第4話
授賞式は、ただ表彰されれば終わり、というものではなかった。
授賞式はもちろんのこと、受賞者同士のレクリエーション、審査員との懇談会、文学の活動状況を話し合う会合、有名小説家の講演会と、パネルディスカッションなど、その内容は一泊二日にしては過密な日程だった。
この式典のテーマそのものが、次世代の文学を担う、という錚々たるものである以上、それも仕方がないのかもしれなかった。
僕は、引率の文学部顧問の先生と一緒に、会場へ入った。
「篠崎、実はな、同県でお前の他にもう一人受賞している生徒がいるんだ」
「そうなんですか」
僕には興味もないことだった。自分の学校以外に知っている人間などいないのだから、他県も同県もさして関係のないことだからだ。
「先生は、後ろの席だからな。主賓はお前たち生徒だ。緊張せずにな。後ろからしっかり見ておいてやるぞ」
僕は、唇を引き結んで首肯した。移動の電車ではまったく緊張していなかったのに、いざ会場入りすると、体の節々から緊張が染み出してきて、関節の動きをぎこちなくさせた。歩くたびに関節のきしむ音が聞こえるのだから、相当なものだった。
席に座って開式を待っていた僕は、ついに緊張に耐え切れず、柄にもなく隣の生徒に話しかけた。
「君は、どこの出身?」
生徒は小さい声で答えた。おそらくは、僕同様緊張しているらしかった。
「福島、です」
僕と同じだった。ということは、先生が言っていた同県のもう一人の受賞者というのは…。
「あなたは、どこですか?」
「あ、僕…俺も、福島なんだ」
「じゃあ、同じなんですね。先生から聞いてはいたんです。同県で二人の受賞者は珍しいことだって」
「へぇ、そうなんだ」
僕は知っているのにもかかわらず、知らないふりをしていた。いや、ふりをしていたのではなく、正確に言えば、緊張していたから返答の内容を噛み砕けず、適当に返していたのだった。
「あの…『夢と現実』を書いたんですよね」
それは僕の書いた小説だった。内容は、夢の中で本当の自分と出会い、それを認め、理解することで現実の自分を変えていく、というものだった。
「私、あなたの小説を読んだとき、とても感動したんです。共感、という言葉では済まされないくらい、大きな何かをもらったような気がするんです」
恥ずかしそうに顔を伏せながら、小さな声で話す。周囲の雑音に簡単に消されそうなほど、弱々しい声。
「文学部らしくないですよね。気持ちをうまく言葉で表現できないなんて」
「そんなことはないよ。むしろ、日常に溢れているのは表現できないものばかりだよ。それを何とかして言葉にして伝えるのが、僕ら文学部であり、文学そのものなんだよ」
僕は少しだけ熱く語っていた。椅子から身を乗り出しかけていたので、慌てて座りなおす。
「あの、篠崎君は…」
初めて僕のほうにしっかりと顔を向けて彼女は聞いてきた。あどけなさで一杯の、まだ大人への階段を上り始めていない相貌、はにかむような表情。
「俺、と、僕、を使い分けるんですね」
僕はおそらく赤面していたであろう。
自分の顔を見ることはできないが、顔が急速に火照りだし、汗が体中に吹き上がるような状態に突入しているのが、嫌というほど感じられた。
気が動転した僕は、とにかく、話題を変えようと、パンク寸前の頭で狂ったように考えていた。
ちょうどそのとき、役員らしき人たちが入ってきた。会場が、一気に静まり返り、いよいよ始まるのだな、と誰もが同じ気持ちになっていた。
式は、淡々と進んでいった。賞状が授与されるたびに拍手が起こるところは、すべての式に共通していた。その中でひとつ驚いたのが、隣に座ったあの少女が最優秀賞を受賞していたことだった。
少女は名前を呼ばれて立ち上がると、登壇していった。
決して綺麗な子ではなかった。明らかな童顔で、頭髪も整えられておらず、後れ毛が何本も風に揺れていた。伏し目がちで、顔も色白で、健康的とは言えなかった。返事の声もか細く、どこかおどおどしているようだった。
「さっきは、緊張しすぎて、階段でつまずいてしまいました」
やはり伏し目がちで、恥ずかしそうにサラダをフォークでつついていた。
僕たちは授賞式を終え、昼食をともにしていた。引率の先生は、先生方同士で食事をし、生徒は生徒同士で食卓を形成していた。
「見ていて心配したよ。転げ落ちるんじゃないかと思った」
さらに伏し目がちになるのは、恥ずかしさからか。
「あ…冗談だよ」
「いいんです。事実なんです。私、何かを書くことでしか、うまく伝えることができない人間だから。リアルタイムで何かをしようとすると必ず失敗してしまう。でも、文章を書いているときは、冷静に頭の中で考えてから書くことができる。思った通りのことを丁寧に伝えることができる。こういうのって、人からは敬遠されてしまいますよね」
僕は、昼食をとり始めてから、まだ一度も彼女と目を合わせたことがない。
「自信がないの? 自分に」
「自信なんて…そんなもの、ないです」
