第3話 後悔して、悲しくて、悔しくて

いつの間にか時計の針は8時半を指していた。家の中から音が消え、人の気配はもない。いつもなら冷蔵庫からエナジードリンクを掻っ攫って本格的にパソコンを開いてオンラインゲームの世界へ旅立つ時間だが、今日は違った。二人して炬燵の中でぬくぬくとして、今日はもうこのままでいいんじゃないかと思い始めた頃紬がのそのそと炬燵から出てきた。

「いくぞ、お主。もう家の中に人はおらんじゃろう」

えーもう少しだけ、温いよ炬燵の中。

「そんな事は言われなくともわかっておる! しかし......出なくてはならぬ......この温さから出なければならぬ......」

郷里から上京する若者のような苦悶の表情を浮かべながら紬はダッフルコートに身を包む。そんなにしんどいなら出なければいいのに。

「いいや、出るんじゃ。ほら早く出てこんかい。コンセント切断するぞ」

分かったよ......炬燵から出てブレザーを着る。その上からコートを着、手袋をつけ、マフラーを首に巻く。そして部屋の鍵を開ける。冷蔵庫に入っているお茶を取りに行くためにリビングへ向かう。誰もいないリビングには陽の光が眩しいぐらいに入り込んでいた。大理石の白い床を照らし、ガラス製の机の中を通り抜け、観葉植物を明るく照らしてた。父さんがつけっぱなしにしてたであろうテレビを消して、ダイニングテーブルの上に余っているパンを一口だけ齧る。朝は清々しい。無条件で気分が晴れるような、そんな感情にさせてくれる。引きこもりの現実をまざまざと突きつけられるような時間の中でも、この瞬間だけはどうも嫌いにはなれなかった。

「綺麗じゃの」

紬が軽く呟いた。俺が齧ったパンにバターを塗りパクパクととそれを食べている。

「そろそろ行くか」

今から行っても確実に始業時間には間に合わない。しかし、その方が都合がいい。授業の途中に入っていけば、何かを言われる心配もない。それに帰りたくなれば帰ればいい。またいつもの生活に戻るだけで、何も悪くはない。でもだったら、なんのために行くんだろうな、俺は。

「ワシがお主を救うんじゃよ。それだけじゃ」

マグカップに入った牛乳をごくごく飲みながら紬はそう言った。

「準備万端じゃ、行くぞ!」

「......分かった」

冷蔵庫から買い置きしているペットボトルのお茶を取り出す。意味もなく、少しだけ振ってみた。緊張しているらしいことに気づいたのは、その時だった。


「電車の存在はもちろん知っておる。乗った事はないがの」

出勤するサラリーマンの一群と共に駅までの道を歩いていく。

「どうにも最近の人間は皆楽しそうではないようじゃのう。誰も苦悶の表情、負のオーラを感じる。ワシが生まれたばかりの頃は今より豊かでなかったがの、皆勤勉でそれでいて毎日楽しそうに稲作をしておって......」

あの

「何じゃ?」

少し静かにしてもらっててもいい?

「嫌じゃ。黙ると死ぬからな! ワシは」

そう言って紬が俺の周りをぴょんぴょんと跳ね回る。他の人間に見えていないという事実は意外にストレスだったようで、脳が疲れるのをひしひしと感じる。神経を集中させなければうっかり声を出して会話をしてしまいそうだから、なるべく大人しくして欲しいんだが。

「嫌じゃ〜♪」

そう言って目の前の社会人2年目ぐらいのサラリーマンの頬をツンツンしている。もう口にガムテープでも貼った方がいいじゃないかこいつ......この時間だとホームルームが始まっている学校がほとんどであり、学生は見えない。当然、同級生と会う事もなく道を進んでいく。この道を歩いたのも1年ぶりぐらいだけれど、体はしっかりと道筋を覚えているようだった。

「早くせんと置いて行くぞ!」

紬が振り向いて満面の笑みで笑っていた。電車の乗り方も分からんだろうに、本当に元気な奴だなこいつは。なぜかは分からない。親戚に年の離れた従兄弟でも居たらこんな感じなのだろうか。自然と口元がニヤけてしまう。隣を歩くサラリーマンが何だこいつという顔をしている。こんなうちにもサラリーマン集団の合間を縫って進んでいく紬を見失わないように、少し歩を早める。しかしその一歩を踏み出したところで、思わぬストッパーがかかった。

