「メビウスの帯」がつくるミラクル

南瀬匡躬

映磨と鍵盤とパラレルワールド

プロローグ


 物事には表裏ひょうりがある。十円玉にだって、文庫本の表紙だって裏表うらおもてがある。至極当然なことである。だがそれが本当に当然なのだろうか? と考えたかどうかはしらないが、疑問に感じた人がいた。天文学者であり数学者のメビウス(Mőbius,August rerdinand 1790-1868)だ。


 その実証材料がいわゆる「メビウスの帯」。一般には「メビウスの輪」と呼ばれる、一ひねりして接着した紙の帯である。ピンときたという人、こういう例え方ならご存じの人も多いことだろう。同じ場所にいるはずなのに、互いに存在が見えないという環境や現象である。はたまた同じ場所が二つ存在するのだが、全く違う人生をする歩む同一人物の存在という異世界物語にも使われたり、テレパシーで繋がったりするSF物語の舞台にも使われる、幾何学に学ぶ効果の現象だ。




 それを考慮して人の生き方を考えてみる。もしや人間の性格や人生、存在するこの社会や身の回りの世界にだって表裏はあるやも知れない。



 そんな問題提起に疑問すら持たない人生を謳歌している困った少女がいる。今、学校の廊下を歩いているひとりの少女。彼女は下駄箱から教室へと向かっている途中だ。茶髪の髪に着崩した制服。襟元のリボン・タイはだらりと下げ、踵のつぶれた上履き靴はつま先に引っかけただけで、ぱたぱたと音を立てて歩く。だらしないと言われても仕方のない服装である。教師やクラスメートには避けられ、『学校に来る、来ない』は、その日の気分次第。不登校で問題児。大学受験を目指して頑張っていた一年前とは見るも無惨に変わり果てた姿。それがこの物語の主役、細波映磨ささらなみえま彼女そのひとである。これから彼女の人生はこの「メビウスの帯」の理論によって大きく変わろうとしていた。


 


彼女を変えた事件


 渡り廊下を横切り、教室の扉を勢いよく開ける。ホームルーム前の教室のざわめきが一瞬で止む。映磨の三日ぶりの登校である。クラスメートが一斉に彼女の存在に気付いて、口を閉じてしまう。今までの喧騒けんそうが嘘のように思えるほど、静寂が教室を包む。そんな中、映磨は気怠げな歩き方で、一番後ろ、一番奥の窓際の自分の机に鞄をぽいと投げ置く。当然なにも入っていない軽い鞄だ。そして自分の席に腰を下ろした。


 彼女は前の席に座る男子、控目等ひかえめひとしの椅子をポンと蹴り上げる。


「はい!」


 驚いた顔で、緊張しながら後ろを振り返る等。


「なんであたしの席の隣に机があるんだ」


 彼女は自分の席の横、右側に空の机と椅子が置いてあることを訊ねる。


「転校生が来るそうです」


 等は目を合わせないように、質問に答えると、そそくさと前を向いて、何事もなかったかのように、教科書を見て予習を始めた。映磨と関わりたくないのだ。


「ふん……」


 彼女はシャープペンシルを鼻と唇で挟んで、興味なさげに左手にある窓の外を眺めた。雨の降り出しそうな曇天だ。空気は既に湿り気をおびている。そして彼女は一年以上前の事件のことを思い出し、不快な記憶とまた対峙していた。




あの日


 まだ彼女が二年生の時だ。教室に置き傘を忘れたため、下駄箱から引き返して教室へと戻る。その時の天気が今日のような曇天だった。


 薄暗い教室の隅でクラスメートの奥手静おくてしずかが跪いて、なにかを懇願している。か細い声で「返してください……」と。


 クラスの女子のリーダー格、可津手矢名子かつてやなこが手にしているのは、マスコット人形のようなものだった。


 正義感の強い映磨は小走りに、矢名子のもとに近づき、その手から人気アニメのマスコット人形を取り上げた。


「嫌がっているじゃない!」


 そう言って取り上げたマスコットを静のほうにすっと渡した。


 涙で濡れた瞳は、感謝でいっぱいになり、深々と映磨にお辞儀をするとそのまま鞄を持って一目散に逃げてしまった。


 矢名子は、

「お前、このままで済むと思うなよ。あたしたちを敵に回すとどうなるか知るが良いよ」とだけ残して、手下格の手似亜麻留てにあまる宇奈月奈緒うなづきなおをあごで指図して、その場を後にした。




 翌日、映磨はホームルームの時間に担任の五十代の教師に呼び出された。静は欠席、おそらくかなり心に堪えたのだろう。


 映磨は昨日のことを訊かれるのだと思い、無防備にそのまま職員室へと向かった。担任の擦鱒ずれます先生は、映磨の姿を確認すると、険しい顔で、

「細波、ちょっとこっちに来い」と会議室に彼女を誘導した。


 会議室のコの字に並んだテーブルの一角に座ると、担任は、

「昨日お前が奥手を虐めていたというのは本当か?」と足を組みながら訊ねる。


 思いがけない唐突な展開に、映磨は驚きを隠せなかった。

「まさか!」と当たり前の反応をする映磨。


「だがな、証言者が三人もいる。しかも当事者の奥手は部屋に閉じこもったまま出てこない。状況から言ってお前の言い逃れを出来る余地はないんだ。正直に白状してくれれば、先生も咎めることはない」と決めつけの姿勢で彼は難しい顔だ。


