7-3

「たまにはお母さんとかショウタに顔見せちゃれよ」

 運転席に座る父が言った。

 怜は頷く。後部座席には剥離少女が乗っている。剥離少女は制服を着て、アイスクリームを舐めている。制服に白いクリームが落ちる。怜はルームミラーで剥離少女を見ている。

「清掃員はどうよ。なかなか大変やろ」

 怜は頷いた。

「学校やと生徒に気つかわなあかんしなあ」

 怜は、父の言葉を聞き流していた。うん、とだけ言った。

 年末だった。怜は父に言われて、実家に帰省していた。

 雪が降っていた。音もなく、白い粒が窓ガラスに張り付いた。

「お母さん喜んじゃあたぞ」

「うん」

 雲が低く垂れこめている。剥離少女は既にアイスを持っていない。

 父はハンドルに添えた人差し指を、トントンと動かした。父は何も言わない。

 怜は何も言わない。


 実家に着いた。玄関で、母が怜を出迎えた。

「よう帰ってきたな。寒かったやろ。はよ入りな。暖房入れてるから」

 実家に帰るのは、三年ぶりだった。脂のこびりついたテーブル。黄ばんだポット。野菜くずが散乱した台所。何も変わっていなかった。

「ショウタは?」

 父が母に尋ねた。

「部屋とちゃうか」

「おん」

 そう言うと、父は階段の上に向かって声を張り上げた。

「ショウタ! 降りてこい。怜が帰ってきたぞ」

「いつまで居てるんよ」

 母が怜に尋ねた。

「明後日まで」

「そんなに短いんかえ。仕事忙しいん?」

「うん」

「今日は何食べたい?」

 ショウタが階段を下りてくる。何も言わず、椅子に座る。

「王将か?」

 父が言った。「食べに行くってなったらいっつも王将やったからな」

「それはお父さんが言うたからやろ」

「んなわけあるか。なあ?」

 父は半笑いで、怜とショウタを見た。怜は、頷いた。

 

 目が覚めた。時計を見る。夜中だった。

 怜はトイレに立った。

 暗い廊下を歩く。トイレから明かりが漏れている。トイレに明かりは点っていない。

 剥離少女がトイレにいる。怜は思った。

 怜は歩みを遅くした。床板が、きしきしと音を立てる。剥離少女がいる。トイレで、スカートを脱いでいる。トイレで下着を脱いでいる。怜はゆっくりゆっくりとトイレに近づいた。

 ドアノブに手をかけ、回す。ドアを開く。

 トイレは暗いままだった。剥離少女はいなかった。

 怜は奇妙に思った。剥離少女は突然消えたりしない。瞬間移動したりしない。いなくなる筈がない。あれは剥離少女だった。怜は確かに剥離少女の気配を感じ取っていた。おかしい、と思った。

 家の中はしんと静まり返っている。真っ暗で何も見えない。暗く、粘性のある夜の空気を、何故か怜は思い出す。微かな意思を感じるような気がする。

 ばたん。

 突然、玄関が開き、閉じる音がした。家の中は静まり返っている。玄関には鍵がかかったままだった。

 剥離少女の気配がした。

 怜は納得した。剥離少女は怜がトイレのドアを開けた隙に外に出て、玄関から家を出たのだ。やはり、消えたのではなかった。

 追いかけないと。怜は思った。剥離少女の通う学校は、怜の実家から遠く離れている。教えてやらないと。怜は思った。寝巻のまま、サンダルを履いて外に出た。

 冬の空気が袖口から入り込む。夜風がひりひりと怜の肌を凍えさせる。怜は剥離少女の気配のするほうに歩を進める。住宅街の間を歩く。たいていの家の明かりはついており、テレビの音や話し声が聞こえる。

 早く、追いつかないと。怜は歩く速度を上げる。剥離少女が離れていく。早く追いつかないと。

 指先がじんじんと痛む。鼻の奥が暗く、冷えていく。怜は追いかける。剥離少女を追う。

 少しして、剥離少女の気配が移動をやめた。すぐ近くで立ち止まっている。

 道路に面した細い路地に、剥離少女が立っていた。住宅と住宅の隙間で、すれ違うこともできないような幅の路地だった。

「おうい」怜は剥離少女に声をかけた。剥離少女は怜に背を向けている。学生鞄を肩に掛けて、立っている。

「おうい」怜はもう一度、剥離少女を呼んだ。剥離少女は何の反応も示さない。

「おうい」「おうい」「おうい」「おうい」

 何度呼んでも、剥離少女は動かない。

 怜は剥離少女に近づいた。触れなければと思った。

 剥離少女が目前に迫る。剥離少女は息をしている。毎日、怜が見ていた剥離少女とまったく同じように、呼吸をしている。まったく同じ制服を着ている。まったく同じ髪をしている。まったく同じ脚をしている。

