我が心の太陽ポラリス

塩ト檸檬 しおとれもん

第1話




----- Original Message -----



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第127回文学意界新人賞応募作品

「我が心の太陽・ポラリス」


第一章「織り込まれた計算」


 宝船、蕗の薹、雪ねぶり、桃の花、夏浅し、梅雨寒、大暑、盆の月、二百十日、爽秋、神無月、年忘れ。

 地球が公転する12ヶ月の間、多くの季語を残して日々の生業を成り立たせ、太陽と共に恵みを人々に降り注ぐ。

 遅くもなく速くもなく一定の速度を守るからこそ人々は速度が早い乗り物に乗っていると」気がつかない。

 平凡に生き、平凡に考え悩み、平凡に俯き立ち上がり寿命を全うする。

それは種の起源から続いていた。それが生命の定義だった。

太陽の周りを一年掛けて公転している地球は、秒速600kmの超スピードで飛んでいる。音速の秒速が331kmだからどれくらい超高速か、理ご頂ける筈。

 しかも、太陽の周りを公転している星々も規則正しく水平に公転していると思われがちだが、実は違う。

 太陽は一所に留まってはいない!大宇宙を超スピードで飛んでいるのだ。

そして太陽系を中心として天の川銀河、銀河系、アンドロメダも飛びながら回っている。

 宇宙は上も下も前も後ろも左も右も斜めも無い。基準に出来るものはなに無い。

有るのは広大なスペース。

 それを追いかけながら太陽系の星達は太陽と同じ方向に飛び、公転をしている。

竜巻の様に逆回転しながら、星間とある一定の距離を保ち太陽の恵みを授かる為に必死で太陽を追いかけている。

 地球人の常識では計り知れない動きを大宇宙は容認している。

地球人には奇跡とは為る筈のない物事で、足掻けば一歩ずつ近付くと知っている人は少なく、僕は奇跡を起こすべくデイケアサービス・ポラリスに通いリハビリテーションにて汗を流す。


「Pウォークで歩いた方が麻痺側の改善に有効なんです。」

 ポラリスでは、トレッドミルをP(ポラリス)ウォークと呼んでいた。

何故有効?と聞いたら歩行担当のナースが、「マシンは連続して勝手に動くでしょう?容赦なく。」左の麻痺側から僕の顔を見上げていた。

 まだ症状固定では無い? 僕を伸ばそうとしている? ならば頑張れる!

彼女が伸びると信じて諦めないなら僕は頑張るのみ。

 急性期から回復期の絶望が渦巻く最中、麻痺が治る方法をネットサーフィンで検索し続けていた。

再生医療についてだが、臨床実験済みの余り特効性がないサイトが目立ち、ひたすらリハビリを続けるしかないよ!といわれている気がしていた。

 だから要介護4→車椅子→四点杖→一本杖→要介護3→独歩、要介護2。

 まで漕ぎ着けた。

山口町は春雷が終わり季節は移ろい桜が散っていた。

刹那、二人の間隙を包むように乾いた緑風が駆け抜ける。

 彼女の前髪がサラサラと捲れ上がって白い額が清潔で何とも涼しげな顔立ちだった。

眼を見開いて彼女を観るがいつになく真剣だった。

 こう言う時は彼女側に伝えたい事がある?コクりと頷き、「そうですね。」と、返事をして次の言葉を待った。二歩、三歩、前を向いて歩く・・・。

 僕は左側の赤い鳥居と草むらの間から雉の雌が出てくる様な気がしてフッと鳥居と山肌を見上げたが、新緑がヒラヒラと風に靡く程度で何時もと変わらない山が堂々とそこに座っていた。

「だから麻痺側の脚は追いついて行こうと必死に健康な右足に合わせるの。」キッパリと言い切った看護師の望月優希奈(もちづきゆきな)(仮称)さんは、真剣な丸い眼をして僕を見ていた。

 が、僕は屋外歩行のアクティブな道路に脚を取られまいとして下を向き向き、彼女の顔をチラ見しながら、左・前・下・前・左の順でノルディックを持ち身体を支えていた。

 外旋をしない歩き方を意識して膝頭を伸展させるように歩く。

所謂麻痺足のぶん回しをしない様に歩容を改善させる。

杖なしの方が両足はフリーなので麻痺足が楽な方へ調子を合わせられるから楽だった。

「屋外歩行の方が、麻痺側は自由だから改善が遅いんです。だからトレッドミルの方が有効なんです。」意味が分かるし、説得力がある。

 衝撃的だった!子供の様にPウォークを毛嫌いするんじゃなかった・・・。

僕の持論が覆されて、杖無し歩行の方が早く歩けるし麻痺側が鍛えられるから改善も早いという理論だったが、こうキッパリとエビデンスをつきられては閉口せざるを得なかった。

 しかし悔しくは無かった。次のPウォークに想いを馳せていたから。

そうか! と、ある一種の閃きというやつだ!たまにある。

 一点に集中してそれを突き詰めた時!眼前の視界が、開けるようにパッと明るい閃光に似た刺激が脳を走る!それはリハビリの時も、小説の執筆の時でも変わらず症状は一緒だった。

