第9話 行動範囲

 電話を切った僕はしばらく金魚を眺めていた。金魚は口をパクパクさせながらヒラヒラと泳いでいた。こいつらは頭が潰れることはあっても、砕けることはないんだなとか、開かれたとしても真っ二つになった頭がくっついてるんだろうなとか、頭の中の声が言っている。このまま金魚鉢を頭に据えれば金魚鉢人間になれるかもしれないと思ったが、やめておいた。あんまりかっこよくないじゃないか。金魚鉢頭なんて、水がこぼれるから寝そべれない。常に水がこぼれないように姿勢をピンとしておかないといけないし、金魚が頭の中を泳いでいるってのもなんとなく落ち着かない。きっと鼻毛は金魚のフンで作られる。


 僕はコーヒーを淹れ、それを飲み干した後に少し出かけることにした。いくつか買い物もしなければいけなかったし、パンフレットをもらいに電気屋に行く必要もあった。もっと言うと僕は自分の残した破片を探す必要もあった。


 頭が砕けてしまってから、いやその前から同じなのだが、僕の行動範囲はそこまで広くなかった。どこに出掛けるという事もなかったし、いつも行くスーパーは同じだった。ただそこに頭が砕けてしまったビルの下とその周辺地域、それが加わっただけだった。


出不精だったこともあったし、さして海外や観光地に行きたいとも思わない性分だったので、あまり旅行は行かなかった。パスポートも最初につくった5年の更新期間のあと、一度も更新していないし、パスポートにもスタンプは一つしか押されていない。世界の美しい景色や情緒溢れる街並みの風景は「世界の車窓から」を自宅の42インチの液晶テレビで見ているだけで十分だった。番組のナレーターは自分が想像しないような切り口で風景を何かに比喩して、その美しさを伝えていた。

今海外旅行に行こうとしたところで、きっと検問に引っかかるだろう。僕は僕である照合さえ今は出来ないでいる。ハムスターは迷路の同じ道を永遠に餌を求めて歩くだけなのだ。この前と同じ道なのに餌の置き場所が変わると別の道だと錯覚してしまう。その程度なのだ。


 僕の頭が砕けてしまったビルの下の道は僕の家から最寄りの駅に向かう途中の小さな商店街の一本裏に入った道にある。小さな商店街といっても案外人通りが多いし、ラーメン屋も3軒もある。なかなか立派な商店街だ。駅ビルの近くにあるイトーヨーカドーにも負けないくらいの活気があった。でも一本隣の道は恐ろしくしんとしていて、ほとんど人通りがない。まるでその人の居ない通りの存在を隠すために、わざと商店街を賑やかしているようだった。きっと隣の通りには何かがあるのだ。きっとそうに違いない。

僕は商店街は通らず、僕の頭が砕けたビルの前を通った。住宅もマンションもあるのにそこで人にすれ違ったことはほとんどない。本当に人が住んでいるのか懐疑的だった。ある一軒家の綺麗に整った庭を見ては、いつも変わらずに咲いている樹脂製の造花を思い出した。マンションは小さい時に遊んだレゴブロックだった。それくらいいつもしんとしていた。僕の頭が砕けたその日も同じようにそこの住民はひっそりと息を潜めていたのだろう。人1人の頭が砕けようと全く構わないのだ。なので僕の頭が砕けたこともさして騒動にはならずに済んだ。逆に良かったのかもしれない。いや、そもそも居たのか?


僕の頭が砕けた場所には放射線状に何かのシミが出来ていた。そこから頭の破片を拾った記憶があった。人の形にチョークで形を取られていないので、おそらく僕は死んだ訳ではなさそうだ。


その周辺をあらためて探してみたが僕の頭の破片は落ちていなかった。一昨日の夜の闇の中に降った雨で全部流されれしまったのかもしれない。そう思った。

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(仮称)武蔵野市境2丁目計画 奥田凡夫(ヲクダボンプ) @wock_da_bomp

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