せめて夢の中で

秋風 優朔

せめて夢の中で

 どこかは分からない公園のベンチに僕は座っていた。実家の近くに似たような公園があったかもしれない。

 二人掛けのベンチのもう片方には彼女が笑って座っている。

 橘、下の名前で呼んだことは一度も無かった。

 記憶よりもだいぶ背の高くなった彼女の顔は良く見えない。恐らく、中学以来一度も会っていないからだろうが、それでも僕は未だにその顔を見るだけで胸に鋭い痛みが走る。

 僕の方に話しかける素振りを見せた彼女は懐かしむような、または未来の希望を語るような表情で口を開く。

 声は聞こえなかった。こちらも恐らくあの日以来、声を聞いたことが無いからだろう。

 それでも、どうしようもない幸せが僕を満たす。しかし同時に、僕は得体の知れない違和感を覚えていた。

 本来ならば、あり得るはずの無かったこの世界の風景に。




 不意に、目が開いた。

 カーテンの隙間からはまだ弱い月明かりが見え隠れしている。

「クソッ、いまさらなんて夢だよ」

 静かな狭い部屋に苛立ちに満ちた声が嫌に響く。

 そして、そんな悪態をつきながらも、この幸せな夢を記憶に書き留めようと必死に反芻を繰り返す自分にまた苛立ちが膨らむ。

 寝起きで乾いた口を無視して近場のテーブルに投げ出してあったライターを手に取り、すぐそばにあった煙草に火を付けた。

 煙で部屋の空気を染めながら時計に目をやると、短針は2を指していた。

 まだ靄がかかった思考でも、もう目を閉じても意味が無いことは分かり切っていたが、他にやることも無く、すっかり灰になった煙草を灰皿に押しつけると再びベットに身体を預け、目を閉じた。

 途端に、どれだけ必死に締め出しても中学時代の記憶が押し寄せてくる。

 抵抗しているのも馬鹿馬鹿しくなった僕は大人しく頭のしたいようにさせることにした。

 それに、こういう時は逆に自分から谷底に踏み込んだ方が楽なのだ。

 

 最初に映るのは中学1年の夏、8月の最後にあった花火大会の記憶。

 誘ってくれる友達も、1人で見に行く気も無かった僕は部屋の窓を開けて、建物の隙間から上の方だけ見える花火を眺めていた。

 そうしている間に、僕の指先に痛みが走る。刺したのともぶつけたのともまた違う痛み。

 ずっと押し殺していた言葉が、早く外に出せと訴える痛み。

 小学校の頃からずっと蓋を押さえ付け続けていたのに、この日はどうにもその力が足りなかった。僕は考えるより先にメッセージアプリで橘を呼び出していた。

 夏休み最終日のほとんどと一緒に花火大会が終わって少し、分かりやすいだろうと選んだ公園の横で待っていた僕の所に、橘がやってきた。

 そして、僕は小6の時からずっと隠し続けた想いを全て告げた。

 その場でいくつかの蔑みの言葉を返されるところまで想定していたが、結果はそうはならなかった。

 少し恥ずかしそうに、目を背けながら「明日、返事するから」と告げた彼女が帰った後、僕は予想外の反応に思わずガッツポーズまでした。

 次の日、クラスメイト達が終わった夏休みに想いを馳せ、いかにもダルそうに登校する中、僕だけは足が軽かった。

 この時の僕は人生で一番馬鹿だったと今なら言える。僕は確信していた。また昨日と同じような表情の橘が昨日と同じように僕の最悪の予想を掻き消してくれると。

 結論から言うと、確かに僕の想定していた最悪は掻き消された。

 その日、橘は僕の所へ来なかった。しかし、浮かれていた僕は「恥ずかしがっているのだろう」と信じて疑わなかった。そしてそのまま、1週間が過ぎ、1カ月が過ぎ、1年が過ぎ、3年が過ぎた。

 3カ月当たりでやっと僕は気付いた。「多分、これからも橘が来ることはないだろう」と。

 そのまま卒業まで、橘は廊下ですれ違おうとも目を合わせるどころかこちらに顔を向けすらしなかった。卒業式は、皆が写真撮影やら連絡先の交換やらしている中、僕は真っ先に校門を目指した。

 

