6-3

 犬が逃げている。のそりのそりと手足を動かして、逃げている。「はあ、はあ」息を吸って、吐いている。涎の滴が、口吻を伝って地面に落ちる。人の歩く速さよりはるかに遅く、それでも必死に移動を続けている。犬は何匹もいる。大半は必死に逃げているが、中には逃げるのを諦めて、地に伏せるものがいる。仰向けに倒れ、目を開いて叫ぶものもいる。しかし、犬は泣かない。叫んでも、涙を流すことがない。

 怜は、石斧を、犬に、突き立てる。犬が叫ぶ。絶叫が、斧を伝って、怜の掌にびりびりと響く。怜は昂って、斧を握る手に力を加える。犬の声は高くも低くもない。男の叫び声に近い。同じ音と大きさで、長く、長く、息が切れるまで叫ぶ。死ぬまで叫ぶ。

「あーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー」

 怜は十七歳だった。王国の兵士だった。

 怜の仕事は王国近郊の犬を駆除することだった。春、犬狩りの季節になると、怜は他の兵士たちとともに、王国を出て山に籠り、犬を探す。犬は大抵群れで活動をしている。規模が大きくなると、粗末な集落のようなものを作っていたりもする。怜たちは群れを見つけると、そこで暮らす犬たちを駆除し、死体を埋める。建造物があれば、それらを取り壊し、次の群れを探す。

 犬狩りを春に行うのは、犬たちの繁殖を待つためだとシャガイは言った。繁殖が終わって、体力を失っているところを殺すのだと言った。

 犬狩りの季節が終わると、兵士たちは王国に戻り、それぞれの生活に戻る。兵士たちは商人だったり、靴屋だったりする。しかし春になると、犬を狩る。

 怜には妻と、娘が一人いた。妻は十六歳で、娘は一才だった。

「お帰りなさい」

 山籠もりを終え、家に帰り着いた怜を、妻のアンが迎えた。娘を抱いている。痩せた体にだぼだぼの布切れを纏っている。首に巻きつくように、刺青が彫られている。平坦な胸を娘の口に押し付け、娘は顔を逸らせている。

 怜が荷物を下ろし、外套を脱ぐのを、アンは黙って見ていた。娘が泣き始める。娘に名前はなかった。アンは娘を慰めることもせず、その泣き顔をじっと見つめている。そうしてまた乳首を娘の顔に押し付ける。

 怜は、泣きじゃくる娘を妻から取り上げた。アンが怜の顔を見た。

 怜は娘を籠の中に降ろし、アンの目を覗き込んだ。アンの背は怜よりも頭一つ分低く、肩幅は怜の半分ほどしかなかった。

 怜はアンを抱え上げ、寝台に倒した。服を脱がせ、体を丹念に舐める。勃起する。しかし温度が高いのは性器のみで、その他は何も変わらなかった。怜は舐めるのを中断し、跨ったまま、妻の体を俯瞰した。女の身体だった。骨と筋肉と皮があった。起伏があった。丸く、角ばって、立体を形成していた。怜の好きな身体だった。しかし、もう、以前のような、アンを初めて見た時のような興奮はなかった。アンの体は今も全く変わらず美しかったが、なぜか怜の心は冷えていた。美しいということは理解できていたし、好きな体であるということも理解できていた。ただ、心の底から実感することが、出来ていなかった。心が動かなかった。

 アンは、何も言わず怜の顔を見つめている。アンは何も言わない。アンは怜の命令に従い、怜が禁じたことは決してしない。アンは怜のために食事を作り、怜が求めると性行為をし、怜の言うままに子を作る。アンは、怜に買われた奴隷だった。奴隷であることを示す首の刺青を、怜は指でなぞった。

 アンが、怜を見ている。

 怜は、アンの首元に両手を当てる。ゆっくりと指を曲げ、アンの首に合わせて輪を作る。

 アンは、怜を見ている。

 怜は、わずかに力を加え、両手の輪を絞る。

 アンは、怜を見ている。

 細い首に、指が柔らかく食い込む。

 アンは、怜を見ている。

 このまま、アンは死ぬかもしれない。怜は思った。アンはまだ息をしている。しかし、このままではアンは死ぬかもしれない。怜がアンの首を絞めて、アンが死ぬ。

 怜の指が、ずぶずぶと首の肉に入り込んでいった。アンの顔に赤みが差す。額に血の筋が浮き始めた。怜はその様子を眺めていた。木が揺れるのを眺めるような、水が流れるのを眺めるような感覚だった。さらに締まる。アンは抗わず、表情を全く変えず、怜を見つめている。怜は両手に力を込めて、自らの意思でアンを殺そうとしていた。同時に、怜は自らの両手に勝手に力が入り、勝手に首が締まり、勝手にアンが死に向かうのを眺めていた。怜は行為者であり、同時に観測者だった。

