中編
本当は、高級住宅街あたりで物色するつもりだった。運良く地主のドラ娘でもいてくれれば、気が楽だった。
どうせ法を犯すなら、せめて少しでも世論が好意的になるようにしたかった。
僕の良心のためではない。親の世間体のためだった。僕が事を為した後、父さん母さんへの怒号や怨嗟が少しでも和らいでほしかった。
まあ、良家の娘だろうと孤児だろうと、弱者を狙った時点で塵屑以下であることは変わらないのだけれど。
それでも円に決めたのは、一度通報されたときだった。
僕が川沿いのベンチに座ったのは偶然だった。そこに円がやってきて、何に興味を持ったのか、話しかけてきて。
「おじさん、ホームレス?」
平日の夕方に黄昏れていた僕を笑った。無垢な瞳に見えた。
戸惑いながら否定して、あれこれ聞かれて嘘を吐いた。
「このへん住んでるなら、また会うかもね」
出会った日、円はすぐにいなくなった。今も、僕へ声を掛けた理由は分からないままでいる。
その日、僕は仕事を休んで、『現場』にできそうなところをレンタサイクルで回って、近くのホームセンターで縄を買ったところで、疲れきっていた。腑抜けた雰囲気が、円の警戒を解いたのかもしれない。
ベンチに置いた袋は間一髪で足元へ隠せた。まあ、縄だけなら見られてもいくらでも言い訳はきく。スタンガンやボールギャグを買った日でなくて良かった。
僕は家に帰って、急いで不審者による声掛け事案を良く調べた。女の子から近付かれるケースは想定していなかったから、困惑しながらどうしたものか、考えを練ったのを覚えている。
それから、数日に一回ほど、あのベンチに座るようにした。不審者として捕まるリスクと、小学生女子の情報を得られる利益を秤にかけて、まだいけると考えたからだった。
結果的には甘い判断だった。でも、別に捕まっても構わない。手を出す前に止めてもらえるなら、それでもよかった。
円もいつもあそこにいる訳ではなく、会えたのははじめ、二週に一度ほどだった。
そして。数度目かの逢瀬で。日暮れまでもう少しというときに、警官がひとりやってきた。
「失礼します。地域の見守り隊から、連絡がありまして」
警官の頭、制帽の星を見て、僕は頭が真っ白になった。
対策はしていて、円も味方になってくれる、少なくともこの時点で大事にはならないと踏んでいても、それでも小市民に警官は、怖い。悪事を為そうとしているならなおのこと。
息が上がりかけていた。必死で平然を装う。
「恐らく親子でない大人と、女の子が――て、またか。円ちゃん」
予想に反して、警官は僕ではなく、円を見ていた。
「別に。家も学校も、つまんないんだもん」
「そういうことじゃない。誰彼構わずに話しかけちゃ駄目だって、この間も言ったよね。次に会ったら親御さんまで――」
「呼んでも来ないよ。ふたりとも、シゴトニンゲンだから」
知り合いのようだった。
会話の中でも端々に見え隠れしていたが、円は大人と見ると誰彼構わず話しかけていて、その裏にはどうも、両親との不和がある。
「別にいいじゃん。夜じゃないし、家と学校の間だけだし!
なんで、学校でタバコ吸ってるヤツはよくて、帰りにお話するのがダメなの? わたしはホーリツ破ってる訳じゃないし!」
円は言い捨てて、警官の静止も無視して走り去っていった。
言っていることは、あながち否定できないと思った。少なくとも、悪いのは円ではなさそうだった。
悪いのは円でなく、悪はそういう哀れな女の子を狙う、肉欲に溺れた下衆だ。僕のような。
それから、バツの悪い顔をした警官とふたり、少しだけ話した。
警官は、当たり前だけれど、最初僕を疑っていた。けれど、用意していた返しで、すんなりと警戒を解いたのが拍子抜けだった。
「円ちゃんは良い子なんですが、その、反抗期的なもので。もう何度か会っていて、仲が良いなら大丈夫と思いますので、これで。
ただ、たまには貴方からも注意してあげてください」
警官からは、身元も聞かれなかった。住所を証明しろと言われたら、少し危うかった。
恐らくは、『円ちゃん案件』の数が多すぎて麻痺しているのだろう。
警官の後ろ姿を見送りながら、思った。
これは好機だ。これ以上ないほどの。
警官のお墨付きも得た。円の両親は、円の動向に関心が薄い。
きっと一日ほどは、行方が知れなくなっても騒がれない。
僕には一日、その一日だけで良かった。
円を殺したい訳じゃない。ただ気晴らしに、深く吸えたら、それでいい。
僕が円を殊更に気にかけるようになったのは、それからだった。
狙いやすいターゲットとして。それ以外の想いは何もない。あるはずもない。そう信じていた。
「やっぱり、寂しい?」
ある日、いつものベンチでそう聞いたのは、両親の動向を探るためだったと思う。
会話の終わり際、もう夕暮れの近い頃だった。
「なにが?」
