秘密を剥がす

「グラタン食いたくねぇ? 光」

 五限目、一般教養の美術論講義が終わり、さて帰るかと立ち上がった瞬間後ろから最近聞き慣れてきた声が飛んできた。オレよりも少し高いくせに荒さを残す口調はやっぱりギャップ狙いな気がしてくる。

「いきなりっすね、望さん」

 確信を持って振り向くと一段高くなった座席から、強面ながらも丁寧に作り込まれた顔の男が人懐っこい笑みを浮かべてオレを見ていた。たまたま隣り合った女性が望さんの顔を横目で見つつ、講堂を出ていく。サングラスの下、目つき結構ヤバいんすよこのヒトと言いたい気持ちを抑えたところに、

「いやいや前触れならあったじゃん。今日雨で寒いし、こんな日はあったかいメニュー一択でしょ」

「そこじゃないんですけど……まぁ確かに寒いですよね、今日」

 つい最近まで夏か秋か曖昧な気温が続いていたのに、今日の雨で一気に冬まで肉薄したような気がする。慌てて衣裳ケースから引っ張り出してきたMA-1からはほんのりと、埃のように古い匂いがしていた。

 望さんも裾がブリーチされたオーバーサイズのデニムジャケットを羽織っていたが寒いという言葉とは裏腹に前を開け、白いカットソーとネックレスを覗かせている。

「だからグラタン食いに行こう、光。この後講義ないのは前に聞いたし」

 そろそろ周囲には人がいなくなってきた。講堂も次は空いているらしい。いつまでもここにいても仕方ないし、と歩き始めれば行動を肯定と受け取ったらしく、望さんは足取り軽くついてきた。

「グラタン食いに行こうって人生で初めて言われました。あったかいメニューって鍋とか、そんなイメージなんすけど」

 何でグラタン。講堂を出てすぐ横に並んだ長身を見上げると、

「初めて、っていい言葉だな」

 答えにならない言葉が返ってくる。

 春に現れた男と季節をひとつ越え、わかってきたことがあった。望さんは結構人と、というかオレとズレている。噛み合わないとは紙一重の言葉やテンポのズレ、それが謎めいた印象に繋がっているらしい。最大の謎は何故学年も学部も違うオレを知っていて、なおかつこうしてやってくるのかだったが。

 詐欺、勧誘、怨恨など疑えるものは全て疑ってみたものの未だ答えは見つからず、望さんは今日も愉しそうにオレを誘いに来る。サングラスの向こう側で細められたキツめの目が、ある日何かで歪むのはあまり見たくない。認めたくないがその程度には思うところが出来てきている。

「どうした、そんなにグラタンが気になんのか」

 知らず、望さんを見つめていたらしい。ひょいと上がった眉へ、

「どうせ好きだとか、んな感じですよね。どこ食いに行くんですか」

 適当に返事をすると、まーそうだけど、笑い声を上げながら階段の方へと足を向ける。学食はいくつもあるが流石にグラタンは見たことも聞いたこともない。

 グラタン好きすぎんでしょ。独り言へ想像以上に柔らかな好きだよ、が重なって耳がむず痒かったのでオレは望さんから視線を外し、ついていくことに集中した。何度か聞いた好きの言葉はいつも甘い香りを漂わせる。

 大学を出たところまでは予想通り、通りを挟んで反対側にある住宅街へ入ったところは予想外だった。まさか自宅、それはちょっとヤバい気が、なんて悩む間もなく望さんは細い道の先にあった一軒家へと入っていく。

 レンガ造りの塀と装飾の施されたドアノブはヨーロッパを感じさせ、すぐ横にはWELCOMEと書かれたスタンドボードが立っていた。どうやらレストランらしい。

「大学のすぐ近くにこんな洒落たお店あったんですね、全然知らなかった」

 マダムという言葉はこの人のためにある、と言われれば納得するであろう上品な年配の女性に案内され、窓際の二人がけ席に向かい合って座る。テーブルには白いテーブルクロスがかけられ、使い込まれた重厚なメニューが端に立てかけられていた。望さんは、

「俺はもちろんグラタンセットにするけど、光はどうする。一応メニュー見る?」

 メニューをオレへ差し出し、マダムにはまた後で、と微笑む。手早くお冷を用意したマダムも微笑んでテーブルから離れていった。

「へぇ。意外に、裏切りに寛容なんですね」

「優しいから、俺」

 一応開いてみた布張りのメニューは先程のマダムに似て写真控えめ、線の細いフォントでフレンチらしい料理名が均等に並んでいる。望さんご希望のグラタンセットはおすすめなのか一枚目、解像度は低いものの、それでも十分魅力的な焦げ目がわかる写真を添えられて掲載されていた。

「……オレもグラタンセットで。飲み物は食後のホットコーヒーにします。裏切れなくて悔しいんすけど」

「後悔はさせないから大丈夫だって。すみません」

 にやけながら望さんは右手を上げてマダムを呼び、グラタンセットをふたつ、食後にコーヒーと紅茶で、と注文をしてからお冷をあおる。

「そういや望さんってあんまりコーヒー飲まないですよね。嫌いなんすか。それともカフェインが、とか?」

 いや、それなら紅茶も同じか。オレの間抜けな質問に、

「苦いからあんま飲まないだけ。嫌いってほどでもないけど、まぁ好きじゃない。紅茶の方が好きだわ」

 またギャップのあることを言って望さんは窓の外へ視線を流した。サングラスと顔の合間から見える、遮るもののない目は決して優しいとは言い難い。整えられてはいるが顎下の髭も相まって全体的に「強い」印象なのに、オレを見る時目元が緩むのはほんの少しだけ優越感に浸らせてくれる。相手が謎めいた強面でも、特別扱いは嬉しい、気がする。

「……望さん、こだわり強そ。紅茶も銘柄とか淹れ方とか、こだわってんでしょ」

 自分の感情に軽く反発し、雨模様のガラスを見つめる横顔に偏見を押しつける。望さんは何でも見通しているような、もしくは全く何も気づかないような不思議な色の目だけをオレに向け、

「もちろん。わかってきたじゃん、光。ティーカップまでこだわってっから今度飲みに来てよ、ウチまで。スコーンも焼くよ?」

 冗談にも聞こえる言葉とは裏腹に笑顔は静かで、返事代わりに反射で頷いた瞬間、湯気を立てるグラタンが上品な微笑みと共に到着する。温かな香りで意識していなかった食欲が一気に表面化し、おもむろにふたり、スプーンを手に、グラタンへと向き合った。

 流れていった話題を引き戻したい気持ちをホワイトソースの柔らかい甘みと、熱々のマカロニ、そして香ばしいチーズの癖が包む。はふはふと口を動かす望さんの顔がちょっと子供っぽくて、オレは密かに笑いながらもうひとくち、グラタンを頬張った。紅茶が出てきたらもっと詳しく聞いてみよう。季節がもうひとつ進む前に、謎めく男を暴いてやるのだ。

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テーブルミラーボールオパール 朝本箍 @asamototaga

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