「虐めていたのは、可津手さんたち三人で、私は止めに入っただけです。奥手さんに訊いてください。失礼します」


 映磨はそう言って立ち上がろうとすると、


「そうか、残念だ。ではお前は停学自宅謹慎一週間だ。親が来るまでこの会議室を出るな」と言って立ち上がった。




 一人会議室に残された映磨は、室内にある水場の三面鏡を覗いてみる。そこには腫れた目の自分が映る。あふれんばかりの悲しみが持ち運んだ涙の礫が、彼女の両目に溜まり、レンズのように彼女の視界をぼやかしていた。




『えん罪』


 彼女の脳裏にはその言葉だ。かなり堪えた。人間の一番粗悪な部分を初めて感じたのだ。


 彼女はそっと鏡に映った自分の顔に掌を押しつける。すると自分の手が鏡の中に、水面に潜って吸い込まれていくような気配を感じた。まるでインタレースGIFの再生画像のように視界が再生されている。だがその現象が終わっても自分は同じ水場の前にいた。


『あまりのダメージに立ちくらみでもしたのかな?』


 額に手を当てて、彼女はその現象の理由付けを自己完結した。


 思い返せば、今回の事件、映磨にとっては初めての経験だった。軽く叱咤されることはあっても保護者呼び出しの大事になるとは思っていなかった。真面目に生きてきた映磨にとって耐えがたい屈辱だった。


『なんで私が……。みんな大嫌い!』


 涙目の彼女が出した結論はこの台詞だった。




 映磨が制服を着崩して、髪を染めてくるのは、それからまもなくのことだった。いじめと不登校のレッテルを貼られるのも、その後すぐのことだった。

「高校は基本義務ではないので、行くのも退くのも私の自由だ」

 そんな事を呟くようになった映磨にかつての素直さは消えていた。






母親の愛情


 細波家ささらなみけの食卓は常に映磨が取り仕切っている。母親は入退院を繰り返す事も多く、親思いの映磨は母親の負担を軽減させるべく、基本家事はすべて自分で行っていた。


「えっちゃん。たまにはお母さんが……」


 浴衣に上着を引っかけて母親の鏡美かがみが襖の端に掴まりながら、よろよろと起きてきた。


「またあ。寝ていいって。頼まなきゃいけないときもあるんだから、私が出来るときは私がやるよ」と映磨はシンクの食器を洗いながら笑う。長年やって来た彼女にとって、さほど苦ではない。


「そうなの?」


 食卓の椅子に腰掛けた鏡美は、「ふう」と一息ついてから、


「ねえ、えっちゃん。学校だけはちゃんと出て、お父さんの願いだった公立の音楽大学の受験だけはしてね。そうじゃないとお父さんに申し訳がたたないの」


 洗い物をする背中に鏡美はお願いした。


「うん。でも公立大学はピアノや調音技術の実技オンリーじゃないから。他の大学と同じ一般科目の統一テストを受けないといけないし……」


「夏期講習は? 予備校でも通ったら良いのよ。お金は少しだけど、お父さんが残してくれているわ」


 彼女は洗い物を終えて、水栓をしめる。そして母親の方を振り向いた。


「わたし就職して、お母さんを支えようかな?」

「何を馬鹿な」

「だってね。どうして私ばかりこんな辛い思いをドミノ倒しのように受け止めなくちゃいけないのか、分からないのよ。運命とかで片付けられるには悲しすぎるよ。早く自立して自由になりたい」


 テーブルの上にあるタオルで濡れた手を拭きながら、椅子を引いて鏡美の前に座る。


「ごめんね。お母さんが元気だったら、そんな気持ちにならなかったわよね。まだ高校生なのに」


 即座に首を横に振る映磨。


「ううん。違うのよ、そうじゃないの!」


 上手く言葉が見つからないことと、必死に弁解しても意味はないと感じた映磨は、軽く微笑むと、「大丈夫、なんとかなるから」とだけ言って、自分の部屋に入った。






転入生とカレイドスコープ


 やはり曇天の窓。教室から見えるどんよりした灰色の世界、映磨は控目が教えてくれた転校生のための机に、特に興味はなかった。


 ベルとともに、三年になってから変わった若い男性の担任が一人の生徒を連れて教室に入ってきた。


「転入生だ。編入試験の成績は良かったので、みんなの励みになる友人となるだろう」と言って、担任は黒板の方を向き、白墨を一本とると、『黒鍵真中くろかぎまたる』と書いた。


