7-2

 朝になった。怜が目を覚ますと、傍らに剥離少女はおらず、部屋にいる気配もしなかった。のそりと起き上がる。遮光カーテンの隙間から、ちらちらと光が差している。枕元の時計を見る。十二時だった。剥離少女は学校に行っているのかもしれなかった。

 立ち上がる。頭に靄がかかっており、歩くとふらついた。喉が渇いている。水道水をコップに汲み、飲み干す。怜は冷蔵庫から魚肉ソーセージを取り出し、赤いフィルムを剥いて齧る。生臭い塩味を感じる。屁が出る。

 剥離少女は、いつ帰ってくるだろう。怜は思った。学校に行く日は、いつも日が暮れてから帰ってくる。今日も日が暮れてから帰ってくるだろうか。怜は魚肉ソーセージのビニールをゴミ箱に放った。

 怜は台所に立って、鍋に水を入れて火にかけた。白米のパックを開け、鍋に落とす。鍋の壁面や米粒の表面に気泡が生まれ、沸騰する。米が膨らみ、水が白く濁る。しばらくしてから、怜は火を止めた。粥を椀に盛り、机に置いた。湯気が立つ。剥離少女のために作ったものだった。

 剥離少女は何も食べない。怜は毎日、剥離少女のために粥を炊いた。

 怜は着替えて、部屋を出た。怜は工場でアルバイトをしていた。

 アルバイトが終わった。夜だった。アパートの階段を上り、部屋の鍵を開ける。部屋に明かりはついていない。外の灯りが玄関に漏れる。剥離少女の靴が置かれている。帰ってきている。怜は中に上がった。

 怜が朝、作っておいた粥は冷めきっていた。一口も減っていなかった。

 電源のついていないテレビから、音がする。

 あはははは。

 居間で、笑い声がしている。真夜中のカーテンの隙間から、朝日が差し込んでいる。笑い声も朝日も怜の耳や目には届いていない。しかし、笑い声がする。

「おうい。おうい」

 不意に寂しくなって、怜は声をかけた。返事はない。笑い声がする。

 あはははは。

 居間に続く戸を開ける。明かりは点いておらず、何も見えない。カーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。無造作に放置された布団と、ビールの缶が目に入る。テレビが沈黙している。

 机の前に、剥離少女が座っていた。足を畳んで、テレビを見ている。笑っていた。テレビではニュースが流れていた。アナウンサーを見ながら、剥離少女は笑っていた。剥離少女の前には、湯気の立ったカップラーメンがあった。割りばしが刺さっていた。怜は台所の粥に目をやった。

 あはははは。

 剥離少女は、カップラーメンに手を付けず、笑っている。鳥が鳴いている。陽光が、剥離少女の白く、瑞々しい腕に降り注いでいる。剥離少女の肌は受けた光を吸い込むようにして、わずかに膨張と収縮を繰り返している。肌を跳ね返った光の粒が怜の目に飛び込み、透過する。怜には何も見えていない。

「おうい。おうい」

 怜は剥離少女に呼び掛けた。

「学校、だろ」

 剥離少女は怜の言葉に無反応で、また笑った。

 あ。

 剥離少女は時計に目をやり、声を上げた。

 行ってきまあす。

 テレビを消して、カバンをとって、急いだ様子で靴を履いた。鍵が掛かったままのドアを押し開け、部屋を出て行った。カンカン、と階段を下りていく音がする。足音が遠ざかる。やがて、完全に聞こえなくなる。

 真夜中だった。

 怜は肩に掛けていたカバンを床に下した。冷蔵庫からビールを取り出し、一口飲んだ。テレビをつけると、少年たちが踊っている。気が付けば、後ろの布団で剥離少女が眠っている。怜は剥離少女の隣に潜り込み、剥離少女の体に腕を回す。温もりがある。いる。怜は思った。いる。存在している。剥離少女に触れているこの時間だけ、怜は孤独を感じない。


