6-4

 シャガイと刺青の男たちが家に来て、怜を捕らえた。

「レイさん。どうしたんですか。大丈夫ですか」

 頭痛は続いていた。

「王に会いに行きましょう。あなたは今おかしくなっています。王に会いに行きましょう」

 怜はシャガイたちに連れられ、王国の中央に向かった。階段を上り、塔を上る。塔の外見も中の様子も、初めて王国を訪れた時と全く変わっていなかった。尖塔から、中央の塔に繋がる通路を歩く。水がどうどうと流れている。流れる水の轟きで、痛みが少し引いた。

 小さな入り口を潜ると、広間が待っていた。

 蝋燭と刺青の男たちが並んでいる。暗く、天井は見えない。中央にテントのようなものがある。怜の記憶の中の光景と、現在の光景がぴったりと重なった。

 怜は、自らテントの前まで歩み寄った。中に人の気配がある。ほんの少し、懐かしさを覚えた。

「入ってください」

 シャガイが入り口の布を引き上げ、中へ怜を招く。その向こうには王がいた。

〈生き物の神〉。

「返せ!」

 怜は飛び掛かった。

 王を押し倒し、王の首を左手で押さえ、右手で王の纏っている薄衣をぐい、と引っ張った。怜の手と引っ張った布で、王の首が締まった。

「返せ」

 怜は叫んだ。

「ソマル返せ。女。おい、女! お前女だろ! お前が返せよ。ソマル帰って来いよ。おい! 女のくせにソマルを生むな! おい! 聞け! 耳の孔開けろよ。俺の声をそん孔に入れろよ。聞け。女、聞け!」

 怒りだった。

 王に対する女に対する怒りが、とめどなく溢れた。

「俺を殺したのは女か。俺を生んだのは女か。おい、答えろよ。女、おい。ソマルを隠したんだろうがよォ。首絞めるぞお前、なあ。なあ!」

 怜は涙を流した。視界が赤く、脈打っている。

「お前は女だ! くそが。殺すぞ、い、今から、殺すぞ。おい、おい。お前は女か。答えろよ」

 ばりばりばりばりばりばり。

 蘇った。記憶が蘇った。それは怜の記憶だけではなかった。怜である怜だけでなく、そのほかの怜の記憶も蘇った。

 怜は怒った。怜は問うた。

「お前は王か!? お前はシオンか!? お前はお母さんか!? お前は娼婦か!? お前はなんだ!? 女だろうが。お前はなんだ」

 怜は己の顔を殴った。王を殴ることはしなかった。王ごときを殴ることで、怜が解放されることはなかったからだった。怜は己を殴るほかなかった。

「お前、お前を殴れ! 俺が見ている前で、お前を殴れ。血を出せ。示せ。お前が女であることを示せ。殴れえっ」

 怜は王の耳元で怒鳴った。王がびくりと跳ねた。怜は王の手首を掴んで、握って、王を殴った。

 ごつ、ごつ、ごつ、ごつ。

 怜は歯が折れそうなほど食いしばった。痛みを生み出す。怜は痛みを生み出していた。痛みが怜を怜の体に繋ぎとめていた。怜は王が王自身を殴るのを見て己を殴った。殴打の痛みは感じない。歯を食いしばる。痛みは歯の内側にのみ存在していた。殺す。殺す。怜は殺すと思った。歯の間にある己を殺すと思った。決意した。殺さなければならなかった。義務ではなく権利ではなかった。しかし殺さなくてはならない。無限の小ささをもつ歯の間の怜をどこまでも力を入れて噛み潰す。歯の間に存在する怜は怜だけではなく妻であり娘であり兵士だったが怜はそのすべてつまり歯の間に存在するそれを構成するすべてを殺さなければならなかった。

 王は死んでいる。息があり意識があり思考し言葉を発しているが、既に王は死んでいる。怜は許さない、と思った。怜は王が死ぬことを許さなかった。剥離しているとはいえ、王が死ぬことを許さなかった。

「女の分際で、死ぬのかお前は。殺す。許さんぞお前。殺す」

 首を絞める。

「同じだ。お前はアンと同じに死んでいる。殺してやらんぞ。剥がれられるわけがないだろお前よ」

 首を絞める。首を絞める。首を絞める。首を絞める。首を絞める。

 歯が割れる。しかし怜は未だ怜であった。怜は殺している。殺す、と思っている。

 記憶の中で、シャガイが話している。それは存在しない記憶だった。

「僕たち〈神〉は、退屈になると、指を切ります。痛みを思い出すためです。この世に存在し、意思を持つあらゆるものは、痛みを求めています。生きる方向を与えられないと生きていけないからです。だから痛みが必要なのです。痛みは人の生きる方向を示します。僕たち〈神〉もその点は人と同じです。たまに痛みが必要なのです。

