僕の花束

飛鴻

第1話



6月の清々しい朝。


暑くも寒くもなく、気持ちのいい快適な気温のはずなのに、僕はまるで服を着たままシャワーを浴びたのかと思われるぐらい全身汗だくになっていた。

僕は全力でチャリをこいでいた。

あと3分で1kmの距離を走破し校門に入らなければ、入学以来継続している無遅刻無欠席の皆勤賞が途絶えてしまう。

あと一年足らずで卒業というところまで来て、何としてもそれは避けたかった。

残り1分…。

ラスト200mは生徒達の間で「遅刻坂」と呼ばれる急な上り坂が待ち構えていた。

僕は遅刻坂に差し掛かった。

坂の頂上に校門が見える。

と同時に、半分だけ閉じられた校門に手を置き、もう片方の手の腕時計と坂を駆け上がる生徒達を交互に見ている風紀委員会顧問の恵利子先生の姿が目に入った。

恵利子先生は、この学校に通う男子生徒全員の憧れの的で、僕にとっては初恋の人でもあった。

幼い頃から大人しく、運動も苦手で、どちらかと言えば地味で暗い性格だった僕は、バカにされたり虐められたりすることはあっても、人から好意を寄せられることなどなかった。

近所の子供達も、同じクラスの生徒達も、時には担任の先生やコンビニの店員まで、僕のことを冷めた目で見ることの方が多かった。

そんな中、他と分け隔てなく接してくれるだけでなく、なんなら他の皆よりも僕のことを特別に気に掛けてくれたのが恵利子先生だった。

そんな優しさを感じたのは初めてで、恵利子先生の魅力的な見た目だけでなく、その人柄に惹かれていった僕は、いつの間にか恋心を抱くようになっていた。

恵利子先生は自らアラフォーと言っているわりには、とても若々しく見え、細身でスタイルも良く、その細い体には不釣り合いなほど大きな胸をしていた。

この日も、恵利子先生の着る淡い水色のブラウスの胸の部分は、まるで、メロンでも入れてるんじゃないかと思われるほど大きく膨らんでいた。

生地の薄いブラウスには、黒いブラジャーが透けていた…。


僕は最後の力を振り絞った。

チャリを降りずに坂を登りきる決意を固める。

僕は、頑張る姿を恵利子先生に見てもらいたかった。何か分からないけど認めてもらいたかったのだ。

右、左、右、左。

体を大きく左右に揺らしながら、立ちこぎでペダルを踏み込む。

「遅刻してたまるか!」

必死だった。

視線は恵利子先生の胸の膨らみから離れなかった。

恵利子先生は大声で秒読みを開始した。

「10!…9!…8!…」

坂を駆け上がってきた生徒達の多くは、間一髪のところで校門を走り抜けて行く。

「5!…4!…3!…2!…」

僕も滑り込みセーフで遅刻は免れた。

肩で大きく息をしながら、しばらくドヤ顔で恵利子先生を見つめていた。

「早く教室に入りなさい!!」

目も合わせてもらえないまま、そう一喝された…。



朝のホームルーム前の教室は、いつもと変わらずザワついていた。

クラスの中でも目立たない存在No.1の僕が珍しく遅刻寸前で教室に入っても、誰も気に止める者はいなかった。

席につくと同時にチャイムが鳴る。

ハンカチで顔や額の汗をぬぐっていると、うちの学校の不良グループに属する3人組が近付いてきた。

朝イチからこいつらに絡まれるなんて、最悪な一日の始まりを物語っていた。

「井上、なに汗だくになってんの?ハンパねぇな」

かわいらしい顔立ちとは相反して、実はケンカが一番強いと噂されている藤井が口火を切った。

「こいつの所だけ局地的豪雨が降ったんじゃないですかね?へへへ」

そう言ったのは、いつもヘラヘラして、根性もないくせに不良グループの一員としてつるんでいる、皆から腰巾着と陰口を叩かれている君崎だった。

そして、彼らのボスであり、うちの学校の不良グループのリーダーである保坂が低い声でこう言った。

「裕也よぉ、おめぇ、なんで乳首立ってんだ?」

その一言に、ザワついていた教室内が一瞬シ~ンとなる。

当然、皆の視線は僕の乳首に集まった。

見ると、びしょびしょの汗でベッタリ張り付いたシャツの胸の2ヶ所が、ここに注目!と言わんばかりに突っ張っていた。

「朝っぱらから興奮するような事でもしてたのか?あらかた恵利子先生の巨乳見てヤラシイこと考えてたんだろ…」

保坂の低い声は、ただでさえ威圧感がある上に、妙な説得力がある。

保坂の言葉に、取り巻きの二人のみならず、クラス中で爆笑が起こった。

僕は、恥ずかしさで真っ赤になった。

必死でチャリをこいでいた時とは違う種類の汗で、また汗だくになった。

そんなタイミングで担任の小林先生が教室に入ってきた。

たまたま恵利子先生と同じ小林という苗字なだけで、ヤキモチからか何となく嫌な気がして、とても良い先生なのに僕は好きになれなかった。

「皆、席につけ~、出欠とるぞ~」

全員クスクス笑いながら席につく。

「青木!」

「はい」

「井上!」

「は、はい…」

「ん?井上、どうした?そんな汗だくになって?」

「いえ、大丈夫です」

「そうか、それならいいが… もし具合悪くなったら保健室行って来いよ」

「わかりました、ありがとうございます」

「で、なんで乳首立ってるんだ?」

担任のデリカシーに欠ける一言で、再び教室中で爆笑の渦が巻き起こった。

その日から僕のあだ名は乳首君になった…。


その日、僕は一時間目の授業が終わると同時に早退した。

決して、乳首の件を笑われたことが理由でもなければ、本当に具合が悪くなったわけでもない。

実は、起きた時から乳首に違和感は感じていたのだ。

しかし、寝坊したせいで詳しくチェックもしなかったし、慌てていたせいでそのことは意識から飛んでいた。

だから、保坂に言われて初めて、シャツの上からではあるが自分自身の目で乳首を見て、そこで改めて気付かされたのだ。


「なんだ、この乳首は……」


自分の乳首であることに間違いはないが、その乳首が、今まで見たこともないくらい立っていた。


