花束(下)

 安いコーヒーを飲みながら、いろいろなことを話した。高校卒業後のこと、現在のこと。浩は、高校時代の彼女・ひみとは卒業を待たずに自然消滅し、とっくに音信不通になっていた。さゆかとひみは、大学は違うがどちらも都内に住み、たまに遊んでいるらしい。

 さゆかは何も変わっていなかった。春に咲く花をいくつあげつらっても足りないほど、気品のあるたたずまい。

「成人式、来なかったわよね」

「冴城は行ったんだ。ひみに誘われたの?」

「……ええ」

 ひみの名前が出ると、さゆかの表情はわかりやすく曇る。

「浩こそ、ひみに会わなかったの?ドラマよくであるじゃない。元カノと同窓会でワンチャン、みたいな」

 さゆかは悪戯っぽい笑みのまま、左の手指でつくった輪に人差し指を差し込んだ。綺麗な顔をしてえげつない下ネタやからかいを言うのも、彼女の思わぬギャップのひとつだった。落ち着かない感情を誤魔化すように、浩はコーヒーを飲み下した。

「同窓会じゃあるまいし。ていうか、成人式どころじゃなかったんだよ。うちの学校、花屋とのパイプが強くて内定はもらったんだけど、色々あって逆内定辞退」

「そんなことってあるの?」

「あった」

 浩は憔悴しきった顔で頷いた。

「手当たり次第当たったけど、花屋の募集に限るとなかなかなくてさ。しばらくバイトしようと思ってる」

「お花屋さんって大変なのね」

「うん、でもやり甲斐もある。学生のころはモールの花屋でバイトしてたんだけど、綺麗なものに囲まれるって素敵だなって」

 さゆかはしばらく黙っていた。そしておもむろに切り出す。

「綺麗なものに価値なんてあると思う?」

「何言ってんの?」

「綺麗なもの、美しいものだけを愛するって二流じゃない」

 ふいにかち合った瞳には、温度が無かった。

「私、ずっと浩が憎かったの」

 その台詞はあまりに自然な雰囲気で放たれたので、浩は返事を返せなかった。さゆかは視線もかまわずカップを置く。真っ白な手が、テーブルの上で組まれた。

「私がどうしてひみと付き合っていたかわかる?  ひみはね、美しくなかったからよ。風潮にころころと表情を変えて、見た目ばかりに気を使う……自分の信念を貫くほどの強さが、ひみにはなかった」

 高く、しかし張りのある声は、ざわめいた店内でもよく通った。

「あなたとひみが仲良くなったきっかけの日、覚えてる?」

 面食らった浩は、無言で何度も頷いた。さゆかの表情は凍り付いて動かない。

 高校の、まだクラス替えしてすぐのころだったと思う。浩に片思いし、なんとか振り向いてほしいと痺れを切らしたひみは、さゆかの制止も無視して激しいダイエットをして体調を崩してしまった。事情を知らない浩が彼女を気にかけ、昼食を奢ってやり、二人は交際に至った……はずだ。それだけ。

「おれ、冴城になんかしたっけ」

 おどけて笑おうとして、頬が引きつっているのに気づいた。さゆかが、いまにも泣きだしそうな、ぐちゃぐちゃに崩れた表情になっていることも。

「ひみには内緒にしてくれる?」

 おずおずと顔を覗きこんだ浩。その態度を同意ととったのか、さゆかは小さく頷く。

気まずい沈黙のあと、さゆかはおもむろに切り出した。


「ずっと、好きだったの」


 飲もうとしたコーヒーが気管に入り、浩は大きくむせた。

 ――あの冴城さゆかが俺のことを?

 なんだかふわふわした気持ちで、浩はさゆかを見つめ返す。かつて孤高の象徴だったさゆかの身体は、小さく縮こまって、随分頼りなく見えた。

「あなたとひみがそばにいるだけで、嫉妬で狂いそうだった。二人の関係を大切にしてあげたいのに、私のことを見てくれないならって意地悪したくてたまらなくなる……自分が自分じゃなくなったみたいで、怖かった……」

 さゆかはもう涙声になりかけていた。いつでも落ち着いていて、むしろ他人を弄ぶようだったさゆかが、こんな表情をするとは思えず、浩はただ狼狽えるばかりだった。

「いや、さ」

 上ずった声で浩は呟いた。

「そんなこと今俺に言われたってどうしようもないよ。冴城はいま、どうしたいの」

 さゆかは恐る恐る顔を上げた。瞳は涙に濡れたのだろうか、きらきらと光っている。

絞り出すような、か細い声が聞こえた。


「ひみが好き、ひみと、一緒にいたい」


「え」

「たしかにひみは、自分の信念を貫き通すような人間ではなかったわ……むしろ、他者から判定される美しさという概念に振り回されることもあった。でも、自分を高めるための努力を怠らない、素敵な子だった。浩ならわかるでしょう?」

 同意を求める語尾だったが、返事を待たずにさゆかは喋り出す。

「大切なのは美しさそのものじゃない、美しくあろうとする心なのよ。あの子はそれを、理解はしていなかったけど会得はしていた。だからみんなひみに惹かれたの」

浩は完全に固まっていた。

 さゆかは美しかった。お金持ちの家に生まれ、とんでもない美人で、頭もよくて、少女漫画ならバラを背負っていそうな、おとぎ話のお姫様。そんな彼女は、ひみの「持たざるものを欲する焦がれ」に、ひとりであつく憧れていたのだ。

 さゆかは、憑き物が落ちたような顔で浩を見据える。瞳はあつく静かに燃えていた。

「ありがとう、浩くん。やっぱりあのひみが選んだ男なだけあるわ!浩くんには悪いけど、私、決心ついた。ひみにまた連絡とってみる」

「は?」

「ほしいものは手に入れる。悪いけど、ひみはもらっていくわ」

 さゆかはきっぱり言った。

 あっけに取られる浩をよそに、さゆかは慌ただしく席を立ち去っていった。浩は、お礼と称して置かれた五百円玉と、さゆかの後ろ姿を呆然と見比べていた。


 チキンとコーヒーのガラを捨てて、とりあえずもう帰ろうと青梅線に乗った。電車は休日昼過ぎにしては空いていて、中程のシートに腰をおろす。とにかくどっと疲れた一日だった。理由は分かっている。

 かつての記憶を思い返す。冴城さゆかはいつも「ああ」だった。他人なんてどうでもよくて、いつでも自分のために生きていた。そう、さゆかは「変わらず美しかった」のではない。精神的な成熟が加われば加わるほど、美しさは増すものだと、彼女に見せつけられた。

 専門時代、フラワーアレンジメントの授業で教えられた、薔薇の花は本数と色で花言葉を変えると。「一目ぼれ」「永遠の友情」、「君を忘れない」など、さまざま。高校時代、花壇の花であったさゆかは、いま確かに薔薇として花開いたのだ。 いや、百合としてか?

 いっぽうの浩はどうか。これからどうなるかはまったくわからないが、これから行く場所はかろうじてわかっていた。歯ブラシ切れたからマツキヨ。その場しのぎの人生。

浩はふと振り返り、窓の外に目をやった。

 もう春だというのに、今日の天気はめずらしく雪だ。花束に入れるカスミソウのようだった。いつか必ず、俺も俺だけの花束を拵える。心の中でつぶやいた。


 最寄り駅のホームで降りると、肩に細かい雪がぱらぱらかかった。ぼやけた青春時代の締めくくりにふさわしい祝福、涼しげな空と淀んだ雪。浩はひとりで笑い、空から手向けられた花束を受け取る。

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世界地図の正体【短編集】 さえ @skesdkm

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