十七歳のまま
八岐ロードショー
海の記憶
記憶っていうのは不安定なものなんだよ。隣で缶ジュースに口をつける
「だから、今のことが過去にならないうちに、何かを残しておかないといけないんだ」
僕に言わせれば、晶の言うことは筋肉痛のようなものだ。訳の分からないことを言った時は、大抵の場合、何日か後に突然、あの言葉はこういう意味だったのか、と納得がいったりする。だから、僕は晶との会話一つ一つに注意する必要があった。
「具体的には、何を残したらいいんだよ」
僕は聞いておくことにした。
「一番手っ取り早いのは友達だ。あらゆる場所に、友達と記憶を残しておく」晶が言った。
「どうして友達が必要なんだ?」僕は少し笑いながら言った。
「記憶っていうのは失われていくものだ。でもそれは完全じゃない。言い換えるとするなら、ゴミを海に投げるようなもんだよ。波が立てば、また会えるんだ」
晶が江ノ島の海を見ながら言うので、僕は納得がいった。
「確かに。僕が落とした釣竿も返ってくるかもしれない」
二年前、僕は晶と一緒に釣りをしたことがある。中学校を卒業する前日の日曜日だった。場所は同じ、この江ノ島の海岸だった。冷静に考えれば何も釣れないことは予測できたが、それは晶が許さなかった。三時間以上も何も釣れないまま粘ったおかげで、僕が気を許した瞬間に釣竿を落としてしまった。お年玉を叩いて買ったばかりの釣竿が海に飲み込まれたことは、僕の中で鮮烈な記憶として残っている。「それは無理だ。あの釣竿は、あのままでいい」晶は笑った。
「あの釣竿高かったんだぞ。三回も値切ったのに五百円しかまけてくれなかったし」
「それも大事な記憶ってことでいいじゃないか。現に、あの釣竿を落とした話は何度も俺らが笑い話にするだろ」
「……笑うのは晶だけだ」
「あの時のお前の顔、おかしかったから」
そんな風に、僕らはまた釣竿のことを話した。その後に定食屋で食べた鯵の塩焼きとか、イカの刺身とか。確かに、記憶は波が立てば蘇るものだった。いつでも、晶の言葉は正しい。
僕らは十七歳だった。江ノ島で育ち、海風をめいっぱいに浴びてチェーンの錆びた自転車を力いっぱいに漕いで学校に通い、その帰りに浜辺で雑談を交わす毎日を送っていた。
この記憶が錆びないうちに、僕らは何かを残さなければいけなかった。「今度の夏休み、何をしてやろうか」晶がチャキチャキと音のする自転車を押しながら言った。「ひとまず彼女を作って、ダブルデートしよう」僕は提案する。
江ノ島の日が沈む。夕闇が溶け始めた頃、街頭に照らされた鎌倉から江ノ島への道が幻想的に浮かび上がってみえる。
「なあ、三組の石田がお前のこと気になってるって噂を聞いたぜ」
僕は石田の顔を思い浮かべた。愛想がいい女の子で、バドミントン部のエースだった。短髪で小柄な割に力強く、一度彼女の試合を見る機会があった時に僕も気にかかっていた。
「気になるのと好きになるのは違うだろ」
「いや、同じだね。気になるってのは、気にしたいからなるもんなんだよ」
「じゃあ、告白してみようか」
「いや、それは駄目だな」晶はなぜか否定する。
「どうしてさ」
「女は不思議なものでね。好きになられると、嫌いになるんだよ」
僕は首を傾げる。「それはおかしいよ」
「本当さ。女は気にしたいんだよ。それが気にしなくなった瞬間、なぜ気になっていたか分からなくなるんだ」
「……女って馬鹿なんだね」
「そうだよ。だから、男はもっと馬鹿にならないといけないんだ」
「じゃあ、僕は何をしたらいいと思う?」
晶は少し考えてから、「女子バドミントン部の明石いるだろ? あいつと仲良くしてみろ」
「なんでだよ、石田関係ないじゃん」
「それが大ありなんだな。石田と明石は親友だ。その親友と仲がいい異性だぜ? 考えてみろ」
僕は晶の言う通り、考えることにした。もし、晶と仲の良い異性がいたとする……。「いや、わからない」