それからというもの、授業中も乳首のことが気になって気になって仕方なかった。

気のせいか、寝起きに感じたよりも、いくらか違和感が強くなってるように感じた。

今の僕の置かれた状況で、乳首というキーワードは使いたくなかったので、体調が悪いという理由で早退を申し出た。

良くも悪くも朝の一件があったので、すんなり早退が認められた。



予定外に早く帰宅し玄関のドアを開けると、ちょうど母親がパートに出掛けるところだった。

「裕也どうしたの、こんな時間に?何か忘れ物でもしたの?」

母親は少し驚いた表情でそう言った。

「体調が悪くて早退したんだよ」

ノーブラの女性がそうするように、僕はさりげなく腕で胸を隠しながら、母親と目を合わさずにそう答えた。

「あら大変!お母さん、パート休んで病院連れて行こうか?」

「大丈夫だよ、いつまでもガキじゃないんだから… 寝たら治るって」

「あら、そう?それならいいけど…」

母親は多少不服そうにそう言うと、パートに出掛けて行った。

いくら相手が母親でも、さすがに乳首のことは言い出せなかった。


自分の部屋に入り、シャツを脱いでスタンドミラーの前に立ち、乳首を見た。

「…………」

3cmほど立っていた。

ビンビンに立っていた。

別に、ヤラシイことを想像したわけでも、何か刺激を受けたわけでもない。

かなりショックだった。

こんな乳首、SM物のアダルトサイトでしか見たことがない。

何もしてないのに、まさか自分がそんな乳首になってしまうとは…。

恐る恐る触ってみても、まるで痺れているようで、指先で軽く弾いてみても体の一部を弾かれてる感覚は無い。思い切って強烈なデコピンをかましてもやはり痛みはなく、ビヨ~ンビヨ~ンと乳首が揺れるだけだった。

「?????」

今度は乳首の先っちょを摘まんで引っ張ってみた。すると、乳首の付け根の部分に少し痛みを感じた。まるで乳首ごと引っこ抜かれるような感じだった。

付け根を指で圧迫してみると、何かシコリのような物があるのが分かる。ひょっとしたらこのシコリが原因かも知れないと思い、それ以上は触らないようにした。

ひとまずシャワーで汗を流し、応急処置的に突っ立った乳首を寝かせるようにテーピングで固定し、大きめのTシャツを着て目立たないようにする。

それでも、どうしても乳首に意識が行ってしまい集中できない。ポテチを食べてても、YouTubeを見ていても落ち着かない。

もはや、ふて寝するしかなかった。

ところが、うつ伏せになると乳首がジンジンと痛む。奥歯が虫歯になったような、鈍くイライラする痛みだった。

仕方なく仰向けになり天井を見つめる。

僕の乳首はこの先どうなってしまうのか…

こんな恥ずかしい乳首のまま残りの人生を過ごさなきゃならないのかと思うと絶望感に襲われた…

夜になり、晩御飯を食べてても、家族皆の視線が気になって、ろくに味すら分からなかった。

テーピングで誤魔化しているとは言え、家族の誰かに乳首の秘密がバレてはマズイと、大好きなお笑い番組も見ずに自室にこもった。

何も目立つことのない、女性アイドルグループと格闘ゲームが好きな平凡な高校生だったはずが、一日にして、何も手につかないほど超ド級の悩める高校生になってしまった。

その夜は、ほとんど寝れないまま朝を迎えた…。



次の日、僕は学校を休んだ。

もはや皆勤賞なんてどうでもよくなっていた。

元に戻っていてくれ!と祈りながら、テーピングを剥がしてみる…。


乳首は7cmに成長していた。


思春期のデリケートなハートは立ち直れないくらい粉々にされた。

無意識に涙が溢れてくる。

本気で自殺を考えた。

しかし、明るい未来と無限に広がる可能性に期待する心が、それをなんとか踏み止まらせる。

「なんとかしなくては…」

僕は、乳首切断を試みた。

ハサミを開いて乳首の付け根に当てる。

しかし、手が震えてしまって、どうしてもそこから先の勇気が出ない。

それを何度か繰り返し、結局、僕は乳首切断を諦めた。

恐怖に打ち克つことが出来なかったのだ。

食欲も沸かず、部屋から一歩も出ず、もちろん一睡も出来なかった。

途方に暮れたまま、さらに一日が経過した。


翌日も僕は学校を休んだ。

乳首はさらに成長し、10cmを超えていた。しかも、新たな変化を伴っていた。

乳首の先っちょが、ビー玉くらいの大きさにぷっくら膨らんでいたのだ。

10cm以上に伸びた乳首の先がぷっくら膨らんでいる光景は見ていて滑稽だったが、それがマンガやコメディではなく現実の自分の乳首だと思うと決して笑えなかった。

もう、このまま退学してしまうんじゃないか、このまま引きこもりのニートになってしまうんじゃないか、考えること全てがネガティブな方向に進んでしまう。

自殺なんかしなくても、このまま死んでしまうんじゃないか…。

「いや、きっと何か手立てはあるはずだ…」

そう自分に言い聞かせ、気持ちを無理矢理に前向きに持って行く。

まずはググッてみることだが、ググるにしても何てググればいいのか…

乳首……乳首長い……乳首痛い……

どのキーワードも、女性のお悩み相談や原因と対策といった内容で、いまいちピンとくるものではなかった。

乳首伸びる……

いくつかある検索結果に、ひとつだけ気になるものがあった。

それは、乳首が伸びる奇病について書かれており、なんと、その奇病研究の第一人者が隣町の開業医であることが判明した。

「な~んだ♪こんな簡単に、しかもこんな近くに解決の糸口があったじゃないか♪♪」

その病院のホームページを見てみる。

建物の外観はとても病院と呼べるものではなく、どちらかと言えば普通の一軒家のような印象を受ける。しかも、かなり古い。

さらに、院長先生の写真が怪しすぎた。

医者らしく白衣は着ているものの、読売ジャイアンツの野球帽をかぶり、あぶない刑事で舘ひろしと柴田恭兵が掛けていたような黒いサングラスをして、満面の笑みを浮かべていた。

