夢見る少女の治安維持

グロイ・アンダーソン

夢見る少女の治安維持

「遅刻遅刻!」

 少女がパンを咥えて通学路を走る。彼女は毎朝、大音量のブブゼラ目覚まし時計を何度もスヌーズしてから、学校でホームルームが始まるほぼきっかり百秒前に慌ただしく家を出る。ここ、最上原市もがみはらしでは既にモーニングルーティーンと化した光景である。

 高台にある校舎では、少女が始業のベルに間に合うかどうかクラスメイト達が賭けに興じている。前七日間の到着可否を基に算出された今日のオッズは、間に合うが二.七、間に合わないが五三.一。ここ数日は殆ど遅刻を免れているようだ。先生に見つかると返ってこなくなる現金の代わりに、生徒達はクラスのグループチャットに各々ベッドを電子マネーで入金する。

 第一コーナー、第二コーナーと最短のコーナリングで曲がり角をこなす少女。今日はまだ信号にも捕まっていない。行け! そのまま行け! 本命線に賭けた生徒達が窓際で怒号にも似た声援を送る。ところが……

「きゃっ!?」

 最終コーナーで突然のアクシデント! 登校中の男子生徒と接触して転倒したようだ。既に周知のこの単独レースを邪魔する人間は、ここ最上原にはいないはず。すわ転校生か!?

「いったーい。ちょっと、なんなのよあんた!」

「イテテ、そっちが飛び出して来たんだろ? ……ああっ、ピザトーストかよ!?」

 おっとこれは、ぶつかった拍子に男子生徒の制服が汚れてしまった模様。少女と少年はそのまま校門目前で口論を始める。すると、キーンコーン……ここで始業のチャイムが鳴った!

「嘘だろォ!?」

「マジか! よっしゃああああぁぁ!!!」

 今朝は大どんでん返し、少女遅刻で五三.一倍の大穴配当が確定した。予想外の臨時収入を得た生徒達が万歳三唱している中、教室前側のドアから先生が、三秒遅れて後側のドアから息を切らした少女が入室した。

「こら、久しぶりの遅刻です。最近は間に合っていたからって、そもそももっと早く家を出なさい!」

「ハァ……ハァ……はぁーい……」

 先生に注意されながら少女は席についた。滝のような汗と共に、彼女の頬からピザトーストのケチャップとピーマン片が垂れ落ちる。その芳醇なトマトフレーバーが本命に賭けていた生徒達を更に苛立たせた。

「全く今日から転校生が来るのに、だらしないのは困りますよ。ちゃんと皆さんが本校の規範となって……」

「「「転校生だって!?」」」

 教室騒然! すると前側ドアから一人の少年が入室した。トマト臭い新品の学ランをビニール袋に入れ、ぶすくれた表情の少年だ。先生は彼の名前を黒板に書きながら、自己紹介を促す。

「彼が今日からこのクラスの仲間になる転校生です。さあ」

「初めまして。香川から来ました、ニカイ……「死ねコノヤロウ!」

 転校生の言葉を遮り、不良風生徒がヤジを飛ばした。続けざまに「そうだそうだ、私のバイト代返せ!」「よっ番狂わせ男~!」止まらない罵倒と賛辞! もはや自己紹介すらままならなくなった転校生は、ただただ遅刻少女を恨めしそうに見つめるしかなかった……。


 時刻は十二時三十分、高校は昼休みの真っ只中。遅刻により大顰蹙を買った少女は、あの転校生に屋上に呼び出されていた。

「なによ、こんな所に連れてきて。クリーニング代でも請求するつもり?」

 転校早々下ろしたての制服を汚されたのだから、当然だろう。そう感じている少女は、未だ自分も被害者だという意地を張った態度は取りつつも財布を開いた。

「呼びつけた、だって?」

 転校生は威圧的に少女の前に立ちはだかる。

「大事にならないよう、こうして配慮してやってるんじゃないか。いいから盗んだ金を返せよ」

「はぁ?」

 想定外の事を言われ、少女は開いた口が塞がらなくなった。

「とぼけるな! 今朝ぶつかった時にスッただろ!? 全くとんでもない女だな!」

「い、言いがかりはよしてよ! ていうか、財布ならあんたの尻ポケットに刺さってるじゃない!」

 少女が指摘した通り、転校生のスラックスからはポケットに収まりきらない長財布がはみ出していた。

「ああ、確かに財布はここにある。だが中身がゴッソリ抜き取られてたんだ、バイトでゲットした十万円! 今朝言い争った時に、お前がこっそり抜いて戻したんだろ? ともかく返してもらうからな!」

