三千世界に鴉は在りや

朧(oboro)

三千世界に鴉は在りや

「お兄さん、結ってくれるかい」


 男は、いつもそのように声をかけてきた。



 髪結いの仕事を終え色街の門を出るともう空は黄昏模様であった。商売道具を提げた手がたちまちに冷えてゆく。首巻きに顔を埋めて家路を急ぐ。繕い損ねた縫い目から息が白く零れた。


「お兄さん、結ってくれるかい」


 声がかかったのは長屋の戸に手をかけた時だった。声の方を見遣れば、馴染みの男が微笑んだ。

「もしかして待たせたか。寒くなかったかい」

「いいや、来たところだ」

「ならいいが。さ、上がってくれ」

 男は黒い塗り下駄を土間に揃えて上がり、羽織っていた道中着を脱いだ。今日は鮮やかな浅葱の裾に白く流水と大輪の花が流れた小袖を着流している。こんな貧乏長屋には似合わない華やかな着物だ。もちろん、いま受け取った道中着も色こそ地味だが上等な生地で出来ているのが触っただけで分かる。道中着を衣桁いこうに掛け、己の首巻きは丸めて床に置いた。行灯を点けるころには勝手知ったるもので男はもう鏡台の前に座布団を引き出して座っている。

「これ、この前はありがとう」

 男が懐から出した懐紙を開くと先立せんだって髪を結った時に使った紅珊瑚の玉簪たまかんざし根掛ねかけが揃っていた。

「別に持っておいてくれてもいいんだが」

「馬鹿言え、安物じゃないだろう」

「あんたを飾るには安いさ」

ごとを言う」

 返された髪飾りを仕舞い、道具を揃えて男の後ろに膝をつく。

「で、今日はどうする」

「任せた」

「あんた、そればかりだなあ」

「お前の腕を信用してるんだよ」

 鏡越しに笑い合う。まずはいつもの通り、男の髪――縦兵庫だか横兵庫だか判然としない、なんともいい加減に纏められた洗いざらしの髪――を梳くところから始めることにした。

 手絡てがらを外し、一度すべて髪を下ろす。掌に椿油を馴染ませ、手櫛で結い跡をほぐしていく。油は僅かだが、腰まで届く豊かな黒髪はもつれることなく艶々と流れた。

「……相変わらず綺麗だなあ、あんたの髪は」


 男は自分のことを語らない。表に下げた廻髪結まわりかみゆいの看板を見たと初めてやって来たときも己の名すら言わず、あからさまに女物の生地で仕立てた気流し姿に長い総髪、どこぞの陰間か夜鷹でもあろうかといぶかったが髪に触れて違うと分かった。艶のあり滑らかな髪は手入れだけで作れるものではない。釣り合いの取れた滋養のある食事を不自由なく三度三度食べていなければこの髪にはならない。語らない故に聞くこともしないが、どこかの御大尽おだいじんに囲われてでもいるのだろうと見当を付けている。


「そうかい、俺は――」

 男が後ろざまに己の方へぐいと手を伸ばし、髪に結んだ古布ふるぎれを引っ張った。折り返して束ねていた髪が解け、背から流れて男の肩に落ちる。古布を引いた指で髪も絡め取り、男は毛束を顔の前へ引き寄せた。

「――お前のこの真っ直ぐな髪が羨ましいけれどねえ」

「離しておくれ、このままだと俺の髪をあんたの髪に結い込んじまう」

「それも面白いな」

「ご冗談を」

 けらけらと笑う男の手から髪と古布を取り返し、首の後ろで束ね直す。

 男の言う通り、己の髪は毛先まで真っ直ぐだが男の髪には緩く波打つような癖があった。けれど己にとっては日に透かすと赤錆色の混じる己の髪よりも、濡羽色に紺青をいたように深い黒をした男の髪の方がいっとう美しいと思えた。互いに無い物ねだりなのだろう、とは分かっている。


 さて今日はどうするか。

 梳き櫛を取って男の髪を梳きながら考える。初めて来た時から男の注文は二つだけだった。鬢付びんつけ油で固めるのは好まない、あまり賑々にぎにぎしく飾り立てるのは好まない。あとは全てこちらに任されている。髷の好みや簪の数まではっきりしている色街の姐さん方の髪を結う方がよほど気楽だが、男の髪を結うのは己が試されているような心持ちがする反面、楽しかった。

 先ごろ手に入れた束髪そくはつの図録を思い返しながら男の髪を分けていく。前髪は取らず、びんたぼの三つに分けた。根を手絡で仮に纏め、びんの髪を左右から耳にかぶせるようにしながら後ろに回してたぼと合わせる。最近流行り出した耳隠しという髪型は熱したこてで髪に癖を付けるそうだが男の髪には自然の波がある。男の髪の癖を消さぬよう、かといって崩れた印象にはならぬよう、慎重に櫛目を通した。びんたぼを合わせたら捻るようにしながら根の方へ持ち上げる。仮留めを解いて髪を一纏めにしたら元結もとゆいで括り、上から着物に合わせた浅葱の縮緬ちりめんを結んだ。

 纏めた髪は二つに分け、結び目の上に乗せた銀のこうがいに巻き付けていく。乙姫のように左右に輪を作りながら髪の先まで巻いたが、少し考えて一度外した。もう一度こうがいに髪を絡め、今度は先程より一巻き少ないところで巻き終えて毛先は結び目の左右から垂らした。椿油を馴染ませた指の腹で垂らした髪を撫でる。化粧もしないのに白いうなじの横に波打つ黒髪を明かりが滑って、花簪はなかんざしの下がりのように煌めいた。

 後は仕上げに翡翠の玉簪を挿し、流水に寒菊を描いた櫛を挿した。簪は翡翠の色が浅く白い筋が混じるからと値引きして売られていたものだが、男の髪に挿すと澄んだ海か氷の欠片のようでむしろ美しく見えた。

「――よし、仕上がりだ」

「ありがとう。……ああ、毎度いい出来だ 」

こうがいを使ったが、重くないか」

「それがお前に結ってもらうと、ちっとも重くない。櫛も簪も挿しているのに、自分で結った時より軽いくらいだ」

「それは良かった」

「餅は餅屋、髪は髪結いだな」

 満足気な微笑は何にも勝る報酬だった。


 結い賃よりも多い金を置いて――何度断っても櫛や簪の預かり賃だと言って聞かない――男は立ち上がる。道中着を着せ戸を開けると空は男の髪に似た宵色をしていた。

「提灯はいるかい」

「いや、月明かりで行くさ」

 白い息が流れる。

「――それじゃあ、また」

「――ああ、また」

 男の塗り下駄が夜を遠ざかっていく。夜風に軒下の看板が揺れ、乾いた音を立てた。『廻髪結まわりかみゆい』の字は日に焼けて色褪せ、板も白くささくれ立っている。

 新しい世の中になり髷を落として断髪にした男も随分と増えた。婦人の内にも家庭で結うのに簡便な束髪が流行り、髪結という仕事そのものが時代に置き去られていくのを感じていた。しかし、この看板を下ろしてしまえば、きっと己はもうあの男に会うことができない。いや、そうでなくても男が髪を切ってしまえば、会う理由は無くなってしまうのだ。

「……三千世界の鴉を殺し、」

 けれど、そも彼我の間に殺すべき鴉は在りや無しや。夜を過ごしたこともない二人ならば、それすら知る由はなかった。


 道の先に目を戻したが、男の背はもう見えない。

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