「どっからどう見てもヤブ医者じゃないか……」

とても奇病研究の第一人者には見えない。

しかもその病院は、土曜日曜祝日休診という大手企業さながらの診療日な上、平日の朝7時から11時までというヤル気の無さ全開の診療時間だった。

「まあ、でも仕方ないか…。とりあえず明日、恥ずかしいけど勇気を出してこの病院行ってみるしかないもんな…」

ちょっと気になる部分があるにせよ、ひとまず希望の光が射したことに僕は安堵し、ここ二日間の寝不足もあって、その日はまだ明るいうちから爆睡した。




目が覚めたのは、明け方の5時だった。

明けて間もない眩しい朝陽が部屋の中を明るく照らしていた。

昨日カーテンを閉めずに眠ってしまったせいで、直接僕の顔に朝陽が当たり、その眩しさで目が覚めてしまったのだ。

窓の外から小鳥たちのさえずりが聞こえてくる。

もう少し寝てもよかったのだが、少しでも早く診察を受けたかったので僕はそのまま起きることにした。


ひとつ大きな欠伸をして、寝惚け眼のまま洗面台に向かう。

洗面台の前に立ち、鏡に写る自分の姿を見た瞬間、まだ半分眠っていた脳ミソは一瞬で覚醒した。

Tシャツの乳首の部分の突っ張り方が昨日までとは明らかに違っていた。異様な形に突っ張っていたのだ。

恐る恐るTシャツをめくってみる…。

驚愕の世界だった。

「アハ……アハハハ………」

人の感情は、ある一線を超えるとなぜか笑いに集約される。

僕は洗面台の前に立ち尽くしたまま、しばらく泣きながら笑っていた…。




僕は全力でチャリをこいでいた。


まだ人も車も疎らな早朝のメイン通りを、隣町に向かってカッ飛んでいた。

少しでも早く例の医者に診察してもらいたかった。

イッちゃってる見た目とは裏腹に、実は凄腕のスーパードクターであることに賭けるしかなかった。

僕の身に起きているこの異常事態を、さっさと解決したかったのだ。

でないと、自分自身が発狂寸前なことを自覚していた…。


遠くに田沢医院という看板が見えた。

時間は7時15分。

ホームページの情報が正しければ、診察が始まってまだ15分しか経っていない。

「僕が今日の1番乗りかな…」

などと思いながら進んでいると、病院の駐車場から出てきた真っ赤なポルシェとすれ違った。

僕はハッとした。

真っ赤なポルシェを運転していたのは、間違いなく恵利子先生だった。

大きくてオシャレなサングラスで顔はハッキリと確認できなかったが、ハンドル操作に邪魔になりそうな巨乳は見間違いようがない。

「なんで恵利子先生が?…もしかして、この病院の娘さん?…いやいや、恵利子先生の名字は小林で、田沢じゃないし…」

今は恵利子先生のことは後回しにして、僕は駐輪スペースにチャリを停めた。


田沢医院。

看板には小さな文字で、皮膚科、内科、小児科、婦人科、外科、泌尿器科、肛門科…と色々と書かれていた。

ホームページで見た外観は、何十年も前の写真か、さもなくば加工した写真を掲載してるに違いない。心霊スポットと呼んだ方がピンとくるような、古びた建物だった。

ドアには『診療中』と書かれた札が下がっている。

僕は恐る恐るドアを開けた。

待合室とおぼしき六畳ほどの空間に人影はなく、受付と書かれた小窓の向こうの空間にも誰もいなかった。

履くことを躊躇うような茶色いボロボロのスリッパには、かすれた金色の文字で田沢医院という文字が読み取れる。

仕方なくそのスリッパに履き替え、

「すいませ~ん…」

と声を掛けて中に入っても、何の反応もなかった。

破けた部分を所々ガムテープで補修された年季の入ったソファーに腰かける。

「ほんとにココで大丈夫かな…」

希望の光が射していた心の中は、アッという間に暗雲に覆われた…。

心の中が不安に支配されそうになったとき、診察室と書かれた扉の向こうで何やら物音がした。

「あれ?先生いるのかな?…」

僕は扉をノックして、失礼しますと一声かけて扉を開けた。

見てはいけないものを見てしまった。

ホームページで見た怪しい医者が、若い看護婦の胸の谷間に顔を埋め、パフパフしていた…。

僕と目が合った若い看護婦は「キャッ」と驚き、はだけた白衣を押さえて小走りに診察室を出て行った。

僕の存在に気付いた医者は、

「おや?今日は珍しいのぉ、まだこんな時間なのに二人目の患者さんじゃ♪フォッフォッフォッ♪」

と、全く悪びれもせず僕の方を向いて座り直した。

「君は患者さんじゃろ?税務署や保健所の人間でないなら、まあ座りなさい♪」

「は…はあ…」

僕は促されるままにイスに座った。

読売ジャイアンツの野球帽が阪神タイガースに変わっていたが、僕の目の前にいる大きな黒いサングラスをかけた人物は、紛れもなくホームページ写真のまんま、あの医者だった。