 しかし、なにか奇妙だった。なにか違うような気がした。

 とにかく、触れないと。怜は思った。剥離少女の体温を確かめないと、肉の張りを確かめないと。いつもと同じ剥離少女であると確かめないと。

 怜は手を伸ばした。剥離少女の肩に、手を伸ばした。

「あっ」

 冷たかった。

 剥離少女の肩が冷たい。氷に触れたように、怜の手がびりりと痺れた。

「え、え、えっえ、え」

 うそ。怜は思った。

 剥離少女が冷たい。体温がない。息をしている。同じように。昨日見た剥離少女と同じように。今朝、車でアイスクリームを食べていた剥離少女と同じように。交番で剥離した時からずっと見てきた剥離少女と同じように。同じように息をしている。しかし冷たい。

「おいいぃ。え、え、え?」

 訳が分からなかった。いつから剥離少女ではなかった? これはいつから剥離少女だった? いつからこれが剥離少女だと思っていた? いや、違う? これが剥離少女? これが剥離少女? 死んでいる? 剥離少女が、死んでいる? これは実は剥離少女で、トイレを出たときから死んでいた? そして、ここまで運ばれてきた? 誰かに、息をしたまま、剥離少女は運ばれてきた? 死んだ? 剥離少女がもう死んでいる?

 怜は、股間が温もるのを感じた。異臭がした。濡れたズボンが脚に張り付く。体温を奪う。

 怜は、剥離少女を見つめる。消えてしまう。怜は剥離少女を見つめた。剥離少女の脚を見つめた。剥離少女の脚には血が通っている。脹脛の青筋が見える。ぴくぴくと跳ねている。張りがある。生きている。剥離少女の脚は生きている。怜は縋りたかった。剥離少女が死んでいることを信じたくなかった。怜は跪き、剥離少女の脚に縋りついた。温度がない。掌が、剥離少女の氷のような脚に吸い付く。掌の感覚が消えていく。怜は縋った。頬を脛に擦り付け、少しでも剥離少女を温めようとした。どれだけ剥離少女の脚を擦っても、温かくなることはなかった。怜はすすり泣いた。

 怜の目から涙が出て、頬を伝って、顎を滴って、地面に落ちた。窮屈な喉から息がすうすうと漏れた。しゃっくりが出た。目を瞑った。涙が出ている。恐れている。怜は剥離少女が死んだことを恐れている。剥離少女が死んだことを受け入れており、同時に疑いたいと思っている。剥離少女が死んでいない世界を空想し、現実に起こっている剥離少女の死を恐れている。鳩尾が、臍の奥の感覚がなくなる。空洞が生まれる。胴の肉の感覚がなくなる。背骨だけで体を支えられない。腕の力だけで剥離少女の脚に縋り付けない。怜は地面に倒れる。頬をコンクリートに擦り付ける。冷たい。冷たい。怜の頬が冷たい。涙がコンクリートに浸み込む。湧き出したばかりの涙は熱く、頬を伝う頃には冷たくなっている。怜は剥離少女のために泣いているのではない。剥離少女の死を恐れて泣いているのではない。剥離少女の死が悲しくて泣いているのではない。怜自身が剥離少女を失ってしまったこと、そのことに対して泣いている。剥離少女の喪失、という事象に対して泣いている。

 怜は地面に突っ伏している。剥離少女の顔は見えない。剥離少女は立っている。怜は剥離少女の脚を掴む。肉に指を食い込ませる。剥離少女の脚は張り詰めている。弾性力が怜の指を押し返す。しかし冷たい。怜は再び剥離少女が死んでいることを実感する。

「いやだぁあぁあぁ」

 怜は嗚咽した。

 死んでいる。死んでいる! 死んでいる! 死んでいる!

 怜は心中で叫んだ。怜は己をいじめるために、心中で叫んだ。

 もう戻ってこないぞ! 死んだぞ! おい! 剥離少女は死んだ! もう温度がない。抱き着いても温度がない。剥離少女が動くことはない。学校に行かない。アイスを食べない。テレビを見ない。布団で寝ない。お前を無視しない。見ろ。死んでいるだろ! お前は一生剥離少女が死んだことを受け入れるな。

「いやだあ。いやあぁ」

 怜は泣きたかった。怜は恐れていた。剥離少女の死ではなく、剥離少女の死を恐れることを恐れていた。怖くなりたくない。怜は泣いた。怜は被害者だった。遺族だった。剥離少女のために悲しむ遺族だった。怜は剥離少女のために泣こうとした。

「いやだあ。悲しい。悲しい」

「れいくん」

 声がした。涙が止まった。全身の神経が張り詰めた。

「れいくん」

 頭上から声がする。怜を呼んでいる。怜は突っ伏したまま、目を見開く。闇の中で、声を聴く。

「れいくん」

「あああっ」

 怜は叫んだ。体が跳ねた。

「れいくん」

「あああああああ!」

 怜は叫んだ。

「あ! あ! あ! あ! あ!」突っ伏したまま、拳を何度も地面に叩きつけた。

「れーいーくん」

「あああああ! あああああああ!」

 怜は叫んだ。脚をばたつかせた。声を遮ろうとした。声は止まなかった。

「れいくん」

「ああああ!」

「あ、あははは。れーいーーーーくんっ」

「ああああああ! おおおおおおおお! んんんんん!」

 声を遮る! 声を遮る!