 彼女は時々、何気なくこんな刺激を与えてくれた。

仕事と言えばそれまでだが多分持っているパッションの質が彼女と同じなんだろう・・・。

 ポラリスは学園広場では無い実効支援の場所だ。それ故に目標は同じ高さにある。

パートナーなどと軽く片付けられる言葉ではなく、彼女との信頼関係を持続していたある日、彼女が休みだとしっくり行かない。リズムが合わないと言った方が頷ける。

 リハビリメニューは同じなのに何だかやるせない気持ち?・・・。

物足りない感情。腹八分目だった。スパイクを履かないで野球をやるような物。

 それはリハビリトレーニングの相棒という言葉で僕が位置着けていたからだ。

ポラリスへ通所すれば彼女とトレーニングのPウォークをする。1km歩く!

 そう思った方が目標設定し易く集中してトレーニングに打ち込めるからだ。

「片麻痺、PT、論文で検索してください、そこに詳しい論文が掲載されていますから。」

 ポラリスに通所を始めて約4年、こんなナースは見たことが無い。

ある種、理学療法士のような連帯感が存在していた。

彼女はリハビリにストイックで、新しい情報に貪欲だった。

 全て僕の心を満たしてくれる。

欲するものを提供してくれる。サプライズで!

 お互いにストイックだからこそ相乗効果があって進化して行っている。

僕も然り、仕事にストイックで妻を顧みなかったから体質は同じなんだろう・・・。

 山口南店を出て坂道を下り始めた時、脚上げ腹筋を400回、上半身上げ腹筋を400回、合計800回の腹筋をやっていると、打ち明けたのだが、成り行きでPウォークの良い情報を貰えた!

 これがあるから彼女は僕になくてはならない存在だと言える。

ポラリス山口南店の所長はフラワー・ビレッジさん(仮称)で、ニューヨーク生まれの日本育ちの生粋の日本人だったが長い間。病院勤務で培った経験と知識で勝負していた。

 と、言えば信じる人が居るかも知れない。が、長年の病院勤務は本当の話しだ。

時にはジョークを飛ばし時にはニコニコとして、話をしてくれた。

 彼を最も信頼したのは僕が執筆した小説「迎撃のワクチン愛のしらたま」と、その続編「クロマメ大魔王」を執筆し、読んで貰った時の感想だった。「最後は泣きそうでした。」登場人物とその元彼女が元通りになると思ってくれていたらしく、敢え無く最後を迎えたので感涙というやつだろうか、小説に嵌って頂けなければ起きない感情だ。

 何気無い文中の表現やキャラクターに感情移入しながら読んでくれていなかったらとてもあんな感想文を生み出せなかっただろう!丁寧に読んでくれたのは彼ならではの優しい性格。

 深くまで読んで頂いて有り難かった・・・。

最近フラワービレッジさんと一月余り連絡が取れなかったので、心配して散々メールを送信したが、尚も不通。

 もう連絡を諦めかけていた通所の朝、ヒョッコリはんのように僕の眼前に飛び出した男が、誰だか判別着けるのに一秒も掛からなかった!

 フラワービレッジさんだったのだ! 彼は相変わらずニコニコ顔をしていた。

「島根県に新しくポラリスが出来るので、僕はそこの所長として赴任が決まりまして、まだ内緒だったのでいうに言えず。でしたスミマセン。」 これで溜飲を下げたのは言うまでも無い。 彼はプライベートの電話番号と、メールアドレスを僕に託してくれた。

友人の印だ。


第二章「長引く脳出血後遺症」


  僕は少年期から五十路の時まで新卒での就職の時でも営業生活を35年間勤め上げた時でも睡眠時無呼吸症候群だった。

しかも職責が支店長という住宅営業の管理職の激職だったので本社の要求する売り上げ実績を残さんとする余り部下を鼓舞するエネルギー発出に疲れ自宅に帰宅すると、芋焼酎を煽っていた。

 が、いつしか嗜好に変わっていた。結構美味かったので。

「クッソー!どうしたらエエねん。」仕事上では上手く行かない事など、人は悩むと思うが僕は考える。

 悩まずに改善策を考える。

前職、デベロッパー会社の社長から教えられた考え方を継承している。

 僕は新支店を立ち上げる為に支店長を拝命して高知県へ跳んだ。

それが切っ掛けで徳島県、愛媛県等四国を渡り歩き支店を立ち上げた。

 そして芋焼酎をを好んで飲んだ。飲まざるを得なかった。芋焼酎しか買って来なかったからだ。

 もっと言えば高知支店のメンバーは「笛吹けども踊らず」だったからだ。

新店舗の高知支店をお荷物支店にしてはダメだ!という自負が形になって表れたのは、踊らないスタッフ7人を集めて「プロジェクト・セブン」と名付け、僕がスタッフの抱えている見込み客案件をスタッフと一緒に考え立案し、精査して時にはスタッフと同行営業・クロージングまでやった。