「で、今日はどうされたんじゃ?」

医者はカルテに何かを書きながら、僕の方を見ずにそう尋ねてきた。

「いや、それがですね…」

「どこか具合が悪いんか?」

「まあ、確かに具合は悪いんですが…」

「具合悪くなかったら病院には来んわな♪フォッフォッフォッ♪」

「…………」

「風邪かの?」

「いえ…」

「まだ若いのに痔か?」

「いいえ…」

「思春期にありがちな恋患いならワシの専門外じゃぞ?」

「違います…」

僕はなかなか真実を口に出すことが出来ずにいた。

「…ま、とりあえず診てみるかの♪シャツを捲ってもらえるかな♪」

医者は、聴診器を耳に嵌めた。

ここまで来たら、もう腹をくくるしかない。

僕はギュッと目を閉じ、勇気を振り絞って一気にシャツを捲り上げた。

左胸から右胸へ次々と押し当てられる聴診器の冷たい感触が伝わってくる。

「?????…」

僕はそっと目を開けて見た。

医者はいたって冷静に、またカルテに何かを書き込んでいる。

「先生?…」

「何じゃ?もうシャツは下ろしていいぞい」

「何じゃ?じゃなくて何とも思わないんですか?」

「う~ん…、風邪ではなさそうじゃな」

「いや、そうじゃなくて、僕の乳首見て何とも思わないんですか?!」

「乳首?…ああ、乳首か♪」

「そうです!乳首です!」

「綺麗なチューリップじゃな♪」

「そうですよ!!乳首が伸びてチューリップが咲いてるんです!先生これ見てどうも思わないんですか?」

「どう思うも何も、見事な咲きっぷりじゃ♪それに、片方が赤で片方が白、実にめでたいのぉ♪フォッフォッフォッ♪」

僕は目眩がしてきた。

あまりに非現実的な出来事を前に、支離滅裂なことを口走っているだけかと思ったが、その割には落ち着いてるように見える…。

僕の方がおかしくなりそうだった。

「これって大変な事じゃないんですか?絶対おかしいですよね?ヤバイですよね?」

「おかしい?何がヤバイんじゃ?」

「だって乳首ですよ?!チューリップですよ?!あり得ないじゃないですか!」

「なるほど、君はその事で悩んどったわけじゃな♪」

「当たり前じゃないですか!一時は自殺まで考えましたよ!…だって、乳首からチューリップが生えてるんですから!」

「その程度の事で、何もそこまで深く悩まんでも♪フォッフォッフォッ♪」

「その程度って…」

やっぱりヤブ医者だ…。

奇病研究の第一人者なんてウソに決まってる。そんなもの「自称」なら何とでも言えるのだ。

僕はこの病院に来てしまったことを深く後悔した。

「ワシを見てみぃ♪ほれ♪」

そう言いながら、医者は阪神タイガースの野球帽を取って見せた。

夢を見ているようだった…。

いや、夢であってほしかった…。

野球帽の下から現れたのは、小振りではあるが立派な松の盆栽だった。

「こ、これって…」

「見ての通り、松じゃ♪手入れも行き届いておるじゃろ?20年ものじゃよ♪フォッフォッフォッ♪」

「せ、先生は、頭から松が生えてるって言うんですか?!」

「そうじゃ♪でも、それだけではないぞ♪」

医者は、帽子に続いて大きなサングラスも外した。

「………!!」

左右のまぶたから四つ葉のクローバーがヒョロッと生えていた。

「いいじゃろ♪四つ葉じゃぞ、四つ葉♪フォッフォッフォッ♪」

「いや、でも、そんなところに四つ葉のクローバーがあったら、前が見辛いんじゃ…」

「確かに見辛い…じゃが、四つ葉だけに切るに切れんでな♪ワシも幸せになりたいんじゃ♪フォッフォッフォッ♪」

僕はもう、何が何だか訳がわからなくなっていた。夢と現実の区別がつかない不思議な感覚だった。

「待ってください先生…。先生の話を聞いてると、まるで、人間の体から植物が生えるのは特別変わったことじゃないように聞こえるんですが…」

「世界中で君とワシの二人だけというわけではない」

「え?!」

「と言うても、昔ほど多くはないがの…」

「昔はもっと、僕らのような人がいたと言うんですか?!」

「そうじゃ。国や男女の違いによって生える部位や植物に違いは見られるが、何百年も前から記録が残っておる」

「何百年も前から…ですか…」

にわかに信じ難い話に思えたが、逆に何百年も前から存在する病気なんだと思うと少し安心したのも事実だった。

医者は具体的な説明を始めた。

「ここ日本では、千年近く前の文献に記録が残っておる」

「千年近くも前?!じゃあ、鎌倉時代ぐらいから…」

「そう、武士の時代じゃな♪武士の特徴と言ったら、何を思い浮かべる?」

「武士と言えば……刀、鎧、切腹、ちょんまげ…」

「そのちょんまげ文化の始まりは、頭に生えた植物を削ぎ落としたことがきっかけだったと言われておる♪」

「まさか…」

「もちろん武士の全員がそうだったわけではなかろうが、誰か有力な武将が始まりだったのかも知れん…。家臣は殿様に習って、皆があのちょんまげ頭になったという説がある」

「なるほど…考えられますね」

「アラブの国々でターバンを巻くのも、中世ヨーロッパの貴族がカツラを被るのも、頭部に生えた植物を隠すためと言われておる」

僕は、乳首に生えたチューリップのことなどすっかり忘れ、先生の話を熱心に聞いていた。

「ほとんどの場合、頭部から生えるんですか?」

「いや、男性の場合は頭部に生えるケースが多いようじゃが、一部のアフリカ系の民族はぺニスから生えるというケースもある」

「あ!ひょっとして、一部の民族に見られるぺニスケースって?」

「ご名答じゃ♪動物の角や植物を加工して作られるぺニスケースも、元はぺニスから生えた植物を隠すための物じゃ♪」

「なるほど…」

「君のように乳首から生えるのは、男性よりも圧倒的に女性に多いんじゃ。ブラジャーの起源は本来、胸の形をキレイに見せるためのものではないんじゃ。その理由、もう君なら分かったじゃろ♪」

「わかります♪これを隠すためだったんですね♪」

「男女の差があるのは、おそらくホルモンバランスの関係だと思うんじゃが、まだ研究段階でな…。いかんせんデータが少な過ぎての…。君の場合、年齢的に考えても思春期というホルモンバランスの変化が激しい時期じゃからな…」