 転校生が少女に掴みかかる。少女は毅然としてその手を振りほどこうともがいた。

「や、やめてよエッチ! ピザトースト食べながら私がそんな器用な事できるわけないでしょ……きゃあ!?」

 強制ボディチェックを試みる少年と必死に抵抗する少女が激しく取っ組み合う。壁ドン、床ドン、両手ドン! 好きでもない言いがかり男と組んずほぐれつの応酬を展開しつつ、隙を見て少女は逃げ出した。

「ハァ、ハァ……覚えてろよ! 俺はここ最上原市を最近席巻している連続万引き犯を捕まえにやって来た、親子二代誇り高きGメンの一族だ! Gメンたるもの、スリの犯行も絶対に暴いてやるからなー!」

 遠ざかっていく転校生の負け惜しみを聞きながら、少女は(たった二代で一族とか言っちゃうんだ……)と思った。


 放課後。部活に入っていない少女は、憔悴しきった顔でとぼとぼと帰路を歩いていた。今日は散々な目に遭った。学校には間に合わなかったし、先生に怒られたし、転校生には妙な言いがかりをつけられるし。そんな不幸の連続がダイジェスト形式で繰り広げられる頭をガンガンと自分で叩きながら、少女は自宅マンションに帰った。玄関前で鍵を取り出そうと通学鞄をまさぐっていると、ふと誰かの視線を感じた。

「ん?」

 少女が振り返る。そこに立っていたのは、なんと転校生だった。

「ハァ!? 何あんた、マンションまでつけて来たの!? 信じられない!」

 少女は怒りと若干の恐怖で転校生を罵倒した。しかし、転校生はあんぐりと口を開けたまま少女の家を見つめている。

「な、何なのよ……」

 転校生を不気味に思った少女は、そそくさとドアを開けると大急ぎで扉を閉め、施錠した。そして壁の向こうで家族と会話する。

「ただいまお母さん。ねえ聞いてよ……え? 違う違う! 家の前のあいつはぜんぜん彼氏とかじゃないし、むしろストーカー! ……はぁ!? なんで家に上げるのよ!?」

 その声は転校生がいる外に丸聞こえだ。まるで壁が段ボールでできているかのように防音性がない。すると扉が開き、非常に不機嫌な様子で少女が再び出てきた。

「もう、お母さんの馬鹿……。ともかく、証拠を探したらさっさと帰って。本当に私、何もしてないんだから」


 転校生は不穏な面持ちのまま少女の家に通された。少女は転校生に居間で待つように命じ、暖簾のパーティションで隔たるキッチンへ向かった。

「こんな奴にお茶なんていいのに。はぁ? いらないいらない、お菓子とかいいから! もう!」

 少女が母親と会話している。しかし妙な事に、母親の声がまるで聞こえない。転校生は訝しんで、キッチンを覗いてみた。すると……

「ねえ本当に、私とあいつは何でもないから……」

「ウワーッ!?」

 転校生が突然悲鳴を上げる! 驚いた少女が飛びのき、手に持っていた盆の上のマグカップからお茶が跳ね上がった。

「あっつ! ちょ、危ないじゃない飲み物持ってる時に! ねえお母さん……」

 お母さん、と少女が話しかけた先は……壁だった。赤と青の油性ペンで女性の全身絵が描かれた壁だ。ご丁寧にも右下に『おかあさん』と記してある。

「ひぃ!」

 転校生は失魂落魄、その場で腰を抜かしてしまった。

「もう、何なの? 居間で待ってろって言ったよね。あ、お菓子あげないんだから」

 少女は手に持っている盆からラムネを一人でボリボリと食べ始めた。いや、それは本当にラムネだろうか? 転校生はシンクに積みあがっている大量の錠剤シートを見逃さなかった。そして、マグカップやお菓子と共に当然のように盆に盛られた謎の注射器も。

