第三話 

「おれは絶対に君らのバンドをデビューさせる。だから、君の覚悟も見せてほしい」

 自らの特殊な性癖リアルラブドールマニアを告白したあとで、ヤマモトさんはそう言った。半年以上前のことだ。

 惜しみない先行投資をした商品アーティストにデビュー直後にケツをまくられて、あわや会社をクビになりかけたエピソードも聞かされた。

 睡眠薬を服用してラブドールになることを承認する娼婦コールガールは存在しないからと説明されたが、法律に反しているどころか、人の道に反する行為であることは重々承知していた。

 にもかかわらず、片手じゃきかない数の女子えものたちをヤマモトさんにみついできた。

 メンバーに相談しようか迷ったこともあったが、どうせ即座に関係を切れと言われるに決まっている。棚から牡丹餅的ラッキーなチャンスを指をくわえて待っているようなやつらには決して超えられない一線を僕はすでに踏み超えてしまったのだ。

 もしも、走る電車から飛び降りなければならないほどのリスクを感じたら? 

 そのときはそのときだ。


「寝てました?」

 の声で目を開けた。

「ちょっとうたた寝してたかも」とうそをついた。

「歌うの?」

 彼女は向かいの席で入力リモコンを操作していた。

「いえ。カラオケのCMがうっとおしいので、チャンネルを変えようかと」

「少し、お酒でも飲まない?」

 と立ち上がり、冷蔵庫を開けた。

「ええ」

「赤ワインでいい?」

「なんでも」

 クラシック音楽のチャンネルにしたようだ。

「この曲、下校時によく流れていたよね」と尋ねた。

「そうなんですか?」

「うちの地方だけなのかな?」

 『家路』を鼻歌で歌いながら、棚から出したグラスに赤ワインを注いだ。

「質問していいですか」

「なに?」

「大切なひとが誰かに傷つけられたら、どんな風に復讐しますか」

 例のコウイチさんへの質疑応答の続きのようだ。

「全国ニュースでさらしものにする」

 と背を向けて睡眠薬の粉薬を彼女のグラスに入れた。

「いいですね。では次の質問。気軽にナンパはできますか」

「時と場合によるかな」

 とグラスをテーブルに置いた。

「時と場合?」

「ひとに頼まれたときのほうがうまくいくかもね」

 向かいのソファに座り、

「乾杯しようか」

 と言うも、彼女は無視した。

「誰かにナンパを依頼されることなんてあります?」

 と、にらまれたところで、途中から別のことを考えていたことに気づいた。

たとえだよ。ナンパに限らず、上司の指示だったらできちゃうことも、自発的にやるとなるとムズイことってあるじゃない」

 無理やりな言い訳に納得した様子はなかったが、それ以上はつっこんでこなかった。 

「どうして葬儀屋で働こうと思ったんですか」

「それ、コウイチさんへの質問じゃないよね」

のマネージャーにすすめられたから?」

 やっぱ、聴こえていたのか…。

「給料がよかったからだよ」

 と言ったが、彼女の予測通りだった。

 最初は、葬儀屋の子は従順で大人しめだから誘いだすのも簡単とすすめられたが、最近になって、実は屍体性愛者ネクロフィリアなのだが、妥協だきょうして眠り姫リアルラブドールで我慢しているのだと告白された。そんな話を聞かされても笑いながら応対できたのは、想像力のスイッチを切っていたからだ。だけど、もしもさらなる一線を越える提案をしてきたら、はたして僕は制止できるだろうか。成り行きに身を任せるのではないか。答えはでなかったが、動悸どうきと耳鳴りがしてきた。

「鳴ってますよ」

 の声でメールの着信に気づいた。立ち上がりざま彼女に背を向け、窓際でポケットから携帯をとり出した。


<ホテルはどこ? 円山町まるやまちょうなら十五分で着く Yamamoto>

 

「絶対にバレない。それ程の効き目のしろものなんだ。記憶にすらないものをどう訴えられることがある? 本人にしたって心の傷にさえならないんだぜ?」

 何度もそう言い聞かせられていたが、万が一にでも明るみになるようなことがあれば、死んだほうがマシな気分になるのは間違いない。全国ニュースで顔を伏せながら連行されていく自分の姿を想像して反吐へどが出ないやつはいないだろう。


<今回はちょっとムズカシイかもです(涙)しばらく様子を見ます!> →送信


 一瞬、なんの話かと意識が遠のいた。

 そこで彼女の姉がツムグの追っかけだったことを思い出した。

「してたけど、お姉さんのつきそいで会場にきてたってこと?」

 というか、告別式は去年の年末だが、シノダさんが葬儀屋に入ったのは今年の春休みだ。葬儀屋に入る前から僕のことを知っていた?

