少年と僕、猫と僕、僕とおじさん
呂兎来 弥欷助(呂彪 弥欷助)
□■□□□
人の多い建物の中は、楽園や天国だと少年は思っていた。
手の届く範囲にもたくさん並んでいて、見渡す限り食べ物に囲まれている。
明るく賑やかで、清潔で、楽しそうな人たち、幸せそうに笑う人たちが集まっていて、でも、自分には無関心に通り過ぎて行く。
「君、ひとりなの?」
目を輝かせていたとき、声をかけてきたのがこの男だっただけの話だ。
少年は差し出される手をじっと見つめ、男が微笑むがままに手を伸ばしただけだ。
夢だったのかもしれない。
ランドセルを背負うようになって以来、何となく何年もそんな風に振り返る。
けれど──。
晴れた日に買い物へ行くのが、僕たちの日課だ。
行きなれたスーパーで、僕はぼんやりとお菓子コーナーで立ち止まる。何年も前の、同じような場所で足が止まってしまう。
キャッキャッとはしゃぐ子どもの声を聞いて、ハッとする。
「お父さん、コレがほしい!」
特にほしくもないものを手に取り、僕はおじさんのところへと走る。
「本当に……コレがほしいのか?」
一見するとキレイ目な四十代に見えるおじさんが、しゃがんで僕を覗き込む。
コクコクとうなずく僕を怪訝そうにおじさんは横目で見たけれど、クシャクシャと僕の頭をなでた。
買ってくれるのだ。
でも、多分、おじさんには僕が嘘をついているとお見通し。それでも、僕へのご褒美だ。
お会計をして、僕も一緒に袋詰めをする。
重い袋を持ったおじさんが、帰ると合図するかのようにカゴを返却した。僕は残された軽くてちいさい袋を握る。
スーパーから家まで徒歩五分。
この道は、寒くても暑くても我慢できる距離。手を繋いでいれば、話さなくても不自然に思われる前に帰れる距離。
おじさんをうしろから見上げる。
じっと見つめてしまうのは、僕の悪い癖だ。
僕には、『悪い人』と『いい人』の区別は難しい。僕にとっての『おじさん』と、世間にとっての『おじさん』は、きっと違う判断になる。
トントンと音の鳴る階段を上っていくおじさん。
手がするりと離れる。
先に階段を上り終えたおじさんは、一番手前のドアに鍵を差す。カチャリと回ればヒラリとドアを開けて入っていき、半開きのドアが風に吹かれて閉まる。けれど、ガチャリという音はしない。
どのくらい前からだったか。おじさんが階段で手を離して先に行くようになったのは。
閉じたばかりのドアをキィっと開け、入る。ガチャリと鍵を閉めるのは、僕の仕事。
「ちゃんと『お父さん』って呼ぶようになったな~、えらい、えらい」
アッハッハと笑いながら、おじさんは買ってきた物を袋から出し、しまっていく。
「外で『おじさん』って呼ばずに『お父さん』って呼べって言ったの……おじさんじゃん……」
玄関付近でおじさんの方向へちいさい袋を置き、僕は大好きな猫のもとへと駆けて行く。
「家の中でも『お父さん』で、いいんだぞ」
「『お父さん』、そろそろ起きてくれないかな~?」
「って、オイオイ、俺はその死にぞこないの猫かよ」
『死なせないもん』と睨んだ僕に、
「生き物ってのは、死ぬんだぜ?」
と、おじさんはヘラヘラと言う。
「じゃあ、おじさんも……いつかは死ぬんだね」
本当に眠っているのかと問いたくなるような猫を、起きろとなでる。
「どうだろうなぁ、そうだといいなぁ」
ハハハと笑うおじさんは、『もう何百年生きているんだか忘れたわ』と買ってきたジュースを開けた。
「飲むか?」
「飲む」
『おらよ』とおじさんがコップを僕のとなりに置いた。
「寒くも暑くもねぇのにさ、老衰っていうのはどうにもできないもんだな」
おじさんの言葉が『自分には無関係だ』と僕の体をすり抜けていく。
「年をとるって、どういうことなんだろう……」
「『それだけ生きた』ってことじゃね?」
おじさんが飲んでいたコップを無造作に置いた。
「『それだけ生きた』って?」
「『よかった』ってことだよ」
「『生きる』って、『よかった』なの?」
置かれたコップを持ち、僕は猫をなでながら飲む。
「『よかった』って思えるほど、がんばることができたならな」
ゴクゴクと飲み、空になったコップをもとの場所に置く。
「おじさんは? がんばったって思えること、ある?」
「さぁな」
空になったコップをふたつ、おじさんはキッチンへと持って行った。
「今、なんじゃね?」
コップを洗う水の音に紛れて、おじさんはよくわからないことを言った。
「猫、動いているか?」
水の音が止まって、手をタオルで拭きながらおじさんは言う。
「動かないよ。寝てるもん」
「本当に寝ているか?」
『腹が動いているかって言ってんだよ』と顎で言われた気がした。
「え?」
あたたかいから、意識していなかった。
頭が真っ白になる。
いつからだったんだろう。
帰ってきたときは、確かに──。
いつからだったんだろう。
いつからだったんだろう。
人の多い建物の中は、楽園や天国だと思っていた。
手の届く範囲にもたくさん並んでいて、見渡す限り食べ物に囲まれている。
明るく賑やかで、清潔で、楽しそうな人たち、幸せそうに笑う人たちが集まっていて、でも、自分には無関心に通り過ぎて行く。
いつからだったんだろう。
「君、ひとりなの?」
こんな、救いの声を求めていたのは。
目を輝かせていたのは。
おじさんが、僕を見ていたのは。
僕は差し出される手をじっと見つめ、おじさんが微笑むがままに手を伸ばしただけだ。
夢だったのかもしれない。
ここのところ、そんな風に何度も何度も振り返る。
けれど──。
あのときの手の強さ、汗、妙なこわばりを、少年は忘れられない。
夢だったのかもしれない。
猫が最期に見せた姿を見て思う。
「猫って、『最期の姿を人に見せない』って、言うのにね」
これは、僕の姿だったのではないか。
「外に出しちゃいけないから、出られない。だからだろ?」
さらりとおじさんが言う。
僕は、何を夢だったらいいと思っているのだろう。
猫の死か。
少年の姿か。
それとも、おじさんの手をつかんだ日のことか。
猫が死んで、僕が生きている。
おじさんがいる。
それだけなのに、どうして僕は、こんなにも不安でいっぱいなんだろう。
おじさんが目の前にポンと何かを置いた。
僕が『ほしい』と言った、おもちゃ付きのお菓子。
クシャクシャと、大きな手が僕の頭をなでた。
少年と僕、猫と僕、僕とおじさん 呂兎来 弥欷助(呂彪 弥欷助) @mikiske-n
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