潮の記憶


 晶の母親は看護師だ。純白の天使と呼ばれたナイチンゲールはおよそ、天使とは程遠い大雑把で活発な性格をしていたという。晶の母親も、どちらかといえば天使とは程遠い性格だった。僕の病室で、カーテンを閉め切って煙草を吸っていた。


 一度、喘息が再発した時に病院で晶の母親に看護してもらったことがある。僕の母親に看護されることを想像すれば、どれほど不思議な感覚に陥るのか分かるだろ。僕に言われた晶は少し考えてから、確かに興奮するかもしれない、と見当違いな答えを放った。


「君は晶とは正反対ね。大人しくて頭が良さそう」


 咳をこらえる僕の傍で、晶の母親が病室のカーテンを閉めた。普通、喘息で入院している人間の病室で煙草を吸うなんて、相当気が狂っていなければできない。晶の母親は、僕の病室のことをオアシスと呼んだ。あの世のナイチンゲールに是非を問いたいところだ。


「僕に比べたら……僕から見たら、晶は大人です。僕が知らないことを知ってる。僕の悩みに対する答えを既に持ってる」




 目の前で泣き崩れる晶の母親は、嗚咽混じりで話が出来る様子ではなかった。なぜ僕はここに呼ばれたんだろう。受け止めきれない晶の死を刻み込まれている気にさえなる。あるいは、受け止めたくない死を受け入れさせようとしているようにも思える。


「……晶と、最後に何を話したか覚えてる?」


 僕は覚えていた。はっきりと。その言葉があまりにも最後の言葉として不相応で、僕は「覚えていません」と嘘をついた。そうするしかなかった。


 晶の母親は悔しさを顕にしながら、「あの子との最後の会話は水道代の話。下らない会話が、あの子の最後の言葉だった。……それでも、あの最後の会話を何度も思い出さなければいけないの。洗顔には水を使って。私が死ぬまで、あの会話を私の中で繰り返すの」


 晶の母親は、また涙を流し始めた。止めどなく流れてしまう涙を拭うことしか出来ない晶の母親の姿は、あまりにも感傷的だった。我が子を失った母親の気持ちなんて、わかるわけが無い。"果てしない悲しみ"という箱の中に収めて、なるべく開けないようにするしかない。


「……しょっぱい」


 晶の母親がそう言った。僕は、一年前の夏を思い出していた。




「そりゃしょっぱいよ」僕と晶は、夏休みの夕方は決まって浜辺を歩いた。一日も欠かすことなく、僕らは毎日オレンジに染め上げられた浜辺に足跡を残し続けた。


「涙と海って、どうして同じ味なんだろうな」


「……同じ味かな。全然海の方がしょっぱいよ。舌がピリピリする」


「はは。塩辛い、ってやつだな」


「そんな生易しい感じじゃないね。激辛だよ」


 晶は笑った。晶が笑うと、僕はようやく心が落ち着く。いつ、どの場面で口にした言葉か覚えてはいないが、晶が「一人で悩んでいると、答えが出ずにどこまでも落ちていきそうになるんだよ」と僕に言ったことがある。それを聞いてから、僕は晶の悩みを脇道に逸らせることが晶の為になると思い始めた。だから晶が笑うと、どこかに着地出来たのだと安心できる。


「なあ、海がどこまで続いてるか想像したことあるか」


 僕は考えた。「無いよ。……いや、想像した。今はじめて」


「海の底には、どんなものが沈んでるのか。人骨もあるかもしれない」


「指輪もありそうだよね」僕は言った。


「なんで指輪?」


「よくあるじゃん。ドラマとかで失恋した男のひとが海に投げるやつ」


 晶は少し考えてから、笑った。「じゃあ、人骨の指に嵌ってるかもな」


 僕たちはそんな下らない話を沢山した。下らない会話だが、忘れることは無い。ふとした瞬間に、戻ってくる。引き潮に揺蕩う漂流物のように、長い旅を終えて顔を出す。


「うぇ、しょっぱい」僕は、そんな話をしていたら味を確かめたくなって海水を舐めた。涙の味には程遠い。だが、涙がしょっぱい理由というのは分からない。海と同じ原理なら、僕らの瞳のなかにある何かがそうさせているはずだ。


「なんか、人間の身体も地球の一部なんだって気がするよな。海って、人間の涙で出来たものなんじゃないかって気になるよ」


 あ。


 僕は、必死に堪えていた涙が瞳から溢れたのを感じた。晶の母親の前では、絶対に泣かないと決めていたはずだった。辛いのは自分ではない。母親の方がよほど辛いはずなのに、僕が泣く訳にはいかないと思っていたからだ。


 僕は失礼しますと言って、晶の母親の前から消え失せた。誰もいない廊下をひた走った。上履きのまま外に出て、昇降口から出た途端にぼろぼろ泣いた。


 だからこそ、この涙が憎い。なぜ泣いている。悲しいのは僕じゃない。死んだ晶や、その晶を愛していた母親。僕はただの、友達だ。


 世界で一人しかいない、世界で一番面白い人間。それが、僕の中の晶だった。見えないところで僕に傷を与え続けていく、唯一の親友だ。


 その時、僕の涙は初めて海の味がした。

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十七歳のまま 八岐ロードショー @seimei_ki

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