「じゃあ、黒鍵くん、自己紹介をしてくれ」と担任の言葉に、


「黒鍵真中です。こっけんまんなかと書くので、シャープと呼ばれてました。どうぞよろしく」と挨拶し、お辞儀をした。


「フラットでも良いじゃない?」と前に座る女性がはやし立てる。

 すると黒鍵は軽く笑って、「好きに呼んでくれて良いよ」と爽やかに言った。

 その言葉にクラス中がどっと笑う。




「じゃあ君の席は用意してある窓から二列目の一番後ろだ」と担任は映磨の横の席を指さした。


「はい」

 そう返事をすると、映磨の横の机に鞄を置いて、窓の外を眺めている映磨に、「よろしく」と言った。

「ああ、よろしく」

 お義理の言葉で返す映磨。


 だらけた首のリボン・タイや茶髪を見て、

「ギャルっぽいね。高三なのに、内申とか気にしないの?」と訊ねる黒鍵。


 その言葉に、

「別に……」とだけ、ふてくされ気味に答える映磨。

「あ、一般入試の点数取れる自信があるんだね。流石だ」


 そんな返しの言葉に映磨は、

「うっせえな」と小声で呟く。彼の耳には届いていないようだ。




 放課後、ホームルームが終わった時、帰ろうとしている映磨を黒鍵は呼び止める。

「細波さん!」

「あん?」

「明日、よかったらこの町を案内してくれない? お祭りもあるみたいだし……」

「他のやつに頼めよ」

 ぞんざいな口調であしらう映磨。


「頼める人が君しかいないんだよ、お願い」

 平に頭を下げて、ウインクをする黒鍵。


 少し顔を赤らめながらも、

「嫌だって言ってんだろ。二人で行ったら、妙な誤解を生む。それはお前も嫌だろう」とそっぽを向く映磨。


 意外にも彼女は、男女の仲にはスレていないウブな不良ギャルだ。

「僕は君となら誤解されても良いけどね」と爽やかな笑顔の黒鍵。


 その言葉に、「なっ……」と言いかけて言葉を飲み込む。既に耳から首まで真っ赤な映磨だ。


「人助けだと思って、お願い。ほんの二、三時間でも」と拝み倒しの黒鍵に、茶色の脇髪をくるくると手わすらしながら、険しい顔の映磨。


 そして少し顔を赤らめて、迷った素振りを否めないまま、角口をすると、

「ピアノの練習があるから、それまでなら」と言った。


 彼女のその言葉に彼は無邪気に喜び顔を見せる。そして思い出したように、

「君、ピアノが弾けるの?」と切り返す。

「一応音大志望だったからな」と映磨。ふたたびそっぽを向いて答える。


「なんで過去形なの?」

「進学止めたからだ」


 重たい内容の話でもさらりと答える映磨。


「なんで? もったいない。すごいなあ、美人の弾くピアノ、聴きたいよ」

「美人って……」


 素直に、物怖じせず、ストレートに歯の浮くような言葉を発する黒鍵に、映磨の顔はまた赤くなる。


「あんた、調子狂うな」と笑ってから鞄を持つ映磨。そして「明日、午後一時、関内駅の旧市庁舎側出口、スタジアム口で待ちあわせだ。もしもの時はこの電話番号にかけてくれ、じゃあ」とメモ書きを渡して映磨は去って行った。


「ありがとう。やっぱり君は優しい娘だ」


 黒鍵の言葉を背中で聞いて、映磨は振り返ることなく、後ろ向きに手を振って校舎を後にした。




横浜公園


 駅の券売機近くの柱にもたれかかり黒鍵は、映磨を待っていた。都会の駅は目の前にある役所が閉まった土曜日の午後とはいえ人が多い。綿パンに、フリースという出で立ちだ。


 そこにブルーのワンピースと白いカーディガンを羽織った映磨がやって来る。学校でのダレて着崩した制服とはうって変わって、彼女本来の心を示すような、それにマッチした清廉なファッションである。髪はアップにして、少々男性との行動を意識した乙女の姿にもとれる。


 彼女は柱にもたれかかって、スマホをいじる黒鍵を見つけて、小走りで駆け寄った。


「待ったか?」


 映磨の言葉に、

「いや、今さっき来たばかりだよ」と笑いかける黒鍵。

「そうか。良かった」

「やっぱり細波さんは綺麗で可愛いね」と出会い頭に褒める黒鍵。


 またも歯の浮くような言葉に、「なっ……」と両手で口を覆い、真っ赤になる映磨。


「お前はやりづらい。絡みづらいんだよ」


 照れ隠しとも取れる、相変わらずの辛口の返しに、

「本当のこと言っただけなのに」と肩をすくめる黒鍵。


 照れて会話にならないと悟った映磨は、自ずから戒めて話題を変えた。気を抜くと彼の発する心地よい台詞に、自然と顔がにやけそうになるので、それを必死に堪えているのだ。


「それでお前は、この町の何を知りたいんだ?」




 黒鍵は笑うと、

「細波さんが教えてくれること全部」と嬉しそうに答えた。

「全部?」

「そう。そして僕の伝えたいこともあったから、デートの最中に追々ね」と映磨の肩に手を回し、駅舎の外へと誘う。


『デート』と言う言葉にまたもドキドキする映磨。生活と母の看護と、ピアノ以外に思考回路を持たない彼女は、ある意味では純粋培養の女性だ。


『こいつ、実はプレイボーイか?』


 女性の扱いに手慣れた黒鍵の所作ひとつひとつが、洗練されていることを感じ取る映磨。同い年とは思えないその身の熟しも気になった。さらに時折みせる仕草には、なぜか懐かしさを覚えるのも気になっていた。


 球場のナイター照明塔が見える公園の入り口にさしかかると、その先の日本大通りも屋台の出店や売店が設置されているのが見える。県庁をかすめて象の鼻パークへと続く、官庁街のメインストリートが日本大通りである。


「僕は父一人子一人の家庭で育ったんだ」

 青々とした銀杏並木を歩きながら、身の上話を始める黒鍵。

「えっ?」

「いや、今も父さんと二人暮らしなんだ」

「そうか」


 映磨の頷く仕草を確認してから黒鍵は続ける。


「僕はオーディオ技術者になるのが夢でね、本来なら理系志望でないといけなかったんだけど、いかんせん小学校の時から転校が多くて勉強が遅れがちになる。なんならそれぞれの学校の授業進度の都合から抜けている単元の部分も多かった。それを穴埋めするだけの実力がなかったんだ。それで、ライナーノーツなんかを書く音楽出版の仕事でも良いかな? なんて思って、ピアノを習いがてら、勉強の方は文転したんだよね」