 休日になった。怜は部屋を出て、スーパーに向かった。ビールを買うためだった。人が歩いている。怜の近くを通る人はみな、怜を見ている。怜はいつも、そう感じる。怜に気付いているのではなく、怜の汚さに気付いている。怜は顔を伏せ、背を丸めて歩く。マスクをする。自分の臭い吐息を外に出さまいとする。

 スーパーで酒を買って、帰る途中だった。道路を挟んだ向こう側の歩道を、剥離少女が歩いていた。声をかけようとして、気が付いた。剥離少女ではなかった。顔も体の形も剥離少女と同じだったが、少女は剥離少女ではなかった。少女は制服を着ていなかった。オリジナルだった。オリジナルは、スマホを見ながら歩いている。

 つまらない。怜は思った。オリジナルと剥離少女が同時に存在していることが、酷くつまらなかった。オリジナルが剥離少女と別の行動を取っていることが、納得できなかった。感動がなかった。喜びがなかった。平凡だった。別のものが全く別であることが、つまらなかった。

 部屋に戻ると、剥離少女は布団の中で眠っている。剥離少女は常に制服を着ている。剥離少女はオリジナルと全く同じ容姿をしているが、まったく異なる存在だった。それは剥離しているということだけでなく、剥離少女とオリジナルの見た目や性格やすべての性質が異なっているということだった。オリジナルは、剥離少女と同じ形をした単なる人間に過ぎなかった。

 怜は剥離少女の寝顔を見て、ほうと溜息を吐いた。安堵した。


 剥離少女が存在し始めたのは、半年ほど前だった。

 怜は、大学の清掃員として働いていた。三十六歳だった。勤務先の大学までは鉄道を利用する。怜は毎朝、同じ車両に乗り込む女たちの脚を見るのが日課だった。中学生や高校生はスカートを履いているため、大人の女の脚よりも、学生の女の脚を見ることが多かった。初めは背徳感があった。自分の行為が誰にも気づかれていないことに興奮もした。しかし、毎日続けていると、昂りも背徳感も薄れていった。

 ある時、怜が見ていた女と、目が合った。高校生の女だった。怜は慌てて目を逸らした。次の日、怜は列車で警官に声を掛けられ、ワイセツ罪になった。怜と目が合った女は、剥離少女のオリジナルだった。


 怜は二十五歳だった。フリーターだった。深夜にレンタルビデオ屋でアルバイトをしていた。怜は毎朝、電車に乗って帰ってくる。バイトが早朝に終わるためだった。怜は毎日、同じ車両に乗り合わせた女の脚を観察した。盗撮したかったが、ばれるのが恐ろしかった。ある時、女と目が合って、警官に脚を見ていることが知られてしまった。怜はワイセツ罪になった。怜は交番に連行された。被害者の女は高校生で、剥離少女のオリジナルだった。


