孤島のシャボン玉

帆尊歩

第1話 孤島のシャボン玉


この島はかつて石炭を掘るためだけに存在した。

最盛期一平方キロもないこの小さな島に、その家族を含めて五千人が暮らして、石炭を掘っていた。

炭鉱が閉鎖されると、そのためだけに暮らしていた人達はいなくなり、一瞬で誰もいない町になった。

学校、映画館、病院、そして鉄筋コンクリートの集合住宅。

そして炭鉱。

島と町は一体で、巨大な廃墟となった。

陸からさほど遠くないが、島全体が岸壁で覆われた孤島であることで、立ち入り禁止ではあったが、物理的に誰も近づけなかった。

閉山した直後は、残された家財道具を持ち出す密入島者もいたようだが、以来何十年も人が入らない廃墟の王様となった。


僕は廃墟マニアとして一度行ってみたいと考えていたが、普通の人は上陸出来なかった。

それが数年前から観光上陸が出来るようになったが、来てみればコンクリートの遊歩道があり、柵の囲まれた限られた通路が見学出来るだけだった。

本当はもっと裏の居住スペースの高層住宅こそが、この廃墟の醍醐味だったのに。

限られた遊歩道でも他の観光客は歓喜の声を上げている。

興ざめした僕は、つまらなそうに他の観光客に混じって歩いていた。


前を歩くおばあさんが、急にうずくまった。

具合が悪いのかと回りの人は心配するが、一緒にいた娘らしき年配の女性が、大丈夫と回りに言う。

おばあさんは、泣いていたのだった。


すると、どこからともなくシャボン玉が飛んできた。

いったい誰が。

シャボン玉を吹くような子供はツアーにはいない。

嫌、いたとしてもここでシャボン玉はしないだろう。


いや


いた。

出てはいけない柵の外の瓦礫の中を、小学校に上がるか上がらないかくらいの女の子が、楽しそうにシャボン玉を吹いて、走りまわっている。


「オイ、そんなところで」と言った瞬間、辺りは急に夕方になると、さっきまで回りにいた観光客はいなくなり、炭鉱の工場になった。

それはまだ廃墟になる前のこの島の工場だ。

女の子は、

「こっち、こっち」というようにシャボン玉を吹きながら僕を見る。

僕は何かに引き寄せられるように後を追う。

女の子はどんどん進み、居住区の高層住宅の方に僕を誘導する。

そこは写真で知っている廃墟ではなく、人々の営みが色濃く残る町だった。

前掛けをした奥さんが、買い物カゴを腕にかけ商店で買い物をしている。

その腕に子供がまとわりつく。

どこにでもあった、日常の夕方だった。

ああこんなに賑わっていたんだなと思い、女の子の後を追う。

一つの建物の前で葬式が行われていた。

小さな棺を女の子は指さす。

「君の葬式なのか」女の子は頷くとまたシャボン玉を吹いた。

「このシャボン玉はきみの魂なのか」女の子は微笑んだ。

僕は慌ててシャボン玉をつかもうとするが、シャボン玉は僕の手をすり抜けて空へと飛んで行く。

葬式に出ている大人たちの声が聞こえてきた。

「嵐が来ていなければ、船で病院に連れていけたのに」

「本当に。運がなかったね」

「島で生活する宿命だよ」

別の女の子が声を出して泣いている。

姉か、妹か、友達か、悲痛な泣き声の悲しみが、僕の心を締め付ける。

この子だけが、悲しんでいる。

大人たちは口々に仕方がなかったと繰り返す。

悲しみを抑えようとしているのか、島で生活することの宿命に甘んじているのか。

あっ、泣いている女の子は、さっきうずくまったおばあさんだ。

僕は女の子に声をかける。

「シャボン玉を取るんだ、このシャボン玉が女の子の魂だ。飛んでいってしまう」

女の子は手を広げてシャボン玉を取ろうとするけれど、うまく取れない。

ああ空に飛んで行ってしまう。

女の子は力尽きたようにうずくまり泣き崩れた。

飛んで行くシャボン玉を手に取ることが出来なかった。


そこで世界が戻る。

急に回りの雑踏が聞こえ始めた。

おばあさんはまだうずくまったまま泣いている。

僕はおばあさんに近寄り横にしゃがむ。

「あの時、シャボン玉を手に取れなくてごめんね」僕は誰ともなくつぶやく。

「あたしがあの時手にとっていたら、今ごろ横にいたかもしれないのに。ごめんね、一人だけ飛んで行かせて、ごめんね」おばあさんのつぶやきに、僕は何も言えなかった。

ただおばあさんの悲しみだけが僕の心を苛む。

その時、どこからともなくシャボン玉が飛んできた。

ほかの観光客が騒ぎ出す。

なぜここにシャボン玉が。

シャボン玉はゆっくり、おばあさんの回りを回るとおばあさんの胸の所にきた。

おばあさんは愛おしげにそのシャボン玉をつかもうとする。

そしてつかんだ瞬間、シャボン玉はおばあさんの手の中で割れた。

そう、空ではなく、手の中で。

「帰ってきてくれたのね」おばあさんは誰ともなくつぶやいた。

するとシャボン玉を吹く女の子は楽しそうに僕とおばあさんの周りを回りながら、いつまでも、いつまでもシャボン玉を吹いていた。

辺りはシャボン玉でいっぱいになったけれど、それが見えたのは、僕とおばあさんだけのようだった。

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孤島のシャボン玉 帆尊歩 @hosonayumu

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