 犬は人にとっての痛みです。犬を与えることで、人は協力し、生きる喜びを得ようと努力するのです。だから僕たちは犬を作り、人を襲わせるのです。兵士に犬を殺させるのです。人が気持ち悪いと感じる形に作るのです。痛みが生き物を社会を作るのです」

 違う。怜は思った。

 怜にとっての痛みは、シャガイの言うそれとはまったく異なっていた。怜にとって痛みは、怜が怜として存在している証だった。怜にとって痛みは喜びだった。すべてに対する謝罪だった。痛み以外に、怜が自身を確かめる術はなかった。痛みは意志だった。痛みはそれそのものが独立していた。痛みは怜に生きる方向を指し示すものではなかった。痛みは力だった。痛みが原点だった。怜は原点である痛みから始まった。怜は痛みを自らに対して他者に対して与えた。怜の求める先には痛みがあった。怜は痛みを目指していた。

 怜にとって痛みは、〈痛み〉だった。

「……おっ」

 王が喉を鳴らした。その拍子に、怜の散っていた視界が元に戻った。

「レイさん、落ち着いてください。大丈夫ですか。落ち着いてください」

 シャガイが怜に話しかける。王は怜に組み敷かれたままだったが、平静としていた。ふう、と小さく息を吐く。真っ赤な上下の唇が、互いに吸い付くようにして、閉じた。

 怜は、ふらふらと立ち上がった。身体中の水分が抜けてしまったような疲労感を覚えた。

「レイさん、落ち着いてください。また、暴れてしまっては駄目です。落ち着いてください」

 シャガイがゆっくりと歩み寄り、怜の肩に手を置いた。

「思い出しましたか? レイさん。あなたの大事なものを思い出しましたか。大事なものを思い出しましたか。言ってください。僕たちに言ってください。僕たちはあなたの味方です。僕たちはもうあなたを頼りません。約束します。リンリさんを頼りません。約束します」

〈社会の神〉の両肩から、煙は出ていなかった。嘘ではない。怜は直感した。

〈生き物の神〉は立ち上がり、怜を見つめていた。衣が乱れていた。

「〈無の神〉だ」

 怜はぼそりと呟いた。

「〈無の神〉が、ソマルを隠した」

「ソマル? 誰ですか。誰ですか」

 シャガイは首を捻った。嘘は吐いていない。シャガイはソマルを知らなかった。自分だけが憶えているのかもしれない。怜は思った。

「まあ、いいです。〈無の神〉です。〈無の神〉は危険です。レイさんを呼んだのは〈無の神〉です。〈世界の神〉にレイさんを呼ばせたのは〈無の神〉です」

 シャガイは、怜に訴えかけるように言った。

「え?」

「〈無の神〉は危険です。僕たちが協力します。殺すのです。〈無の神〉を殺すのです」

「え?」

「〈無の神〉は僕たちの敵です。レイさんにとっても敵です。だから殺しましょう。〈無の神〉を殺しましょう」

「え?」

「え?」

 シャガイは、怪訝な顔をした。

「どうしました。レイさん。なんですか。なにかありますか」

「え?」

「ちゃんと聞いてください。レイさん。聞いてください」

「え?」

「レイさん。僕たちは〈無の神〉を殺さなくてはいけません。殺すのです。殺すのです」

「え?」

「おい! ふざけるなよ」

「え?」

「下らんことをするな」

 シャガイが、怜の腕を掴んだ。

「挑発しているのか。お前。僕を挑発しているのか」

 シャガイが怜を殺したがっているのを、怜は感じた。シャガイは、怜に目を向けていたが、怜を見てはおらず、怜を殺そうとしていた。殺すための意識のみを怜に向けていた。

「え?」

 怜は、再度訊ね返した。シャガイは何も言わず、腕を握る力を強める。怜を真っすぐ見据えている。

「え?」

 怜は訪ね返した。怜の腕を掴むシャガイの手が、ふるふると震え始めた。ぎち、ぎち、と腕が締め付けられる。鬱血する。血が止まる。肘から先が冷たくなる。指が痺れる。シャガイは平静を装って、握力を込めている。

 シャガイは息を止めている。装っている。見せかけている。力があることを怜に示そうと、装っている。怜は、シャガイを見ている。シャガイは怜が強がっているのだろうと思って、強がっている。