「将来を見据えているなんて、お前は偉いな」


「君だって、演奏家の夢があるでしょう?」


 映磨はその言葉に過敏に反応して、

「それは終わったことだ」と相手にしない振りをした。

「どうして?」


「はあ」とため息の映磨。そして「お前は人の身の上を聞き出すのがうまいな。探偵や刑事のほうが向いているんじゃないか?」と笑う。そして続けるように話し始めた。


「我が家も母子の家庭だ。私が早く社会に出て、働いてやらないとお母さんが困ると思っている」


「そっか。それでなんとなく同じ匂いを感じたんだな」と納得する黒鍵。


「父さんはピアニストで……」と言いかけると、


細波嬰譜ささらなみえいふさん、じゃない?」と彼女の言葉を遮るように、黒鍵は言葉を被せた。


「父さん、知っているのか?」


「知っていたわけじゃない。君がピアノを弾けるって、音大志望だって聞いたときにもしかしたらって思ったんだ。君のお父さんのCDも数枚持っているよ。近代クラッシックのピアノ曲を得意とした県立音楽大学出身の音楽家。特にドビュッシーやリストが得意。横浜生まれの横浜育ち。奥さんの鏡美さんと娘一人がいる、って音楽専門誌には書いてあった。」


「その娘が私だ」


「うん。三年前の訃報記事では『クラッシック音楽界の大きな損失』って書いてあるのを見た。まだ四十代だった、って」


「そうか」


 そのまま無言になり、映磨はそれ以上話さなくなった。それを察したのか黒鍵はこの話を止めた。




 見れば二人の目の前に見世物小屋がある。お祭りに合わせるように見世物が出たようだ。


『カレイドスコープ・ミュージアム』と看板が掲げてあった。

「カレイドスコープ?」


 首を傾げる映磨に、

「万華鏡のことだよ」と教える黒鍵。

「ああ、知ってたさ」とふんぞり返る映磨に、

「それは出過ぎた真似を……。すみません」と軽めの謝罪を入れる彼。


 すると映磨は、「うそ、今知った」と舌を出す。


 二人は顔を見合わすと微笑み合った。どうやら互いの身の上に共感したことで、心の距離が少し縮まったようだ。


「入ってみようか?」


 黒鍵の言葉に、「うん」とだけ首を縦に振る映磨。




 半券をもぎられて、中に入る二人。


 鏡に囲まれた部屋には幾何学模様のビーズの束が、等身大で展示されている。いや鏡そのものに映ったいくつもの自分たちの分身に囲まれている光景のほうが、彼らには驚きを与えた。


 そのうちのひとつ、壁面の鏡に手を触れる映磨。


 不思議なことにその鏡は固体ではなく、液状のように彼女の手を吸い込んでしまう。重心を失った映磨は、鏡の向こう側にそのまま倒れ込んでいく。その姿はまるでスローモーションの動画を見ているようだった。


「ええっ?」


 そう思ったときにはどこかへ落ちる感覚が彼女を襲う。


『あれ? この感覚、以前どこかでも経験したような気がする』と心で考えながら、どんどん降下していく彼女の体。


 そして視界が開けて、まぶしさに目を閉じると地面に着地する感覚を覚える。少しよろめいたが、しっかりと着地出来た。




 すぐさま確認するともとの鏡の部屋だった。横にはちゃんと黒鍵もいる。


「あれ?」

 挙動不審に辺りを見回す映磨。

「どうしたの?」

「今、あたし、鏡の中に落ちていかなかったか?」


 黒鍵は、鼻で笑うと、

「酔ってる?」と一蹴した。


「未成年だ!」と否定する映磨。


「ごめんごめん。いまふらついていたから」と何事もなかったように彼は気に留めることもなく、映磨の手を取って次の部屋へと向かった。




 カレイドスコープの見世物小屋を出ると彼女は、彼に県庁や近くのパスポートセンターを教え、県立図書館と歴史博物館、国際展示場のあるパシフィコセンターなども説明する。そこで午後三時を回っていた。


「こんな感じでいいか?」


 赤レンガ倉庫の前にあるベンチに座ると二人は今日一日のおさらいをし始める。


「ありがとう。横浜って、いいね」と笑う黒鍵。

「ところでお前がわたしに教えたいものってなんだ?」


 映磨の疑問に、

「覚えていてくれたんだね、じゃあ最後にそこに案内するから、そこで今日のデートはおしまい」と言って、ポンと自分の膝を叩いて立ち上がった。


 夕べの風がアップにした彼女の髪とリボンをそよがせている。それに見とれるように、

「綺麗だね」と頷く黒鍵。


 やはり真っ赤になった映磨は、「馬鹿、またそう言うことを」といって赤ら顔を隠すように俯く。


「本当なのに……」と残念そうな黒鍵。

「いいから早くそこに連れて行け!」


 持っていた小型の紐付きポーチをブンと振り回し、けしかける映磨。


「はいはい」


 せき立てられて、石畳をゆっくりと踏み出した彼は、まるで愛しさがこみ上げるように彼女を見つめていた。それは家族愛にも似ていると第三者なら思ったであろう。




音楽喫茶


「こんにちは」

 品の良い店構えに、器量良いミセスがカウンターでコーヒーペーパーに折り目を付けていた。彼女の髪型は独特で、円盤形の髪留めで後ろ髪を前に回してアップにしていた。背中に髪が流れるのが嫌なのかも、と映磨は勝手に想像していた。


