後編
円が、黒ずくめの男に抱き上げられて、脇の車へ消えた。
通りで無造作に停車された、薄い青の軽自動車。
車は揺れなかった。発車せずにまだその場にいる。
僕はハンドルを切り直して、直進した。向こうの車はこちらを向いている。住宅街の道は細い。発進されれば、僕の運転技術ではすぐに追い付けない。
近付く前に、タイヤが嫌な音を立てた。
急発進、急加速。僕は携帯を取り出して、すれ違い際に連写した。
見知らぬ車は僕の後ろ、すぐに曲がって見えなくなる。
見えなくなって、すぐには動き出せなかった。
奇妙な気分だった。
目の前の事件に動転するでも、先を越されて悔しがるでもない。昨日の方がよほど息苦しかった。
肺も頭の奥も凪いでいた。ホッとしているのだろうか。そうは思いたくない。
今、何をすべきかは明らかだった。
でもどうしたいかがさっぱり分からなかった。
ハンドルを握り直す。
空っぽの頭に、無音の耳鳴りと、先程の声が交互に、きんと響く。
どうして円は、僕の名前を呼んだのだろう。
円の顔は見えなかった。後ろ姿だった。円も僕を見ていない。
それでも声の先は、僕だった。
そこにいない僕を呼んでいた。
ベンチで話すだけの相手。
山も谷もないやり取り。
川の湿気った波。夕焼け。
おじさんみたいなのも、いるし。
円はよく笑ってくれた。
叫ぶ円は、思い描いていたのと違って。
齧りつきたいとは思えなかった。
気が付くと、アクセルを踏んでいた。
走らせながら、携帯で110を押して、ナンバーと、今いる場所だけ告げて切った。
車は何処かで乗り捨てるだろう。犯行はひとりによるもの。そう確信している。
ふらふらしている女の子、それも普通の家庭の女の子を、狙う動機なんて、身体しかない。
僕らの犯行はいつもひとりだ。誰かと分かち合える欲ではない。
大通りに出て、すぐに曲がる。当たりのつく『現場』はいくつかある。人気のなくて、忍び込める暗がり。
此処から一番近い暗がりへ、レンタカーを走らせた。
犯人は、僕よりもずっと思い切りが良い。後先など考えていなければ、家に連れ込むかもしれない。そうならアウトだ。
でも、僕らには一度きりの機会。僕らはせめてこの一瞬を、長くと願う。そう望む。
一つ目は空振りだった。誰もいない海近くの空き家。すぐに川沿いを戻る。
焦りはなかった。焦る立場の人間じゃない。ただ円の声が耳にこびりついて、息を乱される。
二つ目の現場。工業団地の中、工場の外壁と屋根だけが残ったような広い空き地。
日はもう沈んでいた。パトカーのサイレンはまだ聞こえない。
薄青の軽はなかったけれど、車を降りて近付くとすぐに異変を感じた。壁のほつれた穴からか、廃工場の中からこちらへ、光の線が明滅している。
懐中電灯が人手で揺れているらしかった。
ここだろう。
静かに後部座席から、モノを取り出す。取り出す前に、手袋をしておく。
黒い機械がずしりと重い。円の首筋に押し当てるはずだったスタンガン。縄も丸く肩に巻く。手の結び方は繰り返し、もう染み付いている。
「てめえが悪い訳じゃねえが」
入るとすぐに聞こえた。嗄れ声。酒の匂いもする。
「親父を恨めよ。あいつが全部、奪ったんだ」
予想と違って、理性的な怒り。
円は見えない。探したいのに、言葉を聞いてしまう。
「俺の嫁も、カネも、幸せも! だからお前を壊して殺して、それでイーブンだろっ」
なんだよ。一緒じゃないのか。僕と。
女の子を脱がせて、舐め回して、塗り潰したいんじゃないのか。
「おかしいんだよっ! 仕事ができるだけで、なんでそんなことがゆるされる!」
真っ当な理由じゃないか。素晴らしい。
おかしいのは僕だけかよ。
「ただ刺して終われねえ、お、お前は今から――」
懐中電灯が落ちる。照らされた顔は。
真っ青だった。手も震えて見えた。
腹が立った。同時に嬉しい気もした。
少なくとも僕は、ふたりとは違う。小心で嫌になるけど、ふたりよりは異常者なのだから。
仲良くなった女の子を、助けに来てしまう程度の臆病者でもあるけれど。