「と、ともかく、警察、警察!」

 転校生は床を這いながらスマートフォンを取り出した。

「は? ちょっと、何なの本当に!? やめてよ警察なんて!」

「うるさい、近寄るな! この街の治安は一体なんなんだ。連続万引き犯はいるし、初登校早々財布スられるし、新しいクラスのグルチャは違法ギャンブルの温床だしクラスメイトが薬物乱用者だし! それに早朝どっかでずっと汽笛みたいな音がブーブーブーブー鳴っててやかましいんだよ!!」

 転校生は寝不足で気が立っていた。彼は今日一日の鬱憤を全て吐き出すと、少し冷静になって座り直す。

「……すまん。俺も近所迷惑だったな。」

 少女は黙って俯いている。少し言いすぎたかと不安になった転校生は、バツが悪そうに髪をかきながら謝罪した。

「悪かったって。万引き犯と賭け事トトカルチョ はお前に関係なかったな……」

「謝らなくていいよ。この子には聞こえていない」

「ん?」

 少女は顔を上げた。すると転校生は再び困惑の表情を作った。少女の顔つきや雰囲気が、これまでとはまるで別人のように変貌していたのだ。

「ここまで見られちまったからには、あんたには本当の事を話さないといけないね。Gメンの坊や」


 少女は解離性同一性障害を患っており、いま転校生の前に現れたのは心理学用語で内的自己救済者イッシュと呼ばれる少女の別人格だという。イッシュはトラウマを抱えた主人格の心を守るために、あらゆる妄想や幻覚を自在に作り上げる能力を持っている。

「この子の父親は地面師だったんだが、ヤクザの土地に手ぇ出して消されちまった。母親は父親の残した借金を返しているうち宗教狂いになって、今でも風俗で稼いだ金は全額借金返済と神様につぎこんでいやがる。その間この子はネグレクトさ」

 イッシュは達観した様子で少女の身の上を語る。その間、転校生は数分前に度肝を抜かれたこの家の外観を思い出していた。恐らく闇金やヤクザによる嫌がらせの落書きの数々、その上にびっしりと上書きされた南無妙法蓮華経、そして立ち退き警告の張り紙。少女はこの家を『マンション』と呼んでいたが、ここは明らかにオンボロ下宿だ。

「妄想の中のこの子は、ごくごく普通の中流階級の家で何不自由なく暮らす女子高生だ。まあ、彼女が寝ている間にあたしがスリやら万引きで食い扶持を稼いでやってるから、毎朝寝不足にさせちまうのは申し訳ないがね」

「まさか……お前が最近噂の連続万引き犯なのか?」

 万引き、という言葉にGメン転校生が反応する。

「だろうね。あたしは脳波を飛ばす事で周りの人間も軽いせん妄状態にできる、だからカメラにさえ気を付けていれば堂々と万引きできるのさ」

 イッシュは平然と言ってのけた。彼女は少女の脳が極限の不幸により覚醒して生まれた、ある種人智を超えた『特殊脳力者』なのだ。

 しかし転校生は自称誇り高きGメンの一族として、イッシュを見過ごすわけにはいかない立場だ。

「なるほど、この子にあんたが必要だって事はよくわかった。しかし、だからと言って見過ごすわけにはいかない。俺は通報するし、今朝スられた分の金も返してもらう」

「どうやって?」

 不適な笑みを浮かべるイッシュの手には、転校生のスマートフォンが握られていた。しかも電池残量残り〇%!

