6-1
テントの中だった。
王とシャガイが立っている。二人とも、息を切らしている。顔面は蒼白だった。
怜は、ぼうっと二人の様子を眺めていた。頭の中がぼやけて、なにも浮かばなかった。ソマルが先にどこかへ連れていかれて、自分はテントの中に入った。寝台の上には王が座していた。そこまでは覚えている。
「な、名前はなんですか。あなたの名前は、なんですか」
シャガイが、恐る恐るといった様子で言った。
「怜」
怜が答えると、シャガイは何度も頷いた。
「そうです。レイさんです。レイさんです。では、私の名前は?」
「シャガイ」
「そうです。良い。良いです。そうです」
シャガイは、大きく息を吸い、ゆっくりと吐いた。
「あなたは今日から、犬から国を守る兵士として働いてもらいます。兵士には寝起きする部屋が与えられます。今から案内します。ついてきてください。僕が案内します」
そう言うと、シャガイはテントを出た。そうだった。思い出した。そう思い、怜も踵を返そうとして、ふと、王に目をやった。
王は、どこか張りつめたような顔をしていた。わずかに口を開いて、何かを言おうとしている。しかし、すぐに口を噤んだ。気が付くと、その顔から表情は消え、何事もなかったかのように、静かに佇んでいた。空洞のような黒い両目が、怜に向いている。それでいて、もっと遠くを眺めているようにも見えた。王の纏う薄衣は白く、その表面から淡い桃色の煙が立ち上っていた。わずかに、酢の匂いがした。
怜はテントを出た。
蠟燭と兵士が整列する広間の隅の出口から、怜は廊下に出た。入ってきた時と同じような、石の廊下だった。長い階段を降り、しばらく進むと、外に出た。視界が一気に開ける。
王国は、扁平な円筒を上に重ねたように、階段状に広がっていた。今しがた怜が出てきた建造物を頂点として、同心円状に段が連なっている。一段一段が広大で、その外縁には砂岩の壁が設けられている。
「見てください。これが都です。大きいでしょう。大きいでしょう」
シャガイが得意げに言った。
「この建物が王塔です。レイさんには一段下の宿舎で暮らしてもらいます」
怜たちは、渡り廊下に立っていた。足元を、どどどど、と音を立てて大量の水が流れていく。洪水のように噴き出す水は、いくつにも分岐する水路を通って、遥か下方まで流れていた。王国の果ては、霞んで見えなかった。
廊下を渡り、王塔に併設された建物の中に入った。螺旋階段を降り、もう一度外へ出る。振り返って見上げると、四つの尖塔の中心に、巨大な円柱が直立していた。まるで砂場に作った城のようだった。王国の最上段には王塔と四つの尖塔のみがあった。シャガイは五つの塔を誇った後、下段へと怜を連れて行った。
下段へ降りるには、各所に設けられている階段を使った。
兵士の宿舎は、一段目の壁に沿って建てられていた。円弧の壁が手前に張り出したような形状をしている。砂岩をくり抜いたように、ぽっかりと開いた入口が等間隔に並んでいる。そのうちの一つから、怜たちは中に入った。明かりは入り口から差し込む陽光のみだった。ぼんやりと中の様子を照らし出している。怜の正面には壁があった。すぐそばに、人が通れる大きさの四角い穴が開いている。四角の穴は、宿舎正面の入り口と同じ間隔で設けられていた。
「兵士見習いはこれらの部屋で寝起きをします。地面は砂岩ですが、干し草を敷いています。見習いたちはその上に寝ます」
シャガイは、部屋の前を歩きながら言った。廊下は宿舎の形状に沿って湾曲していた。
「レイさんの部屋はここです」
ある部屋の前で立ち止まって、シャガイは言った。
怜はシャガイに促され、入口から中を覗く。部屋の中には人影があった。座っている。怜に気が付くと、顔を上げた。
「あ、レイ!」
ソマルだった。ソマルはぱあ、と表情を明るくして、怜の元へ駆け寄った。
「遅かったじゃないか」
「ソマル」