「この笛、笛」

「え?」

「犬」

「え?」

「殺すお前を」

「え?」

「殺すお前を」

「え?」

「うんっ!」

 シャガイが、怜の左腕を握り潰した。怜の腕がぼとりと落ちた。

 王が、怜の腕の前に膝をつき、両手で怜の腕を抱えた。頬を上気させている。王は怜の落ちた腕を舐め始めた。

「ンむ。うむぅ。ふあっ。ほあ。んぅ」

「汚いぞ!」

 シャガイが怒鳴った。王から怜の腕を取り上げようとするが、王は怜の腕にしがみついた。

「離せ。離せ。離せ。離せ」

 シャガイは何度も怒鳴った。それでも離さない王の頭を、シャガイは蹴った。王が勢いよく倒れる。しかし腕を離さず、舐めている。齧っている。

 シャガイは震えていた。王は無我夢中で怜の腕を頬張っている。

「あああ。くそ、くそ、くそ、くそ」

 シャガイは地団太を踏んだ。両手を握りしめて、開いてを繰り返した。

「また、また、だ。全部お前のォ! お前のォ! お前が来たからァ!」

 シャガイが叫んだ。テントが破れる。天井が割れる。床が震え、歪み、並んでいた兵士たちが残らず転倒し、塔の頂点から光が差し込む。塔ががぱりと割れ、外の様子が見える。割れているのは塔だけではなかった。王国が分断されていた。腹から裂け、転覆する船のように、王国すべてが両断され、傾いている。莫大な質量が動き、震動している。煙が上がる。破砕した砂岩に挟まれ、大量の水が噴き出す。

「この世界まで、お前、この世界まで壊れるィ!」

 シャガイは金切り声を出した。

「壊れた! ぜんぶ、ぜんぶ壊れた! ああああああ!?」

 怜は、割れずに残った地面の上に立っていた。シャガイが空を仰ぎ、叫んでいる。王は怜の腕にむしゃぶりつき、跪いている。転覆した王塔から兵士たちが滑り落ちていく。壁に激突し、死んでいく。王国全土で、地面が傾き、人間たちが壁にぶつかって死んでいくのを怜は見ていた。頭を打って死んでいたし、肋骨を砕いて死んでいた。怜とシャガイと王を除く王国にいたすべての人間が壁に激突し、死んだ。みんな重力で死んだ。

「あああああ!?」

 シャガイはまだ叫んでいる。まだ叫んでいる。怜は思った。

 シャガイが王国を割った。自分がやったにも関わらず、叫んでいる。おかしいと思った。行為者が叫ぶのはおかしいと思った。叫びは被行為者のほうだ、と思った。叫びは死んだ人間のものだと思った。死んだ人間が叫ぶことが出来るのであって、行為者であるシャガイが叫ぶのはおかしい。怜は非難した。

「え?」

 怜が言った瞬間、シャガイが叫ぶのをやめた。怜を見た。

「え?」

 怜は非難した。シャガイは間違っている。初めから間違っていた。

「お前まだ言うのか? え? え? てまだ言っている」

 シャガイは缶切りを握っていた。湾曲した刃と、缶の縁に引っ掛けるための突起がついたものだった。シャガイは缶切りを自分の左の人差し指に食い込ませた。

「なんだこれ、なんだこれ」

 シャガイは缶切りを凝視しながら、缶切りで左の人差し指に穴をあけていく。

「これもお前の缶切りか? 缶切りはなんだ。説明しろ。血が出ているのは、説明しろ」

 缶切りは、怜の家にあるものだった。思い出した。日本だった。怜には家があった。学校に通っていて、家族がいた。車があった。発電機があった。神社があった。

 シャガイが缶切りを投げ捨て、怜に歩み寄る。

「教えろ。僕に僕の社会を作り方のお前が教えろ」笛を吹いた。

 シャガイの足元に死んだ犬が現れた。シャガイがもう一度笛を吹く。死んだ犬がもう一体増える。シャガイは笛を四十二回、吹いた。四十二体の死んだ犬が現れた。

「これで作れ。社会を僕に作れ」

 怜はすでに思い出していた。シャガイが何を言おうと、もはや非難する気も起きなかった。

 怜にはすべきことがあった。それは犬を殺すことではなかった。

 怜にはすべきことがあった。それはソマルと一緒に居続けることだけではなかった。

 怜はすべて、すべて、完全に思い出した。

 怜の認識が多次元化した。

 怜は、世界を捉えた。

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