第4話 これは、犬 の 耳 で は な い

引きこもりなんていうのも他人から見ればどうとでもない話で、話題の一つとして消費されて終わるようなことでしかない。その原因が教師に囲まれて人格を否定されるようなことであっても、親に頭を押さえつけられて土下座を強要されるようなことであっても。そして、その真実が誰にも信用されなくとも。人間は自分にしか興味がない。自分に関わる事にしか興味がない。他人を思いやることができる人間なんて一握りで、その多くも儚い自己犠牲のもとに成り立っている。みんな自分のことに手一杯なんだ。他人の事なんて、どうでもいい。

「そうじゃな。お主の言う通り聖人君子なんていうのは一握りしかおらん。他人の事を自分のように考えられる人間もの。しかしなお主」

なんだよ

「世の中の全てが敵でない事を、ワシは覚えていて欲しい。神社に長いことおるといろんな人間がワシのもとにやって来る。中にはワシに家族を殺してくれと願う奴もおった......悲しいことじゃ。とても悲しいことじゃった.......」

紬の語気が弱くなる。

「じゃが、皆の幸せを願うものも確かにおった。誰かのために願うものもおった。ワシはそういった思いにもちゃんと触れてきたのじゃ。それにな、お主」

膝に座る紬が振り向いて俺に優しく笑いかける。

「少なくともワシはお主の味方じゃ。お主が悲しい時はワシも悲しい。お主が嬉しい時はワシも嬉しい。それは心がリンクしているだけだからではない。お主は優しい奴じゃ。こやつ......九条が嬉しそうにしていたのを見てもそれはよう分かる。もちろん道理に合わないようなことをすれば遠慮なくぶん殴るがの」

......。神様は、紬はそう語る。

「そして自分を愛すんじゃ。しからば他人も愛せよう」

自分を愛す。母親にすら愛されなくなった俺が、自分を愛せるのだろうか。こんなになってしまった俺が、俺自身を愛するなんてことはできるのだろうか。引きこもりの高校生、社会的に見たら俺の存在なんて終わりに片足を突っ込んでいるようなものだ。そう思う俺を、そんな俺を、俺はまだ愛せそうにない。

「ゆっくりでよい。少しずつ今の自分を受け入れるんじゃ。まず今日からの、ワシもお主を誉めてやろう。今日なんて打ってつけの日じゃ! 褒めることだらけじゃからの!」

紬は優しく笑ってそう言った。平日昼間、乗客がまばらに座る中で俺と紬と九条さんは横に並んで座っていた。ブックカバーがかけられた本を九条さんは熱心に読んでいた。凛と背筋を伸ばし、ページをめくるその所作はどこかのお嬢様と言われても差し支えが無いほどに美しく洗練されていた。後で何を読んでいたか聞いてみよう。そんなことを思いながら窓の外に視線を移した。公園で一悶着あった後、左腕を庇いながら駅に向かった。高校までは電車に乗って15分、そしてそこから歩いて20分ほどのところにある。今は電車に乗って14分ほどで、つまりもう少しで駅を降りなくてはいけない。

「ところで、お主」

目の前で紬の耳がぴょこぴょこする。肘をついて頬杖をする紬が俺に話しかける。

「ワシはなぜお主の膝の上にロックされておるのじゃ」

紬は今俺の膝の上に座っている。そして紬が動けないように俺は両手で紬を抱えている。紬の姿が見えていれば仲の良い兄弟に見えるかもしれないが、これには理由がある。......なぁ紬、俺たちどこで降りるか覚えてるか?

「次の駅じゃろ? 何度聞くんじゃ」

ああそうだ。3回も言ったからちゃんと覚えてるよな。

「うむ!」

じゃあなんでさっき仁川で降りたんだよ!

「あー......それはじゃな、ほら見てみい。遠くに大きな建物がの」

降りちゃダメって何度も言ったのに! 普通に降りようとしてたじゃねぇか。

「なんか凄い建物があったんじゃもん! 何じゃあの建物は! ひょっとしてあれか、ディズ」

オーケー違うからそれ以上の言葉は口にするな。

「むう......いいじゃろ少しぐらい......」

全く紬の行動には目が離せない。乗り換えの時もしっかりついて来てと言ったはずなのに改札に降りて行こうとするし、電車内では興奮して走り回るし挙句一個前の駅で降りようとするし......ばあちゃんちの柴犬思い出すな。リードを外した瞬間に田んぼへと走り抜けていくワン太郎を脳裏に浮かべる。こいつもリードとか付けた方がいいんじゃないか......

