十三
お招伴でも呼ばれれば行く。なんの意味だか分らなくても行く。非人情の旅に思慮は入らぬ。舟は
「久一さん、
「出てみなければ分らんさ。苦しいこともあるだろうが、愉快なことも出て来るんだろう」
と戦争を知らぬ久一さんが言う。
「いくら苦しくっても、国家のためだから」と老人が言う。
「短刀なんぞ
「そうさね」
と
「そんな平気なことで、軍さができるかい」と女は、委細構わず、白い顔を久一さんの前へ突き出す。久一さんと、兄さんがちょっと目を見合せた。
「那美さんが軍人になったらさぞ強かろう」兄さんが妹に話しかけた第一の言葉はこれである。語調から察すると、ただの
「わたしが? わたしが軍人? わたしが軍人になれりゃとうになっています。今ごろは死んでいます。久一さん。お前も死ぬがいい。生きて帰っちゃ外聞がわるい」
「そんな乱暴なことを──まあまあ、
老人の言葉の尾を長く
岸には大きな柳がある。下に小さな舟を
日本橋を通る人の数は、一分に何百か知らぬ。もし
川幅はあまり広くない。底は浅い。流れはゆるやかである。
舟は面白いほどやすらかに流れる。左右の岸には
柳と柳の間に
「先生、わたくしの画をかいてくださいな」と那美さんが注文する。久一さんは兄さんと、しきりに軍隊の話をしている。老人はいつか居眠りをはじめた。
「書いてあげましょう」と
春 風 に そ ら
と書いてみせる。女は笑いながら、
「こんな
「わたしもかきたいのだが、どうも、あなたの顔はそれだけじゃ画にならない」
「
「なに今でも画にできますがね。ただ少し足りないところがある。それが出ないところをかくと、惜しいですよ」
「足りないたって、持って生まれた顔だから仕方がありませんわ」
「持って生まれた顔はいろいろになるものです」
「自分のかってにですか」
「ええ」
「女だと思って、人をたんと馬鹿になさい」
「あなたが女だから、そんな馬鹿を言うのですよ」
「それじゃ、あなたの顔をいろいろにして見せてちょうだい」
「これほど毎日いろいろになってればたくさんだ」
女は黙って
「あの山の向うを、あなたは越していらしった」と女が白い手を
「
「あの
「あの日影の所ですか」
「日影ですかしら。禿げてるんでしょう」
「なあに
「そうでしょうか。ともかく、あの裏あたりになるそうです」
「そうすると、
「七曲りは、向うへ、ずっと
「なるほどそうだった。しかし見当からいうと、あのうすい雲が
「ええ、方角はあの辺です」
「まだ着かんかな」
「どうもこれが癖で、……」
「弓がお
「若いうちは七分五厘まで引きました。押しは存外今でもたしかです」と左の
舟はようやく町らしいなかへはいる。腰障子に
いよいよ現実世界へ引きずり出された。汽車の見える所を現実世界という。汽車ほど二十世紀の文明を代表するものはあるまい。何百という人間を同じ箱へ詰めて
向うの床几には二人かけている。等しく
「やっぱり駄目かね」
「駄目さあ」
「牛のように胃袋が二つあると、いいなあ」
「二つあれば申し分はなえさ、一つが悪るくなりゃ、切ってしまえば済むから」
この田舎者は胃病とみえる。彼等は満州の野に吹く風の
じゃらんじゃらんと
「さあ、
「どうれ」と老人も立つ。一行は
轟と音がして、白く光る鉄路の上を、文明の
「いよいよお
「それでは
「死んでおいで」と那美さんが再び言う。
「荷物は来たかい」と兄さんが聞く。
蛇は
車掌が、ぴしゃりぴしゃりと戸を
「あぶない。出ますよ」と言う声の下から、未練のない鉄車の音がごっとりごっとりと調子を取って動きだす。窓は一つ一つ、
茶色のはげた中折帽の下から、髯だらけな野武士が
「それだ! それだ! それが出れば画になりますよ」と余は那美さんの肩を
草枕 夏目漱石/カクヨム近代文学館 @Kotenbu_official
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