知らない香り_3

 二日後のすっかり陽は落ち草木も泣かず音もない深夜、二つの影がイザドル宅の裏手に迫っていた。

 裏戸の前に来ると、二人の人物は服を脱ぎ捨て裸体となる。すると、見る見るうちに骨格が変わって行き、その体は厚い毛に覆われる。手足からは鋭利な爪が顔を出し、顔は狼そのものに変化する。

この二人、イザドルを狙っていた人狼である。

先日、自分たちの組織の下請けであるル=ガール達がイザドル達繋ぎ人に検挙され、島送りにされてしまった。そのことを恨み、夜討ちをしかけるつもりなのだ。

 裏戸にかけられた南京錠に粘土のような物をかぶせるとそれを一人が手で覆い、もう一人がその上から思い切り殴りつける。すると、手の中からはほとんど音も立てずに壊れた南京錠が姿を見せる。

 殴られた者の手は骨が折れたのか痛々しく腫れあがるも、一分もたたない内に腫れがみるみる引いて行く。傷が完全に治ると二人は頷き合い、静かに戸を開けた。

 ――と、その時だ。一陣の風が吹いたかと思えば、戸に手をかけていた人狼が血を吐いて倒れた。その胸は抉られ、絶命していた。

そのことにもう一人が気づいた時には、視界の端に少女の姿が映った。なにか行動を起こそうとした時には人狼の視界は反転し、そのまま地に転がった。首をはねられたのだ。

 辺りが血で染まる。その上に、一人の少女が佇んでいた。

メイだ。メイは返り血で汚れた手を呆然と眺めた。

 自分がなにをしているのか、彼女はわからなかった。なぜ、暗殺の対象者を助けるような真似をしているのかと。

 わずかな音でも目を覚ましたのか、家屋から物音がする。

 メイは小さな体に人狼二人を担ぎ落ちた首を拾うと、流れた血はそのままに走り帰った。


 翌日、イザドルは自宅の近場にある酒場で飲み、上機嫌で帰っていた。前日に人狼の血が自宅裏で流れていたという奇怪なことがあったというのに、その顔には警戒の色が全く見えず、先ほど飲んだ珍品の酒の味を噛みしめつつ鼻歌交じりに袋小路に入った。

 まだ寒さは抜けきっておらず、狭い道を通るひと風に身震いをする。

そろそろ袋小路を抜けるかといった所に、一人の子供が目に留まった。頬被りをして面を伏せ、新聞を敷いた上に体育座りで座っている。目の前には半分に切られた缶が置いてあり、そこにはいくつかの小銭が入れられていた。

この子供、メイである。一度面相は割れているので顔は隠し、女子だと思われないために服も少年のものに変えていた。

乞食の子供に扮し、相手が川に面した一本道に出て油断して川を眺めたところ、隙をつき一突きで心の蔵を抉る。それが彼女の段取りであった。

なぜ乞食に扮したのか。それは、メイの胸中に巣食う、彼に御馳走してもらった感情に答えを出すためだった。

一度、暗殺対象者から同情で金を恵まれたことはあるが、その相手も殺して来た。同情で金を恵んでくれる相手ならば、今度もきっと迷わず殺せる。そう考えたためであった。

イザドルの足は、メイの前で止まる。想定通り、懐から財布を取り出して見せる。

 なぜか、浮かぶ感情は暗殺に乗り出せることへの安堵だけではなかった。あの食卓での行いは同情であったのかと、なぜかメイの心は陰った。

だが、彼はその財布をズボンのポケットに入れ直すと、上着を脱ぎメイにかけてやった。

「えっ」

 金ではない施しに、思わず声をあげる。イザドルは笑顔で、薄汚れた頭を撫でてきた。

「今日は寒いねえ」

 そのまま鼻歌を口ずさみ、イザドルは袋小路を出る。その後ろ姿は、寒さから震えていた。

 身震いしながら川を眺める相手を見て、メイは静かに体を動かした。


 翌日の早朝、メイは雇い主の元へ戻っていた。その手には、血にまみれた上着にくるまれた人相が判別もできないほどに崩れた顔があった。

 上着を確認すると、確かにイザドル・アランデルと刺繍が施されている。雇い主の男は労いの言葉をかけるでもなく、わざわざ血の滴る首をここまで持ってきたことを怒り、メイを殴りつけた。

 厄介払いが出来る口実が出来たと喜び、男はメイを取引先に流すこととした。

 男は杜撰な殺しだと揶揄し、次の雇い先の書類を渡し口頭で簡単な説明をすると休ませることなく、首を包んだ上着も押し付けてメイを追い出してしまった。

 それに従い、メイは抵抗することもなくすぐに出て行った。

 それから半日も経たなかっただろう。彼の家に警察とイザドルが押し入ってきた。突然のことに抵抗する間もなく、一網打尽にされてしまった。

 罪状は違法薬物の取り扱い、魔物を使用した暗殺未遂だった。

 なぜその情報が割れたのか。それはイザドルの元へ届けられた一枚の手紙であった。そこにはアジトのこと、違法薬物を横流しにしていたこと、暗殺を魔物に依頼したことが書き記されていた。

 違法薬物は家屋を捜査したところすぐに見つかり、魔物と関わりを持っていたことは家屋まで続いていた血痕はイザドル宅で見つかった人狼の血痕と一致したことから証明された。

 雇い主の男は人狼など知らないとわめいたが、彼の家近辺に人狼の死体が二体が発見された。なんらかの事情で仕事をしくじり用済みの魔物を始末したのだろうと、警察は推測した。

 だが、イザドルにはなんとなく事情がつかめていた。

 今朝方ポストに入れられていた手紙は他の文面とは違う拙い文字で記された、御馳走様という言葉で締めくくられていた。


「本当にあんなわけのわからない手紙でよかったの?」

 宿屋の女主人は、子供一人で宿を取る珍しい少女に声をかけた。

 その少女は小さく頷くと、彼女に頼み洗濯してもらった厚手の上着に愛おしげに鼻を当てた。

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