「そう考えると、まだ乳首で良かったような気がします…服で隠せるから…。さすがにブラジャーするわけにはいきませんけどね…」

「叶姉妹のように人工爆乳でカモフラージュするという手段もあるが…君は男じゃからの♪フォッフォッフォッ♪」

「え?叶姉妹も先生の患者さんなんですか?!」

「そうじゃよ♪叶姉妹も黒柳徹子もウチの患者さんじゃ♪ほれ、そこにサインもある♪」

見ると、壁の一部に数枚の色紙が飾られていた。誰のものか分からなかったが、だいぶ色褪せた色紙もあり、この医者の著名度を伺い知ることが出来る。

でもまだ僕は、内心この医者を信じきることは出来ずにいた…。

「叶姉妹も黒柳徹子も、僕と同じ病気なんですか?」

「そうじゃよ♪叶姉妹は乳首に蓮の花が咲いておるし、黒柳徹子は頭に丸いサボテンが生えておる♪」

「じゃ、叶姉妹はそれを隠すために?」

「うむ、ワシが開発した爆乳ヌーブラを装着しとる♪」

「どおりで作り物にしか見えないと思ってました…」

「黒柳徹子はサボテンを隠すために、あんなタマネギヘアなんじゃよ♪」

「そうだったんですね…納得♪」

「で、君はどうする?」

「は??どうすると言いますと?」

すっかりこの医者の興味津々な話に飲み込まれていたせいで、自分の乳首のことを忘れていた。

「君の乳首から生えてるチューリップをどうするか聞いとるんじゃ」

そうだ。乳首だ。チューリップだ。

叶姉妹の爆乳でも黒柳徹子のタマネギヘアでもなく、今は僕の乳首から生えたチューリップが問題なのだ。

「どうするもこうするも、取っちゃって下さい!このままじゃ僕の将来お先真っ暗ですよ!」

「なんと!切り取ってしまうと言うのか?先月に新発売した男性用ヌーブラもあるというのに…」

「切り取るに決まってるじゃないですか!こんな乳首じゃ彼女も作れないし…僕だっていつかは彼女欲しいしエッチもしたいし、将来的には結婚して子供も出来て、幸せな家庭を築きたいと願ってるんですから!」

直面している問題の重大さと将来の夢と絶望感が相まって、僕は半ベソをかきながら訴えた。

「そうか…君はまだ若いし、そう考えるのも無理ないのぉ…」

「お願いします、さっさと切って下さい…。明るい未来を取り戻してください…」

もはや半ベソではなく、うつむいた僕の目からは大粒の涙が溢れ、ボロボロの木の床にいくつかのシミをつくっていた。

「わかったわかった、わかったから泣くでない。今すぐ切ってやるから、そこのベッドに横になりなさい。上着は脱がんでも捲るだけでいいぞ」

医者はそう言って、またカルテに何やら書きはじめた。

医者の指す壁際にホコリの積もったベッドがあった。フッと息を吹きかけると、舞ったホコリで軽く咳込んだ。

僕は意を決して、上着を捲くってホコリまみれのベッドに横になる。

乳首の呪縛から開放される期待感より、今は不安と恐怖の方が大きかった。

捲くった上着の端を持つ手は、ギュッと力が込められた状態のままガタガタ震えていた。


落ち着かない気持ちを悟られないよう、目を閉じたまま医者に聞いてみる。

「やっぱあれですかね…痛いんですかね…そりゃあ痛いですよね、切るんですもんね…」

「まあ、そこは個人差もあるし、それぞれ生えてる場所も違うでな。あとは医者の腕の差じゃ♪」

そう言いながら医者は机の引き出しの中をガサゴソあさると、僕の寝ているベッドの横に来た。

緊張で更に身体がこわばる。

「やっぱり麻酔は極部麻酔ですか?出来るなら全身麻酔にしてもらえると…あの、鼻と口を覆うマスクでスーハースーハー深呼吸して、1.2.3て数えてるうちに寝ちゃうやつ…」