 フランス山の麓、元町の入り口に面した坂の途中、その店はブラウンで統一された木目調の壁に、ミュシャの『黄道十二宮』の版画のレプリカが飾られている。だが少し意匠は違っていて、星座のアイコンではなく、ジュピター(Jupiter)、ジュノー(Juno)、 ミネルヴァ(Minerva)、 アポロ(Apollo)、 ヴィーナス(Venus)、マース(Mars)、 ディアナ(Diana)、ケレス(Ceres)、 ヴゥルカーヌス(Vulcanus)、メルクリウス(Mercurius)、ネプチュヌス(Neptunus)、 ヴェスタ(Vesta)の十二神の白色石像風肖像が掲げられていた。一般にローマ神話のディ・コンセンテス十二神と呼ばれる主要神たちだ。


 その脇には大きな木製の車輪がかけられている。イルミネーションの仕掛けなのか、不思議なことにその輪の中は、幾重にも幾何学的な亀甲型で模られたカレイドスコープのような鏡の世界が見えていた。


「あら、真中くん」


 折り目の付いたペーパーを調理台に置くと、褐色のグラスにミネラルウォーターをそそぎ、レモンを半切れ添えた水を盆にのせる。


「入って」


 黒鍵の誘いに映磨は静かに足を踏み入れた。


 店の奥にはグランドピアノが置かれている。学校の講堂などでよく見かけるセミコンタイプのピアノだ。


「ここは?」

「僕の身内の店」


 黒鍵は笑ったまま、映磨に椅子を動かして席を勧める。


「どうぞ」

「ありがとう」


 二人が席に座ると、先ほどの用意された褐色のグラスが二人の前に置かれる。


「いらっしゃいませ」


 黒のセーターに淡いピンクのエプロンをした先ほどのミセスが映磨を見て微笑む。


「真中くんの彼女かしら?」


 頬を赤らめる映磨を見て、慌てて否定する黒鍵。

「いや、違うから! 彼女に失礼だから」と大げさに否定するように宙を両手で扇ぎ続ける。


 すると、

「はい、おつきあいさせていただいております。彼の強引さに負けちゃって」と何を思ったか、思い切りのジョークをかます映磨。


 すかさず映磨の方に向きを変えて、こっちの言葉にも、あわてて否定を入れる黒鍵。


「君も何言ってんの? 違うでしょう!」


 すると銀盆を小脇に抱えたミセスは、


「良いのよ、照れなくても。内緒にして置いてあげる」とウインクする。


「いや、本当につきあっていない、ただのクラスメートだからね」


「はいはい」


 この話を真面目に取り合う気も無いミセスは手の甲を口元に当て、


「で、ご注文は?」と二人に尋ねる。


 何を注文すれば良いのかわからない映磨はテーブルの下、見えない場所で黒鍵の足を軽く蹴った。


「あてっ!」


 察した黒鍵は、「モカブレンドを二つ」とVサインを作って注文した。


「かしこまりました」


 ミセスは二人に愛想良くお辞儀すると、カウンターに戻ろうとした。




 その時黒鍵は、


「ねえ、夕方の生演奏の弾き手、もう決まっちゃった?」とミセスに尋ねる。


「ううん、まだ選考中」というミセス。銀盆の水滴を布巾で拭うと、レジ横に立てかけた。

「彼女、凄いんだ。音大志望で……」と言う黒鍵。


『なっ……』

 聴いたこともない自分の演奏をプッシュする黒鍵に慌てふためく映磨。彼の話を遮るべく、思わずその場でとっさに彼の足をギュッと踏んだ。


「いてえ!」


 黒鍵の声が店内ホールに響き渡る。


「真中くん、余計なこと言って、怒られちゃったみたいね」と落ち着いた表情で微笑むミセス。


「でもちょっと興味あるわ。あなた長い指に肩幅も均等、結構良い調べを出してくれそうね。暗譜している曲、なにかお願いできる?」


 ミセスの言葉に、


「じゃあ……」と言いかけた時、今度は映磨の言葉を遮るように、

「カンパネラ!」とリストの名曲を勝手に挙げた。




 流石に難関課題を勝手に挙げられた彼女は、徐に、両手で彼のほっぺたをつまむと、

「あんたが弾いてみれば?」と至近距離で脅すような台詞。おかんむりのようだ。

 彼は優しく、映磨の両手を掴むと手の甲にキスをして、ピアノに向かった。


 かの曲の冒頭、小刻みに高音の鍵盤を往復して、オクターブの音をミスもなくタッチし続ける彼の演奏に驚いたのは映磨だ。