怜は、ソマルの名を呼んだ。久しぶりにソマルの顔を見た気がした。怜は、手を伸ばした。ソマルの腕を掴んだ。細かった。温かいと思った。
「ソマルさんとレイさんは二人で過ごしてください。すこし待っていてください。食べ物を持ってきます。待っていてください」
そう言うと、シャガイは去っていった。
シャガイの足音が聞こえなくなってから、ソマルが口を開いた。「入りなよ」
怜は入り口を潜り、ソマルと並んで壁際に座った。立方体の部屋の中には、干し草の束と、何かの獣の毛皮が置かれている。
「随分と遅かったね。なにをしていたの?」ソマルの目が、怜を覗き込んだ。
ソマルの目が、怜の目を覗き込んでいた。
怜はソマルを突き飛ばした。
「ああっ」
「痛い。なに、どうしたの」
ソマルは床に肘をついて、怜を見上げていた。
目の前にソマルの両目があった。
ソマルが見上げていた。
怜は目を逸らし、膝の間に顔を埋めた。
「どうしたの。レイ、なにか変だよ」
ソマルが怜の腕に触れた手を、怜は思い切り振り払った。
「わからないよ。どうしたの? 言ってよ」
怜は震えて、固まっていた。怖かった。ソマルに見られることが怖かった。
救われたはずなのに!
言葉が、怜の中に唐突に浮かび上がった。
怜は、ばっと顔を上げると、ソマルの両肩を掴んで押し倒した。
「痛い。なんなの」
怜の下で、ソマルが呻いている。頭を打ったのか、後頭部を抑えている。怜を見た。怜の目をソマルの目が見た。見られている。ソマルに見られている。ぼくも、ソマルを見ている。怜はソマルの背に腕を回し、上から抱き着いて密着した。ソマルの胴体をぎゅう、と締め付ける。両膝で、ソマルの腰を挟む。「なに」ソマルの首元に顔を擦り付ける。「痛い」怜の体の表面が、ソマルの温度を感じている。とく、とく、と血液が流れているのを感じる。呼吸が荒い。肋骨が上下している。ソマルと熱を交換する。
いつの間にか、ソマルの腕も、怜に巻き付いていた。怜に応えるように、ソマルが腕に力を込める。ソマルに触れられた部分が、やすりで削られたように、ちくちくざらざらとした。ソマルは生きている。怜は思った。息をして、熱を持ち、骨がある。
ソマルは息をしている。
「ずっと、一緒だろ」
怜は、ソマルの耳に囁いた。
「うん」
「ずっと一緒にいて」「うん」「ずっと一緒にいて」「うん」「ずっと一緒にいて」「うん」「ずっと一緒にいて」「うん」
怜は何度も何度も確かめた。ソマルはその度に頷いた。
ずっと、そのままの体勢で動かずにいた。日が傾いている。シャガイが来たのか、外から足音が聞こえてくる。
怜はまだ、ソマルと抱き合っている。
部屋の外で足音が止まり、シャガイの声がする。「食事を置いておきます。ここに食事を置いておきます」シャガイが去っていく。
怜とソマルはまだ、抱き合っている。
夜になる。暗い。それでもまだ、怜たちは抱き合っている。夜が更けても、ソマルが眠っても、怜はソマルを抱き締めている。下敷きになった腕が鬱血している。しかし抱き締め続ける。怜は、ソマルと同じ温度になる。肌の柔らかさも、吐息の匂いも、性器の形も、ソマルと同じになる。脈拍がぴったりと重なる。怜とソマルは限りなく近づいてゆく。ただ、怜とソマルの境界ははっきりとあって、決して溶け合うことはない。分かれていて、混じり合うことがない。それは怜にとって、悲しいことではなかった。ソマルと一つになれないことは、苦痛ではなかった。怜にとって、ソマルになる、もしくはソマルであることは、認められないことだった。ソマルが「ぼく」であってはならなかった。ソマルはソマルでなければならない。ぼくは、ソマルであってはいけない。それでも、むしろ、だからこそ、怜はソマルになりたかった。ソマルになることなく、ソマルであることもなく、ソマルになりたかった。ソマルになりたい「ぼく」であり続けたかった。だから嬉しかった。
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