「ワシは犬じゃないわい!」

耳ついてるじゃん

「これは、犬 の 耳 で は な い」

一体なんの耳なんだか......。それにしても中学生じゃないんだって言うならもう少し落ち着いてくれても

「嫌じゃ〜、外を歩くなんて数百年ぶりじゃからの!」

紬.......まあ......楽しいならそれでもいいか。どうせ周りから見えてないんだし。数百年も同じ場所にいたなら、少しぐらい。

「そうじゃ。同じ場所にいてばかりじゃと気持ちまでもが停滞してしまうからな。ワシは今楽しい! もっと歩こうぞお主も!」

どこからそのパワーが湧いてくるのかと不思議に思うが、そこは神様的な力が働いてるのかと納得する。電車のアナウンスが鳴る。そろそろ降りるぞ紬

「行こっか、赤坂くん」

横に座って本を読んでいた九条さんがパタンと片手で本を閉じる。俺は紬を膝から下ろし立ち上がる。ホームから流れ込んでくるツンとした寒さに身を投じる。ゾロゾロと降りる一団の中には同じ制服の学生がいた。九条さんがエンジ色をしたリボンをキュッと結び直す。それを見て俺もネクタイを正す。

「寒いねえ......赤坂くんは寒くない?」

九条さんが両手にハーっと白い息を吹きかける。

「少し寒いぐらいかな。けど今は結構あったかいかも」

さっきまで紬がずっと近くにいたのでその熱が体に残っている。紬は狐火を出せると言っていたが、ひょっとすると炎を操る神様だったりするのか?

「どうして?」

九条さんが疑問符を頭に浮かべる。

「え、あいや、電車のヒーターが直撃しててさ、それで足元が暖かいというか熱いというか......」

「急に早口になるねえ」

九条さんがニヤニヤしている。慌てる俺を見ていて楽しんでるようにも見えるが......まあ気のせいだろう、多分。

「本当に何でもないよ」

「何でもはあるがの」

お前は黙っててくれ。

「そっか」

そう言って九条さんは微笑んだ。そして、左手を俺に差し出して?

「えっと?」

俺がキョトンとしていると、九条さんが自分の出した左手を見てみるみる顔を赤くしていく。そして

「違う.......! これは違うの......!いつもの癖で.......」

そう言って手をパッと引っ込める。ええと......違うならそれでいいんだが。

「恥ずかしいところ見られちゃった......今のは忘れて......早く行こう......もう」

そう言って九条さんはスタスタと改札へ歩いていってしまった。何だったんだ今の?


ここから20分間ひたすら歩いていかなくてはならない。平坦な道であるならまだしろ坂道があるのが辛いところである。駅から住宅街を抜ける通学路には通常時の登校ほどではないにしろ、そこそこの学生がいた。その中には同級生と思わしき人間もいたが、見て見ぬ振りをする。あちらからも気付かれないように少しマフラーに顔を埋める。隣にいる九条さんはどこか挙動が不審で先ほどのことをどうやら気にしているようだった。会話もなく、ゆっくりと歩いていく。友達と談笑しながら進む者、一人で参考書を片手に行く者、各々が各々の表情をして道を歩く。テストが憂鬱だとか、冬休みが楽しみだとか、その前にはクリスマスがあるじゃんとか。そんな話をしながら進んでいく。俺には心底関係の無い話だ。ふと、九条さんにはそうした予定があるのかと益体もないことを思った。知ってどうするんだ。そんなことを聞けるはずもない。黙って道を歩いて行く。

「......」

「......」

沈黙が辛くなってきた......

「九条さん」

「は、はい。ななな、なに? 赤坂くん?」

生まれたての子鹿のような震え方をする九条さんに何を話そうかと逡巡する。何を話せば......さっきの事は聞けないし、ええっと

「あっ」

九条さんが読んでいた本が浮かんだ。ブックカバーがかけられていて内容が分からなかったあの本。どんな本を読んでいたんだろう。

「さっき電車で読んでた本。どんな本なの?」

「え、本? ああ、これは......」

そう言って九条さんはスクールバックから電車の中で見たブックカバーが付けられた本を取り出した。そしてひょいとブックカバーを外した。『創作少女』と桜色で美しく彩られた題名と桜の木の下で本を読む制服の女の子が描かれていた。

「綺麗だ......」

思わず声が出てしまうほど、とても綺麗な表紙だった。

「この本......好きなんだけど表紙が二次元の女の子だから......話はすごく面白いんだけどね」

そう言って九条さんはページをパラパラとめくる。ところどころに表紙の女の子と男の子が描かれたイラストが出てくる。

「恋愛小説?」

九条さんは無言で首を振る。

「どんな話?」

そう聞くと九条さんはどこか嬉しそうな、しかしどこか切なそうな顔をした。

「......嬉しい」

九条さんがポツリとつぶやいた。そして

「少し長くなるかもだけど......赤坂くんはそれでも、いい......?」

両手で本を抱えて、泣いているような笑っているような表情でそう言った。......この会話は知っている。一年前は何気ない日常だった、そんな会話。こんな風に彼女はいつも自分が読んでいる本について俺に語ってくれていた。図書室に行くたびに違う本を持つ九条さんに声をかけていつも“少し長くなるかも”と前置きを置いて。長くなる。上等さ、まだ学校までは道が長い。

「うん、聞かせてほしい」

そして九条さんはゆっくりと語り始めた。誰かから指を差されたかもしれない、周りの誰かが俺の名前を口にしたような気がする。しかし、そんなことは気にならない。九条さんが話す本の内容と、彼女の楽しそうな顔だけが今は目の前に見えていた。

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神様、かく語りき 芳乃しう  @hikagenon

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