 それが功を奏して高知支店は契約件数の新記録を更新して行った。

しかし、好事魔多しで、徳島県の新支店を立ち上げ、愛媛県新居浜市の新営業所等を任せて頂いた時のある5月の頃、日頃の痛飲が祟ろうとしていた僕は何も知らず神戸へ帰った。

 仕事が休みで久しぶりの神戸へ帰宅した時、愛媛県の新居浜はかなり遠く四国道をハイスピード、ノンストップで4時間半。結構血圧は上がっていた。

 久々の休暇というのに犬のトリミングと買い物のお供に駆り出され不機嫌のまま出かけたのがいけなかった。

 買い物は妻の趣味と僕の趣味とが激突!我慢の針が振り切った刹那・・・。

仕事ばかりで運動をしない49歳の脳血管は、一回の激昂という血圧の急上昇に対応出来ず脆くも崩れ右脳から出血、妻の気転に依り救急車で近所のKОS脳外科病院へ搬送され緊急手術。

 覚醒時にはあまりの頭部の劇痛に身体は揉んどり打つも駆けつけた部下の右手が僕の右手を握りしめ自由な筈の右手は拘束されて痛い頭を押さえたくともそれが出来なかった次第だ。

 残りの左半身の上下肢はロープで固定されていた。

僕が痛さに依り暴れるからだという事だったが、今度は酒切れの禁断症状が現れた。

この病院はお好み焼きチェーン店の近くにあり、徒歩でも行け距離だったため、お好み焼きと生ビールをグビグビとやりたい一心で病床から抜け出し、病院のエントランスを目指し歩いた。

 こんなに禁断症状が出るなんてアルコール中毒かも知れなかった。

「痛っ!」左足に痛みが走った!裸足だから?手術直後だから?逡巡したが、答えは見つからなかった。

 真っ暗な病室に手探りで出口を求め、歩く度に左足に劇痛が走る!よろけそうになりベッドフェンスに左手で捕まり、今度は左手に劇痛が走った! 左半身麻痺、見た目が分かる麻痺だったが、内に秘めた麻痺と闘う事は、見た目が普通の状態だから観た人は理解してくれなかった。

 高次脳機能障害がそれだ! 感情失禁。感極まって号泣する事があった。


 そして間も無く僕の高次脳機能障害が炸裂したのは言うまでも無い。

僕は田尾寺駅近隣にある別のデイケアサービスに通所していた。

 そこのスタッフ数名が僕の家に集まり担当者会議を始めたある日の事だ。

ヘルパーやPT等々、有資格者が揃っていた。

 後はケアマネージャーだ。そして妻・・・。

「まず初めにご主人と言いますか、当事者である犬塚さんの主張からお聞かせ下さい。」当事者って、なんかマズイ事をしでかした者の様な言い方をするけど、何でも言ってやる。

 人の言う事が理解できない失語症の症状が出ていた。

プチン!と自制の糸が切れた時、「りこん・・・・する・・・。」

 これから細い腕で倒れた旦那を支えて行こうとしている妻をこてんぱんに叩きのめしてどーする?

「どうしたのこうちゃん?」と狼狽えている妻を横目で尚も宣う「りこん・・・する・・・・。」

 誰かに脳が鷲掴みされている様な感覚・・・。他の発言者は無かった・・・。

担当者会議に集まったスタッフがドン引きしていた。構わなかった。僕の主張だけで。

僕はただ、蟠りを流してスカッとしたいだけで暴言 を吐いたから・・・、腹には何も残っていなかった。

 でも注意障害は纏わり着いていた。トイレの灯りを良く消し忘れた。

 左半側無視。左目は見えているものの脳がそれを認知せず、無視するから左側のトレーにある食事を食べ残した。

 右に移行する横書きの文字を読み落とすし、書き間違えた。今でも続いている。

失語症。かなりの吃音やテレビニュースのアナウンサーが喋っている内容を理解出来ないばかりか、新聞の文字は読めるが記事内容が頭に入って来ず無駄な時間を過ごした。

 内反尖足と、クロートゥ。

脳の信号が暴れて、左脚の後頚骨筋が縮んで足底をひっくり返し小指に沿うエッジが足底の代わりをさせたからそれを知らずに着地しようものなら劇痛が走る!

