十二
余は常に空気と、物象と、
個人の嗜好はどうすることもできん。しかし日本の山水を描くのが主意であるならば、
門を出て、左へ切れると、すぐ
あの女を役者にしたら、立派な
あの女の
こんな
余は画工である。画工であればこそ趣味専門の男として、たとい人情世界に堕在するも、東西両隣りの没風流漢よりも
しばらく人情界を離れたる余は、少なくともこの旅中に人情界に帰る必要はない。あってはせっかくの旅が無駄になる。人情世界から、じゃりじゃりする砂をふるって、底にあまる、うつくしい金のみを
三丁ほど
どこへ腰を据えたものかと、草のなかを
海は足の下に光る。
ごろりと寐る。帽子が額をすべって、やけに
小供のうち花の咲いた、葉のついた木瓜を切って、面白く
寐るやいなや目についた木瓜は二十年来の旧知己である。見詰めているとしだいに気が遠くなって、いい心持ちになる。また詩興が浮ぶ。
寐ながら考える。一句を得るごとに
ああできた、できた。これでできた。寐ながら木瓜を
寐返りをして、声の響いた方を見ると、山の出鼻を回って、
茶の中折れを
男は岨道を下りるかと思いのほか、曲り角からまた引き返した。もと来た路へ姿をかくすかと思うと、そうでもない。またあるき直してくる。この草原を、散歩する人のほかに、こんなに行きつ
余はこの物騒な男から、ついにわが目をはなすことができなかった。別に恐しいでもない。また画にしようという気も出ない。ただ目をはなすことができなかった。右から左、左から右と、男に添うて、目を働かせているうちに、男ははたと留った。留るとともに、またひとりの人物が、余が視界に点出された。
二人は双方で互に認識したように、しだいに双方から近付いて来る。余が視界はだんだん縮まって、原の
男はむろん例の野武士である。相手は? 相手は女である。那美さんである。
余は奈美さんの姿を見た時、すぐ今朝の短刀を連想した。もしや
男女は向き合うたまま、しばらくは、同じ態度で立っている。動く景色は見えぬ。口は動かしているかもしれんが、言葉はまるで聞えぬ。男はやがて首を垂れた。女は山の方を向く。顔は余の目に入らぬ。
山では
するりと抜け出たのは、九寸五分かと思いのほか、
片足を前に、腰から上を少しそらして、差し出した、白い
紫でちょっと切れた図面が、二、三寸の間隔をとって、振り返る男の体のこなし具合で、うまい
二人の姿勢がかくのごとく美妙な調和を保っていると同時に、両者の顔と、衣服にはあくまで、対照が認められるから、画として見るといっそうの興味が深い。
背のずんぐりした、色黒の、髯づらと、くっきり締った
男は手を出して財布を受け取る。引きつ引かれつ巧みに平均を保ちつつあった二人の位置はたちまち崩れる。女はもう引かぬ、男は引かりょうともせぬ。心的状態が絵を構成するうえに、かほどの影響を与えようとは、画家ながら、今まで気がつかなかった。
二人は左右へ別れる。双方に
「先生、先生」
と
「なんです」
と余は木瓜の上へ顔を出す。帽子は草原へ落ちた。
「なにをそんな所でしていらっしゃる」
「詩を作って寐ていました」
「うそを
「今の? 今の、あれですか。ええ。少々拝見しました」
「ホホホホ少々でなくても、たくさん御覧なさればいいのに」
「実のところはたくさん拝見しました」
「それ御覧なさい。まあちょっと、こっちへ出ていらっしゃい。木瓜の中から出ていらっしゃい」
余は
「まだ木瓜の中に御用があるんですか」
「もうないんです。帰ろうかとも思うんです」
「それじゃ御いっしょに参りましょうか」
「ええ」
余は再び唯々として、木瓜の中に退いて、帽子を被り、絵の具箱を
「画をお描きになったの」
「やめました」
「ここへいらしって、まだ一枚もお描きなさらないじゃありませんか」
「ええ」
「でもせっかく画をかきにいらしって、ちっともおかきなさらなくっちゃ、詰りませんわね」
「なに詰ってるんです」
「おやそう。なぜ?」
「なぜでも、ちゃんと詰まるんです。画なんぞ描いたって、描かなくたって、詰るところは同じことでさあ」
「そりゃ
「こんな所へくるからには、吞気にでもしなくっちゃ、来た
「なあにどこにいても、吞気にしなくっちゃ生きている甲斐はありませんよ。私なんぞは、今のようなところを人に見られても恥かしくもなんとも思いません」
「思わんでもいいでしょう」
「そうですかね。あなたは今の男をいったいなんだとお思いです」
「そうさな。どうもあまり金持ちじゃありませんね」
「ホホホ
「へえ、どこから来たのです」
「城下から来ました」
「ずいぶん遠方から来たもんですね。それで、どこへ行くんですか」
「なんでも満州へ行くそうです」
「なにしに行くんですか」
「なにしに行くんですか。お金を拾いに行くんだか、死にに行くんだか、分りません」
この時余は目をあげて、ちょと女の顔を見た。今結んだ口元には、かすかなる
「あれは、わたくしの
「どうです。驚ろいたでしょう」と女が言う。
「ええ、少々驚ろいた」
「今の亭主じゃありません。離縁された亭主です」
「なるほど、それで……」
「それぎりです」
「そうですか。──あの蜜柑山に立派な白壁の
「あれが兄の家です。
「用でもあるんですか」
「ええちょっと頼まれものがあります」
「いっしょに行きましょう」
岨道の登り口へ出て、村へ下りずに、すぐ、右に折れて、また一丁ほどを登ると、門がある。門から玄関へかからずに、すぐ庭口へ回る。女が無遠慮につかつか行くから、余も無遠慮につかつか行く。南向きの庭に、
女はすぐ、
「いい景色だ。御覧なさい」
「なるほど、いいですな」
障子のうちは、静かに人の気合もせぬ。女は音なう景色もない。ただ腰をかけて、蜜柑畠を見下して平気でいる。余は不思議に思った。元来なんの用があるのかしら。
しまいには話もないから、両方とも無言のままで蜜柑畠を見下している。
「おやもう。お
女は及び腰になって、立て切った障子を、からりと
「久一さん」
納屋の方でようやく返事がする。足音が
「そら
帯の間に、いつ手がはいったか、余は少しも知らなかった。短刀は二、三度とんぼ返りを打って、静かな畳の上を、久一さんの
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