緊張のせいか、それを誤魔化すためか、普段より口数が多い上にミョ〜に早口になる。

「あいにくココには全身麻酔する設備はないんじゃよ」

ギュッと目を閉じてる僕には見えないが、医者は緊張する僕のことなど一切お構いなしにカチャカチャと手術の準備をしているようだ。

「いやぁ、あれなんですよ…実を言うと僕、小さい頃から痛みにめっぽう弱くてですね…」

医者はよく喋る僕を無視して、チューリップの、いやいや、両方の乳首の根本あたりに消毒用アルコールを塗った。

一瞬、予期せぬ冷たさにピクッと身体が脈打つ。

「先生が知らないのも無理ないんですけど、特に注射が苦手でしてね、ええ、子供の頃は予防接種のたびに親を困らせたもんです…」

チョキン、チョキン。

「だからやっぱり全身麻酔がいいなぁって正直思うわけでして…それに、まだ今回の異常事態を親にも相談してないですし…」

今度は何かヌルッとしたものを乳首に塗られる。

緊張は極限に達し、おそらく心拍数は200を超えた。

「とうとう極部麻酔なんですかねぇ、どうしようかな、やっぱり今日は止めとこうかな、昨日からちょっと熱っぽいし…」

「もう済んどるよ」

「設備の整った大きな病院で………え?今なんて?」

「もう終わったと言ったんじゃ」

「え?もう?」

僕は恐る恐る目を開けた。

上着を捲っていた手の震えも瞬時におさまった。

乳首は元の長さに戻っていた。

何の痛みも感じなかった…。


横を見ると、自慢げな笑みを浮かべた医者が、右手に持ったハサミを顔の横でチョキチョキさせていた。

左手は栄誉ドリンクのような茶色い小瓶の口を持ち、小さく左右に振っている。

その茶色い小瓶に、生花よろしく紅白のチューリップが仲良く並んでいた。

「そのチューリップは…」

「もちろん、君の乳首から生えてたもんじゃ。記念に持って帰るといい♪」

あらためて乳首を見ると、ワセリンのような薬が塗られていたが、痛みがないばかりか血の一滴も滲んでいなかった。

ベッドから起き上がった僕は、渡された小瓶と、そこに生けられたチューリップをしばらく見つめていた。

小瓶には「男の活力!赤マムシ」というラベルが貼ったままだった…。


「大丈夫だとは思うが、念のため痛み止めと化膿止めの薬は出しておくでの」

「はあ、ありがとうございました…」

医者が机の引き出しにしまったハサミは、どっからどう見ても100均で売ってるようなフツーのハサミだった。

「あんなハサミで…」

化膿止めの薬は多めに欲しいと思った…。


「こちらが痛み止め、こちらが化膿止めの薬になります。化膿止めは朝と夜、夜はお風呂上がりに塗って下さい。痛み止めの方は痛みが出たときだけで大丈夫です。」

ついさっきまで医者とイチャついてた看護婦が、澄ました顔で説明する。

「わかりました」

「お会計は、初診料と施術代とお薬代、合わせて2万8000円です」

「2万8000円!?」

「保険適用外ですので♪」

僕は渋々、代金を支払った。

来月発売予定のゲーム機を買うために半年も溜め込んだ小遣いがフッ飛んだ…。



ともあれ、あれほど頭を抱えていた悩みは一瞬で消し飛んだわけで、実に清々しい気分だった。

時計を見ると、急げば学校に間に合う時間だったが、皆勤賞が消えた今となっては学校なんてどうでもよくなっていた。

その日も学校を休み、この二日間やれてなかったオンラインゲームを一日中楽しんだ。

御飯も超〜美味しかった。

お笑い番組も腹を抱えて爆笑した。

世の中全体がパッと明るくなったように感じた。

そして、深〜く熟睡できた。



明けて翌朝…


僕は必死にチャリをこいでいた。

隣町の田沢医院に向って全力でカッ飛んでいた。

田沢医院に着くなり、壊れんばかりの勢いでドアを開け、

「このヤブ医者ぁぁぁッッ!!」

と怒鳴った。

何事かと言わんばかりに診察室から出てきた例の医者は、今日はヤクルトスワローズの帽子を被っていた。

一緒に出てきた看護婦は昨日とは別人だったが、なぜか片足だけ脱げたストッキングを引きずりながら、受付につながるドアに消えていった。

ズボンのファスナーを上げながら医者が言った。

「何事かと思えば君じゃったか…。で、どうしたんじゃ?そんなに慌てて」

「どうしたんじゃ?じゃないッッ!これを見てみろ!」

僕は上着を捲くった。

「ほう♪今回は赤と黄色で鮮やかじゃな♪」

「そういう問題じゃない!昨日治ったはずなのに、どうして一晩でまた生えてくるんだ!おかしいじゃないか!」

僕の苛立ちをよそに、医者はいたって冷静に、得意気ともとれるような口調で続けた。

「ワシがいつ完治したと言った?」

「え?…」

「それに、時期的に今はチューリップの最盛期じゃからの♪また生える可能性があるのは分かっとったが、いかんせんデータが少ないが故に断言も出来んでな…」

「ちょ、ちょっと待って下さいよ!じゃあ、まだまだ生えてくるってことですか?」

「それも分からんのじゃ…」

昨日の晴れ渡った気分が幻だったと感じるくらい、ブラックホールに吸い込まれるような重くどんよりした気分になった。

「ワシの知る限り…」

医者は、落ち込む僕を慰めるように説明を始めた。

「過去の臨床結果によれば、ある日突然桜が咲いたお爺さんは、それから毎年春になると桜が咲くようになったし、ヒマワリが咲いたOLさんは夏が来るたびに咲くようになった。タンポポが咲いた女の子は、綿帽子が飛んだら枯れてしまい、大泣きされて困ったもんだが、翌年にはまた生えてきた。つまり、咲く植物と季節には密接な関係があるということじゃ♪」

「じゃあ、先生の松の場合は?」

「松は木じゃからの♪枯れないかぎり生えっぱなしじゃよ♪だからワシのは20年ものなんじゃ♪」

「なるほど…。で、僕のチューリップはどうなんでしょう?」

医者は急に難しい表情を浮かべ腕を組んだ。

「基本的には春に咲くもんじゃが、今までチューリップが咲いたという前例がないんじゃよ…。でもそれ以上にワシが頭を抱えてるのは、チューリップは球根ということなんじゃ」

「球根…それがどう問題なんです?」

「本来、植物は茎の付け根を切ってしまえば、根っ子も枯れてしまう。それはタンポポやヒマワリのような花だろうが、桜や松といった木だろうが同じじゃ。現に、3年目の夏にヒマワリを根元から切り落としたOLは、翌年から生えて来なくなったしの…。ところが球根の場合、球根が残っておればまた生えてくるんじゃよ…。過去に同じ球根の植物であるスイセンが生えた患者がおった。早春に鮮やかな白や黄色の花を咲かせるんじゃが、その患者も君と同じように切り取ってほしいと言うんで切除したんじゃが、翌日にはまた花を咲かせておった…」

「僕と同じじゃないですか…」

「いや、症状は同じじゃが、肝心な部分に違いがある…そこがさらに気掛かりなんじゃ」

「と言いますと?」

「スイセンは早春にだけ花を咲かせる。ヒマワリやタンポポや桜も同じで、ある程度は花が咲く時期が決まっとる。ところがチューリップは品種改良が進んだこともあって、よほど過酷な環境でなければ一年中花を咲かせるんじゃ…」

「ちょっとよく理解できないんですが…」

「つまり…さっきも言ったように、季節と深く関わりがある植物ならば、その時期だけの一過性のもので済むところが、君の場合、生えたのが球根植物なことに加えて一年中花を咲かせるチューリップと来たもんだ…」

「どういうことでしょう??…」

「ワシの推測が正しければ…」

「正しければ?…」

「……………」

医者は、虚空を見上げ、十分すぎる溜めを持たせてから言った。

「…君のチューリップは、常に、一生、咲き続けるということじゃ」


ガビ〜〜ン!