「いつの間に!」

「脳波を飛ばせばスマホを急速放電させるなんて容易いさ。こいつは返すよ」

 イッシュはスマートフォンを放り投げる。それをキャッチしながら、転校生は改めて目の前の怪異的人格に畏怖の念を抱いた。

「なんでもアリかよこのバケモノ! ていうかそんな犯罪行為しなくても、あんたならもっとまともな方法でこの子を幸せにできるだろ!? 真っ当にお金を稼ぐとか、児童養護施設に連れていくとかさ!」

「だってこの子の学校バイト禁止だろ。それにこの街にある三件の養護施設についてはとっくに全て調べてあるが、どこもダメだ。一件目は園長が性的虐待の前科持ち。二件目は大陸系マフィアとグルで人身売買まがいの養子縁組を斡旋してる。三件目はこの子の母親がやってる宗教に強制的に入信させられる」

「本当終わってるなこの街の治安!!」

「それから……」

 イッシュは転校生をキッと鋭い目つきで睨んだ。

「今朝はあたしじゃなくて、『あの子』の番だった。だからお天道様に誓って、あんたの財布なんかスッてない」

「なん……だと?」

 イッシュは毅然とした態度で転校生の目をまっすぐ見つめる。盗人猛々しいながらも、この件に関してイッシュは清廉潔癖だとGメンの転校生は直観で理解した。

「そもそも、この子に幸せな夢を見せてやるのがあたしの使命だ。だから仮に今朝ぶつかったのがあたしでも、同じ高校の制服を着たあんたを狙うような真似は絶対にしない。もしあんたの十万円が本当になくなったのなら……犯人は同じ高校の人間だろう」

「あんたにはわかるのか? 犯人が」

「目星はついているが、現行犯じゃないと糾弾できないさね。まあ、盗人の犯行の瞬間を見つけるプロでもいれば話は違うかな……?」

 転校生は再び自分の財布を開いた。十万円。彼にとってそれは、ただのバイト代ではない。プロのGメンとして派遣先のスーパーやコンビニエンスストアを守った、特別な戦利品なのだ。

「わかった、約束する。お前の事は誰にも話さない。その代わりスリ探しに協力してくれ。この子が通う学校に泥棒がいるのは、お前にとっても不都合だろ?」

 転校生は少女の幸せを口実に、この得体の知れない怪異に取引を持ち掛けた。利害が一致したイッシュは口元を緩め、転校生と握手を交わす。取引成立だ。


「遅刻遅刻!」

 今日も少女はパンを咥えて通学路を走る。一方転校生は朝一番で登校し、彼女の単独レースを鑑賞できる窓際の一番良い場所を確保していた。

「なんだ、今日はもう転校生クンは到着済かよ」

「いいや、一度ある事は二度ある。今日も穴目に違いない」

 クラスメイト達が次々とグループチャット内に電子マネーをベットしていく。転校生は自分も賭けに参加しようとする素振りで、隣の生徒に質問を投げかけた。

「なあ、どうして賭け金が電子マネーなんだ? 俺は現金派なんだけど」

「現金でワサワサ配当金を処理してたら、先公にとられるだろ。それにグループチャットの割り勘機能は履歴が見えるから、不正防止にもなる」

 なるほどなぁ、と考えているうちに発売締切時間になってしまい、結局転校生は賭けに参加しなかった。数十秒後、始業のチャイムが鳴るより前に少女到着。今日は本命線での決着となった。

 ホームルームが始まり、騒がしかったクラスメイトも全員席につく。起立、礼、着席と動作を終えて、転校生は自分の尻ポケットから長財布を取り出した。先生の挨拶を聞きながら、一枚、二枚、三枚……と中の万札を確認する。今日は現時点では抜き取られていないようだ。また、この時自分の金を見ていた人間も全員チェックした。ちらりと少女の方も見てみると、何らかの宿題を内職しているようだ。呑気な女だ、自分の正体もクラスにスリがいる事も知らずに……転校生がぼんやりとそう思っていると、見つめられている事に気付いた少女は転校生を睨み、ぷいとそっぽを向いた。

