第8話 社会保障
朝起きると、僕はこめかみのあたりに軽い鈍痛を覚えた。上半身を起こすのに苦心しながらも急いで洗面所に向かい鏡を覗き込んだ。頭が戻っているかもしれない、そう確信したのだ。何故だろうか昨日見た夢のせいだろう。
夢の中で僕は高い場所からゆっくりと先の細い水差しで水を頭に差されていた。ゆっくりと時間をかけて。僕はひたすらにその細くなった水柱を頭で受けていた。頭?水は非常に冷たいが寒くはない。まるでかき氷を一気に食べた時のような鈍い痛みがこめかみに感じていた。なんで僕は無慈悲にこんな水を頭に浴びているのか不思議でならなかった。頭?都度都度頭のどこかに頭に水を感じている違和感があるがそれがなぜなのかはわからなかった。水の調子は一向に変わらなかった。結構な高い位置からその水は落とされているがそれ自体に痛みはない。ただただ冷たかった。
建物の下にいたはずの僕はいつのまにか建物の屋上に居て、水は雲の彼方から相変わらず降り注いでいた。もしこの水が溜まり切ったらきっと僕の頭は以前のように頭として再形成されるのだろう。そういう淡い期待があった。ほのかに鉄を研磨機で削る時のような匂いがずっとしていた。嫌な匂いでもないが良い香りでもない。頭を殴られた時に感じるような鈍い匂いだった。頭?
水の勢いは変わらないが音だけが「ゴゴゴ」と大きくなっていった。遠くからだんだん近づいてくるような低い音だった。だんだんと近づいてきて定期的に止まり、硬いものを食うようなバリバリと醜い音を立ててはまた低い唸り声をあげている。
「・・・ライ・・・ライ」
お囃子のような声も聞こえ始めた。低い唸り声のそれと動きが呼応していた。まるで大きな龍に跨った子どものようだ。太鼓を叩きながら近づいてくる。
「・・・ライ・・・ライ」
龍はそこらじゅうのものを手当たり次第にガブガブと食らいながら蛇行して僕に近づいてくる。龍に跨った子どもは楽しそうに噛み付く対象に近づくと「ライ!ライ!」と声を出してはしゃぐ。どこの国の言葉かわからないが、もっとやれといっているようだった。
その龍と童がどんどん僕に近づき、龍がまさに僕の頭を喰らおうとしている時だった。童だった搭乗者はいつのまにかあなたに変わっていて、僕の耳元ではっきりと聞こえるように囁いた。
「ねえ、ハッピーエンドでしょ?」
聞こえてきたのが目を開ける前か開けた後かわからなかった。しかし実際の耳に聞こえたような気がした。目を覚ました僕はこめかみに鈍痛を覚え、洗面所に向かったのだ。淡い期待を胸に。
時計は10時10分頃を指し、外では区の清掃員がゴミ収集車を誘導しながら道路に出されたゴミを回収していた。街中のゴミは餌のようにゴミ収集車に食われていた。
頭は無かった。こめかみの痛みは続いていた。
昔聞いたことがある。足を切断した人は、何故か切断した足の指が痒くなってしまうそうだ。もうなくなっているんだから掻こうにも掻けない。これ以上のもどかしさはないだろう。どこをどうすればそのかゆみは治るのだろうか。僕のこめかみはどこか捨てられ、あの清掃車の荷台に乱暴に放り込まれ、他のゴミと一緒に潰されているのだろうか?僕は本当にそうかもしれないと一瞬思ったが、遠くに行ってしまったゴミ収集車を追いかける気はしなかった。
やっぱり一度医者に診てもらおう、僕は思った。頭が砕けてから何度か病院に行く事を考えたのだが、結局行かずじまいだった。だってどう説明すればいいんだ?「先生、頭が砕けてしまったのですが、、、」と言えばいいのか?受付の人に「今日はどうされましたか?」と聞かれた時、「はぁ、その〜、先日頭を砕いちゃいまして〜。。。」とでも言うのか?足挫いちゃいましたぐらいの感覚で?どう説明すればスマートにこの状況を簡潔に説明出来るか自信がなかったのだ。どっから説明すればいい?僕にもよくわかっていないのに。世の中には説明出来るややこしい事と、説明出来ないややこしい事が存在する。
対面だとちょっと説明する自信がない。僕は顔を洗い水を少し飲んだ後、どこに相談すればいいのかわからずに、手元にあった区報に書いてあった「東京都心身障害者福祉相談センター」に電話をかけた。
「はい、東京都心身障害者福祉相談センター、担当鏑木がお受けいたします。」
「あのー、すみません。ちょっと伺いたいんですが。。。」
のっけから噛みそうな長い窓口名なのによくしっかりと言えるなと感心してしまった。鏑木さん、きっと電話を切って10分後にはあなたの名前は忘れてしまうだろう。すまない。