『なに? こいつ。強弱のミスも、ミスタッチもなく、再現性の高いクオリティで、やってくれるじゃない。こんなレベルの高い課題曲で……』


 映磨は心中、焦りを覚えた。そしてもうひとつ感じたことがある。


「あの左手の動き。パパの運指に似ている」


 こちらの思いは、小さいながらも声になってしまった。するとミセスは、映磨の横に来て、

「そうよ、だって彼は嬰譜の転生した姿ですもの」と含みを持った台詞で、一緒に聴き入っている。


「は?」


 思わず映画や小説でしか聞かないような単語をさらりと発したミセスの顔を見上げるが、彼女は無言で彼の紡ぐ調べに聴き入っていた。


 曲の途中まで来たところで、彼は突然演奏を止めると、


「もうこのくらいで良いかな?」と振り向いた。


 そして「こっちの世界には長居できないんだ。そろそろ帰らないとね」と笑う。


「それにこんな若い体だと、おなかがすいて仕方がない。お暇するね」


 映磨はおそるおそる訊ねる。

「パパなの?」

 黒鍵は優しく首を縦に振る。無言のままだ。

「なんで?」


 映磨の次の質問には答えた。

「映磨が心配だったから」

 そう笑うと黒鍵は、静かに自分の荷物を持って、千円札をレジのつり受け皿に置く。


「じゃあ、僕の役目はここまでだから、あとは自分の力でね。あ、それと君は冒頭のオクターブの連打部分の小指の指圧が弱いので、薬指を使うと音が死なないよ。鍵盤の距離感は長く多く練習していれば、慣れてくるから試してみて。出来る範囲のベストは尽くすべきだよ」とウインクした。


 そしてミセスの方を向くと、


「メビウスの向こう側に帰るね、またそのうちに」と右手を挙げて、静かに出て行った。


 知らない店に残された映磨はどうして良いのか困った。


「とりあえず、私に聴かせてくれないかしら?」とミセスは笑う。


 どうやらそれ以外に、この不思議な出来事を解明する手立てはなさそうなので、映磨はゆっくり立ち上がるとピアノの方に向かった。




家に戻る映磨


 玄関の扉を開けると大声で、「ただいま」と母親に伝える。


 鏡美はシンクで洗い物をしている。


「おかあさん、起きていて大丈夫なの?」と心配そうに駆け寄る映磨に、不思議そうに首を傾げる母。

「なんで?」

 何事もなかったように、病気のことなど忘れているかのような鏡美の一言。


「だってお医者さんに……」と言いかけたところで、


「お医者さん? どこの?」と蛇口の水を止めながら映磨の方を再度不思議な顔で見る。


 確かに母親の顔色は良い。非常用に買っている母親用のおかゆのパックの山が戸棚から消えている。もちろん医者で処方された服用薬の束も。




『どういうこと?』

 怪訝な顔で様子を窺う映磨。どうも腑に落ちないこの家の環境。

「ところでどうだったの? バイトの面接は」

「バイトの面接?」

「あら今日は横浜の中心地でバイトするって、面接に出かけたじゃない」

「私が?」

「あなた、記憶喪失ですか?」


 母親は濡れた手をタオルで拭きながら、我が子を困った顔でしげしげと見つめている。


「バイトは決まったの。フランス山の坂の手前にある音楽喫茶で演奏をするわ」と映磨。自分の部屋に入るためにノブを回す。

 その言葉を聞いて鏡美は、

「まさか『フランツ・リスト』って店じゃないわよね」と驚く母親。


「お母さん知っているの?」


 映磨の言葉に、


「知っているも何も、私とお父さんが知り合った店だわ」と言う。

「えっ?」

「私、その店で当時ウェイトレスをしていたのよ。そこに演奏家としてお父さんが毎週やって来ていて、仲良くなったの」と思い出しての台詞。


 そして「ちょうど横浜博が終わった頃、バブルのまっただ中だったわ」と加えた。


「そうなの?」

 少し興味ありげに、部屋に入るのを止めて立ち止まる映磨。

「バブル経済で町の会社員は、接待だ、タクシー券だ、って、潤っていたのに、お父さんはおこぼれにもあずかれないほどの貧乏だったわ」と思い出し笑いの鏡美。


「へえ」


「当時、大学院生だったお父さんはステージネームに黒鍵真中って名前を使っていたの。あの頃はクラッシックの学生がデビュー前に演奏なんてやると怒られちゃうから、名前変えてね」