しかも足指が後頚骨筋が足指の筋肉を引っ張り足指が握りっ放しで爪先立ちのように全体重の負荷が爪先に掛かり続けた。装具を履いても立っているのが辛かった。 

 神様の悪戯に本気で泣いた物だ。


 2017年4月、僕はポラリスに入所した。

独歩、洗面自立、入浴自立、トイレ自立。

などが出来ていた。

 妻の協力の賜物だった。

入所したらしたで煩わしい事がある。

 スタッフはオールメリードだったが、全員阪神タイガースファンかも知れなかった。

親切で優しい婦人ばかりだったのに、旦那さんが阪神タイガースファンだというスタッフが多かったので旦那さんに感化されてそちらへ流されている可能性もある。。

 僕はれっきとした巨人ファンだ。

10歳の頃から親父に「巨人の星」を観せられ、洗脳されたから、生え抜きの巨人ファンと言える。巨人が負けたら「もう、ご飯は食べへん!」と言って怒り散らした。

 空腹に我慢出来ない子供の僕は後で食べるのだが・・・。

一番レフト柴田、二番セカンド土井、三番ファースト王、四番サード長嶋、五番ライ

 ト末次、六番ショート黒江、七番センター高田、八番キャッチャー森、九番ピッチャー堀内。と、スタメンのオーダーを今でも覚えている。

 ジャイアンツV9時代のスターティングメンバーだ。

昔、テレビ番組の出演者がオール巨人阪神だというので巨人軍の選手が勢揃いで出てくると思い楽しみにしていたが、出てきたのは若手漫才コンビだった。

 結構面白かったので笑い転げた挙句、ファンになった。

もう50年くらい前の話である。

 僕がここの通所を決めたのは何と言っても自分の身体の弱い部分が鍛えられるマシンのヒップがあったからだし、何故此処に通所するに至ったかをイチから説明しなければならない場面が必ずやって来た。

 マシンのヒップとセットで初対面のスタッフ及び通所者にも説明に明け暮れた。

外見だけ観れば分かる部分を説明したが、物事を端折っていては何も伝わらないと後ほど知った。

「ヒップ」は、股関節を鍛える為の物で股関節を使い両足を開脚する。

 多少なりとも重りが付いて股関節に負荷が掛かっている。パワーリハビリならではだ。

付加を克服すればリハビリになり、改善すると思っていた僕は素人の中途障がい者でリハビリテーションの何たるかを知らなさ過ぎた。

 身体に負荷を掛けるのは麻痺の上肢や下肢でそれの実効支援をするのがデイケア・サービス事業者のポラリスで、通所者はわざわざ筋トレに来るのではなく日々の生業の為に自立支援の

あるポラリスに通って来るのである。

 それが分かるまで通所の3年間を費やした。

そして4年目、目標はアメリカ合衆国ハワイ州のホノルルマラソン! それを完走する為にナースの望月さんとチームを組んで歩行に専念している。

 スピード1.7、時間32分距離970メートル。

読んでしまえば時間や距離はそこはかとなく低速短時間短距離だ。

 健常者が読めばPウォークやトレッドミルをこなしている人達や片麻痺障がい者は、オッと、眼に留まる筈だ。僕は週2回、ここに通所していて970mを歩く。

 週2回だから月に8回970メートル。8を乗じたら7760mになり、年間に計算し直すと93120m。

 フルマラソンを2回走る距離になる。

始めて計算してみて驚いたが、正しく継続は力なり! 看護師の望月さんは計算ずくなんだろうか? 彼女のポテンシャルは恐るべしだ。

「Pウォークで20分560m歩いたら疲れますけど、更に12分歩くと340mになりますし、一日約7、8回若しくは10回トイレまで歩く距離を7~10mと計算したらポラリスの目標の一日歩行1Kmに近付きますから頑張りませんか?」こう言われて即答出来た!丸で自分の事の様に考えて戴いてケアも考察してくれるナース望月んには頭が下がる。

 彼女が休みの時はリハビリに締まりが無い、もう相棒化している証拠だ、チームを組んで1年は経っただろうか?

ポラリスへ行くと彼女に会う。そして歩く。


 そもそも何故トレーニングに嵌まったか?

ポラリスへ通所が始まった時、僕は間食の帝王だった。

 リハビリもせず、一日中テレビにかじりつき、思い出した様にキッチンの食品庫の扉を開け、お菓子の袋を物色し、これといったものが有ると無断で開封し、ムシャムシャと食べる。

 ポラリス通所の日には、帰宅してからノルマを消化するべく精力的に食べた。

こんな生活を続けているからアッという間に70㎏に到達した!

「お腹が出てきたね?」通所1年が経ったある日、ムクムクと間食の帝王が起き出して元の木阿弥になりかけていたある日、次々とスタッフに言われたという事は上から見ても下から見ても間違いなく腹が出ているという事だろう。

 一念発起した僕は間食ゼロ運動を始めた! 約3ヶ月した頃、腹もスッキリしてきて不覚にも油断が生じ又もや腹が瞼の妖怪に成りつつあった。

 ある日Pウォークをしていたら椿下羽月(つばきしたはづき)元所長(仮称)が、「犬塚さん大分お腹がしんどそうやね、家でスクワットでもやったらは?身体の中で一番大きな筋肉がある太股を鍛えたら脂肪が燃えてスッキリするよ?」と、言う。

 主治医にも同じ事を言われたから僕は椿下元所長の言う方を信じてスクワットをやる事に決めた。

 8月15日の事だった。スクワットは上手く行き、次を求めて試行錯誤していたある日、

リハビリ入院したPTの言葉を思い出し、足上げ腹筋を400回実行した。

 足あげ腹筋400回といっても400回到達には険しく厳しい道程だった。

初めて腹筋をやった場合、50回もすれば腹が痛くなってそこで止めてしまうのが落ちだが、僕の性格はしつこい! あきらめない! という性質で営業経験35年の賜物だろう。