「これ、飲んでもらえますか」

 例のワインをこちら側へ差し出した。

「飲みたくないなら、あとで飲めば」

 うすらわらいが凍りつくさまを確認したあと、彼女はカバンから一枚の写真を出した。

「この子とホテルに行きましたよね」

 耳たぶまで火照ほてった僕から彼女は一瞬たりとも目をそらさなかった。

「二月のはじめ頃、用賀ようが斎場さいじょうで会ったはずです」

「その子はもう辞めたんじゃなかったかな…」

 張りついたシャツの内側で、心臓が激しくノックしていた。

「不幸中の幸いですが、姉はレイプされたことをはっきりとは覚えてません。五時間近く眠ったにもかかわらず、やさしくフォローしてくれたツムグ似の男子のことはずいぶんと気に入ったようですが。残念ながら、うその連絡先を教えられたことで、病状はさらに悪化しましたけどね」

 と席を立ち、こちらへ歩いてきた。

「正直、自分の愚かさかげんをこんなにも後悔したことはありませんでしたよ。姉が葬儀屋で働きたいと言ったとき、誰かさんに恋をしたと告白してきたとき」指折り数えながらも彼女は歩みを止めなかった。「解放された気分になっていた自分をいまとなっては呪ってやりたい」

 あとずさりは壁ドンで終了。彼女の目には尋常じゃない攻撃的な光が宿っていた。

「大切なひとを傷つけた相手に、どんな仕返しをするんでしたっけ」

 悪戯いたずらを考えている少女のような笑みから思わず顔をそらすと、すかさず激しい平手打ちが飛んできた。

「全国ニュースで…さらしものに…する」

 電気柵にでも触れたようにからだじゅうが痺れていた。

「そうしたい、ところだけど、そんなことをしたら、お姉ちゃんが、苦しむじゃない」

 文節の区切りのたびに、甘噛みのような軽い平手打ちを繰り返した。

「裁判沙汰にもできない! 警察にも相談できない! 親にも相談できない! 誰にも相談できない!」

 最後の一撃とメールの着信は同時だった。

 すぐさま奪い取られた携帯電話の画面を見せてきた。


<眠っちまえば一緒! はやく飲ませちまえ! Yamamoto>

 

 彼女は苦い笑みを浮かべ、猛烈な勢いで返信文を打った。


 <警察にすべて話します。ヤマモトさんの家族にもすべて話します。会社に証拠の書類と写真を送ります。さようなら> 


「読んだ?」送信後の画面を見せてきた。

「どんな気分?」

「これでよかったんだと思う」

 うなだれた瞬間、今度は携帯電話でほおを張られた。右に、左に、殴られ続けた。殴られながら、なぜだか小学校のころの記憶が浮上した。BGMのせいではない。すでに曲は勇壮なイメージの第三楽章に変わっている。記憶のなかの少年ぼくは、グラウンドの端でうずくまったまま無数の黒い影に殴られていた。その近くで、はだかの少女が大泣きをしていた。少女の顔は黒い影で覆われていて、痩せたからだのいたるところに包帯サイズの大きな白い絆創膏ばんそうこうをしていた。誰かに殴られた記憶なんてないし、絆創膏だらけの少女なんて見たこともない。僕はひとりっこだし、姉も妹もいない。シーラカンスだの生きた化石だのとバカにしてきたクラスの女子や男子はたくさんいたが、僕のために泣いてくれた子なんてひとりもいなかった。

 そこで、突然涙があふれ出た。

 蛇口が壊れたのかもしれない。感情は一切動いていなかったからだ。

 だけど、彼女が殴る手を止めたのは、僕が泣いているからじゃない。鼻とほおのシリコンがずれたのだ。

「一体、なにをしたいわけ?」

 相変わらずの冷たい声だったが、彼女の目には憐れみに近い光が浮かんでいた。

「もう一回やってくれないかな」と僕は言った。

「は? なにを?」

「いまみたいに、もう一回、殴ってほしいんだよね」

 彼女の目がさっと恐怖に曇った。

「ちがうちがう! なにかを思い出しそうなだけだよ!」

 とテーブルの上のワインを一気に飲みほした。喉元を過ぎたあとで、のほうだったと気づいた。そそくさとジャケットを羽織る彼女に向かってあわてて声を張り上げた。

「ちょっと待って! お姉さんがどんな目にあわされたかを知りたいんでしょ?」

 彼女はまったく取り合うことなく、カバンをかかえて急ぎ足で出口に向かった。

「わかった! いいアイデアを思いついた!」

 と呼びかけたときには、ドアは閉まっていた。

 追いかけて、街中で寝落ちするわけにもいかない。あ〜あ、あくびをし、ベッドに倒れこんだ。ティッシュで鼻をかみ、ずれたシリコンをさすった。さっき浮かんだアイデアを検証し、「悪くないと思うんだけどな」と独り言を言った。もう一度大きなあくびをしたあと、彼女に携帯電話を持っていかれたことに気づいた。

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彼女が泣いているときに僕が考えていたこと 音骨 @otobone

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