最終話 よくばって食べるところが、僕は好きだよ!

カランカランと便所サンダルが泣いていた。

あの後、想い人の家をすっと後にして、どれくらい経ったのだろうか。

危機察知の一種か何かで、無意識に街頭時計が視界の端に映る。

結構無駄に歩き回っていたせいか、時間はどうやら押し気味だった。


しかし、直延は走らなかった。走れなかった。


心にソフトボールくらいの穴が開いて、ただ惰力で足が動いているだけであった。


カランカランと便所サンダルが、ものさびしく泣いている。


あの時、冷静な判断ができなかった。勢いだけで来てしまったが、その内で燃える彼女への思いと覚悟は間違いなく本物だった。

しかし、記憶にある……クラスでモテなかった男子筆頭の直延に、あの時向けられた笑顔と、花川くんに向けられた笑顔は全然違っていた。


タイムマシンをもってしても、どうしようもなかったのだ。


「僕……なにしてんだろ‥‥…ほんと‥‥…何がしたかったんだろう……」


ネクタイという首輪によって、来る日も来る日も居たくもない場所に繋がれて、妻とは些細なことで喧嘩をしてしまい、おまけに宇宙人に遭遇して、はるばる過去にまでやって来た。

告白をやり直すのだという。妻のある身で。


恥ずかしくって、情けなくって、直延の中で、何が大切なのか分からなくなってしまっていた。


「……このまま……時間が来て、このまま……帰らなかったら…どうなるんだろう……」


待ち受けるのは死か。死よりもおそろしい何かか。両親や姉弟、友達はみんなどういう反応をするだろうか。


まつりは……悲しむのだろうか。


「悲しんでもらう資格なんて、ないよな。いっそこのまま‥‥…」


ズシャッ‥‥…

やけに鈍い音がした。

前のめりにつんのめり、派手に転んだ。

直延のシャツに、雨水がしみこんでいく。

そこで初めて気がついた。

視覚的にも、聴覚的にも、触覚的にも……かなり雨が降っていた。


「また……ビシャビシャだ。……はは……は…」


染み込む雨も、降りしきる雨も、やたらと冷たい。

座り込んで動けないでいると、不思議なことに急に雨が止んだ。


「‥……雨が……急に……」


「あれー、葉村じゃん!どしたん、こんなところで?つーか、アンタ学校いなかったっけ?」


一人のギャルが、直延に、傘を差しだしていた。


「ま‥‥…まつ……」


直延は妻の名を叫びそうになる。

しかし、踏みとどまった。

目の前の彼女はまつりではあるが、まつりではない。

あの頃の……なぜか水穂の黒髪よりも記憶に残っている、派手な髪色のまつりだった。


「……ゴ、ゴホンッ……あ、あー……種藤さんこそ、ここで何してるの?」


「アタシ?……ああ、ここのシュークリーム買いにきたんだ。最近できたんだけどさぁなかなか買えなくってね。……いい加減立なよ、ほらっ!」


「あ……ありがと……」


長く、奇抜な色の爪が目立つ手が、すっと差し出される。

洋菓子店「四つ葉屋」。ちょうどその前で、直延は転んだようだ。

よく見ると、傘を傾けてくれていたようで、まつりの背中が少し濡れていた。

引き起こされて、立ち上がると目線が合わさる。


そういや、まだこの頃は同じくらいの背だったなぁ‥…


「っていうーか、アタシら話すの初めてだよね?おんなじクラスなのにな!やばっ……アハハッ!」


「何が面白いか分かんないけど、まぁいいか……」


直延はひどく懐かしい気分になっていた。


「あの……どうして声かけてくれたの?僕なんかに……」


無意識の言葉だった。気分は十分に、16歳だった。


「はぁ?フツー人が倒れてたら声かけるモンっしょ?……アンタ何があったか知らないけどさぁ、顔ひどいよ?…‥ほら、しけたツラしてちゃダメッ!幸せがまずくなる!」


そう言ってまつりはにっこり笑って、傘を首で挟むと、両手で直延の頬をつねるのだった。


しけたツラしてちゃダメッ!幸せがまずくなる!


なんで……忘れてたんだろう……


直延は勢いよく下を向いて、すぐには顔を上げなかった。


「あ……ごめ……いきなりだったよね~なんか、葉村ってさぁ、ウチの弟‥‥…っていうか犬?に、似てんだよねぇ…ほっとけないっつーか…てかアタシ何言ってんだろ、キモッ!ギャハハッ!」


「キモくなんてないよ。ありがとう」


「……そか…」


顔を上げた直延の顔は、さっきよりも格段に晴れ晴れとしていた。


「種藤さん‥…僕、帰らなきゃ」


「そう?でもさ、傘持ってないんじゃない?ちょっと待っててくれればさぁ、駅かコンビニまで送ってくよ?ずぶ濡れで帰すのもなんか目覚め悪いし。シュークリーム、取り合いになるから多めに買うんだよ。まぁ、誰にもやらねーんだけどなって……お、おい葉村!おまっ……」


「ごめん、種藤さん!僕急がなきゃ!……あ、それと!」


帰りたかった。帰らなくてはならなかった。帰れないなどゆるされなかった。

雨など知ったことではないと、直延は駆け出していたが、何を思ったかちょっと立ち止まった。


「まつりの……よくばって食べるところが、僕は好きだよっ!」


「‥‥………んえ??……」


直延は、顔を真っ赤にしたまつりを置き去りにして、今度は一度も振り返らずに走った。

途中でサンダルが脱げた。だが知ったことではない。

転んでスラックスが大きく破れた。それがどうした。

信号が赤に変わった。普段は絶対ダメだが、ここで止まるわけにはいかない。


その恰好、その走りはあのメロスにだって負けていなかった。


バイクに飛び乗って、鍵を差し込み、セルを押したその瞬間から!

直延は、アクセルを全力で回した。

バイクが熱を帯びて、マフラーからが吹き出した。

あと、ほんの数秒遅れていればどうなっていたことか。

高速道路で光になれる。それほどの高回転に一瞬で達したのだった。

鼓膜を破壊するような、恐ろしい爆音が空気を揺らす。


直延はしかし、息は切らしても集中は切らさなかった。

景色が、タイヤが……どんどん加速していく。

光が見えたかと思うと、直延は、また原付に乗っており、さっきの河川敷を疾走していた。


綿毛のように着地したが、また走り出した際に盛大に転ぶ。


「お、おかえりなさい!ナオノブ!ギリギリでヒヤヒヤしましたが……時間旅行はどう……」


「メ……メレメレ!い‥…今何時?」


砂と、雑草を髪につけたまま、直延はガっとメレメレの肩に飛びついた。


「ひゃっ……あぅ…‥地球時間で8時12分です!」


「……まだ、間に合う!間に合わせる!ありがとう、メレメレ!ごめん、もうちょい原付貸して!」


「ええっ!?ナオノブ、ちょっと!!」


直延は、また裸足のまま原付に跨った。

ただし、ひっかけたままのヘルメットを今度はしっかりかぶっていた。

地面を走りだすと、風を感じる分、時間の中よりも飛んでいるような気分になる。


少しでも早く、まつりの顔が見たかった。少しでも早く、謝りたいと思っていた。


裸足で、泥まみれで、財布も持たず、おまけに閉店時間も怪しいところだったが、しかし今の直延の頭は、まず一番初めにしなければならない、したいことでいっぱいだった。

そうした、割と大事なことがまったく考えられていなかった。


原付が、街灯の下を駆けてゆく。


時間旅行のお土産は、四つ葉屋のシュークリームにしようっ!!























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