 それにラグビー部でしごかれまくった体質が、沸々としているからだろう。

兎に角200回までやり遂げた5月25日、この日が怒涛の腹筋スタート日になった。

 1日300回を目標に上体起こし腹筋をやる。

1日300回が目標だから朝、昼、?に100回、少しずつ振り分けてやり易くした。

 が、100回なんて数字は楽勝過ぎて何の効果も無いように思え出したが、悩む代わりに考えて篠山医療センターの理学療法士に聞いた通りのやり方を実践した。

 足あげ腹筋は、下腹部の筋肉が鍛えられて腹は凹みます。

上体起こし腹筋は胸の下の腹筋が鍛えられて内臓脂肪が燃える。

 いいことを聴いたと即やり始めたらなかなか腹筋に効いているではないか!

考えて100回から200回、300回と連続でやるようになり今では400回連続で朝、朝、昼、?と1日4セットをやっている。

 ワンセットの腹筋は、800回なので(足あげ400回・上体起こし400.合計800回)オマケにスクワット400回、を1日3セット実行している。

 しかも毎日のルーチンに組み入れ、実行しなかったら体調がおかしくなる様な気がするのは、身体が慣れて来たせいだろうか。

 遣ればやるほど以前はお腹に大きな瞼がある妖怪の様で、浴室の鏡を見たくなかったが、段段と腹が痩せてきて、スマートになってきた。

 体重5kg減量出来ている。

以前着用していたディーゼルのジーンズを履ける日が近付きつつある。

 と、思う。

 例えば、足あげ腹筋をやる100回や200回は、楽勝でこなせる。

しかし250回を過ぎたあたりから腹が痛くなり奥歯を噛み締めつつでないと腹筋に気合いが入らず、顔を歪ませながら300回、350回と過ぎて目標の400回まで到達する!

 何事も目標設定をしたらヤりきるまでどんな事をしてでもやり切る!それが僕の信条だ。


第三章「奥ゆかしい高齢者」


 出会いは必然的だった。

出遭い当時、91歳の篠山静夫(ささやましずお)さん(仮称)77歳の平塚亮一(ひらつかりょういち)さん(仮称)一見普通の高齢者なのだが、彼らを侮ってはいけない。

 見た目は変わりなく其々の人生を渡って来た生き様を内に秘めこちらから聞かない限りは何の開示もしない奥ゆかしい二人と言って良い。

 篠山さんは元英語教授、神戸市中央区の高校にて校長先生を勤め上げてきた教師のキャリアが長い。

 しかも御自身でホームページを構築し、花や野鳥の写真を鳥が来るまで望遠レンズを構え身動ぎ一つもせず、じっと我慢の子でシャッターチャンスを伺い忍耐力の要る趣味だが、篠山さんが忍耐の中で作り上げたホームページをホクホクしながら拝見するのが楽しみある。

 しかも英語版のホームページもあるから圧巻で流石英語教授だ。

話しを突き詰めれば丹波篠山市出身で、校長の仕事として僕の母校である鈴蘭台の商業高校に教え子を呼び寄せた事もあってその教え子という人がイギリス帰りの英語教師で、僕の担任になった逸話もあり、その担任が玉山賢太郎(たまやまけんたろう)先生で、通称「タマケン」と、呼ばれていた。

 これも必然的である。

僕は高校生の時ラガーマンだった。

 ポジションはライトウィング、直訳すると右翼だが、政治結社でも何でも無い。

しかし、部員が規定数に及ばず3年生が卒業してから同好会に格下げされて部長にまつりあげられ不本意ながら部員の代表になった。

 と、同時に顧問がタマケンに変わり打ち合わせをしに職員室に行ったとき、「俺はラグビーのルールを知らんもんな、勝手に為らされたからもうテキトーに走っておけや。」

 タマケンにケンもホロロだった。

走るといっても3年生に菊水山に走って行かされ頂上へ着くや否やポケットからマイルドセブンを取り出しチルチルミチルで火を点け、スパスパとやり出したからこんなラグビー部は絶対強くならないと思いタバコは絶対に咥えなかった。

 と、いう話しをしたら「走ってもエエけど菊水山へは行ったらいかんぞ!」と、縛りを付けられた事がある。

 そして平塚亮一さんは、「僕が○○ホーム出身だと知ると、自分は建築士だと明かしてくれた。

「二級ですか?」と聞くと「いいえ。」と、いう。

残るは構造計算が出来る一級しかないじゃないか。

 もう普通の乗用車の様に羊の皮を被ったBMWだ! 

テイクバックが僕とは違い過ぎる!

