聞けない理由

 今日は何が何でもカツ丼だった。

 オレの通う大学には第一から第三まで番号の振られた食堂と、単にカフェテリアと呼ばれる場所の計四つの学食がある。カツ丼を扱っているのは一番大きな第一食堂だけで、いつ行っても混雑しているので普段は避けているのだが今日は仕方がない。背に腹は代えられないってやつだ。

 せめて昼のピークよりも早く行ってみたが、結果はあまり芳しくはなかった。食い終わったなら出てけよ、無料のお茶ばかりが集まったテーブルを睨みつつ食券機の列に並べば、少し前にすこんと抜けた黒い頭が見える。ちらりと見えた端正な横顔と顎髭は間違いなく、


のぞみさん」


 独り言のつもりで溢した声が届いたのか、望さんが首を回してオレを見た。そして列を抜けてわざわざこっちへ歩いてくる。そんなつもりじゃなかったんだけど、言い訳や謝罪の前に望さんは、


「ノゾミでいいって言ってんのに、まだ壁あんな。光クン」


 俺寂しいと言葉とは裏腹に口を横たわった三日月にした。整ってはいるものの、全体的には強面といった雰囲気なのに笑顔は意外に柔らかく、近くで並ぶ女性が注目しているのがわかる。

 この人ちょっと肌荒れしてるんすよと余計なことを言いたくなる気持ちを抑え、さも待ってましたという顔をして自分の隣へ並ばせる。後ろのヤツをちらりと確認したが友人との話に夢中で気にした様子はない。


「まだ全然望さんのこと知らないんで」


 何度かのメッセージでわかったのは二回目の三年生、先輩ということくらいだ。どうしてオレの名前を知っていたのか、そんなことにも応えない男との間に壁を作らない方がおかしいだろう。


「これからに期待かぁ。光クンは何食べんの」

「カツ丼。望さんは」


 答えたところでちょうど順番が回ってきた。望さんはじゃあ俺もと五千円札を突っ込み、カツ丼のボタンを二回押して出てきた券の片割れをオレの手へ載せて、おつりボタンを押す。


「小銭、ちょうどないんですけど。おつりってもらえます?」


 トレーに食券を載せつつ、用意していた千円札を取り出すのはなかなか難しい。別にまとめて買わなくてもと眉間へ力を入れていつの間にか先を行く望さんを見ると、


「今日会えて嬉しいからいーよ。一緒に食べてくれれば、それで」


 いかにもな丼に盛りつけられたカツ丼をトレーに載せ、手近な席へと駆け寄っていく。ちょうど女性二人組が食事を終え長テーブルの中央、向かい合う席が空くところだった。トレーを置き、サングラス越しにもわかる程目を細めて頬杖をついている。


「それくらいならまぁ。ごちそーさまです」


 蓋と丼の隙間から漂うだしと砂糖の香りへ静かにテンションを上げつつ、望さんの向かい側に腰を下ろす。タダより高いものはないと言うが、オレはひとのお金で食べるものほど美味いものはそうない派だ。何より目の前にあるのは朝から食べたかった、念願のカツ丼。

 蓋を外せばまだとろりとした部分の残る卵と、透明感ある茶色の玉ねぎ。そして彩りを添える小ねぎの下には丼を埋め尽くすくらい大きく、厚みのあるカツがどっしりと構えていた。隙間からのぞくご飯にもだしの色が染み込んでいる。これこれ、手を合わせてから箸を持ち上げたところで、


「いただきます」


 やや高い、そんなところでもギャップを狙っているのかと疑いたくなる望さんの声が挟まった。いちいち見た目と噛み合わないせいか、何をしても目を引っ張られるのが癪だ。いただきますっ、何となく繰り返してからようやくカツとご飯をいっぺんに頬張る。かなり大口になったが向かいにいるのは謎の先輩だ、構うもんか。

 まだ熱を持ったカツから流れ出す肉汁と卵に染み込んだ甘じょっぱいだしが、口いっぱいに広がる。すぐに飲み込むなんて勿体ない。丁寧に咀嚼してから名残を惜しみつつ飲み込むと、望さんはいつの間にかトレーに載せていた七味唐辛子を振りかけて同じ様に頬張っていた。何口かふたり無言で食べ進める。

 学食はこれからがピーク。ざわめきと奇声、笑い声があちこちから上がり、空気が居酒屋のような活気を帯びていく。視線を感じるのはオレの金髪か、望さんか。


「光クンは甘党? 結構これ甘めな気ぃするけど」

「甘いくらいがカツ丼はいいんです。あと、」


 水を一口飲んでから常々思っていたことを口に出す。


「光でいーです。何か、望さんにクンって呼ばれてるの落ち着かないんで」


 別に気を許した訳じゃないですから。後半は聞こえているのかいないのか、唇の下にも生えた髭が楽しそうに動き、


「じゃあ、光。俺のこともノゾミで……」

「それは遠慮します。調子に乗んな、先輩」


 やっぱりオレが言ったこと全部は聞いてなかったな。息を吐いて丼を持ち直すと、それじゃあさ、気にした様子もない変わらぬ調子で声が続ける。


「今度は学食じゃないとこでもカツ丼食おう」


 一度言葉を切って、


「てか、カツ丼以外にも光の好み知りたい。ちなみに俺はカツ丼はソースカツ丼が一番好きだけど、これもいいな」


 もうひと切れカツを口に押し込んだ。


「……何でそんなに」


 オレのこと、というのは自意識過剰な気がするし、ソースカツ丼へ話題を持っていくのは逃げたようで面白くない。結局慣れないお悔やみの挨拶らしく語尾を濁せば望さんは口の端を引き上げ、


「好きだから」


 オレと同じく曖昧に濁った言葉を返した。その言葉が一体何にかかるのか、濁っているせいでわからない。カツ丼か、それとも。聞けずに食べたカツ丼はそれでも肉と卵、玉ねぎにご飯とどれもが温かく甘やかで美味しかった。

 次はじゃあソースカツ丼がいいです、あえて丼から視線を外さずに呟いた言葉に、任しといてと応じる声へどこかからの歓声が被る。そっと上げた視線の先で笑う男は相変わらず強面の癖に優しげで、そこがまた気に入らない。オレはとんかつを噛み締めながら密やかに唇を尖らせた。

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