第5話

「絶対に忘れませんから…か」

 古ぼけた賞状と、放課後の微風が、僕を過去の情景へ導いた。

 僕は小説を書いていない。

 世間の体裁を気にして書くことさえできないでいる。そして、夢の中では誰かに追われている。当時の彼女が経験したことを、僕は今、経験しているのだ。

 時間は、誰にも平等に流れているというが、それは本当であろうか。時間の流れは、人によって千差万別のような気がする。僕の体はどんどん大人になるが、精神時間はいまだに子供のまま、成長していない気がする。

「僕も、君の名を忘れてはいない」

 二条恵理子という名の女の子。同じ年の女の子。同じ県に住んでいる女の子。伏し目がちな女の子。文学好きの女の子。

 …僕の心に、今なお残る女の子。

 会いたい、もう一度。

 会って、彼女と話がしたい。でも会えない。連絡先も、電話番号も知らない。彼女の情報はあのときの思い出だけ。本当にこのまま一期一会になってしまうような気がする。

 僕の前髪をゆする午後の風が、職員玄関へ抜けていく。人の気配のない廊下が、静かに横たわる。世界が僕一人になったようだった。

 そう仮定してみると、簡単に僕は孤独に支配された。今にも涙が落ちていきそうな感覚。涙は落ちないだけで、僕の中に確実に水溜りを作っていく。やがて池になり、湖になり、海になり、いつまでも流せないまま巨大化していく。

 自分の意思で涙を流せたら、どんなに幸せだろう。

 汗のように涙を流せたら、僕は楽になれそうな気がする。

 少しだけ幸せになれる気がする。

 僕はふらりと中庭に出た。

 職員室の前は、廊下を挟んで中庭になっていて、新緑が美しい。僕の高校は、校舎が二棟あり、それを結ぶ廊下が二本敷かれている。二階建ての校舎が二棟向かい合う形なので、俯瞰すれば長方形に見える。中庭は縦長で、例えとしては大げさだが、ニューヨークのセントラルパークのようだった。

 僕は、過去の情景に照らし合わせるように一本木の下の白いベンチに座った。奥のベンチには、恋人同士らしい生徒が手を握りながら会話していた。

 僕はゆっくりと目を閉じる。蝉の狂想曲が、僕の頭の中をくるくるとまわる。緑の香りをそよぐ風がつれてくる。

 心地よい感覚が、体中に浸透していく…。

 中庭を抜けていく風が止むと、僕の左手に暖かい感触が滲んできた。

「――気持ちいい」

 人肌の感触だった。

「…雅! 葉月雅!」

 僕は、驚いて彼女を凝視した。雅は瞳を閉じて中庭の空気を吸い込んでいた。肺にためた新緑の息をゆっくりと丁寧に吐き出すと、僕をその瞳に映す。

「これは、夢…?」

 僕は、周囲を見渡した。

 奥のベンチに座るカップルが、抱きしめあっている。頬を赤く染めた二人が、熱く見つめあいキスをする。何度も何度も唇を合わせ、熱く、そして、深いキスをする。あの二人はここが学校であることを分かっているのだろうか。

「総…」

 僕はぎくりとして、あわてて雅に向き直った。

「あなたが望めば、どうにでもなる」

 奥のベンチのほうから嬌声が聞こえ始めた。僕は自分のいきり立ちそうな下半身に神経がいってしまう。雅の前で、という恥ずかしさも手伝ってコントロールすることができない。

