6-2

 暗いうちに目が覚めた。座ってまま眠ってしまったようだった。首の付け根が痛い。

 ソマル。

 周りを見回す。すぐそばに、ソマルが座っている。目を瞑っている。薄闇の中、浅黒い肌が砂の壁に溶け込んでいる。怜は、ソマルと二人で村を出る前のことを思い出した。記憶の中のソマルと、今のソマルが重なって見える。二つのソマルは全く同じ表情で、同じ場所で、同じ呼吸の早さで、眠っている。怜はソマルの肩に己の頭をそっと預けた。こめかみに、細くやや骨ばった感触を覚える。熱も感じる。帰ってきた、と思う。怜は、ずっとここへ帰ってきたかった。ずっとここへ帰ってきたかった。

 ソマルが身じろぎをして、わずかに呻いた。

「ん?」

 もう一度呻いて、怜のほうに顔を向ける。

「はよう」

 怜は頭をどけて、座り直した。ソマルが欠伸をした。「もう朝?」

「うん」

「でも、まだ暗いね」

 ソマルは伸びをして、周りを見回す。そして目を瞑り、怜に凭れ掛かった。ソマルは、怜の膝の上に頭を載せて、横になった。

「日が昇ったら、訓練なんでしょ」

 怜が頷くと、ソマルはふわ、と笑った。

「じゃあ、それまでちょっと探検しようよ」


 青暗い中を、ソマルと手を繋いで歩いた。空気が冷えている。どどどど、と水の流れる音が聞こえる。建物は壁沿いに隙間なく建ち並んでいる。人が活動している気配はしなかった。

「ちょっと寒い」

 ソマルが、繋いだ手をきゅっと握りなおした。絡んだ指から、微かに震えが伝わってくる。怜はソマルの手を持ち上げて、自分の頬に押し当てた。ソマルの手の甲は冷えて、少しかさついている。

「あはは、なにそれ」

 ソマルが笑う。

 緩やかに曲がる通りをしばらく歩くと、下の層に繋がる階段があった。そこを降りていくと、上の層よりも遥かに広い街があった。道が縦にも横にも伸びていて、大小さまざまの建造物が、詰め込まれるようにして建っている。階段の正面に伸びる大きな通りを歩いていると、そこかしこで人の気配を感じた。建物の前で話す者や、作業をしている者がちらほらといた。

「すごい。すごい」

 ソマルは声を潜めて言った。目を輝かせている。

「レイ、見て。建物大きい。見たことないよ。すごい」

 空が明るくなると、次第に人が増え始めた。皆、体のあちこちに刺青を彫っている。ソマルに似て肌は浅黒い。

 ソマルは時間も忘れて、はしゃいでいた。店先を覗き、建物を見上げた。とっくに日は昇って、怜たちを照らしていた。

「こんなにすごい所だったなんて、知らなかったよ」

 きょろきょろと街を見回しながら、ソマルは言った。「村でずっと過ごしていたら、知らないままだった。やっぱり村を出て良かったよ」


「あ、訓練。忘れてた」

 昼前ごろになって、ソマルが大きな声を上げた。

「どうしよう」

 怜たちは、道の真ん中で立ち尽くした。交差した道をいくつも曲がって進んできたため、帰り道が判然としない。

 塔。

 怜は思い出した。王国の中心にある塔を目印に進めば良い。そう思って、周囲を見渡した。王塔ならば、建物越しからでも見えるはずだった。

「こっち」

 遠くのほうに塔がいくつも並んでいるのが見えて、怜はソマルの手を引いた。建物に遮られ、時々見失いながらも、少しずつ近づいて行った。

「怒っているかな」

 ソマルが不安そうに言う。「決まりを守れないと、犬を殺せなくなってしまうかもしれない。犬を殺すために都に来たのに。レイもごめん。ぼくが夢中になったせいだ」

 怜はソマルの手を強く握って「大丈夫」と言った。

 二層目に上る階段が視界に入った頃だった。歩く人は時間を追うごとに増え、道はごみごみとしている。左右の店から、商人が声を張り上げる。煙が立ち上っている。芋の匂いがする。人の隙間を足早に通り抜ける。