昭和を思わせるノスタルジックな効果音が僕の頭の中で鳴り響いた。

「じゃあ、先生の松のように、僕の乳首には生涯チューリップが咲いてるということですか?」

あまりのショックで、今回は涙すら出てこない。

「あくまで可能性の話じゃ、そう悲観せんでも…」

「でもその可能性が高いわけですよね?球根だし一年中咲くし…」

「仮にそうだったとしても、毎日切ればいいだけの話じゃ♪」

「毎日切ればって……簡単に言いますけど、毎日ここへ通えってことですか?あっ!そうやって金儲けのこと考えてるでしょ?またぼったくるつもりですね!」

「そんなつもりは微塵もないわい。毎日自分で切ればええ♪実に簡単な話じゃ♪」

「そんな…自分でって…」

「試しにホレ、自分で切ってみ♪」

医者は、机の引き出しからハサミを取り出し、僕に渡してきた。

昨日も使ったあのフツーのハサミだ。

「ひとつだけ注意する点は、あまり根元を切らないことぐらいじゃ。切るのが根元すぎると痛みも伴うし出血もするからの」

僕は、医者に促されるままにハサミを乳首の根元に当てた。

「そんな根元じゃ血が出て痛いぞ、もちょっと上…そう、その辺じゃ」

一度経験しているからか、不思議と恐怖心はなかった。


チョキン。チョキン。


医者の言う通り痛みもなく、チューリップはいとも簡単に乳首から切り離された。

「な♪簡単じゃろ?フォッフォッフォ♪」

「確かに簡単でしたが、また生えてくるんですよね?」

「断言は出来んが…おそらく生えてくるじゃろう」

「授業中に生えてきたらどうしよう…電車やバスに乗ってる時とか…」

「そこは安心せい♪過去の例では、花が咲くのは必ず寝ている間なんじゃ。夜だけというわけではない。時間に関係なく寝ている間、つまり、徹夜して昼間に寝ても起きるまでの間に咲くんじゃ。うたた寝ぐらいで咲いたという報告がないところを見ると、ある程度の睡眠時間が必要ということも分かっておる」

「はあ…そうなんですか…」

「まだ咲くと決まったわけではない…まぁ、咲いたとしても、今のように切ればいいだけじゃて♪それにの、人体から生えた植物には不思議な特徴もある♪」

「不思議な特徴??」

「なんと!水と食料、つまり養分を与えておれば、ず〜っと枯れないんじゃよ♪」

「…………」

僕は、喜ぶべきか悲しむべきか分からないまま、医者の説明を聞くほかなかった

「なにわともあれ、明日の朝どうなっとるか…楽しみじゃな♪」

帰り道、念のため百均に寄ってハサミを購入した。

どんよりした気持ちで踏み込むペダルは、遅刻坂を登るときより重く感じた。

胸のポッケには、赤と黄色のチューリップが風に揺れていた…。

夜になってもワクワク感もドキドキ感も微塵も感じることなどなかった。

神に祈るような気持ちでその日は眠りに就いた。


明けて翌朝。


神様は僕を見放した。

案の定だった。

ほんのちょっとでも期待した自分がバカだった。

僕の乳首には、今日も綺麗なチューリップが咲いていた。

憎らしいほど活き活きと咲き誇っていた。

「……やっぱりな」

その日から、毎朝チューリップを摘むことが僕のルーティンワークとなった…。


茶色の小瓶がペットボトルになり、ペットボトルが花瓶になり…

それから半年ほど経ち、年が明ける頃には僕の部屋もウチの庭もベランダも、チューリップだらけになっていた。

あの医者の言う通り、水と栄養剤を絶やさず与えていれば、常識を超えた期間、何ヶ月も枯れずに咲いていた。

切ってそのままゴミ箱に捨てても良かった。

しかし、毎朝咲くものなのだと無理矢理自分を納得させた僕は、その時から「ある目的」のために枯らさないようにしたのだ。

その目的とは………。



卒業式の朝を迎えた。

僕は、人間1人が入れるくらい大きなバッグを背負って学校へ向かった。

そんな大きなバッグを背負ってる僕に向けられる皆の奇異の目も気にならなかった。

卒業式が終わり生徒が全員帰ったあと、僕はバッグの中身を取り出し、バッグだけチャリの前カゴに押し込むと、中身を両手いっぱいに抱えて職員駐車場に向かう。

胸に直接触れなくても自覚できるほど、鼓動が昂ぶる。

「恵利子先生に、このチューリップの花束を渡して、僕の気持ちを伝えるんだ!」

無意識に早足になっていた。

職員駐車場に到着し、なるべく人目に付かないように真っ赤なポルシェの陰で待っていると、数分も待たずして恵利子先生が現れた。

「井上君、先生に話って何?それに、そんなにたくさんのチューリップ、どうしたの?」

「恵利子先生…これ…受け取ってください」

「え!?…私に?」

恵利子先生は、驚きと困惑の表情を見せた。

「ずっと前から好きでした」

「先生をからかってる?井上君とは20近くも歳離れてるんだよ?」

「わかってます…でも本気なんです…これは僕の気持ちの現れです…僕のチューリップなんです!」

「僕のチューリップ??」

「あ、いや……僕が育てたチューリップって意味です」

舞い上がっていたせいで危うい表現をしてしまったが、上手く誤魔化せた。

でも嘘はついていない。

確かに、厳密に言えば僕から勝手に育ったものだが、僕が育てたのと変わりない。

「な〜んだ、先生ビックリしちゃった。こんなにたくさんのチューリップ、お花屋さんで買ったら大変な金額だから…いくら生徒からのプレゼントだからって、そんな金額のものは受け取れないと思って…」

「その心配なら要りません…僕はアルバイトもしてないし、小遣いはゲームやCDに消えちゃって貯金もないし…。だから自分で育てるしかなかったんです。どうしても恵利子先生に気持ちを伝えたかったから…」

「………わかった、ありがとう☆」

恵利子先生は笑顔でチューリップの花束を受け取ってくれた。

しかし、ポルシェのフロントトランクに花束をしまう時には笑顔は消え、何かを考え込んでいるような、まだ心に何か引っ掛かってるような表情の変化を僕は見逃さなかった。

「べ、べつに付き合ってほしいとか結婚して下さいってワケじゃないんで…ただ僕のマジな気持ちを卒業までに伝えたかっただけで…」

恵利子先生を困らせてしまったのか、もしかしたら怒らせてしまったのか、女性とお付き合いしたことなどなく女心がチンプンカンプンな僕は、どう取り繕えばいいか分らず、その場の空気に押し潰されそうだった。

