八重桜のジャガネバァ
西野ゆう
第1話
季節がその速度を上げて、初夏へと向かい始めた四月中旬。
僕はいつも通り、国道を挟んで学校の向かい側にあるパン屋に居た。その看板代わりになっている大きな八重桜も、昨日の雨で最後の花びらを散らしている。
僕と、クラスメイトの菜々美は、学校が終わり塾へ向かう前に、このパン屋『八重桜』に来るのが毎週火曜日の日課だった。買うパンも決まっている。一個百円の小さなフランスパンに十円足すと、真ん中に入れた切れ目に、からしマヨネーズを塗ってもらえる。
そして、決まってそのパンを店内で食べ終わる頃に、あの婆さんが店にやってくる。
婆さんは、小学校五年生である僕らが、学校帰りに遊ぶことなく、パンひとつ食べて塾に行くこの世の中を、誰にというわけでもなく愚痴るのだ。この日も例外ではなかった。
「あ、ジャガネバァ来た。でたよ、今日もぱっつんパンツ……」
先に菜々美が気づいて言った。「ジャガネバァ」というのは「もじゃもじゃめがねばばぁ」の略だ。髪の毛もじゃもじゃ。その髪の毛に埋まるように頭に乗っけためがね。で、ばばぁ。
ジャガネバァは、小太りなくせに決まってきつめのズボンをはいている。しかもいつもニンニク臭いので、子供たちからは
僕たちの通う学校の隣には大きな病院がある。そしてバス停が八重桜の目の前。ジャガネバァはいつも薬局で貰った袋をぶら下げて来るから、きっと病院帰り。
ジャガネバァはトレーを取ることなく、レジのお姉さんに「こん、にち、はっ」と、変な区切り方で挨拶するだけだ。それだけなのに、レジのお姉さんはいつもこの店で売っている一番高い食パンを、後ろの棚から取って綺麗に硫酸紙で包んで笑顔で渡している。そのパンが置いてあった棚には『蓼元様』って書いてあるから、きっとジャガネバァの名前なんだろうけど、読めないからやっぱりジャガネバァはジャガネバァだ。
「チッ、うちらの子供ん頃は、学校帰りにはお稲荷さんとか川ん中で遊んだもんだったんに」
いつもの捨て台詞とお金を置いてパンを受け取る。その背中にお姉さんが「ありがとうございます。またお越しください」って言うんだ。そしてジャガネバァが店を出た後で……。
「いやぁもう、今日もジャガネバァは強烈だったね。病院の先生も『口大きく開けてぇ』なんて言いたくないだろうなぁ。ねえ?」
お姉さんと僕らの三人で、ジャガネバァの文句を言うんだ。
それが火曜日。四年生になって塾に通い始めてからの一年間、ずっと毎週繰り返してきた火曜日のあたりまえ。
でも、この日がジャガネバァを八重桜で見た最後の日になった。
五月の連休が終わって最初の火曜日。僕たちがからしマヨネーズ入りフランスパンを食べていると、初めて見るお爺さんがお店に入ってきた。
「すみません、いつも食パン予約しとった『たでもと』ですけど……。今日は予約してないんじゃが、ありますかいのう?」
僕たちはわからなかったけど、お姉さんはすぐ、この人がジャガネバァの旦那さんだってわかったようだ。そうか、蓼元って書いて『たでもと』って読むんだ。
「すみません。もう売り切れてないんですよ。次の焼き上がりが最後で、五時になるんですけど……」
お姉さんの言葉に、お爺さんは棚の上に掛けてある時計を見た。まだ三時半。あと一時間半もある。「はぁ……」っとため息を吐いたお爺さんに、お姉さんが言った。
「私、ここ五時までなんですけど、よろしかったらお届けしましょうか? 帰り道ですし、場所は承知しておりますから」
お爺さんはただただ頭を何度も下げて、お姉さんにお礼を言っていた。その時お爺さんの目が濡れているのに、僕も、菜々美も気づいていた。
どうしてその時の僕があんなことを言ったのかわからないけど、気が付いたときはお姉さんにお願いをしていた。
「ねえ、僕たちも一緒に行っていいかな? 塾が終わるの五時ちょっと過ぎちゃうけど」
横を見ると、菜々美もうんうん、と頷いていた。
「わかった。塾の前のコンビニで待ってるね。お姉さんの車知ってるでしょ?」
「知ってる」
菜々美が笑顔で答えた。僕も知ってるよと頷いた。
「君たちのお家には、私からちゃんと電話しておくから」
塾が終わってコンビニに行くと、お姉さんが車の窓から手を振っていた。僕と菜々美は「お願いします」と言って乗り込んだ。車の中は、あの食パンのいい匂いで一杯だった。
「いい匂い。お腹空いちゃうね」
そう言った菜々美にお姉さんが得意げな顔をした。
「そう言うと思って、二人にもパン持ってきたよ」
お姉さんは袋の中からメロンパンを出してくれた。
「ありがとう」
そう言って受け取ったメロンパンは、とても甘くて美味しそうな匂いがした。でも僕たちはそれを食べずに、ずっと持ったままでいた。
蓼元さんの家に着くと、そこには幅の広い黒と白の縦縞の布がカーテンの様に掛けられていた。
パンを持って中に入ると、何人かの人が泣きながら、沢山の花に囲まれたジャガネバァの写真に話しかけていた。
写真の前には木でできた大きな箱が置いてあって、小さな窓の様な蓋が開いている。
僕はそれが何なのか、中に何が入っているのか、もちろんすぐにわかった。
お姉さんがお店に来たお爺さんにパンを渡して、木の箱の方に向かってゆく。
僕たちもお姉さんの後ろについて木の箱の方に向かってゆく。
お姉さんが手を合わせ終わった後、僕も箱の中を見た。
ジャガネバァの髪の毛は、やっぱりもじゃもじゃだったけど、めがねは乗っけてなかった。
鼻の穴は上を向いていたけど、そこには
ぱっつんパンツをはいているかわからないほど花で埋め尽くされたジャガネバァからは、もうニンニクの臭いはしてこなかった。
僕の横では菜々美が泣いていた。
僕は男の子だから泣いたらだめだって思ってたけど、菜々美がジャガネバァのことを「おばあちゃん」って呼んでいたから、僕も「おばあちゃん」って言ってみたら涙が止まらなくなった。
僕たちは塾がない日は、学校帰りにお稲荷さんで遊んでたんだ。暖かい日は川の中でも遊んでいたんだよ。ジャガネバァに教えてもらったように。
僕と菜々美は、お姉さんから貰ったメロンパンを、ジャガネバァの写真の下にそっと置いた。
次の週から、お爺さんは毎週火曜日に八重桜へパンを買いに来るようになった。
そして、決まってジャガネバァの話をしてゆくんだ。僕たちが知らなかったジャガネバァの話を。
僕たちもここで会ったジャガネバァの話を沢山お爺さんに話した。
もちろん僕たちがジャガネバァって呼んでたのは秘密だけどね。
八重桜のジャガネバァ 西野ゆう @ukizm
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