 二人のスキルに多少なりとも噛り付いていた僕は、辛うじて二人と話しが出来るサイトに居た。

 いや、話しを合わせて頂いているのかも知れない。

そして僕達は友達となった。

 友達と言ってもEメールやメッセンジャーの通信をするだけのメールフレンドだ。

兎に角ポラリス山口南店に通所している人は高齢者が殆どではなく僕の様に身体の一部にハンディキャップを背負い元気に通所している。

 何が問題かというのは、本人は然程問題視していない場合が多く朝から通所してはミンナとおしゃべりしていたら樹が紛れるのでお喋りが楽しみに通所している節もある。

84歳の八坂雅(やさかみやび)さん(仮称)も病気による歩行困難を克服され今では元気良く通所されている高齢者の一人だ。

 矍鑠としてお喋りが楽しく通所者の中で一番元気な高齢者だ。

因みに僕の母親は昭和9年生まれで88歳。鹿児島県から神戸市へ嫁入りしたと言っていた。 要支援2から要介護2になった独居老人。

兎に角家の中で良く転倒していたので、一人で出歩くと何時外出先で転倒するかと思うとおちおち要介護2の障がい者なんかやってられない。そこで、1案を講じ僕のリハビリで良くお世話になった兵庫医科大篠山医療センターに頼る事にした。

 60日間のリハビリ入院で母親の足腰を鍛え上げ、マトモに歩けるようにしてもらいたい。それが叶わぬならばせめて杖歩行でも出来たら良いと思いリハビリ入院してもらった所、母が退院の日迎えに行った僕の眼を疑う鮮烈な光景に出くわす事になるとは、思いも寄らない副産物とでも言おうかシャキーン!と背筋が延びて杖を突いているが、歩ける母親が僕の眼の前に立っている! 

「マジで!?歩けとうやん!凄いなアンタ。」開口一番、口を突いて出たのがこれだった。

 これで家の中で自炊も出来るし、こけなくても済む。と、思ったのも束の間、元気になった分、買い物や銀行や病院やとやたら外へ出たがる。

 僕の妻は僕の代わりに生活費を稼ぐ為に労働しているから母が転倒して怪我で病院に居ると連絡を入れても帰って来れない地域まで通勤しているので即効性が無い為、チマチマと移動されては大変困るのだ。

 だから買い物に行かなくても良いように宅配弁当を申し込んでもらった。

 幸い認知認定をされていないので、後はごみ捨てだけで、親切なケアマネージャーの提案で神戸市のひまわり回収制度を紹介してもらって、そこに申し込んだ次第だ。

 今後神戸市の担当者と面談が有り契約を交わしたらサービスが始まる。

片麻痺の僕でも年老いた親の面倒が観れると、証明したい。

 圏外からの指示に尽きるが「どうしたらいいの?」とオロオロするばかりでなく頭を使って果敢に命の生業に挑んで観てはどうか?と、思う。


 遠方へ通勤するのに朝5時半に起床し、犬四匹の散歩をし、帰ったら僕と娘の朝食を用意し、僕が犬におやつをあげている間に犬のケージを掃除する。それが澄んだら僕が犬をケージに入れるからだ。

 その隙に娘を叩き起こして朝食を採らせる。

朝は、戦争だが、僕は妻を起す為に5時に起床してトレーニングを終えてから妻を起すのだが、 それよりもハードな朝を過ごしている。


第四章「ゼロの駈け引き」


 ポラリス山口南店は、屋外歩行があり、僕は外出時には看護師が同行する。

同行基準には色々決まりがあって、介護2では、看護師着きとなるらしい。

スタッフの須崎八代(すざきやしろ)さん(仮称)に聞いたから確かだ。

 彼女は若々しく聡明で初めて見た時、二度観したくらいのパルピテーションを覚え、子育てをしながらポラリスへ勤務する家庭の主婦とは思えないぐらいキュートでチャーミングだった。

 立ち居振る舞いに優しさがあふれ出ていた彼女に安心感と親近感が湧き今では楽しく会話をさせてもらっている。

 あれは4月の上旬頃、彼女がローテーションの都合で僕と屋外歩行」に行った時に僕の趣味の小説執筆の話しと、作詞作曲の話しをしながら山口南店を出て東向きに歩いて坂道を下り切ったところで何時ものガソリンスタンドからUターンして坂道を上がり始めた刹那。

 僕の右の肩甲骨に彼女の右手がスッと延びて来て、僕の背中を支えてくれている?

