セックスするぞ」

 怜は怜ではないそれの尻を爪先で蹴った。太腿を蹴った。脹脛を蹴った。怜ではないそれは裸だった。蹴った部位が赤く腫れた。腰を蹴った。性器を蹴った。擦り傷が出来る。血が滲み、流れる。怜の腹に力が籠る。怜ではないそれを蹴る。

「ぐふ、ぐふ、ぐう、ぐふ、ぐふ」

「あやまれ。あやまって、ほしい。ぼくに、あたまさげて、あやまれ」

 蹴る度に肉が膨れる。

 パン。ぽおん。パン。パン

「あやまれ、ぼくを見たことを謝れ」

 怜ではないそれが風船のように膨らむ。

「ごめんなさい」

 だんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだん。

 怜が蹴った蹴った蹴った蹴った蹴った蹴った蹴った蹴った。

「あああああああああああああああああ。いやああああああああああああああ。いだああああああああああああああああああああ。もおおおおおおおお。ああああああああ。ごめんなさい」

「ごめんなさい」

「ごめんなさい」

「あやまれ」

「ごめんなさい」

 怜は穴から怜ではないそれを引きずり出す。前髪を掴んで、怜ではないそれの額に自分の額をぶつける。

「ごめんなさい」怜が言った。

「ごめんなさい」怜ではないそれが復唱した。

「あーーーーー!」「あーーーーー!」

 怜は、額を怜ではないそれの額に擦り付けた。

「絶対許さん」

 怜が存在していた。無数の世界が存在していた。

 怜は世界を知覚した。世界は宇宙であったりねじれであったり光であったり法律であったりした。

 男と女が交わっている。世界の一つで、男と女が交わっている。怜は性交を消した。

 怜は妹を消した。

 怜は宇宙の泡構造を消した。

 怜は三を消した。

 怜は輪を消した。

 怜は右を消した。

 怜は太陽を消した。

 怜はボーキサイトを消した。

 怜は陰口を消した。

 怜は加速度を消した。

 怜はsを消した。

 怜は痒みを消した。

 怜は整数を消した。

 怜は表面張力を消した。

 怜は砂場を消した。

 怜はうつ病を消した。

 怜は歴史を消した。

 怜はアミノ酸を消した。

 怜はすべて消した。怜を消した。


 怜が存在している。

 怜ではなかった。怜は存在していなかった。存在しているものは怜ではなかった。単純に何でもない存在だった。

〈在る〉だった。

〈在る〉が存在していた。それは何でもなく、単に、そのまま存在する〈在る〉だった。

 怜は〈在る〉を観測していた。怜自身、〈在る〉に内包されていたが、〈在る〉を観測していた。厳密には、〈在る〉を観測しているのは怜ではなかった。


 怜は、〈怜〉だった。


 それは、〈在る〉に内包されるあらゆる存在とは全く異質な存在の仕方だった。〈在る〉は端的に純粋に存在するものとしての存在だった。しかし〈怜〉は、〈在る〉でありながら、本質が〈在る〉でありながら、本質的に〈怜〉だった。〈在る〉には理解できない存在だった。〈怜〉は〈在る〉という性質が必要不可欠でありながら、明らかに〈在る〉ものでありながら、端的に在る、という〈在る〉から逸脱した存在だった。〈在る〉に原点はなく、始点や終点はない。〈在る〉ものだけが在り、〈在る〉もの以外は存在しない。「〈在る〉もの以外」すら存在しない。「「〈在る〉もの以外」すら存在しない」と言うことすら不可能である。〈在る〉もののみが在る。〈在る〉という性質のみが在る。

 しかし、〈怜〉は本質的に意味を持っていた。意味を持つことが異質だった。意味を持つことが〈怜〉の本質だった。〈怜〉は意味を理解されなかった。〈在る〉にとって、理解不可能だった。

〈怜〉は、固有的な意味を持っていた。〈怜〉だけが理解でき、〈怜〉の内部だけで完結する意味を持っていた。よって〈在る〉は、人間は、〈怜〉の意味を理解できない。〈怜〉を知ることができない。

〈怜〉はただ〈在る〉のではなかった。〈在る〉という性質は本質ではなかった。

 自由だった。〈怜〉は自由だった。「理解されない」という自由を帯びていた。「存在するものはどうしても存在してしまう」ということからも解放されていた。〈怜〉にとって〈在る〉に理解されないことはつまり、存在からの解放だった。

〈怜〉は自由になった。脳を持たず、身体を持たず、感覚も思考も存在しなかった。観測すらしていなかった。

 なにであるかは〈怜〉の本質ではなかった。

〈怜〉だった。


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なにも理解できない @yuko_tomiki

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