 怜はアンを殺そうとして、殺そうとは思っていなかった。

 怜は、勃起していることに気が付いた。性器が勃起していた。それは怜が勃起しているということでもあった。

 あ。

 怜は気付いた。性器が勃起していて、それは怜が勃起しているということでもある。ならば、性器は怜自身だった。同様に怜は性器だった。同様に怜は性器は勃起だった。怜は性器であり、〈勃起〉だった。それでいて怜は〈冷静〉でもあった。

 怜の殺す意思は、〈勃起〉から発せられていたものだった。怜の殺そうとはしていない意思は、〈冷静〉から発せられていたものだった。


 死ね。女を犯す。肉、死ね。


〈勃起〉が叫んだ。

 ぐに、い。〈勃起〉が、アンを縊る。アンはだらりと脱力して、目だけを〈勃起〉に向けている。首から上が血液でパンパンに膨れ上がる。沸騰している。アンの頭に詰まった血が、ぶつぶつと沸騰している。〈勃起〉が叫ぶ。叫びは既に言葉を成していなかった。アンの全身の表面にぶちまけるように、〈勃起〉は喚き散らした。

 唾が飛ぶ。ぴっぴっ、とアンの顔面に唾液が飛散する。叫んでいるのは怜だった。

 脈動が消えていき、アンの目から光が無くなるのを眺めているのは怜だった。

〈勃起〉は叫び、〈冷静〉は見ている。

 アンを殺した!

 アンが死んだ。


 娘が泣いている。日が落ちて、家の中は真っ暗だった。闇の中で、娘が泣き叫んでいる。

 怜はこと切れた妻の首を開放し、立ち上がった。手探りで娘に触れ、抱え上げる。娘は手足を動かし、怜の腕から逃れようとする。娘の肉は柔らかい。怜は犬の子供を思い出した。犬の集落には、子供が多い。兵士たちは子供も殺す。逃げる子供の首根っこを掴み、締め上げる。首を刎ねる。心臓を刺す。川に落とす。殴る。樹木や地面に顔を叩き付ける。子供は簡単に死ぬ。娘は、犬の子供と同じ感触だった。泣き声も似ていた。生臭さも犬に近い。

 娘が泣いている。姿は見えない。

 殺せるのだ。怜は思った。殺そうとすれば、簡単に殺せるのだ。犬と同じように、地面に頭をぶつけてやれば殺せる。

 急に、分からなくなった。同じだった。犬の子供も、娘も、何も変わらなかった。同じではない筈だった。犬は犬で、人ではない。娘は犬ではない。娘を殺すことは出来ない筈だった。

 にわかに不安が押し寄せ、怜は娘の口を塞ぐように、耳を押し当てた。娘の泣き声が一層大きくなる。怜の鼓膜がびりびりと震えている。確かめないと。怜は思った。娘が犬ではないことを確かめないと。怜はさらに耳を押し付ける。

 娘は犬の子供よりも小さい筈だ。歯茎は薄桃色の筈だ。歯は小さく、円い筈だ。頭と顔周り以外に体毛は生えていない筈だ。瞳は黒い筈だ。くすぐると、笑う筈だ。

 娘が泣いている。

 犬の鳴き声がする。


 犬を殺さないと。


 声がする。

「そっ」

 娘が泣いている。

「そっそっそっ」

 蘇りかけた記憶が、急速に萎んでいく。

「そっそっそっそっそっそっ」

 聞け。聞け。思い出せ。言っている。声を聞け。泣いている。鳴いている。

 怜は娘の頭を押さえつけた。耳の孔を声が反射する。

 聞け。怜は思った。

 耳から、娘が入ってくる。ぐぐぐ、と頭から、窮屈な孔の中を進んで、怜の脳へと向かっている。娘の声はくぐもって聞こえる。体の中ほどまで、怜の耳に埋まっている。

 あともう少し。もう少しで聞こえる。聞け。聞け。

 耳の孔を、娘の肌が擦る。怜を押し広げ、娘が入ってくる。全身に鳥肌が立つ。

「お、お、お、そっそっそっそっ。おおおおおお」

 娘のすべてが、怜の中に入った。

 娘は泣いていた。泣き声は、怜の耳から聞こえていた。

 急に、吐き気がした。

 異質なものが、身体の中にある。そう感じて、怜は嘔吐した。胃酸が唇から垂れる。吐き気は消えない。

 あいつだ。怜は思った。あいつが、中にあるせいだ。

 怜は、寝台に横たわっているアンのそばまで行き、アンの腹を殴った。腹が立った気がした。殴らないといけないような気がした。

「お前のせいだ! お前が娘を生んだせいで娘の中にお前が入ってしまった」

 ばち、ばち、と怜が殴る度に、アンの腹が歪んだ。

「娘はぼくのものだ。ぼくの精子を返せ。おい。腹を見せろ。ぼくが入れてやった精子を返せ。お前がぼくになれると思うな。子を残せると思うな」

 きりきりとこめかみを締め付けるような痛みが怜を襲った。痛みから逃れるために、怜はアンを殴った。いくら殴っても痛みは消えなかった。それでも怜は殴り続けた。

 殴り続けて、朝になった。

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