7-1

 列車のドアが開く。男たちと女たちが列車に乗り込む。女はスカートを履いている。裾から脚が出ている。脚は何本もある。すらりと並んでいる。

 地面からキノコが生えているようだと、怜は思った。

 怜は椅子に座っている。肘掛に肘を置き、手のひらで額を支えるようにして、目元を隠す。

 脚を眺める。

 白い脚がある。

 日に焼けた脚がある。

 棒切れのように細い脚がある。

 長い脚がある。

 丸く太い脚がある。

 くびれのある脚がある。

 短い脚がある。

 O脚がある。

 膝の裏に筋が入っている脚がある。

 脹脛の張った脚がある。

 膝の赤い脚がある。

 怜は、スカートを履いた女の脚を見つめる。脚の長さ、形、色、関節の動きを見る。

 女は、スマホを覗き込んでいる。女は、別の女と話して笑っている。女は、窓の外を眺めている。女は、目を瞑っている。女は、参考書を開いている。怜は、それら女の脚を、見る。

 脚が、生えている。怜は思った。脚が生えていて、動いている。生きている。生きている。血が巡っている。女の意思によって脚が動く。そう思うと、怜は脚たちが愛おしくなった。

 怜は十七歳だった。高校生だった。最寄りから五駅離れた高校に進学した。

 朝、列車は学生で混み合う。怜は女の脚を見る。日課だった。怜は女の脚が好きだった。

 ひそひそと声がした。顔を上げる。何人かの女が、怜を見ていた。怜が見ると、さっと目を逸らした。列車が止まり、ドアが開くと同時に女たちは駆け足で出て行った。しかし女たちはすぐに戻った。女たちの後ろには駅員がいた。

「この方ですか? すいません、ちょっと来てもらえます?」

 ああ。怜は思った。

 ああ。


 列車が止まり、ドアが開く。制服の女たちが乗り込む。怜は女の足を見る。目元を手で隠して、見えないようにする。

「すいません、ちょっと来てもらえます?」

 ああ。


 怜は駅のホームに立っていた。電車が滑り込む。怜の目の前で扉が開く、怜はスマホの録画ボタンを押して、電車に乗り込む。椅子が空いている。怜は椅子に腰かけ、眠るふりをする。スマホは握っている。カバーのおかげで周りから画面は見えない。寝ているふりをする。

 電車が動き出す。少し走って、止まる。ドアが開く。人が入ってくる。女の声がする。若い。子供の女の声がする。高校生の女の声がする。高校生の女はスカートを履いている。紺のスカート? 紺のスカート? 紺のスカート? 怜は見たくなった。スマホで撮影中の動画を確認したくなった。女がいる。見たい。でも女がいる。でも見たい。ちょっとだけ見たい。怜は目が覚めたふりをする。スマホを開き、録画停止のボタンを押す。

 ピコん。スマホの音が鳴った。

 ああ。怜は思った。駅員が来た。


 怜はサングラスを買った。朝日が眩しいことを理由に、サングラスを買った。

 怜は電車に乗った。電車が動き、止まる。高校生の女たちが来る。怜は脚を見る。

 次の日も、怜はサングラスをかけて、電車に乗った。途中の駅で、女たちが入ってくる。ひそひそと声が聞こえる。くすくすと笑う。怜は女たちの脚を見ている。ぶいいいいん、と列車が唸る。電車が走っている。トンネルの穴に衝突する。怜は女の脚を見ている。ばれていない。怜はばれていない。怜は女たちから見られていた。話題にされていた。笑われていた。しかし怜は女たちの脚を見ていた。怜を気味悪がっている女の脚も、怜を笑っている女の脚も、怜を見て見ぬふりする女の脚も、怜を見ていない女の脚も、見た。毎日見た。

 サングラスをかけ始めてひと月が立った。

「すいません。ちょっと来てもらえます?」

 ああ。


 ああ。


 少年が踊っている。きらきらちかちかと光をいくつも反射する服を着ている。マイクを片手に持って、踊っている。少年は、別の少年と肩を組み、目を合わせ、怜に微笑む。

 怜は、缶に残ったビールを飲み干した。夜だった。暗い中で、テレビの画面がびかびかと点滅する。少年たちが踊る。画面が目まぐるしく移り変わる。光の波が、怜の目に押し寄せる。