「ご両親が家にいなくて。――別に、は禁止で」
「ぐっ」
円はぶすりとして、すぐにけろりと笑った。と思うと、今度は顔を伏せた。分かりやすく、ため息。
「さみしくはないけど。習字とかピアノとか、忙しいし。
でも、わたしが賞とか取っても、覚えてないんだよ? お母さんもお父さんも、家でもずっと、パソコンと会話してばっか。
わたしが先週から、なんの曲練習してるのかも、なに弾いてるのかも、聞こえてなくて、もう――」
最後の方は鼻声だった。
言葉を切って、ベンチに体育座りになって、膝で目を隠す。鼻を啜る。
僕は気付かない振りをした。
この間から、分かってはいたことだけれど。
円はたぶん、ただ気紛れの先を探している。自身はそうは思っていないとしても。
僕の場合は、父さんと母さんが正面から受け止めていてくれた、他愛のない戯れつきの先を。
僕には何も言うことはできない。
慰めも、偉そうな説教も、僕に資格はない。
「ごめん、今日は帰る」
円はなぜか謝って、ベンチを立った。
日は傾いていた。
「気を付けなよ。今の世の中、物騒なんだから」
円の背を見て、僕はそう口にしていた。言った自分がいちばん驚いていた。
円は振り向いて、大きく笑った。その年頃のはにかみもなく、裏も表もない、良い笑顔だった。
「大丈夫。そこまで悪くないよ。おじさんみたいなのも、いるし」
湿りかけた空気を、振り切るように駆けていく。
見送る余裕は、僕になかった。
最後の僕のことばは余計だった。僕が言って、どうしたかったのか。帰り道、薄暗い中をそればかり考えていた。答えは無かった。
僕が今、円について何をどうしたところで偽善でしかない。その身体にむしゃぶりつこうとしている奴が、思いやって、労ってなんの意味がある。
そこまで趣味が悪かったのか。
下衆に善いも悪いもないだろう。下衆は屑だ。取り繕うなよ。
でも、考えてしまう。
僕がいま円を襲えば、円の両親は、少しは円を想うだろうか。
円の心がぐちゃぐちゃになって、それから全てをやり直しても、いつか今よりも三人で幸せになれるなら、このままよりも良いのだろうか。
馬鹿馬鹿しい。
気が付けば自室の玄関にいて、開け入った家の扉を乱暴に、叩きつけていた。
どうしてこうなんだろう。
僕が円を気に掛けて始めて、日々の細やかなやり取りに、親しみを覚えていたとして。
円が両親と穏やかに過ごせればいいと願う気持ちも、僕の中にあったとして。
人として大人として、子どもの円を、好ましく思っていたとして。
そうだとしても、僕はどうしても、それ以上まで欲している。
何も知らない子どもを、喰らい尽くしたくなる。人生ごと滅茶苦茶にしたくなる。望まない命さえ、無理矢理に宿させて、目の奥の光を、安らぎを、根こそぎ奪い取って、ようやく腹の底から息をつける気がする。
息苦しい。
僕はどうしてこうなってしまったんだろう。
円と違って、何ひとつ不自由なく、不満もなく、愛を注いでもらったのに。何があったのか思い出せないくらいには、普通の人生を送らせてもらったのに。
僕はどうしてこんな、化物に。
部屋でひとり、我に返る。
顔を上げると、真っ暗だった。額に触れると畳の痕がついていた。
蹲って、気を失っていたらしい。
馬鹿馬鹿しかった。
今さら何を悔いているのか。部屋の片隅にはもう、必要なモノがまとまっている。円の一日も、おおよそ掴めている。
円を攫うための全てが揃っている。あとはもう、僕が一歩を踏み越えるだけだった。
ただ息苦しさは、その日中続いて、眠ることはできなかった。
翌日。
今日がその日とは、決めていなかったけれど。朝から、借りておいた決行用の車を取りに行った。
行動していなければ、考えてしまうかもしれない。それが怖かった。
夕方まで家で仕事をして、それから車に乗り込んだ。ルートを確認する。円とベンチで別れた後、川沿いを下って、円が住宅街へ逸れるときに使う、細い裏道。
その道の出口は、送り迎えの常用車が停車して、よく塞がれているのを確認している。僕が車をしばらく置いても目にはつかない。
この裏道で、円を捕えて、眠らせて、車へ押し込む。監視カメラも此処にはない。
僕が呼び止めれば、円は疑問も持たずに止まるだろう。
問題ない。
目撃者がいたとして、事を為すまで時が稼げればそれでいい。
一通り見て回って、心を落ち着ける。
問題ない。この辺りの人に顔を見られる前に帰ることにする。
一時停止の標識で、車を停めて、帰り道へ曲がろうと、ハンドルを切った。
「おじさんっ! 」
声が聞こえたのは、その時だった。
ハンドルの先、遠くに小さな影と、黒ずくめの何かが見えた。
「おじさんっ、たすけ――」
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