 一つ先の角を曲がって、まっすぐ行けば階段がある。そこを上れば、昨日寝泊まりした砂岩の建物がある筈だった。もうすぐだった。怜はソマルの手を引っ張った。

 ばつん。

 額に衝撃が走った。怜は反射的に目を閉じた。平衡感覚を失う。縋るように、ソマルの手を握り締める。と、その手は空を切り、わけも分からぬまま、怜の背中に地面が叩きつけられた。呼吸が止まる。腹に力を入れる。目は開かない。手の先には何もない。ソマルがいない? 咳き込んで、息を吸った。目は開かない。瞼に力を入れても、ぴくりともしない。何かに押さえつけられているような感覚があった。左右の手を振り回す。何も触れない。掴めない。ソマルの声が聞こえない。ソマルがいないとだめだ。ソマルが叫んでいる筈だ。助けて、と言っている筈だ。名前を呼んでいる筈だ。声が聞こえない。怜は気づいた。声どころか、何の音も聞こえていない。己の呼吸の音すら聞こえない。鼻も死んでいる。目が潰れ、耳が潰れ、鼻が潰れ、得体の知れない肌寒さだけを感じる。ソマルがいないということだけを感じる。


 見える?


「おい、お前。お前は言いつけを守らなかった」

〈無の神〉が言った。〈無の神〉は立っている。足元に何かが横たわっているように見える。暗い。暗くてよくわからない。ここは洞窟の中かもしれない。〈無の神〉は怜を静かに見つめている。何が横たわっているのだろう。目を凝らしても、よく見えない。人かもしれない。小さい。細い。一つではないかもしれない。なにか、肉とかそういうものを寄せ集めているのかもしれない。何のためかは分からない。ただ、〈無の神〉の足元に横たわっているものは、一つではないのかもしれない。

 ものですらないのかもしれない。

 横たわっているものは、ものではないのかもしれない。なんだろう。じゃあ、なんだろう。影、闇、夜、風、血、膜、祈り、母、昇華、水、顔。なんだろう。怜は歩み寄る。気になる。なんだろう、これ。気になる。見えそう。もう少し。あと五歩、四歩、三歩。あ、え、え、え、え。見えてきた。これは手、これは腕、これは首、これは足、これは胸、これは顔、これは指。これは人だ。人が横たわっている。誰だろう。もっと近くで見ないと。怜は地面に膝を手をつく。だあれだ。

「おい」

〈無の神〉が言った。怜はびくりと震えて、体を強張らせた。

「お前は言いつけを破ったぞ。おい。理解しているか。お前は、言いつけを破ったぞ。守らなかった。嘘をついた。言葉を犯した」

 じゅわ、と怜の背から冷たい汗が噴き出した。

「言葉を犯したお前が、なぜ言葉を使い、ものを考えている。おかしいだろう。なぜお前は今も言葉を理解している。嘘吐きの分際で、なぜお前の思考は存在しているのだ」

 怜は動くことができなかった。

 間違っていた! 怜は強烈に思った。

「見ろ。これを」

〈無の神〉が怜の頭を掴み、横たわっている何かのほうへ引き寄せた。ぐに、と顔面が横たわっている何かに押し付けられる。

「おい、これを、見ろ!」

 匂いがする。怜の知っている匂いがする。見えない。体温を感じる。知っている。誰だ。誰だこれ。あの、あの、あの。

「見ろと言っているだろう! いいか、見るというのはな、目を対象に向け視界にそれを入れることではないのだぞ。見るというのは目の中に入れるということだ。見るというのは目の穴の中にそれそのものをねじ込むことだ。ほら見ろ!」

 ぐぐぐぐ、と怜の顔面が、何かに押し当てられる。鼻の骨が痛い。これは誰だ。思い出せそう。思い出したい。痛い。息が止まる。

「見ろ! 見ろ! 見ろ!」

〈無の神〉が、さらに力を加える。

「なぜ言いつけを守らなかった。なぜ忘れた。お前はなぜ噓を吐く。お前は人ではないのか。お前は思考ではないのか。お前はなんだ。言ってみろ。言え。お前は何者だ。そして直視しろ。お前の目の前にあるそのままのむき出しの世界を直視しろ。受け入れろ。お前には何が見えている。お前の目の中には何が詰まっている。答えろ。嘘をつくな。お前自身は真でなくとも、お前が語る言葉に虚を作るな。お前を許さんぞ。実在を拒否したお前を裁いてやる。簡単に消えてなくなれると思うな」