 怜は頬杖を突く。顎を撫でる。髭のぞりぞりとした感触を、手のひらに覚える。缶を呷る。中身がないことを思い出す。画面を眺める。少年たちは踊っている。少年たちは笑っている。

 少年たちの出演が終わった。怜はテレビの電源を切った。

 部屋が静まり返る。

 怜はスマホの電源を入れる。インターネットを開くと、再生途中のアダルトビデオが表示される。再生ボタンを押すと、男と女が動作を再開する。スマホの側面の穴から、女の声が漏れ出す。犬の鳴き声のような、高く掠れた音が、穴から規則的に排出される。白く、血色の悪い女が揺れている。女の顔にはモザイクがかかっている。男は丸い腹を繰り返し突き出している。

 あんあんあんあんあんあんあんあんあんあんあんあんあんあんあんあんあんあんあん。

 怜の耳に女の声が入り込む。女の声はやがて怜の中で声としての意味を失い、音になり、音としての意味を失い、文字になり、文字としての意味を失う。女の声は何でもなくなる。女の声は解体される。

 怜はアダルトビデオの再生を止めた。代わりに新しいタブを開き、「長身 女 脚」と打ち込んで検索した。瞬時に女の画像が出てくる。短いスカートを履いている。女の長い白い脚が並んでいる。画面をスクロールする。脚の画像は溢れるように、次から次へと出てくる。飽和していた。

 違う。怜は思った。スマホを足元に放った。

 怜は目を閉じて、仰向けになった。

 きいん、と耳鳴りがした。

 頭を掻いた。

 喉が熱かった。ビールのせいだと思った。

「あああ」

 怜は、唸るように声を出した。

「ああああ」

 もう一度、声を出してみた。

「ああああああ」

「あああああああああああ」

「ああああ、ああああああああああああ」

 怜は半ば叫ぶようにして、声を発した。声を出すしかないと思った。怖いような気がした。腹が立つような気がした。後悔したような気がした。自分がなぜ声を発しているのか、怜にはわからなかった。怜は何かに圧迫されていた。ラッパのように、怜は圧迫されるがまま、声を発した。

 なんとなく、殺したいと思った。暴力による殺害ではなかった。加えてそれは殺害というほど暴力的でもなく、しかし消したいというほど柔和なものでもなかった。怜はなんとなく殺したかった。自殺願望のような感覚だった。厳密には自殺願望ではなく、自分が死ぬ、または剥離することで、自分以外を殺したい、というものだった。怜自身が死ぬ、または剥離することで、怜以外が剥離して、死ぬことを怜は望んでいた。怜以外のすべての人間に対する裏切りだと、怜は感じた。裏切りたいと思っていた。

「ううううううううう」

 抑圧されている。頭の中に綿を詰められていくような感覚を覚える。脳に加わる圧力が上がっていく。

 ぐう。ぐう。ぐう。音が鳴っているように感じる。頭の中の綿が重みを増していく。怜は、圧力で内側へ内側へと押し込められていく。怜の脳が収縮する。皮膚から怜の筋肉や内臓が分離して、凝縮され、収縮する。小さく小さく圧縮される。次の瞬間には怜の体は怜の表皮全体に広がっている。二つの状態が同時に実現している。

 怜は部屋の埃臭さを感じながら、体の内側に増えていく綿を感じながら、目を開く。目が上を向く。怜の頭の上、壁のほうに目線が動く。目の上に鈍い痛みが生まれ、耳の奥でぶうんと振動が起こる。青く灰色の雑音のような光が目の前を覆い、瞼から涙が染み出す。

「んんん」

 横を向く。暗がりに手を伸ばす。我慢できなくなった。怜は床を這って、移動を始めた。擦り切れたカーペットに腕や腹を擦り付けながら、部屋の隅へと這って行く。這いながら、頭の中で溜息を吐く。這うために伸ばした手が、腕に触れた。

 剥離少女は、すうすうと寝息を立てていた。怜が剥離少女の腕を軽く握ると、ぴくりと体が震えた。しかし目を覚ますことはなく、静かに呼吸を繰り返している。怜は剥離少女の傍に這い寄り、剥離少女が被っている布団の中にもぞもぞと潜り込んだ。元は怜の布団で、現在は一つの布団を剥離少女と二人で使用していた。布団は剥離少女の体温で温かくなっている。怜は剥離少女のほうに体を向け、腕を剥離少女の体に回した。十歳の肋骨が上下している。怜は、剥離少女の首筋の匂いを嗅いだ。

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