「じゃあこう考えろ。その明石には付き合っている相手がいて、石田には居なかったとしたら?」
僕は再び考えた。「あっ」もし、晶に彼女がいて、僕に彼女がいない、その状況で晶と仲が良い石田がいたとすれば。
「……好きに、なるかな」そこは曖昧だった。
じゃきん、と晶の自転車から音がした。「あー、まただ」晶は自転車を路肩に止めて、チェーンを直すために屈んだ。
「俺な。今日、明石に告白されたんだ」晶が、とても重要なことをさらっと口にした。「えっ、待って。明石? に、告白されたの? しかも今日? いつだよ」
「今日の朝。返事は明日するって、言ったんだ」
「……えぇ、いいじゃん。明石。晶もあの子はいい子だって前言ってたよな」
「まあ、な」
「ってことは、あれだね? さっきの話でいくと、僕と石田が付き合える可能性も上がるわけだね」
「ほぼ確だろうな」
「じゃあ、あれか。その石田の話も明石から聞いてたんだ」
晶の表情は薄暗くて見えないが、言葉の歯切れの悪さから緊張がみてとれる。
「そんなとこだな。ま、とりあえず俺は明石と付き合うことにするよ。これで夏休みの予定も完成って訳だ」
僕は晶と明石が二人で並ぶ姿を想像した。明石は石田と同じ三組で、背が高く、勉強が得意な印象だった。太い黒縁の眼鏡をかけており、少しオシャレな印象もある。確かに、思えば明石と晶は生徒会で顔を合わせることがあるから、仲が良くなってもそれほどおかしくはない。
「……その自転車、いつになったら新しいの買うんだよ」僕は聞いた。
「これがいいんだろ。手の焼けるヤツは可愛げがあって愛着が湧くんだ」
「でも、こいつありがとうも言わないぜ?」僕がジョークを言うと、晶は笑った。
「たしかに。でも、忘れちゃいけないのは俺が尻に敷いてる側だぜ」晶はすっかり慣れた手つきで自転車のチェーンをはめ直した。
「それに、直し方がわかる方が楽なんだ」
晶が得意げにそう言ったので、僕も確かにその通りだと思った。
「壊れない自転車は無いからね」自転車を直して立ち上がった晶に対し、僕は拳を掲げる。晶の丸い拳が、僕の拳に強く当たった。「その通り。俺は死ぬまでこの自転車と添い遂げるつもりだぜ」
僕と晶は、いつもの二又の場所で別れの挨拶をした。明日、か。甘ったるい夏の匂いがする風を切りながら、僕は家路を急いだ。腹が減って死にそうだった。
翌日、晶はチャイムが鳴って担任の河野がやってきても学校に来なかった。晶が遅刻をしたことはない。熱を出すような人間でもなかった。
「……みんな、落ち着いて聞いて欲しい」
クラス全員がざわざわした。僕は、何か嫌な予感がした。晶のことだ。察しの悪い僕の予感が、その日は的中してしまう。
「
僕の全身が震えた。
「詳しいことはあまり言えない。親御さんも非常に悔しがっている」
そして、それぞれ悲しみに暮れる者、状況が掴めない者、変に皆を励まそうとする者に囲まれた僕は、ずっと昨日の夜のことを思い出していた。
僕の中の晶との思い出は、あの二又に別れた道で終わってしまっていた。
「すまん。一番仲の良かったお前に、いの一番に知らせてやりたかったんだが、親御さんからのお願いでな。ちょっと、職員室来れるか? 今日は、一日公欠でいいから。昨日のことを、親御さんに話してくれ。それで、あいつの。……寺澤に挨拶してこい」
何を。話せばいいんですか。
晶について僕が知っていることはあまりに少なかった。晶と話していても、その半分も理解できないくらい、晶は思慮深く、聡明だ。
僕は席を立ち、荷物をまとめて教室を出た。
拳が痛かった。晶と交わした拳の感触がまだ残っている。その記憶を僕だけに残したまま、晶は死んだ。永遠に、錆びてしまった十七歳のまま。
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