その行動が、優しさ溢れる彼女自身の心の泉から湧き出たモノだと知るには然程時間は掛からなかった。

 彼女の右手の体温が肩甲骨に伝わり、背中がホクホクしていて暖かくて優しい感情に包まれ泣きそうになるくらいに優しさのオーラに包まれていた。


 「ゼロの駈け引き」テーマソング

①右手を添えられた背中の温もりが優しい

あなたの真心が仄かに心臓を包むゼロからの会瀬

イノセントな恋の方が僕らは萌える


②東風吹かば涼しげなノスタルジー、セピア春のひととき

「好きです」と告白を出来ないもどかしさ

麻痺側に立つあなたの優しさを感じた刹那、上り坂を上がり切ったら終わる、弾んだ息遣い5割増しの笑顔

 メンションの時間(とき)が過ぎて行く寂しさを克復する試練を肌で感じた。

ゼロの駆け引き流れるままに時代(とき)の恋心は映える

ゼロの駆け引き流れるままに漂う時代の恋心は映える


右手を添えられて坂道を上がり切ったら歌詞が出来ていた。


 ラブソングのように思えるが、ノーロマンスだ。


 そしてポラリスから帰宅をして、昼食を採りすぐさま作曲を終え小説を書き始めて夜の9時には短編小説が出来ていた。

 この時の須崎さんが小説の主人公のモチーフとなり、篠山静夫さんには主人公のモチーフとなって頂いた。

小説「ゼロの駈け引き」のプロットが戦時中のタイムスリップというありきたりのストーリーだったのが落選してしまった。しかし、篠山静夫シリーズの小説はもう5冊は書かせて頂いている。

「ゼロの駈け引き」のプロットはこうだ。

 1945年4月7日、40ミリ高射砲を積んだ無敵の戦艦大和が呉港を離岸した。

護衛に篠山静夫(ささやましずお)や曲がり角祐次(まがりかどゆうじ)らの搭乗した零戦を従え那覇目指して航行する大和の遥か頭上では、高度1万メートルに達した新開発のファントムが15機、虎視眈々と護衛のゼロを俯瞰していた。

刹那、急降下!

先頭のゼロを狙い機関銃を連射した!

「エースの木村班長!」

 祐次が叫び堕ちて行く木村の搭乗機目掛けて止めを刺さんと追うファントムの尾翼の追跡をする祐次の搭乗機を援護しながら篠山は旋回、回転しながら追尾!

 ガガガ!ドン!結構な衝撃が篠山の腹部に与えられた!

「自分も戦死?」

 遠退く意識に視界が拓け、舗装整備された滑走路のような広い。

米軍の基地?ラバウル?逡巡しながら走り寄る男に衝撃の事実を知らされ。出立前に祐次から「ワシが死んだら須崎八代(すざきやしろ)に会いに行ってくれ!」

祐次の遺言とも思える日常の会話を思い出し、高知県須崎市出身の須崎八代に会いに行く決意をして、ゼロから降りてポートアイランド南の神戸空港をトボトボと、歩いて三宮から元町へ、高架下商店街を歩いた時、兵庫県警の交通機動隊に保護され、祐次が言っていたシロクマ病院の須崎八代に面会する為に県警のパトカーに乗せられ護送された。

 時代は令和3年、シロクマ病院は、様子が変わり名称がポーラクリニックとなっていた。

クリニックの受け付けに佇む篠山静夫に小ぢんまりとした若い看護師が挨拶をした。

「須崎八代さんですか?」篠山が、問う!

「いいえ私は曲がり角卯月(まがりかどうづき)です。

祖母の須崎八代は終戦後に私の母を産み、亡くなりました。

 祖母が生きていたら93歳でしたが、院長だった祖母は曲がり角祐次さんを愛し、曲がり角姓が消えるのを恐れた彼女は婿養子を取れと遺言を残したのです。

須崎の時代に曲がり角祐次と知り合い懐妊しましたが、この先子孫が女系で嫁入りして姓が変わる事を恐れたのです。」

 ここまで聴いた篠山は、ファントムに撃たれたキズがパックリ開き、鮮血を迸らせながら「願わくば花の下に春死なん如月の望月の頃。」

と、時勢の句を読み消えて行った。おそまつ。

 篠山さんには英語教授というキャリアがある。

そこに科学者として小説上でご活躍頂いていた。

「迎撃のワクチン・愛のしらたま」

という小説では「我々は宇宙人だ!」コロナウィルスが蔓延していた刹那、宇宙からの犯行声明が届いた!1万4000年後に終末を迎え膨張した太陽が吸収する運命の惑星アルツハイマーの策略で地球上の全世界にパンデミックが拡がり、宇宙戦争の様相のさ中、科学者の篠山静夫(ささやましずお)教授がリーダーとなり人体からの白血球を改造し、スーパーしらたまとなったリンパ球の好中球を血管に侵入してきたコロナウィルスを迎撃するシステムを作ると言う!

  先ずはナサから入手したコロナウィルスを篠山教授から摂取した白血球5500個をふつけて観た! 