「お前、この子を見てたやろ。おい」

 座った怜に、警官が詰め寄った。部屋の隅に、高校生の女とその友人の女が立っていた。

 怜は黙っていた。警官は続けた。

「動画もあんねんぞ、この子の友達が撮ってくれとったわ。なあ、お前自分が何したか分かってんのか。ワイセツ罪やぞ。ワイセツ」

 怜は三十二歳だった。工場の作業員だった。毎朝の通勤で、電車に乗る女の脚を見るのが日課だった。

「お前みたいな奴がおるから痴漢がなくならへんねん」

 警官は言った。

「罰金やぞ。過料。ワイセツ罪やから。お前のせいでこの子ぉら学校遅れてまうねん。ほんましょうもないことすんなお前」

 警官の吐息が、怜の鼻にかかった。便器のような臭いがした。

 はあ。はあ。

「電車で痴漢するやつどれくらいおるか知ってるか? 二十人や。一日で二十人。一年で七百人。でももっとおるぞ。隠れて痴漢してる奴がいっぱいおるぞ」

 警官が話している。

 はあ。はあ。

「お前とおんなじような奴が一年で七百人生まれとんのや。ふざけてんのか?」

 はあ。はあ。

 警官の吐息が怜の鼻にかかる。女たちの吐息が聞こえる。

 怜は女を見た。

「ひ」

 女は小さく悲鳴を上げ、顔を背けた。もう一人の女が女を庇って、怜を睨み付ける。瞳が震えている。怯えている。学生カバンのファスナーに取り付けられたぬいぐるみが、ふるふると揺れている。怜は女たちの怯えを感じ取る。

 はあ。はぁあ。吐息が震えている。怜は女たちを見ている。

「おい、お前分かっとんのか!」

 警官が机を叩いた。拳に青筋が浮いている。肩を怒らせ、鼻から息を吐いている。

 はあ。はあ。

 はあ。はあ。

 怜は女たちを見ている。

 はあ。はあ。

 怜が息を吐く。

 はあ。はあ。はあ。

 女を見る。脚を覚えている。怜はついさっき見た女の脚を脳に鮮明に思い描く。目の前で怜に怯え、震え、涙を浮かべている女の脚と寸分の違いがないことを確かめる。色の白さ、脹脛の膨らみ方、膝の皺、を、怜は確かめる。

 はあ。はあ。

 警官が怒鳴る。何かを怒鳴っている。怜には分からない。聞き取れない。吐息しか聞き取れない。警官の喉は空気を震わせることなく、息を吐いている。振動を起こさず、空気を押し出している。

 はあ。はあ。

 雑踏がなくなる。車の走行音がなくなる。信号の音がなくなる。声がなくなる。音が消える。空気の移動だけがある。振動はなく。空気の移動だけがある。

 女たちが怯えている。怯えの吐息が怜の耳にかかる。

 はあ。はあ。は、は、は。

 女たちは危機を感じている。怜に見られている。女たちの心臓が速くなる。怜にはそれが分かる。女たちの吐息を感じる。

 女が見ている。目を背け、顔を隠しているが、本当は見ている。怜の様子を窺っている。怜を恐れている。怯えている。怜が己の視界から、世界から消えるのを待っている。きもいと思っている。死ねと思っている。臭いと思っている。汚いと思っている。サイアクと思っている。怜にはそれが分かる。女の吐息が聞こえる。

 はあ。はあ。はあ。

「はあ。はあ。はあ」

 怜は言った。

「ああ? お前ほんまふざけとんな。おい、ええ加減にせえよ!」

 警官が怒鳴る。拳を振り上げ、怜の顔面を目掛けて振り下ろす。警官の拳が怜を殴った。

 その次の瞬間、怜はその場でびくともしなかった。ぴくりとも動かなかった。警官の殴打の衝撃で体が仰け反ることはなかった。怜は、殴られていなかった。

 警官は確実に怜を殴り、怜は確実に警官に殴られた。

 怜は殴られていなかった。

 剥離していた。

 警官に殴られた怜と、殴られていない怜は同時に存在していなかった。怜は確かに殴られていた。それと独立に、怜は明らかに殴られていなかった。

 はあ。はあ。

 まだ吐息が聞こえる。怜は吐息の出所に目を向ける。女が、息を吐いている。怜が見続けていると、次第に女の輪郭がぼやけていく。焦点が合わなくなる。

 はあ。はあ。

 吐息も重なって聞こえる。同時に二つの吐息が聞こえる。

 交番の隅に立っている女は、はっきりと怜のことを見つめていた。そしてそれと独立に、目を背けている女がいた。

 怜のことを見つめている女は、目を背けている女と重なっていたが、やがて一歩前に出た。警官も付き添いの女も、女を見てはいなかった。

「お、お、お」

 怜の口から、自然と声が漏れた。

 剥離少女が発生した。

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