花束(上)

 就職もきまらず花屋の専門学校を卒業し、浩(ひろ)は春からみごとフリーターデビューした。まだ職も決まっていないので、正確に言えばニートデビューだが。

 浩が内定をもらっていたのは、小さな生花店だった。学校からの斡旋だったが、見学に行ってすぐに、ここしかない!と就職を決めた。店は女性受けしそうなウッディ&カジュアルな雰囲気で、個人経営のこじんまりした規模ながら、来店する客はみな笑顔で帰っていった。ベテランの店員揃いで、仕入れの目利きのテクニックに長けていることから、瑞々しく高品質な花が集まるのだ。だが、店長兼社長が正月物の取引でトラブルを起こし、取引先から切られて業績不振に陥ったらしく、浩は内定取り消しを言い渡された。

 突然かつ一方的な内定取り消しに学校も青い顔をしていたが、就職率に関わるから就職希望を書き直せと指示されただけで、特にサポートはなかった。業績不振の花屋に直談判に行ったところで、時間も手間もかかる。しかたなく浩は別の働き口を探すことにした。

 続けての不幸はきのうの午後だった。息も絶え絶えで行ったバイトの面接で見事にこけた。

 なぜ園芸専門という道を選んだのか、その経歴からなぜ別職種に応募してきたのか。

 人手不足というからとりあえず採用してほしいという本心を誤魔化し、聞こえのいいことを言ったのがいけなかった。いまさら振り返りたくもない。だが、「いまさら振り返りたくありません」という言葉など男としてなさけない。青梅線に揺られてのゆううつな帰り道だった。

 そして今日、卒業祝いのひとりカラオケに行くつもりが、窓口の女性にそっけなく、満室ですと頭を下げられた。しかたないから、ハローワークのPCで求人をあさり、いまは地元の駅ビルのフードコートで昼食を摂っている。

 休日昼間らしく、周囲には子供をつれた家族連れや、女子高生のグループがかたまって談笑していた。浮かない顔でのチキン。ついてないことの連続なのに、結構うまいのだから世話ない。

 フードコートのパーテーションを挟んで隣の席には、女性が四人座ってアイスをつついていた。声だけ聞こえて顔は分からない。声にもほとんど聞き覚えはなかった。ただ、うっすらと透けたシルエットから、同じ高校だった冴城(さえき)がいる、というのはわかる。急に不安がこみ上げてきた。


 冴城さゆかはとにかく美人だった。

 高い鼻梁、線の細い輪郭。生まれつき色素が薄いのか、光の加減で金髪に見えるほどの淡いショートヘアで、肌は血管が浮くほど白い。伏し目がちの瞳を長いまつ毛が彩り、その瞳が瞬く度、周囲はうっとりため息を漏らす。手足はすらりと長く、学校指定のセーラーさえ綺麗に着こなしていた。もし少女漫画のキャラクターなら、そつなくバラを背負って登場してくる。そんな、おとぎ話のお姫様みたいな女子高生こそ、冴城さゆかだった。

 さゆかと浩はクラスメイトではあったものの、あまり話したことはない。クラスの中で、さゆかは孤立していたように思う。とはいえ、嫌われていたわけではなくむしろ逆だ。

 道端に花壇があれば、人は花を踏まないようにそっと避ける。同じように、彼女の静謐な美しさと、それに似合わぬ小悪魔的な態度は、俗っぽい高校生には眩しすぎた。クラスの女子はさゆかの着こなしや髪型を褒め讃え、男子はこぞって彼女に言い寄ったが、さゆかは静かに笑うだけだった。

 美しかった。だからこそ、誰も彼女には触れられなかった。ショーケースの中のダイヤ細工みたいに。


 薄暗い廊下で彼女とすれ違った日のことを、浩はいまでも覚えている。

「冴城さん、ハンカチ落とし……」

 言い終わる前に、冴城さゆかは振り返った。ボブヘアーがふわりと揺れて、甘い香りが広がる。さゆかは浩の手に握られたガーゼハンカチを一瞥し、それから愛想のいい笑みで礼を言った。あどけない男子高校生を勘違いさせるにはもう十分で、それからの浩は、美しいものと人間は、同じ世界に住むべきではないと思うようになった。

 だがその幻想はすぐに崩れ落ちる。そのころの浩は、同じクラスのひみと付き合っていた。ひみは身長も胸も小さく、さゆかのように輝く美人ではなかった。目はくりくりしていて、笑うとちょっとリスみたいに見えて、愛嬌があってかわいい。よくいる女子高生。そんなひみは、人を寄せ付けないさゆかを心配し、ことある事に付いて回っていた。

『さゆかちゃんはどうして、人を寄せ付けないんだろう。かわいいのに』

 ある日、ひみが暗い顔で相談してきたことがある。ほっとけと返した気がする。適当に言った言葉だったが、今となっては浩自身の本心から出た言葉のように思う。さゆかに構うひみは、まるで引き立て役のようで哀れだった。それ以上に浩は、冴城さゆかという精霊には孤独であってほしかった。

 だから「あの日」、浩はさゆかの新たな一面に度肝を抜いたのだ。


 秋口、さゆかを馴染ませたいとのひみの提案で、三人でコメディ映画を見に行くことになった。映画館の飲食物コーナーで立ち尽くし、悶えるひみを、さゆかは愛おしそうに眺めていた。さゆかの高そうなバッグには、アルファベットの「H」のキーホルダーがくっついて、映画館の薄暗い照明にあてられて光っていた。花のH、宝石のH。浩はそう思わずにはいられなかった。

「シェイク飲みたい。でもな、あーだめだめ、こんなん買ったらまた太る」

「太ったならまた痩せればいいじゃない」

 うんうん唸っているひみをよそに、さゆかがシェイクを買って無理やりひみに押し付けた。ひみは肘でさゆかを小突き、それでも二人は屈託なく笑いあっていた。

 ひみの前のさゆかは満開の花なんかじゃなかった。思っていたよりずっと、俗っぽい子にすぎなかった。


 淡い回想に浸る浩の耳に、鈴のような声が耳に入った。

「あら?」

 振り向くと、アッシュグレイのボブヘアーをした、端正な顔立ちの女性がこちらを眺めていた。グロスを贅沢にひいた唇が開かれる。

「ひみの……、あなた、高校時代ひみと付き合ってた子よね?」

 かつて、冴城さゆかは美しかった。そしてそれは、今も変わらないと浩はあらためて気づく。

「おれのこと覚えてたんだ」

「忘れるわけないじゃない?」

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