「赤坂くん......?」

肩への柔らかい衝撃と共に、震えるような声が俺の名前を呼んだ。鼓動が早くなる、息が細くなる、手が震える。1年ぶりの他人との会話だからとかじゃない。明確に、振り向くまでもなく、その人物は俺の知っている人だった。

「赤坂くんだよね......? そうだよね......振り向いてよ......」

肩が揺さぶられる。震える右手が、不意に掴まれた。どこに行っていたのか、どうやって戻ってきたのか、紬が僕の手を掴んでいた。

「......変わるか? お主」

紬の目が一瞬俺の背後に向く。鋭い目つきで、野良猫が威嚇しているようでもあった。いや、いい。

「うむ、では先に行っておるぞ」

え、いやいてくれるんじゃ。

「後でゆっくり話しておくれ」

そう言って、僕の手をゆっくりと離して人混みの中に消えていった。深呼吸をする。大丈夫だ、この人に俺は何もしていないし何もされていない。自分にそう言い聞かせてゆっくりと振り向く。

「......やっぱり赤坂くんだ......。覚えてる? 図書委員の、九条真希だよ......久しぶり、赤坂くん......」

九条真希。覚えていないと言えば嘘になる。特徴的な黒縁の眼鏡に、長い髪。そして、震えるような声。

「私ずっと心配で......あの時私が止めていられたらって......後悔して、悲しくて、悔しくて......それで......っぐ......」

そういうやいなや九条さんは泣き出してしまった。え、いやちょっと待って。

「え、待って九条さん。一旦落ち着こう」

「落ち着けないよ! 全部私のせいなの......そうなの......赤坂くんは何も悪くないから! 私の......私の......」

その場で崩れ落ちて九条さんが泣き出してしまった。紬、ちょっと来てくれ緊急事態だ。

「何じゃ、って何じゃこりゃあ! 何を言ったんじゃお主!」

「何も言ってないよ!」

とりあえず、ええとどうしよう。

「落ち着け、こういう時には男が女をお姫様抱っこするのが習わしというものじゃ」

お前は何言ってるんだよこんな時に!

「にしても、こやつが錯乱しているのを引き戻さなくてはいかん。往来で危ないじゃろう、手でも引っ張るのじゃ」

そうだな......ええと

「立てる? 一旦近くで休憩しよう」

そう言って右手を差し出す。涙で濡れた九条さんが俺を上目遣いで見上げる。

「うん......ありがとう、赤坂くん......ごめんね......」

俺の右手を九条さんが受け取る。紬に頬をツンツンされていた若いサラリーマンが満面の笑みでウインクとサムズアップを俺に向ける。そういうのじゃねぇよ! 周りがにわかにざわめき出したところで近くの公園へと避難することにした。


「ごめんね......ありがとう、赤坂くん......」

自販機で買ってきた缶コーヒーを両手で持ちながらベンチに座る九条さんはそう言った。俺は九条さんを見下ろすような形で前に立っている。九条さんは先ほどより幾分か落ち着いたようで、もう涙は見えない。

「全然大丈夫だよ。それより、九条さんも平気?」

俺も、緊張はもうない。九条さんの介抱で精一杯だったというか、緊張する余裕すらなかった。平日の公園は人もまばらで、近くの保育園の子供の集団とご老人が数人いるだけだった。紬は子供に混じってブランコで遊んでいた。あれポルターガイストだよな......

「うん......私はもう平気。それより赤坂くん.......一年振りだね......覚えてる? 私のこと」

「......もちろん、それより遅刻とか」

「ううん、それは大丈夫。文系クラスのテストは午後だけだから」

九条さんは首を横に振ってそう言った。核心的なことに触れられなかった。彼女は日常を生きている。普通の学校生活を送っている。なるべく深い話もせずに行くべきなんだ。というか、テストって。

「ああそういえばこの時期テスト期間中か......」

12月も半ば、二学期の始業時期が少し遅い我が校では期末テストはこの時期に行われる。去年は文理でクラス分けはされていなかったが、内部進学が9割を超える我が校といえども、行きたい学部に沿った文理選択がされる。テストと知っていたなら今日じゃなくてもよかった気もするが。