「くろかぎまたる……」


 少しだけ映磨の脳内でカオスなジグソーパズルが組まれ始めた。




映磨のラストピース


 部屋に戻った映磨は驚いた。壁に掛かっている着崩したはずの制服が綺麗なままなのだ。


「なんで?」

 そしてドレッサーの前に座る自分を見て、もっと驚いている。

 鏡に映った自分の髪の色が黒なのだ。茶髪で着崩したギャルの格好がみじんもない。どこからどこまでも真面目な生徒という感じだ。


「えっ? あんなにお金かけて染めた髪が黒髪ロング?」

 さっきの食器棚の中には、いつも服用していた母親の薬も見当たらない。それどころか元気にピンピンして洗い物をしていた。


 映磨は慌ててカレンダーを見るが、日付も年も合っている。今日の年月日だ。


 いったいどうなっているのか? 狸にでも化かされた気分である。一度頭の整理をするためにも明日は学校に行こうと考えていた。




いつもの学校生活


 下駄箱で自分の上履きを取り出そうとすると、中に何通かの手紙が入っている。


『は、果たし状?』

 素行不良の自覚がある映磨は、ついに来るときが来た、と年貢の納め時と覚悟した。


 おそるおそるその手紙を手に取る。みなハートの便せん。


「最近の果たし状は、かわいい系でくるのか?」

『油断なるものか』と気概を見せる映磨。


 その横で、「あ、細波さん、おはよう。またラブレター? 相変わらずモテモテだね」と囃し立てるクラスメートの女子。


「あいかわらず? もてもて? ん……」


 映磨は意味が分からず、その手紙を無造作にレターオープナーも使わずに素手で開封した。


 そこには同級生の男子からの名前で、


『好きです。付き合ってください』から始まる、延々と愛の言葉が綴られた便せんが入っていた。


 映磨は正直困った。自分のキャラではない自分の姿がその手紙には描写されている。



「誰にでも優しく、人を傷つけない言葉を使い、敬いを忘れず、いつも笑顔で接してくれる天使のような映磨さん」


 何度も読み返しながら廊下を歩く映磨。

『いったい誰のことだ? あたしがいつ笑顔なんて振りまいていたんだ』


 映磨には新手の嫌がらせかと感じる。彼女の振る舞いとは真逆のことを書いて、嫌みを言っているという事か、と。


 だがどの手紙も、彼女を褒めちぎり、愛の告白をしている。完全に作られた世界のアイドルのようだ。現実にそんな絵に描いたような大和撫子の女性がいるのか? と逆に訊ねたくなるような内容である。




 いつもと変わらない教室の風景に少しだけ安堵した映磨。

 ところが自分の隣に転校してきたはずの黒鍵真中の机がない。

 着席すると、手紙の描写に見られる『清楚に転身した』映磨は、言葉遣いも正しく手紙の描写に合わせて、


「ねえ、転校生の机は?」と前の席に座る控目等にかわいい系女子言葉で訊ねる。『我ながら気持ち悪い』と思っているのは言うまでもない。


 彼は振り向いて少し頬を赤らめると、

「転校生なんて来るの?」と首を傾げた。




『おかしい、何かが違っている』と映磨は怪訝な顔で頬杖を突く。

 暫く昨日から今朝にかけての奇妙な出来事を、順を追って辿ってみた。そこで一つの結論に辿り着いた。


『あのカレイド・スコープの見世物小屋に入ったときからだ』


 そう、鏡の中に落ちていったのは、夢ではないのだ。あの時から自分の周りがおかしくなっている、と気付いた。


「こっちの世界の私は、品行方正、愛嬌のある真面目ちゃん。理由はどうであれ、あの時から変なくすぐったい世界に身を投じだのだけは間違いない」


 一人ぶつぶつと、分析をしている映磨は、その日の授業など全然身に入らなかった。




喫茶店とミセス


 ハーフ丈の大人びたドレスで、ピアノの前に立つと、客に一通りお辞儀をして椅子に座った。夕方五時過ぎ、ショパン『ノクターン』にうってつけの時刻だ。


 しなやかに流れる調べに、客の顔も満足そうである。美味いコーヒーと優雅な音楽がこの空間には提供されている。この時間の客は生演奏を目当てに来る者が多い。よって、普通の時間帯よりも、音楽に理解のある客が多い。




 演奏の合間、休憩に入って映磨はミセスに昨日と今日、経験して感じたことをぶつけてみることにした。

「あの黒鍵って、今どこにいるんですか?」


 豆をプロセッサーに入れて挽きながらミセスは答える。

「反対側」

「反対側ですか?」

「そう、反対側」


 あまりに抽象的な答えに少し戸惑う映磨。

「具体的に訊いても良いですか?」

「分かるかな?」

「えっ?」

「理解できるかな、ってこと」


 この言葉から導ける答えは、信じられない怪奇現象、あるいは複雑に構築された理論的な現象、はたまた映磨が否定したまま受け入れたくない自分にとって都合の悪い現象、そのいずれかである。




「メビウスさんの理論に出てくる反対側の世界」

「メビウス? 誰?」

「だよね」


 肩をすくめて、「仕方ない」という表情でタブレット端末を差し出すミセス。


「これで調べろってこと?」


 その言葉に頷くミセス。


 映磨は言われるままに、検索エンジンでメビウスの人物とその理論を調べた。




 暫くして、映磨はミセスに尋ねる。


「私が一年前の元いた世界がこっちで、会議室の水場での三面鏡を通り抜けたあと過ごした一年間の世界があっちってこと。そのあたしがふてくされた生活とお母さんが病を患っていたあっちの世界に、黒鍵はいるってことかな?」


「はい、正解」




 そう言ってから、ミセスはやさしく謎解きをしてくれた。


「私たちの住む世界はいくつもの選択肢を乗り越えて今がある。つまり選ばなかった世界というのも平行して存在している。それは万華鏡に映った世界やメビウスの輪のように、近いのに遠い世界として。同時に鏡に映っているいくつもの自分の姿でもあるの。まるで世界は万華鏡のように、あの時の選択をAにしたら、Aという世界、BにしたらBという世界に身を置くことになる。あなた自身の性質や本質は変わらなくても、置かれた環境によって人の立場は変わるの。その変わってしまった、問題児となったあなたの居場所Bを、本来の居場所である中学の時の存在場所だったAという居場所に戻したかったのね、黒鍵くんは。昨日まであなたのいたBという世界は時間的には同時進行だけど、近いけど遠いという、違う世界に存在しているわ。でもあなたの意思をもった本体はひとつの世界しか選べない。それを人間は『運命』と呼ぶわ。なので真面目に音大に進むAというあなた本来の居場所に黒鍵くんは戻したという事よ」