「れいくん」

「れいくん」

「れいくん」

 声は止まない。怜の反応を面白がっている。怜は覚えている。声を覚えている。声が聞こえる。覚えている。

「ひさしぶり。れいくん、ひさしぶり。元気にしてた? れいくん。ねえ、元気?」

「ふう、ふう、ふう、ふう」

 怜は頭を抱えた。頭皮を搔き毟った。

「ヨウコだよ」

 ヨウコは、怜のつむじを指でつついた。

「元気にしてた? 久しぶりだね」

「ふう、ふう、ふう、ふう」

「顔見せてよ」

 そう言うと、ヨウコは黙った。怜は呼吸を整え、ゆっくりと顔を上げる。

「小学校以来だね」

 ヨウコは大きくなっていた。ただ、怜よりも遥かに若く見えた。明らかに三十代ではなかった。大学生くらいに見えた。

「迎えに来たよ」

 ヨウコは微笑を浮かべ、優しい声音で言った。

「え?」

「座って」

 ヨウコが怜の手を取り、「よいしょっ」体を起こす。路地に座り込ませると、自分はしゃがんで壁に凭れた。

「迎えに来たんだよ」

「え?」

 何を? 怜は思った。

「ごめんね。私、全部知ってたんだよ。れいくんのこと。初めから」

「え?」

「れいくんが小学校でいじめられてたことも、お父さんが嫌だったことも、お母さんに気に入られたかったことも、ショウくんが鬱陶しかったことも、夜に私の家の近くに来てたことも、〈猿〉がいたことも、脚が好きだったことも、剥離してたことも、私とショウくんを見てたことも、全部知ってたんだよ」

「え、え?」

「私は待ってたんだよ。れいくんの成長を待ってた」

 ヨウコは、怜の頬を両手で挟んだ。

「れいくん、セックスしよう」

 ヨウコが、怜の両目を見つめている。大きな瞳が光っている。怜の目を吸い込む。

〈世界の神〉

 怜の頭の中に、言葉が浮かんだ。

〈世界の神〉だった。

 怜は知った。ヨウコは、〈世界の神〉だった。

「〈倫理〉くん、セックスしよう」

〈世界の神〉が言った。

 ヨウコが、怜の頬に触れていた手を滑らせる。首筋を指が撫でる。怜の喉仏に中指の先端を当て、怜を見つめる。

 待っている。ヨウコは怜を待っている。

 どくり、どくりと心臓が動く。頬が火照る。怜を待っている。怜を受け入れようとしている。ヨウコが待っている。

 怜が手を伸ばす。記憶が蘇る。ヒグラシが鳴いている。苔むした石畳。木の影が濃くなる。ピンク色のビニールシート。ヨウコの肩を掴む。柔らかい。震えていない。ヨウコは微笑んでいる。

「だいじょうぶ。だいじょうぶ」

 穏やかな眼差しを、怜に向けている。

 怜はゆっくりと、ヨウコに体重を預ける。体の下に、ヨウコがいる。ヨウコは微笑んでいる。怜がこれから何をするのか理解している。期待している。怜はヨウコの首筋に唇を押し付ける。

 ヨウコが声を上げる。

 ヨウコが耳元で囁く。ヨウコの繊細な声が、怜の耳に届く。怜は必死に動いている。ヨウコを満足させようと動いている。耳元で囁くヨウコを揺らしている。止めてはいけないと思う。ヨウコを止めてはいけないと思う。息をする。息が切れる。怜は動き続ける。ヨウコが怜を呼んでいる。笑っている。ヨウコがいる。ヨウコがいる。ヨウコがいる。怜は頭の中で唱え続ける。ヨウコがいる。感覚が遠ざかる。肉のぶつかる衝撃が消え、夜の冷気が消え、コンクリートの硬さが消え、重力が消える。ヨウコの声だけが聞こえる。ヨウコだけが囁いて、笑っている。怜は動いている。己が動いているかどうか分からずに動いている。怜は自分が怜だということを忘れて動いている。怜は何者でもなく、自分であるということを忘れて動いている。ヨウコだけが存在している。ヨウコの囁きが怜を動かしている。


 れいくん、楽しいよ、気持ちいよ、れいくん。

 れいくん、なにしよう。次はなにする?

 れいくん、気持ちいね。うれしい。気持ちい。

 れいくん、次は?

 れいくん、はは、楽しい。面白いね。気持ちいよ。

 れいくん、次。

 れいくん、あー、気持ちい。これ好き。れいくん。私これ好き。

 れいくん、次はどうする?

 れいくん、ふふふ、楽しいね。きゃっ。あはは。んん。気持ちー。

 れいくん、次、次は?

 れいくん。

 れいくん、

 すき。

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