「知らずに来てたんだね......そういえば赤坂くんは、文系だったりする......?」

九条さんがモジモジとしながら恥ずかしそうに俺を見上げる。どことなく気恥ずかしさを感じて目を逸らしてしまった。

「え、もしかして違うの......?」

「いや、そういうわけではなくて......」

説明するのももどかしい......しかしどうだったか。元々は理系だったはずだ。入学する前から医学部を目指していたし、考えるまでもなく理系に進むことが決まっていた。だが

「進路選択の紙、出してないから分からん」

冬休み後に出す進路選択の紙を去年の俺は出していない。去年の期末テストの後に、もう俺は学校に通っていなかったのである。

「そっか.......」

九条さんが残念そうに俯く。

「留年してないのは分かるから、俺もおそらく文系。多分一緒だよ」

これは推測だ。だけど、俺が留年や退学に進むような道を母さんは選ぶとは思えない。どうにかしてあの学校に俺を留めさせようとするだろう。

「そっ......かぁ! 嬉しい......」

九条さんが言葉のまま嬉しそうに笑う。そして缶コーヒーを置いて、急に立ち上がった。そして反応する間もなく俺の両手を掴んだ。

「なっ」

温かい柔らかいちょっと待ってこれは一体。

「嬉しすぎて今日のテスト休んじゃいたいぐらい!」

それはいかんのでは。

「それは行った方がいいんじゃ......」

「それぐらい嬉しいの! だってあんなことがあって......急にいなくなっちゃうんだもん......」

“あんなこと”。九条さんはそう言った。違うクラスだった彼女ですら知っている出来事。その言葉の中には様々な意味が含まれている。嫉妬、嫌悪、誤解、もつれ、傲慢、正義、合理。九条さんは優しい。だからきっと、彼女の言葉の中にはそんな意味は含まれていない。きっとどこまでも優しい。

「ありがとう、九条さん」

「......全然いいよ、赤坂くん」

そう言って九条さんは俺の手を離した。ぐいっと缶コーヒーを飲み干して、伸びをする。これも何かの縁なのかもしれない。そんなことを唐突に感じた。図書館で自習をしていた一年生の時、九条さんはいつもカウンターに座っていた。ページをめくる所作がとても綺麗で、見惚れてしまったのを覚えている。きっかけはなんだったかもう覚えていない。けれども行くたびに話すようになって、勉強の息抜きになる本を貸してくれたり、そうでなくともなんでもない会話をするようになっていた。それはとても大切な日常の一部だった。それが一年ぶりの登校で出会うなんて

「何か運命的なものを感じるよなぁ」

「え?」

心の中で呟いたはずが声に出ていたらしい。

「いや、なんでもない」

「えー今のはなんでもあるって!」

「本当になんでもないから......」

「むう......絶対今のは何かあるやつじゃん.......」

お菓子を買ってもらえなかった子供のように頬を膨らませて九条さんはそう言った。

「お主もエモいのぉ」

いつ戻ってきたんだよお前......。ブランコから瞬間移動したとしか思えないほどの速さでいつの間にか紬が俺の傍に立っていた。

「結構前からおったぞ? お主がこやつに手を握られて心拍数その他ドキドキの感情が増していった時にからの」

おい

「ふふふ、若いというのはいいものじゃのう」

こいつ......ははっ、見た目中学生がそれを言うのか。

「おらぁ!」

「くはっ!」

ノールックからのドロップキックが左腕に飛んできた。肘の関節あたりがものすごく痛い。痛い、何は無くとも痛い。なんで俺だけこんな仕打ちなんだよ。急に左腕を抱えて膝をついた俺を九条さんが心配そうに見る。

「大丈夫!? 赤坂くん! 何かすごい音が聞こえたのだけれど......そんなふうに左腕を抑えて......中二病?」

「......違う!......断じて違うから!」

そうだ、九条さんってこういう人だった......。

「因果応報じゃの!」

やるにしてももう少し力加減しろお前も......。腕を抑える俺を見下ろすように紬が腰に手を当て満面の笑みで俺を見下ろす。九条さんが心配そうに俺の左腕をさする。冬の朝、雲ひとつない快晴の空。鮮明な光が周りを包み込む。子供が遊具ではしゃぎまわり、お年寄りがゆっくりと景色を眺める。その近くで猫耳の神様が仁王立ちをして、女子高生が男子高校生を介抱する。言われてみればなんともない日常で、俺はこれから学校に行くのだから何を思う必要もない、身構える必要もないはずだ。しかし、今はしばし誰かに肩を貸してもらいたい......できれば物理的に......

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