「はい、ご相談お受けいたします。どういったご相談でしょうか?」
感じのいい鏑木さんはこれからやってくるややこしい話を予想だにしていない。かわいそうに。
「いや〜、あのぅ、ちょっと説明するのが難しいのですが、例えば上肢以外の身体障害の場合、どう言う障害になるのでしょうか。あ、いや、頭の障害ではないんです、頭の問題なんですが。。」
「え?もう一度よろしいですか?」
僕は鏑木さんが気の毒でならなかった。もし僕よりも1秒でも早く腕を事故で無くしてしまった人が連絡をしていれば、こんなややこしい相談を受けずに済んだのに。
「えっとですね、端的に申し上げますと、頭がないと言うか、頭が砕けたと言うか。。。そうだ、上肢って首から上は対象になるのでしょうか?」
「え?首ですか?首はちょっとー…あの上肢というのが腕の事を指していまして…」
「いやそれはわかってるんです。わかった上で首から上は上肢となるのかどうか知りたいんですが…そうだ、頭に関する障害ってどういったものが挙げられるんでしょうか?」
「頭ですか?頭だと精神疾患や統合失調症や聴覚障害、視覚障害などでしょうか?首から上って事ですよね?」
「そうですそうです。首から上の話です。」
「お話は出来てらっしゃるのでお客様は視覚に障害を感じてらっしゃるのでしょうか?」
「いや、ちゃんと見えます。鏡で頭がないことも確認しました。正常です。」
「失礼ですが精神疾患の可能性のご相談でしょうか?」
「いや、精神状態は正常のような気がします。ちゃんと話も出来てますし。」
「はぁ、まあそうですがお話のできる精神疾患をお持ちの方もたくさんいらっしゃいますので…」
「いや、えっと、回りくどくてごめんなさい。正直に言うと頭が無いんです。」
「そんな、、、自分の事をそんなふうにおっしゃらないでください。落ち着いて、大丈夫ですから。」
どうやら僕と鏑木ペアは世界一物事をややこしくする事ができる天才デュオらしい。話が前に進まない。
「えっとですね。説明するのが難しいのですが、ある日を境に頭が砕けてなくなってしまったんです。はい。今も頭がありません。普段の生活は遅れています。はい。仕事も継続できています。その生活に支障はないのですが、身分証明とか結構大変なことも多くって。なので誰かに頭が無いことを証明してもらうというか、認めてもらうというか。」
「はい。。。そうですね。これまで頭が砕けてしまったという相談をいただいたことがないので、なんとも言えないのですが、、、上半身の一部がなくなってしまった場合というのがその、上肢、腕から先ですね、そこが欠損してしまった場合は上肢障害として認定されるのですが、首から先についてはちょっと、、、というより、首から先がない場合は通常、その、、、言いにくいですが、もう亡くなってらっしゃいますよね?今お話されてる方はちゃんとお話されてるように思いますが。。」
「はい、なんで説明が難しいんです。ちゃんと生きてますよ。ちょっと気を失いましたが歩いて家まで帰りましたし、砕けた頭もちゃんと拾って保管してあります。全部拾いきれてないかもしれませんが。でも僕もこんなのは初めてで、なんというかとにかく相談しないとなんともって思って」
「お客様、こちらの窓口、いろいろな方が相談されますが、さすがに頭が無いから障害認定してほしいというのはちょっと前例がありません。結構あるんですよ、実は自分はもう死んだんだがとか、幽霊なんだがにも社会保障を与えてくれとか、大体はイタズラですが。ちょっと確認するのでそのままお待ちください」
だんだんと親身感が無くなってきたのがわかる。返答をする前に保留にされてしまった。きっとどうやって電話を切るのが妥当なのか上司に相談しているのだろう。おそらく電話の向こうで僕は変な相談者になっている。オペレーター鏑木の「こんな相談は嫌だ」ランキングの何位くらいに僕の頭のない話は入るのだろうか。どうせなら上位であって欲しい、その上が救われる。
僕は保留されてから5分経った時点で、どうせ病院で難病認定もらうように、可哀想な人に対する声色で、結局医者に行くように言われるのがオチだと思い、そのまま切断マークをタップした。最初から予想していた事だった。別に悲しくはなかった。
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