 そこで、〈無の神〉はぱっと手を離した。

「そこで見ていろ。お前は何もできない。不完全に見ていることしかできない。お前は自分が無力であることを自覚し、そして恥じろ」

 途端に、周囲が昼間のように明るくなった。横たわっている何かの姿が露わになる。

 ソマルだった。

 ソマルは膝を抱えて、目を閉じて、横たわっていた。眠っているようだった。怜はソマルに近づこうとしたが、体が動かなかった。抗おうとすると、全身が隙間なく殴られたように、鈍痛が走った。口も動かない。瞬きすらできない。じっと、ソマルを見ていることしかできない。

「お前は言葉を犯した。嘘を吐いた。だから、お前は奪われなければならない。そうだな」

〈無の神〉は、静かに、言い聞かせるように言った。

 怜は、己の背中から、何か大切なものがゆっくりと剥がれ落ちていくような気がした。やめて。心の中で叫んだ。

〈無の神〉は、掌をゆっくりとソマルに向けた。ソマルは死んだように眠っている。

 やめて。やめて。やめて。必死に叫ぼうと思っても、体に力が入らなかった。

〈無の神〉の掌の先の空間が、陽炎のように細かく揺れ始めた。それに合わせて、ソマルの体も輪郭がぼやけ始める。

 やめて。怜は叫んだ。喉からは息が漏れるだけだった。

 ソマルが炙られた蠟燭のように溶け始める。肉が結合を弱め、とろとろとふやけていく。瞼が溶け落ち、下から現れた眼球も円形を留めることなく崩れていく。

 奪われる。怖い。やめて。やめて。必死に叫ぶ。やめて。やめて。やめて。

「ふふ。くふふふ、あははは」

〈無の神〉は高笑いをした。

 やめて。何度も叫ぶ。声に出ていない筈なのに、喉が痛い。

 何度も叫んでいると、ぱちんと音がして、奥歯が弾けた。

「やめて。やめてえ」

 声が出た。体はまだ動かない。声だけが出る。

「起きて。ソマル。ソマル。ソマル!」

 ソマルは溶けたアイスクリームのように潰れたナメクジのようにどろどろのシチューのように未だ横たわっている。眼球の欠けた骸骨は怜を見ていない。怜は泣いた。〈無の神〉は笑っている。怜はどうすることもできない。成すすべなく、叫び、涙を流しているしかない。頭を抱え、額を地につき、目を見開く。ソマルの溶けたものが、流れて広がっていく。怜にソマルの溶けたものが纏わりつく。ぬるい。怜は震えた。生ぬるさに、血と脂の臭いに吐き気がした。目を瞑る。肺の痙攣が止まらない。ソマルの溶けたものが怜の体を這い上がる。肌を覆う。顔を覆い、鼻の孔から怜の中に入り込む。窒息する。怜は流動し、侵食するソマルを拒むことができない。怜は、これがソマルであることを受け入れることができない。


 怜は壁に凭れたまま、座っていた。日が昇ると、部屋の前にシャガイが来て、ぱさついた団子のようなものと水を置いて行った。怜は、ぼうっと反対側の壁に目を向けていた。

 額にぬめぬめとした感触が残っている。体液の臭いがする。目の前がチカチカチカ、と瞬く。溶けたソマルの饐えた臭いがこめかみから怜の中にねじ込まれ、暴れ回り、怜の頭の中をぐちゃぐちゃに掻き混ぜた。

 ソマルが消えた。いつからいないのか、判然としなかった。ついさっきのような気もするし、ずっと前のような気もした。記憶が曖昧だった。ここはどこだろうと思った。どのようにしてここに来たのだろう、何のためにここに来たのだろう、と思った。

 草原。橋。山。砦。砂岩。様々な光景が浮かんで、消えた。誰かと一緒に来たような気もする。一人でここまで来たような気もする。どこから? 怜は思い出せなかった。


 犬を殺さないと。


 ふと、言葉が怜の心に浮かんだ。誰かの声のような気がする。誰の声かは思い出せない。ずっと前に交わした約束のような気がする。大事にしなければいけないことだった気がする。どうしてもやらなければならないことだったような気がする。

「犬を、殺さないと」

 怜は、ぽそりと呟いた。その瞬間、びしりと背を叩かれたような感覚が走った。

 そうだ。殺さないと。犬を殺さないと。犬は悪い奴らだから、ぼくが殺さないと。これだ。これが、僕がやらなくてはいけなかったことだ。そのために、ぼくは都にやってきた。犬を殺すためにぼくは兵士になる。犬を殺す。

 よかった。思い出した。

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