ほんのちょっとの水と洗剤と砂糖

尾八原ジュージ

えまちゃんのこと

 陸の孤島みたいなところだった。山の中に突然現れたモンサンミッシェルって感じの建物が実は小児科専門の病院だったなんて、えまちゃんが入院していなかったら一生知らなかったかもしれない。

 えまちゃんはうちの遠縁の子で、子供の頃、なぜか一度だけ祖母に連れられてお見舞いに行った。祖母が先生と何か話している間、わたしは一度も会ったことのない、どきっとするほど痩せた年下の女の子と、どうやって仲良くしようか悩んでいた。

 続かない会話に困っていると、ふとサイドテーブルに置かれた小瓶とストローが目に入った。「これなに?」と尋ねると、シャボン玉だと言われた。時々窓から吹くのだという。

「売ってるやつじゃなくて、給湯室の洗剤もらって作ったやつだから、あんまりうまく吹けないの」

 と、えまちゃんは困ったように話す。

「ちょっと待ってて」

 わたしは病室を出て談話室に向かった。喫茶スペースに、コーヒーや紅茶に入れるためのグラニュー糖があったのを思い出したのだ。一袋失敬して病室に戻ると、グラニュー糖をシャボン玉液に入れ、よく混ぜて溶かした。

「ちょっと吹いてみ。前より割れなくなったと思うよ」

 えまちゃんは窓を開け、ストローの先に溶液をつけてふーっと息を吹き込んだ。ストローの先からシャボン玉がいくつか生まれ、空に向かって飛んだ。

「ほんとだ」

 笑ったえまちゃんは、胸がギュッと痛くなるほどかわいかった。

 それが最初で最後、次に会ったとき、えまちゃんはお骨になって、彼女のおうちの仏壇の前に置かれていた。やっぱり一回だけ、祖母に連れられてお線香をあげに行ったのだ。

 ピンクのブラウスを着たえまちゃんが写った遺影の前に、見覚えのある小瓶とストローが並んでいた。半分ほど中身が入っている。

「それ郁実ちゃんにつくってもらったの、覚えてる?」

 えまちゃんのお母さんが言った。「おねえさんが作ってくれたやつだからって、大事に大事に使ってたのよ」

 わたしがお見舞いにいったのはもう一年以上前のことなのに、そのときのシャボン玉液がまだ残っているのだという。ほんのちょっと水と洗剤と砂糖があれば、こんなものいくらだって作れるのに。そのつもりで作り方だって教えてあげたのに、どうしてそんなに大事にしていたんだろう。

 わたしは小瓶を見ることができなくなった。こんなちょっぴりの液体を使いきれずに遺していったえまちゃんのことを考えると、子供心に悲しくて仕方がなかった。

 あれから二十年近くたった今でも夢を見る。山のモンサンミッシェルみたいな建物の、白っぽい部屋の窓辺に座っているえまちゃんの夢だ。彼女は細い指で大事に包むように、小さな瓶を持っている。

「シャボン玉好きなんでしょ、いくらでも吹けばいいのに」

 わたしがそう言うと、えまちゃんは「おねえさんに作ってもらったから大事に使うの」と言って、胸が痛くなるような笑顔をわたしに向ける。

 使いなよ、こんなものいくらでも作ってあげるからさ。そう言いながら、わたしは自分の寝言で目を覚ます。そういうとき、大抵空はまだ暗い。わたしはベッドの中で寝返りを打ち、もっと作ってあげればよかったと壁に囁きかける。えまちゃんはもういない。

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ほんのちょっとの水と洗剤と砂糖 尾八原ジュージ @zi-yon

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