 そしてそれから、その記憶だけが消えないまま21になった今、未だにこんな夢を見ている。


 結局眠れないまま朝日が昇った。気分は最悪で、大学なんか行く気にならなかった。

 そうして、寝るでもなく布団で横になっていると、携帯が久しぶりに着信を告げた。

 確認すると、メッセージアプリの中学時代のルームが動いている。

 すぐ下のあの日で止まったままのもう一つのルームを極力視界に入れず、クラスグループの画面を開く。

 要件をざっと見ると、どうやら中学時代の学年全員を集めて同窓会をやるらしかった。

 当然参加する気も無く、見なかったことにしようとした時、1人が参加の報告を送信した。

 橘だった。

 その瞬間、「もしかしたら」と、その馬鹿さで痛い目を見たことも忘れて一つ、僕の頭に希望が浮かんだ。そして、今の僕にはそれに縋る以外の選択肢が見えなかった。

 他の面々も参加の報告を上げる中、それに混じってアカウント名とアイコンを変え、僕も参加する旨を送信した。


 同窓会の当日はすぐにやってきた。

 クローゼットの中身を引きずり出し、手持ちの中で一番まともに見えるものを見つくろって、気にすらしていなかった髪を切りに行った。

 集合時間より少し早いくらいに、会場になった中学最寄りの駅前、歩いてすぐの居酒屋に入ると、もうちらほらと見覚えのある顔が見えた。

 誰も僕の事をしっかりとは覚えていなかったらしいが、僕には好都合だ。

 あたかも元からそうだったかのように、精一杯人当たりのいい青年を演じることにした。

 あまり意識せずとも、橘が来るというだけでいつも丸まっていた背は自然と伸び、小さく聞き取りにくかった声は少し音程が上がって、はっきりとした心地よい音になった。

 おかげで、まとまった人数が集まる頃には、みんな僕が元から接しやすい奴だったと勘違いしてくれていた。


 そして、遂に橘が会場に現れた。

 見知った顔に挨拶を送って行き、僕の顔を見つけると、首を傾げて「ごめん、誰だっけ?」と聞いて来る。

 彼女も例にもれず僕の事を忘れているらしい。

 少しの悲しみが胸に落ちて行ったが、それが好都合なのは変わらなかった。

 先程までと同じように、良い奴を演じて気にしていないと軽く言いながら自己紹介をした。

 すると、彼女は忘れていたお詫びにと言い、一緒に飲もうと言ってくれた。

 これまた好都合と、出来る限り魅力的な青年を演じながらほとんどが捏造の近況を話すと、思いのほか彼女は興味を持ってくれた。

 それからは怖いくらいにうまく事が進んだ。

 二人きりで話すうち、彼女の眼には今の僕が少なからず魅力的に映ったらしい。

 同窓会が終わる頃には、皆が中の良かった面子で昔話に花を咲かせながら帰り道に進む中、僕は彼女を駅まで送ることとなった。

 道中、これまた半分以上が捏造の僕の昔話を、彼女は懐かしそうに聞いて笑った。

 予想外に良い反応を見るうち、僕は怖くなった。また、いつかのように裏切られはしないかと。

 そんなことを考えていると、大きな交差点で赤信号に引っかかった。

 一番前で足を停め、目の前を車が2、3台と流れるむこうに見える駅に視線をやりながら僕は小さく言った。

「楽しかった、久しぶりに話せて」

 すると、橘は少し僕より低い目線を合わせて、口を開いた。

「ねぇ、また、今度さ……」

 そこで少し間を開けた時、橘が不自然につんのめった。

 そのまま、車が流れる交差点へ橘の身体は傾斜を増す。

 そこで、僕の思考は止まった。

 気付けば橘は視界から消え、代わりに身体の右側、橘が居た方に生温かい感触があった。

 止まった思考のまま僕は右頬の熱に触れる。左手には濡れた感触が伝わった。

 左手を目の前へ持ってくる。手は真っ赤に染まっていた。

 そして、脳が止まったまま、それでも本能がやめておけと言うのに耳を貸さず、左側に視線を向けた。

 最初に視界に入ったのは工事現場でよく見るダンプ。次に真っ赤に染まったそのダンプのフロントが見える。さらに視線を動かすと、地面に着いた赤い線が、そして、最後にその先に、同じ色に染まった橘が視界に入った。

 やっと回転を始めた脳が、状況を呑み込むのを拒否する。

 全てを拒否した頭のまま、橘の方へ足が向く。そのまま足を引きずるように数十歩の距離を進んだ。

 橘の周囲に広がった赤い湖に膝を付く。そして、その顔へ手を伸ばした。

 当然、息など無かった。

 僕は縋るように周囲の人だかりに目をやった。

 携帯を耳にあて、救急車を呼んでいるらしい人、携帯を掲げて写真を撮る奴、僕と同じように突っ立ったままの人。そんな中で1人、僕の視線が上がった瞬間に踵を返した奴が居た。