「じゃ、じゃあ、僕はこれで帰りますんで…その…チューリップ受け取ってくれてありがとうございました…あ、あと、3年間ありがとうございました…それでは!」

僕は一礼して恵利子先生に背を向けると、その場から走って逃げ出した。

悔しいのか、情けないのか、もう恵利子先生と会えないのが悲しいのか、自然と涙が溢れた。

いつものようにチャリをこいで帰宅したはずなのに、道中の記憶は飛んでいた…。



明けて翌朝。


もうチューリップは咲いていなかった。

フツーの乳首に戻っていた。

嬉しいはずなのに、なぜか喜べなかった…。

突然の大事件が起こったあの日から昨日までの出来事が、すべて夢だったように感じる。

しかし、部屋やベランダのあちこちに残る小瓶やペットボトルが、現実だったことを物語っていた。

僕は再びベッドに横になると、自分の乳首を眺めて深い溜息をついた。

階下から母親に呼ばれるまで、しばらくボーッとしていた。

「裕也ぁ〜、起きてる〜?小林先生がお見えだけど?」

「起きてるよ!今行く…」

卒業式翌日だってのに、一体何だってんだ?…もしかして昨日の恵利子先生への告白が先生達の間で問題になって…

やっぱり、あんだけの量はマズかったかな…

恵利子先生も本当は迷惑だったのかな…

なんてことを考えながら玄関に向かうと、

「え…恵利子先生⁉…小林先生って言うから、てっきり担任が来たもんだと…」

玄関には恵利子先生が立っていた。

「井上君…ゴメンね、連絡もなく突然お邪魔しちゃって…」

「いや、僕は全然かまわないです。むしろ嬉しいくらいで…それより昨日のことで恵利子先生に迷惑かけちゃったんじゃないかと…」

「そんなことないよ♪嬉しかった☆…今日は個人的に井上君に確かめたいことがあって来たの…」

「僕に?ですか?」

「そう。それに…話しておきたいことも…」

「はあ…」

一気に緊張が走る。

母親は恵利子先生をリビングに通すと、二人分のコーヒーを入れ、気を遣ってか自らは買物に行くと言って出掛けて行った。

二人きりになると、恵利子先生は神妙な面持ちで話し始めた…。



それから3カ月が経った。



「今日は中間テストの採点終わらせないといけないから、帰り少し遅くなるかも…」

「わかった。晩御飯の準備して待ってるから、なるべく早く帰ってきてね♪」

「今夜はハンバーグがいいな♪裕也の作るハンバーグ、めちゃくちゃ美味しいから♪じゃあ、行ってくるね♪」

「わかったよ♪行ってらっしゃい」

Chu♡Chu♡

僕は、恵利子先生を見送ると、洗濯機の自動スイッチを入れた。

「今日は天気イイから、布団干そうかな♪」

乳首のことで苦悩していた1年前からは想像もつかない、幸せな毎日だった。

その乳首のお陰で今の幸せを手に入れることが出来たのも、紛れもない事実なのだが…。

僕は恵利子先生と結婚した。

付き合い初めて一ヶ月というスピード結婚だった。

進学できるような頭脳もなく、就職先も決まらず、しばらくフリーターでもいいかな…と思っていた僕は、その日から主夫になった。


あの日…

恵利子先生が僕に確かめたかったことこそ、僕の乳首のことだった。

恵利子先生は、田沢医院に通う僕に気付いていた。赤いポルシェと擦れ違ったとき、僕だけでなく恵利子先生も僕に気付いていたのだ。

しかもそのとき、乳首の部分が異様に出っ張っていたことも見付かっていたらしい。

話を聞くまで僕自身も忘れていたが、考えてみればあの朝、あまりの衝撃的な出来事に気が動転し、バレないように乳首をカバーすることさえ忘れチャリでカッ飛んでいたのだ。

「バレて当然か…」

僕は深く後悔し、落ち込んだ。

「奇人変人と思われても仕方ない…」

バレてしまったのだからと、チューリップのことまで洗いざらい真実を伝えた。

信じてもらえないだろうと思っていた。

しかし、次に恵利子先生が発した言葉に、僕は耳を疑った。

「やっぱりそうだったのね…話してくれてありがとう☆」

「へ?…僕の話、信じてくれるんですか?気持ち悪いとか思わないんですか?」

「気持ち悪いだなんて…だって病気でしょ?むしろ、そんなことを私に話してくれたことの方が感激する☆だって本来なら誰にも言いたくない、秘密にしておきたいことでしょ?」

「そうですよね…あ、ありがとうございます…」

「そんな井上君に、私も話したいことがあるの…」

「何ですか?僕で良ければ…」

恵利子先生は、言葉にすることを躊躇ってるようで、そこからしばらく黙り込んだ。

恵利子先生の言葉を待つ間、心臓が口から飛び出しそうだった。

「実は私ね…」

「は、はい…」

「私………爆乳ヌーブラなの」

「え?………爆乳ヌーブラって………ええーーーッッ!」

こうして僕と恵利子先生は結婚に至ったのだった。


共通の苦悩を味わった者同士、常識では考えられない出来事を解り合える者同士、この日から僕と恵利子先生は、お互いがこの上ない理解者になった。

精神的な要因も絡んでいるのか、翌日から再び僕の乳首にはチューリップが咲くようになったが、もう悩むこともなくなった。

初めて二人で過ごした夜…

恵利子先生は爆乳ヌーブラを外し、生まれたままの姿を見せてくれた。

恵利子先生の乳首には、綺麗な水色のアジサイが咲いていた。

何度説明しても、恵利子先生は

「恐いから絶対ムリ!」

と言って、アジサイを切ることを拒んだ。

「大きな病院で、ちゃんと手術してもらうならまだしも、自宅でなんて…。田沢医院でもイヤなのに」

ごもっともな意見だった。


梅雨も明ける頃になると、恵利子先生の紫陽花は枯れて、生えて来なくなった。

きっとまた来年の梅雨時には綺麗な花を咲かせるのだろう。

春に桜の開花が待ち遠しいのと同じように、世界中で僕だけが恵利子先生の紫陽花を待ち遠しく思えることが幸せだと感じた。


ちなみに、爆乳ヌーブラを外した恵利子先生の実際の胸は………小さかった…(ToT)



=おしまい=

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僕の花束 飛鴻 @kkn0107

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