「賞をとったことは? それも自信にはならないの?」
「私には、これしかないんです」
「それだけで十分じゃない。俺だって、これ以外には何もないよ。他人から嫌悪されて、それでも書いて、書けたとしても、それは自己満足。こうして評価されたからいいものの、されなかったら意味すらないのかもしれない。だから…」
壁のようなものだった。薄々感じていたことだから余計に悔しかった。
「同じ、ですね」
「…そうだね」
昼食は、食べた気がしなかった。胃に食物が入っているような気がしない。満腹感はもちろんのこと、何を食べたかすら思い出せないほどだった。
僕たちは、どうして小説を書くことになったのか。
何を伝えたいのか。
誰に伝えたいのか。
書けば何かが劇的に変わるのか。
明確な答えなどなかった。
書くことが自分の存在証明になる。
それは建前で、本音は、誰かに評価されることで嫌悪する人たちを見返したかった。そんなことだけを考えていたのかもしれない。はっきりと口に出さないまでも。
式が終わってからも、こうして彼女と話す機会は何度かあったが、明るい話題になることはなかった。それは、二人が見る未来が前途多難であることを、計らずとも予期していたからだった。冷静に分析してしまうことに自己嫌悪を抱く。能天気に未来の展望を眺めてみたい。
それができない二人が、賞状を受け取ったのだった。
翌日、全ての式が無事に終了してから、帰宅の途につく前に少しだけ時間ができたので、食堂で彼女を待っていた。朝食に訪れる彼女を待っていた。
彼女に会っておきたかった。
「あの…」
僕たちは、最後に宿舎の周りを散歩することにした。
鳥の鳴き声がどこからともなく聞こえてくる。雲が青空に映えていた。
僕は、黙って足元に生える草に目を落としていた。
「夢を見たことがありますか?」
「夢?」
「あ、夢といっても特定の夢なんです。必死の思いで何者かから逃れる夢」
「つまり、追われる夢ってこと?」
「そうです」
僕は、一本木の下にある白いベンチを指差した。木漏れ日がベンチを斑模様に染めていた。
彼女は座りながら、口を開く。
「夢の中にいるときは、それが現実であって、夢を夢だと思うことができない。夢から覚めて、そこで初めて『何だ、夢か』って。だから、私が夢の中で追われているとき、私は殺されるんじゃないかって本気で思っているんです」
僕はベンチの背に体重を預け、天を見上げていた。光の揺曳は、僕の眼球を刺激した。
「篠崎君が書いた小説を読んで、私、変われそうな気がするんです。夢の中の自分を変えることができれば、現実での自分を変えることができる気がする。安易ですけど、まずはそこからはじめようと思うんです」
木漏れ日に目をつぶり、太陽の暖かさに身をゆだねる。血液に熱が浸透して全身を回る。
僕は別世界にいるようだった。
「あの」
目を開けるとベンチには僕一人。彼女は目の前に立っていた。
「ありがとうございました。私、篠崎君に会えて本当に良かった」
深々と礼をした。髪の毛が鞭のようにしなる。体裁を考えない純粋な感謝。
「私、変わります。変わってみせます」
僕を真摯に見つめていた。そこにいるのは、伏し目がちの女の子ではなかった。大人の階段を上る決意をした、強い女性だった。
僕は、そんな彼女に何も言えず、ただベンチに体を吸い寄せられていた。これほどまでに不器用で、行動力に欠ける自分に腹が立った。
「さようなら」
もう一度深々とお辞儀をした。彼女の背が遠ざかっていく。見えない階段を駆け足でのぼっていく彼女。彼女としか言えないのは、彼女の名前を知らないから。
自己紹介もしていない。
彼女を知るために開けなければいけないドアすら開けていない。ドアノブすら握っていない。
もう会えないかもしれない。
それは嫌だった。それだけは嫌だった。
「僕は、まだ君の名前を聞いてない!」
大声で彼女の真っ直ぐな背中に届ける。振り返った彼女に、僕は胸が高鳴った。
「授賞式のとき寝ていたんですか? 私の名前は、二条恵理子にじょうえりこ。恵理子って呼んでください!」
両手でメガホンを作って僕に伝える。
周囲の人たちが一様に不思議がっていたが、それをはねつける意思を、勇気を、彼女は手に入れたようだった。木陰にいる僕と、太陽の袂にいる彼女。その対比が、まるで陰と陽の対比のように僕は感じた。僕が太陽の袂にいたら死んでしまう。
錯覚に過ぎないが、彼女と僕とは、もうそれほどの差ができていた。
「そして、あなたの名前は、篠崎総」
スカートが微風にひらひらと舞っていた。
「絶対に、絶対に忘れませんから。だから、篠崎君も…」
はにかむ少女は、また大声で。
「総も、忘れないで!」
そうして、僕はそれ以上何も言えないまま、二条恵理子を見送ったのだった。
当然のことながら、恵理子、の名前を口に出すことはなかった。
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