 それに気付いた時にはもう救急車が着いていて、僕も一緒に病院へ行った。


 分かり切っていた通り、橘は病院に運ばれた時点で息を引き取っていた。

 身体の右側が赤く染まったまま家まで帰った後、僕の頭には交差点で明らかに不自然な行動をしたあいつの事が回っていた。

 脳に焼きついた一瞬の風景、覗いたあいつの顔は確かに笑っていた。すぐにそれは不自然につんのめった橘に繋がった。そこから考えればそいつが橘を突き飛ばしたのはすぐに分かった。

 理由なんか知らない。知っていても関係ない。ただただ、俺は俺のしたいようにする。


 次の日から俺は早速動いた。

 同窓会会場周辺の駅を毎日毎日、あいつの顔を探して歩き回った。

 あいつはこの辺の人間だと目星を付けてだ。

 結果として、その予想は当たった。探し始めて1カ月。遂に俺はあいつを見つけた。

 それからも少しの間、後をつけた結果、あいつはあの駅の二つ隣の駅を毎日同じ時間に利用すると分かった。

 そこまで分かれば後は簡単だった。

 次の日、俺はあの日と同じ格好で、鞄には新聞紙で巻いた包丁を柄を抜きやすいように少し出して2本入れた。

 そして、同じ駅であいつを待つと、いつもどおりにあいつは現れた。実に簡単だった。

 後はそのまま、奴の後ろに近寄り、思いっきり足を払ってやる。

 面白いくらいに綺麗に仰向けに倒れた奴の上に馬乗りになると、奴は俺を覚えていたらしく、愉快な声を上げた。

 それを聞き流しながら、鞄から突き出た柄を握って包丁を引き抜いた。

 さらに愉快な声を上げる奴を無視して、俺は逆手に持った包丁を奴の太ももへ後ろ手に振り下ろした。

 周囲で悲鳴が上がったが、それすらも愉快でたまらなかった。

 叫ぶだけ叫んで動きもしない人ごみが滑稽で、唇の端に笑みを浮かべながら今度は奴の腹へ包丁を突き刺す。

 少しずれて肋骨に当たった包丁が曲がって使い物にならなくなった。

 もう一本持ってきてよかったと、今度は外さないよう慎重に奴の腹へ包丁を突き込んだ。

 5度程それを繰り返したあたりで、肉を打つ音に固いものを削る音が混じった。

 もう10回ほど繰り返すと、だんだんと音が変わり、それが50を超えた当たりで肉を打つ鈍い音は、軽い水のような音に変わって、誰かの笑い声が混じった。

 そして、機械的に繰り返された動きがそろそろ3桁に届こうというところで、横から誰かが僕の腕を掴み、手の中から包丁だった物が弾き飛ばされた。

 赤一色の視界を久しぶりに上へあげると、僕の周囲を盾を持った青い服の集団が取り囲んでいた。




 いつかの見た公園のベンチで、僕は座っていた。

 二人掛けのベンチのもう片方には、懐かしい彼女が座っていた。

 彼女は最後の記憶と同じ血まみれで、彼女が座っている側の僕の半身も真っ赤だった。

 僕に話しかける素振りを見せた彼女は、少し先の未来の希望を語るように口を開く。

「ねぇ、想い出が一つ増えたでしょ?これでもう忘れないでしょ?」

 

 不意に目が開いた。

 カーテンの隙間からは気持ちよさそうな日差しが零れている。

 ベットから身を起こすと、部屋の真ん中にあるテーブルの椅子に橘の姿があった。

 こちらに気付いたのか、橘は優しい笑みを浮かべた。

 先程見た悪夢を慰めてほしくて、掻き消してほしくて、僕は橘に手を伸ばす。

「なぁ、悪い夢を…」

 見たんだ。と続くはずの言葉は声にはならなかった。

 気が付くと、カーテンの隙間から漏れるのは暗い月明かりになっていて、その揺れていていたはずのカーテンも冷たい鉄格子に変わっていた。部屋の真ん中にあったテーブルは、柔らかそうな木製から固い金属製に。そして、伸ばした手の先には、外の木が作る影があった。

 急に正気に戻された頭は、反動でさらなる狂気を生み出した。

 自然と腹の底から笑いがこみ上げてきた。

 次の瞬間、精神病棟の暗い廊下に、甲高い笑い声が響いた。

 笑い声は、廊下を反響して、外の高い塀の外まで届いた。

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