息を止めて、自虐も止めた。足音を殺して、大きく飛び込む。
大きな背中に突き入れる直前、バチリと光って、明るくなった。
円の顔が見えた。目元が涙で真っ赤で、ぐちゃぐちゃだった。
押し当てて、押し込む。不自然に揺れる身体へ、ゆっくりと五秒数えながら、背中へスタンガンを食い込ませた。
不審者は倒れて、動かなくなった。
僕の目は、閃光でおかしくなっていた。
白が焦げ付いて、一歩先も見えない。まだ近くにいるのは、荒い息づかいで分かる。
「まどか」
情けない響きだった。縋りつきたいかのような。
おじさん、と掠れた声がして、微かに見えたところで、膝をつく。
偶然、倒れたままの円の頬に、僕の手が触れた。手袋越しで、柔らかく僕の指を押し返す。
「おじさんっ」
先程より強く、震えていた。
手探りで円の頭に、ゆっくりと触れる。怪我はないか。血の匂いはしない。
初めて触れたときの感想は、快感はもっと違うものだと思っていたのにな。
「気を付けろって、言ったよ」
頭の端に浮かぶそれが嫌で、何か話そうと思うのに、言うに事欠いて、そんなことしか口から出てこない。
「きてくれた」
ようやく目が慣れて、同時に月明かりが屋根を抜けて、円だけを照らした。
まだ泣いていた。ぼたぼたと溢れて、色っぽくて、でもそれ以上は想えなかった。
「きてくれたっ」
抱きつかれる。
想像もしなかった強い力で、僕の首を引き寄せて、円は泣いた。
服はぼろぼろで、胸も首も見えていた。円は気付く余裕もないのか、僕に固くくっついて、泣いた。
熱かった。腕も涙も、焼きつくように熱かった。
その熱さに驚いていた。その熱さが心地好かった。
すとんと、救われたような気がしてしまった。
呆れて、円の後ろで、息を殺して笑った。
遠くにサイレンが聞こえ始めた。
どうしようもない終わり方だった。
それから数日が経った。
酷い事件を未遂に防いだ、男が表彰されて、小さくニュースになって。
犯人は逮捕されて、誘拐を企てていた僕は家にいる。
何も変わらなかった。
円はもうこの街にいない。
危うく喪いかけて、ようやく円のことを案じる気になった両親が、心的外傷そのものであるこの場所と、遠因になった僕から、円を引き離すと決めてからは早かった。
引っ越しは退院後すぐ、本当にあっという間に円は消えた。
円の言っていた通り、仕事のできる両親なのだろう。
いなくなるまでに、円と会うことはなかった。僕はお見舞いに行かなかった。行くつもりもなかった。
あのベンチにももう行かなかった。
行く理由が無くなったから。
スタンガンも縄もガムテープも、買った頃のまま置いてある。もう女の子を探す気はなかった。
仕事に出かける、買い出しに歩く、折々でたまに円のことを思い出す。
思い出すときはいつも、ベンチで見た、横顔だった。はだけた胸の先と、痩せてえぐれた首元は、ろくに頭へ浮かばなくなっていた。
よく動く大きな目以外は、普通の顔立ち。でも僕の隣で、自然に振る舞って、僕の話に笑っていた。
結局、あの程度で良かったんだ。
僕が欲しかったのは、自由のきく女の子の身体じゃなかった。幼い娘の金切り声でも、大げさな震えでもなかった。
あのときの、円の細腕の感触が、首の裏にこびりついて離れない。
肌の熱さ。布切れの匂い。僕を包んで、緩んだ全身。
それだけで、救われてしまった。
僕は最初から、何者でもなかった。
有能な両親のおかげで、円はきっと立ち直るだろう。聡く強い娘になる。僕のことを忘れる。
携帯が震えていた。ニュースでも見たのか、母さんかと思ったけれど。
知らない番号からだった。出るつもりはなかった。
僕は結局何もできずに、満足して、此処にいる。
何処にも行けず、何にもなれず、部屋でひとり、自分の息だけを聞いている。
「お預かりしているメッセージが、一件、あります」
息だけをしている マルチューン @cultive173
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