 瞬時に結果が出て、数秒足らずでコロナウィルス一個の圧勝だった!ショックを受けた篠山教授は故郷の丹波篠山市に帰省し、川で山椒魚を捕獲しては焼いて食べていた。

 それを観た弟子の大原輝(おおはらあきら)が嘆いた拍子にアサリの貝毒を白血球に合成する事を思い付く。

 オブザーバーとして招致された看護師の庄屋三咲(しょうやみさき)と大原輝は、嘗ての恋人同志だった。

 過去の思い出が交錯する中、そして篠山邸のラボではアサリから摂取した貝毒を白血球に合成する事に成功!しかし、大原の妻・礼子は自宅に置き手紙を残して失踪していた。

 その内容とは、地球人の愛に負けたと、敗北宣言とも受け取れるサヨナラの手紙だった。

勇者篠山静夫を讃え一人死に行く礼子もアルツハイマー星人に寄生された地球人の一人だった。

 そして三咲は寄生されかかった自分の身体にウィルスを死滅させる為にボツリヌス菌を注射して心臓を筋弛緩させ死を選んだ。

 飛び去って行くアルツハーマー星人をアースの夕日がスカーレット色に照らし続けていた。

続編は「クロマメ大魔王」で、篠山医療センターでのリハビリで仲良くなった理学療法士に小説を依頼されてPTの物語を書いたが、篠山さんには僕の小説に欠かせない主人公に育っていたので、櫻守になってPTのオブザーバーになるという物語を書いた。

 こうしてポラリスの通所時だけだが、付き合いは深まり今では知っておきたい情報を頂いたり、平塚さんのほうでは建築に関する小説の題材の構成を教えてもらっては、執筆するといった。

 情報収集や情報発信をお互いに交信して、足りない部分を補っている。

火曜日と金曜日は僕の通所の日であそこに行けば看護師の望月さんからリハビリの情報を貰える。

 僕が小説を書く切っ掛けとなったのは、朝ドラ「花子とアン」の放送が始まってからの事だった。

 脳出血発症期の真っ只中で自宅でさえ車椅子が移動手段だったので、一人車椅子に座ってテレビの番をしていた時、番組は、洋書の翻訳をする花子の前に立ちはだかる女流作家が、イケずを言うシーンに感化されて僕も小説を書いて見ようと思い立ったのが切っ掛けだった。

 思った通り執筆し始めるとそれにのめり込んでしまった。

僕は何かを始めると夢中になり研鑽という言葉は、僕の所作に当てはまっていた。

 妻に「小説を書いて見ようと思うけど原稿用紙を買って来てくれないか?」とホイホイとB4版の少し大きめの原稿用紙を買って来てくれた。

 妻に聞くと「B4版の方が作家が良く使っているらしいよ?」文具屋で聞いてくれたのだろう。

「つまらん話を書くわけに行かんな・・。」改めて妻に感謝をしつつ、気合いを入れて書いた。

最初のタイトルは「目指せカリスマ」98ページ、短編だった。。

 篠山さんや平塚さんに会えて楽しいお喋りをしよう。

勿論リハビリ優先でPウォークで、1Km目標に歩き、集中している間は無言だ。

 ポタリス通所で数々の発見をした。

麻痺側の指は筋肉が拘縮して握り拳を作っている。

 所謂筋緊張がそれだ。

指を伸ばしたい時、指を開放したい時には手首を内転してやると指は楽に掌を離れる。

 そして四六時中yr首を内転してやる癖を着けると、指は緩み掌をみせてくれるように為る。左片麻痺の僕が歩行すると、右足が軸足の代わりをやり、腰と脊髄が右に折れ逆くの字になる。

「左に体重を掛けて下さい!」と、言われると素直に左に体重を掛け、歩容がバラになった。

 中々コツが掴めない僕は、篠山医療センターにリハビリ入院した時のPTの言葉を思い出し、何とか腰に体重を乗せる事を覚え左に流した腰がバランスを取り腰と脊髄は真っ直ぐになり歩ける様になった。

 左に体重を掛けていられるから右足の振り出しの時にトレッドは大きく取れた。

今歩いているのは1.7km/hで、20分も歩けば560m歩ける。

 ひたすら時間内に1kmを走破する方法を練り出し、時速1.8kmで歩いてみた。

これは2.0km/hで歩くよりも麻痺の左足が外旋しない分だけ歩行に集中できるし、楽だ。 かなりスピード感はあるものの左足が右足に着いて行こうとしている分改善はあるだろう。結局32分歩いて960m、トイレを使う時時椅子からトイレまでの距離と使用回数を換算して1030m。

 目標の1km歩行を超えて歩けた。 

更に2.0km/hに歩行速度を上げればガチンコで1056mになり1kmを超えられる。これはまだまだ訓練が必要だ。

 1.8km/hを暫く歩いて左側に軸足を置けるようになるまで4週程度は掛かるだろうから0.1ずつ上げなくてはならないが、想いを成し遂げる為に焦っては折角歩容が固まって来たのに敢えて崩す必要も無い。

 僕が健常者の若い頃ならば、我武者羅に身体を痛めつけていただろうが最早還暦に脚を踏み入れた初老に我武者羅は似合わないどころか回避しなければならない選択肢。

 己を知って己の世話をする・・・。

マサにポラリスの実効支援を通所者自ら理解し、ウィズポラリスを地で行こうとしている。

 十数年前の急性期から暗い時間を生きた。

僕の片麻痺人生の大きな曲がり角を曲がったらそこには良いものがあった。

 燦然と輝くポラリスに遭遇した時、僕の片麻痺人生が変わったと言える。(了)



  

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我が心の太陽ポラリス 塩ト檸檬 しおとれもん @hibryid

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