 二時限目は体育。その高校では日々様々な競技をグループに分かれて行う方式で、少女と転校生は共にバレーボールだった。

「あぶない!」

「きゃあ!?」

 授業開始から数十分後、敵チームから強烈なシュートを当てられ少女が転倒してしまうアクシデントが発生。

「ちょっと、博打の駒に怪我させるなよ!」

「はあ? そんな強く当ててねえし!」

 揉めている相手チームを尻目に転校生が駆け寄ると、少女は立ち上がれなくなっていた。捻挫したようだと判断した転校生は、挙手で体育教師を呼んだ。

「先生、ついでに保健室の場所知っときたいんで俺が連れて行きます」

 転校生は少女をいわゆるお姫様抱っこの状態で抱えて校舎に戻っていった。

「へ? やだ、ウソ! 一人で歩けるよ!」

 突然の羞恥に赤面する少女。

「なに言ってんだ、生まれたての子鹿みたいになってたじゃねえか。……ていうかクッソ重いな、毎朝ピザトーストなんて食ってるからだぞ!」

「ままま、毎日じゃないわよ! 今朝は小倉ホイップトーストだもん」

「結局高カロリーじゃねえか、いい加減にしろ!!」

 腕の中でギャーギャーと暴れる少女に悪戦苦闘しつつ、転校生は彼女を運ぶ。通常校舎を通過して、現在の地点は中庭。目指す保健室はここから更に連絡通路を通り、美術室など特殊教室が集まる別棟に入ってすぐの所だ。

 すると連絡通路で、自分達の担任教師とすれ違った。

「あら、どうかしたのですか?」

 担任教師が近寄り、息絶え絶えでふらつく転校生の体を支えた。転校生は一旦少女を下ろして、状況を説明する。

「こいつが体育で捻挫して、保健室に連れてってるんです。立てないんです」

「それは大変ですね。お家に連絡しておくので、君は引き続き保健室に引率を……」

 パシン。

「やっと尻尾を出したな、クソ教師」

 話している途中、転校生は突然担任の腕を掴み上げた。その手には転校生の財布が握られている。

「ま、ここまでカモ演じてやりゃあ引っかかるだろうさね」

 続けてイッシュ人格に変貌した少女が、担任の反対側の手を掴み上げた。その手には数枚の万札が握りしめられている!

「確かにイッシュが疑っていた通り、あんたは最初から怪しかった。クラスで生徒が毎朝あれだけ堂々と賭博を行っているのに担任教師が気付かないわけがない。しかしクラスメイトは、現金だとあんたに『没収される』ではなく『とられる』……まるで『盗まれる』かのような言い方をしていた。それに昨日俺が近接した人間は彼女とあんただけだ!」

「え……いや、これは違う、誤解です!」

 担任がたじろぐ。まさにこの治安最悪の最上原市に於いて、学生が賭博行為に興じる事は些細な問題だ。しかしまた、違法に集められた配当金を誰かが盗んでもそれを糾弾できる者はいない。ましてそれが、彼らより立場が上の担任教師だった時など。

 そこで転校生とイッシュは、一計を案じたのだ。まずホームルームで、転校生が今日も数万円の大金を持っている事をさりげなくアピール。次に体育で同じグループに組まれるよう、イッシュが体育教師に暗示をかける。適当に回ってきたボールに少女が打ちどころ悪く当たるよう誘導し、大怪我を負ったような感覚に錯覚させる。そして転校生と負傷した少女が二人きりで授業を離れ、更にお姫様抱っこにより両手が塞がっているというスリにとって最高の好機を作り出したのだった。

「だが残念だったな、この一万円札をよく見てみろ!」

 転校生は担任から数万円を奪い返し、扇状に掲げてみせた。それらの通し番号は全て同一だ!

「なに!?」

「これは俺の派遣先スーパーで捕まえた万引き犯から押収した戦利品ニセサツだ。この街は治安が悪いと聞いていたから、スられやすいダミー財布に仕込んでおいたのさ!」

 そう、彼にとって『特別な戦利品』とは、その手で勝ち取った犯罪の証拠だったのだ! ちなみに偽札は所持しているだけでは犯罪にならない。

「あんたまさか、昨日盗った分を使ったりなんてしてないよな? すぐに足がつくぜ」

「馬鹿な、あれが偽札だと!? ATMに入金できたはず……ハッ!」

 自供確認! 即座にイッシュが担任の腕を捻り上げる!

「小娘が……ナメるなああぁ!」

 しかし担任は腕を振り下ろし、イッシュを地面に叩きつけた!