「ここはあなたの世界。あなたがしたいと思ったことを自由にできる世界」

「そんな…今までどんなに望んでも、そんなことはなかった。この世界が僕の自由になるなんて、それこそ夢みたいなことがあるはずない」

 雅は少し困った顔をした。

「時間は待ってはくれないわ。あなたが理解してくれなければ、あなたは消えてしまうことになる。総、あなたはもう感じているはず。あとは、理解するだけ」

 雅が僕の手を強く握る。

「こんな感情移入をしてはいけないのかもしれない。けれど…」

 雅のためらいは、無遠慮な声にさえぎられてしまう。

「…そこまでにしてもらおうか」

 夢の中に現れた黒いフードの男が、奥のベンチの近くに立っていた。二人の男女が抱き合う隣で、不敵な笑みを浮かべる。

「これがお前の望んでいることなのか。さすがはキッチュだな、とんだまがい物だ」

 低くこもった声だが、そこに秘められた気勢は鋭い。

「雅、そこをどけ」

 雅が初めて見せた苦渋の表情だった。僕の前に毅然と立っている彼女を見ると、僕はとても懐かしい感情に陥る。いつぞやも同一の感情を抱いたことがあった。

 この感情は何なのだろうか。

「お前が俺に言ったことを忘れたのか」

「雅、あいつは…」

 黒いフードの男と雅に、なんらかの関係があることが信じられなかった。

「総、これはあなたにとって不可避の出来事。私があなたを選んだ瞬間から、宿命づけられてしまったことなの。でも…、私はあなたを選んだことを後悔し始めている。自分でも分からない、すべてを知っているはずなのに」

 雅は僕を向き、黒いフードに背を向ける。そして、優しく微笑んだ。

「覚えておいて、この世界はあなたの望むようになる。あとは、理解するだけ」

 フードの男が、雅の行動を阻止しようと突進してくる。

「雅!」

 男は叫んだ。大地を力強く蹴った途端、空中高く舞い上がり、コートがはためく。その手には、いつの間にか長槍が握られていた。

 僕はまるで映画を見ているような気分だった。

 ありえない跳躍力、いつの間にか出現した長槍。

 僕は震えるような恐怖に襲われた。恐怖が全身に充満してしまったのか、体は反応しない。

「総!」

 雅は僕の手をぐいと引く。

 重力加速を得た槍は、僕のいた場所を深々と突き刺した。中庭の芝がはげ、槍がほぼ垂直に突き刺さっている。男は、槍を握り締めたまま、雅を睨みつけた。フードで顔は見えないが、僕はそうだと確信した。

「総、来て!」

 雅は僕の手を離さない。

 中庭を出て、職員室前の廊下を行く。フードの男は、槍を引き抜く動作も見せず、僕らのほうへ歩み寄ってくる。

 ちらりと見えた奥のベンチでは、僕たちの騒ぎなどまるで存在しなかったかのように、カップルが蜜のような行為に耽溺していた。

「何なんだ、一体全体何だって言うんだ!」

 僕の声に応えるかのごとく、廊下の窓が吹き飛び、職員室の壁に突き刺さる。廊下は銀色のかけらで埋め尽くされた。きらきらと芥子粒が舞う中、フードの男は廊下へ着地した。

「どうやら、運は俺に傾いているようだな。キッチュは理解する気がないらしい」

 雅の歯軋りが聞こえてきた。

「私は、本当はこんな風にあなたをかばってはいけないはずなのに。でも、私はそれに逆らうしかなかった。私のどこかに齟齬が生じた。やはり、世界は欠陥しか生み出せないのね」

 男が両手を広げた。そして、何かを持ち上げるようなしぐさを見せる。すると、破砕された窓ガラスの破片がいっせいに空中浮遊し、ゆらゆらと漂い始めた。

「キッチュにはできないだろう。所詮、まがい物、だからな」

「何を言ってるんだ。ちゃんと分かるように説明してくれ!」

 男が大きく振りかぶった。

「世界って何だよ!」

 ガラス片が身構えるように牙を剥く。

「キッチュって、まがい物ってなんのことだよ!」

 僕にその切っ先を集中させているのが分かった。

「これだけは教えてやる」

 きらめきが、鮮血を求めて男の指示を待つ。

「これは、俺とお前の世界なんだ」

 男が腕を大きく振った。獲物に向かうハイエナが、僕に大挙して押し寄せる。

 僕は、目をつぶった。恐怖と、非現実的な出来事と、不理解な問題、そのすべてにまぶたが押しつぶされたから。終わりの予感を覚悟した。

 ――絶対に忘れませんから。

 僕は暗闇の中でその声を聞いた気がした。

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