「なんで?」

「それが黒鍵くん、すなわち転生したあなたのパパの願いだったから」と笑うミセス。

「だって、あのいじめの事件で、私は素行不良のレッテルを学校中に……」というと、


「あら、あの時の虐められた被害者の彼女なら、次の日、学校に来て、あなたが守ってくれた、って先生に直接弁明してくれたはずよ、このAという世界では。今いる本来の世界では、あなたはお咎めもなく、次の日からいじめられっ子を救った英雄になっているわ」


「じゃあ、もう私、気負うことなく、肩に風きる、風来坊な生き方をしなくて良いってこと?」

「ええ、もとの良い子ちゃんで良いと思うけど」


 結構な情報を提供してくれたミセス。映磨はそれでもまだ信じることが出来ず、話半分だった。そんなおとぎ話やSFのように一夜、一日にして、自分の周りの世界全部が舞台セットを変えるように入れ替えなど出来るはずがないと思っていたからだ。だが違う意味で、目の前で起きている不思議な現象は受け入れていた。彼女は目にしたものから信じて、消化していくタイプだ。




「なんでもご存じなんですね」と映磨。


「うん。だって私、運命を司る女神フォルトゥーナって言うのよ。人間たちは私の名前を「運命」、すなわちフォーチューンの語源になった女神っていうわ」


 自分の正体を打ち明けるミセス。その意味深な言い回しが終わると彼女は、

「チャンスは後ろからではつかめない。常に同時進行。メビウスはそのことに気付いて、捻れ空間や多層空間、多次元の存在を私たちに託したのかもしれないわね。時空の流れをひとひねりするだけで、そっくりの世界がそこに出来上がる。でも人の心は環境で変わるから、そこにいる人間の性格や立場は違ってしまう。その世界をあなたはカレイドスコープの鏡を通って、最初の居場所に戻してもらった、ってことよ」と人の運命を説いた。


 この言葉で映磨は、女神である彼女が自分の長い髪を後ろに流さず頭上で丸めて束ねている理由がここにあることを悟った。




 説明をしているミセスの姿は少しずつ透明になって消え始めている。

「本来の居場所に戻ったあなたは学者メビウスと、この私、すなわちフォルトゥーナに感謝なさい」


「えっ? どういうことですか」


「もう私は神々の世界にもどるわ。パンテオンに私の居場所はあるの。そして覚えて置いてね。あなたは選ばれた人間。ディ・コンセンテスのアポロに頼まれたのよ、黒鍵と私が。あなたの身柄を運命の世界を跨がせて戻すようにと、音楽の神にね。あなたの音楽に対する愛情は神の祝福を呼んだと言うこと。そして、それほどあなたはアポロにとって重要なピアノ弾きだったってことよ。幸運ね……」


 そう言っている彼女の背後で、ミュシャの版画に描かれたアポロの肖像が光っている。アポロは太陽神であり、音楽の神でもある。


「ちょっと待って」


 映磨の言葉を気にすることもなく、彼女は優しく微笑みながら消えていった。そしてカウンターには同じ服を着たミセスがいたが、後ろ髪はまとめずにロングで流している。憑依した女神ではなく、おそらく本当のこの店のオーナーであるミセスなのだろう。


 映磨の採用までは彼女の記憶に残したようで、フォルトゥーナは自分との記憶の同期を行ってから去っていったようだった。




エピローグ


「良いですか? 芸術系の大学を受けるからと言って、実技だけを頑張って、主要科目をおろそかにしても良いと言うわけではありません。音楽でも、美術でも、西洋のものなら英語や世界史の文献は常につきまとうし、日本のものなら古典や日本史はついて回ります。基本を知らないで創作や演奏というわけにもいかないんですよ」




 教壇でチューターが夏期講習会の説明を始めた。


 その最前列で映磨は必死にノートを執っている。精進した彼女の姿だ。


「そこのあなた」


 チューターの先生は映磨を指す。


「はい!」


「昨年、そこの席で必死にノートを執っていた女性は、今年国立芸大に合格していましたよ」


 その言葉に皆が「オー」とどよめく。


 映磨は、


「あの、私、国立芸大じゃなくて良いんです。県立音大で」としどろもどろで答える。


 すると再度皆がくすくすと笑いながらどよめく。


 チューターの先生は笑いながら、

「そうですか、あなたには音楽の神が微笑んでくれるかも知れませんね」と気休めを言って説明に戻った。


 映磨は嬉しそうに、


『もう音楽の神様は私に微笑んでいるわ』と独りごちて、再びシャープペンを動かし始めた。そしてそのシャープペンを見ながら、「ねえ、シャープくん。パパ」とペンにキスをした。




 多くのパラレルワールドを題材にした創作作品は、メビウスの理論を重ねる物が多い。それは近くにあるから移動が容易というプロット設定に利用しやすいという意見が多い。でも運命の選択肢が、その人の選択の数だけあるとすれば、フォルトゥーナの残していった言葉のとおり万華鏡の幾何学模様の鏡部屋の数だけ世界はあるのかも知れない。だが人はその選択肢の部屋と世界、すなわち人生を常に一つだけしか選択することが出来ないということが、何よりの絶対条件なのである。


 最善の生き方、ベスト尽くす。映磨は他界した父から教わった最後の言葉と肝に銘じ、ピアノレッスンと勉強漬けのこの夏を乗り切れそうな気がしていた。

         了


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「メビウスの帯」がつくるミラクル 南瀬匡躬 @MINAMISEMasami

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