「グハッ!」

 イッシュが血痰を吐く。凄まじき腕力、これでも担任は女性教師である。だがそもそも、ここ最上原市の高校で学級崩壊も起こさず、生徒達がホームルームになったら真面目に席に戻るほど服従させている彼女は、それだけ人並み外れた教諭力の持ち主なのだ!

「バレてしまったからには仕方ありませんね……体罰で捩じ伏せてやる!」

 担任は背中から鉄製の鋭利な黒板用コンパスを取り出し、双節棍のように巧みに振り回した。

「イッシュ、安全な所で通報を!」

 対する転校生はGメン流逮捕術の構えを取った。

 右脇、左脇、正面。バリアの如く担任の周囲を高速回転する特大コンパスに拳を伸ばす事は容易ではない。しかしこういったヌンチャク系武器は下半身が無防備になりやすい事を、転校生のGメン観察眼は見逃さなかった!

「とぁ!」

 スパン! 百八十度開脚の華麗なハイキックが決まった。コンパスは中央で折りたたまれた形状のまま天高く射出! 得物を失った担任はひとまずバック宙返りで転校生と距離を取り、片足立ち状態の転校生にしゃがみ回し蹴り。クリーンヒット! 転校生はバランスを崩して転倒、その間に担任は閉じたコンパスを空中キャッチ。今度は短刀のように逆手持ちで構えた。

「私の黒板用コンパスは変幻自在。すなわちεイプシロンδデルタ戦法也!」

 最上原の底辺高校では到底習得できない上級数学戦法に苦戦を強いられる転校生。このまま彼は卑劣な窃盗犯に屈してしまうのか? 否! 彼にはいかなる計算も統計も凌駕した異常存在が味方している!

「トドメだ!」

 ズンッ! 人肉を刺突した確かな感触に、担任は勝利を確信した!

「キャハハハハ! 教師に逆らうからこうなるんですよぉ! さあ、本物の現金が入ったシークレットウォレットも没収して……ん?」

 転校生の学ランをまさぐる担任。しかし、どこにもポケットがない。それどころか、彼の腹部に深々と刺さったコンパスがビクとも抜けない!

「これは!?」

 それもそのはず。彼女はイッシュの幻覚脳波により、中庭の欅を転校生と錯覚して必死に財布を盗もうとしているのだ。その隙に転校生は中庭にあった水撒き用ホースで担任を欅に縛りつけた。そして担任は、授業をサボって事の顛末を目撃していた不良達によって、『博打の駒に危害を加えようとした罪』で警察が来るまで袋叩きにされたのである。


 次に少女が目覚めると、時刻は放課後を通り越して既に夜になっていた。しかし、ここは学校でも彼女の自宅でもない。

「えーっ、今日から転校生と兄妹になるですって!?」

 少女は仰天して叫んだ。彼女の母親と転校生の父親が再婚し、今日から転校生宅で同居生活が始まったというのだ。無論、その設定は全て彼女のために仕組まれた妄想だ。転校生の家の壁には、模造紙で複製された『おかあさん』が貼られた。

「住まわせてやるからには、これからはお前もGメンの一族として働いてもらうからな」

「あたしにかかれば、そこいら辺の小悪党共なんてお茶の子さいさい。それよりいくら兄妹になったとはいえ、今後この子を泣かせるような真似をしたら承知しないよ」

 それはいかなる万引き犯も許さない転校生親子と、少女の幸せな世界を守るためなら何でもするイッシュが話し合った末の結論だった。しかし少女はそれを知る由もない。


 彼女は寝坊をしたためパンを咥えて通学路を走り、曲がり角でぶつかった転校生と最悪の出会いを果たし、壁ドンや床ドンやお姫様抱っこを経て彼と義兄妹になった。こうして羅列するとまるで陳腐な少女漫画のような物語だが、それが彼女の世界で起きた出来事の全てであり、そこに賭博や窃盗や暴力は存在しない。だからこそ、その影で平和のために尽力した彼らの努力は報われたのであった。

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夢見る少女の治安維持 グロイ・アンダーソン @goregroy

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