恋の輪廻

東 哲信

恋の輪廻

 二千二十三年、九月一日、例年の如く島根は嘘つきの残暑であった。

 私は寺の仁王門をくぐりぬけ、長い坂を前にあの日を思い出した。もう、あの日の記憶は幾分も解像度が落ちてしまっているが、あの日、目に映った夕暮れの色調と、当時感じた胸の苦しさだけは、今も石段を前にするとよみがえるのである。

 一息に講堂へ続く石段を駆け上りはじめると、すぐに息が上がりそうになった。息だけならばよいが、ふくらはぎの中心がグリコーゲンを欲しはじめ、次第に足がもつれそうになってしまうのである。私はやむなし、五十段も登らずして苔生す石段に腰を下ろしたのだ。

 而して? これだけ疲れているというのに、いまだ背後には長く長く、ちょうどキリシタンの教育で使われる天国への道なりのごとし石段が、私を見下ろしているのである。


「おじさーん。おそーい。」


 石段のほかに、背後にもう一人見下ろすものが増えた。しかし、それは神秘を宿した建造物ではなく、寺の娘という一人の魂であった。


「すまない。君も年を取るとわかると思うが・・・」


「いいからいいから、さっさと立ちなって」


 娘は私の冷たい手を引き、無理やり私を立ち上がらせると、軽快なステップで石段を登り始めた。娘とつながった手は、次第に張力を極め、私は前かがみになりながらも、彼女と共に石段を駆けあがり始めたのである。ちょうどそれは、まだ、西暦も二千年になっていなかったあの日のことのようであった。

 

 あの日のこと、そう、それは私が学生の時分のことである。私は誰もが認める根暗症で、とかく、家族も立ち入らせぬほどの一人の好きな青年であった。ゆえに、友人も少なく、かといって一人でいたって別段本の虫になるわけでもなく、いつだって帰り路には裏山の寺で、陽光が明日を約束し、ほの暗くなるまで道草をするのが日課であったのだ。

 その日も私は、どうしても家に帰りたくはなかった。ゆえに、仁王門をくぐり、石段を駆けあがっていたのである。むろん、当時は今と違い、百段くらいは余裕で駆け上がったものであるが、それでも、頂上まで走りきることはついぞなかった。私は道中で疲れ果て、学生服が汚れることも厭わず石段に座り込んでは、登山の途中経過を見下ろしていたはずである。その時の私は、ただ、時間が過ぎればよいというニヒリズムの中に、自らの足を以ってここまで上り詰めたという達成感を味わいたかったのだろう。思えば当時の私のこころは、何の苦しみも知らず、時間を浪費する喜びに満たされていたのであろうか。


 「よぉ、井川じゃん」


 そうした喜びの間隙を突くように、背後から若い女の声が聞こえた。私はなにか、人に言えない事情をその女に見られたような気がして、はっと声の方を振り返った。昼下がりの眩しさの中、やがては女の正体を見破った時、私の胸の鼓動は、目前の石段を駆け落ちるように、なりを速めたのである。

 セーラー服姿の彼女は、石段を登りかねる私をあざ笑うように見下し、やがて私の手を引いた。九月一日、世に言う始業式の日の昼下がり、我々は寺の頂上まで駆け上がり、やがてたわいもない身の上話をいつまでも続けたのだ。カゲロウよりも声高く、日の沈むことを惜しむように。

 そうして、いとおしい時間にもやがてはカンマがやってくる。別れ際、彼女は私に、「男だったら家の近くまで送ってよ」と、ぶっきらぼうに切り出した。帰り路とは真逆、空白を埋めるためのこうした道草は、その日以後、私にとって最も幸福な時間となったことは言うまでもなかろう。

 だが、今となっては、私はだいぶ歳を取りすぎたようだ。記憶の中の彼女は、いつまでたってもあの頃のままであるというのに、私だけが歳を取っているのである。

 二人で親の金を盗んで行った映画館、寺の頂上で見た夕涼みの花火、真冬の公園で投げ合った雪玉、割れた窓ガラス、親父に怒鳴られる横顔、いずれの場面における彼女も、未だあの頃に閉じ込められたままで、私のように老いぼれた彼女を思い浮かべようったって、とてもできやしない。いつだって私の記憶の中にある彼女は、無垢な寺の娘とほんの少しも変わらぬ姿なのである。



「おじさーん?」


はっとすると、私は寺の頂上に居た。寺の娘はとっくに私の手を放し、上目遣いに私の意識を問いかけていたのだ。


「これは・・・失敬したね。近頃は考え事していると、周りの声が聞こえなくなるみたいで」


「おっかしい。で、何を考えこんでいたの。」


「なに、仕事のことさ、子供は知らんでよい」


 「子供は知らんでよい。」そうだ、子供は知らんでも良いのである。寺の娘はそんな私に、「子ども扱いしないでよ」と、ふくれっ面を呈しているが、依然、私からしてみればそれでよいのだった。


「そういやさ、おばあちゃんが『先に線香をあげとけって』っておじさんに伝えとけだってさ。」


 ふくれっ面の娘は、急に何か思い出したような顔つきで、唐突に私への伝言を切り出した。私は覚えずしてぎょっとして、ちょうど明治の小説のように、「細がその名を言いましたか?」などと詰問しそうになったくらいである。それに加えて娘とくれば、その言葉を言ったきり、なんとも気の抜けたような表情をするものであるから、かえって、私にとってはその態度が不自然に見えたのである。


「そ、そうかね。まぁ良い、私は仏さんに挨拶をしてくる、君は茶でも入れてきてくれ」


 私はそういい、逃げるように寺の講堂へと足を進めた。「おじさん、和三盆嫌いだったよねー」と、背後から娘の声が聞こえるが、それさえも聞こえぬふりをし、私はあゆみを進めたのである。

 

「久しぶりだね。今日は、二人が初めて出会った日だ。」


 線香の煙の中、私はしばらく、記憶に閉じ込められた彼女に祈りをささげた。だが、やはり、死人は死人だ。何もかえって来やしない。


「おじさん、お茶」


 ふと、背後には茶と羊羹を差し出す娘があった。その瞳は、未だ罪を知らない。

 嗚呼。だが、しかし、悲しいかな。


 今や娘を見る私の瞳は、あの頃に戻りつつあるのだ。



 


   

 


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